エヴァでミサトさんがシンジに「エヴァにのるかのらないか、それはあなたが決めなさい」と言っているシーンをみると「空手を続けるか続けないかお前がきめろ」と祖父に言われた幼少期の記憶がフラバしてしまう。やらないと答えると不機嫌になる。やると答えると自分で決めたことにされる。
DUK
DUK
12.7K posts
DUK
@furthest0812
「物語」の話をします
DUK’s posts
最近読んだ村田沙耶香の小説に「正常とはこの世で唯一許された発狂のことですよ」と書かれていたが、勤めている会社、年収、学歴、その他諸々の人生に関わることのすべてを常に他者と比較しながら「俺はまだ正常な方だ」と信じて死んだ目で働いている人をみるとこれは本当にその通りだなと思う。
「本当の弱者は助けたくなるような人ではない」という露悪的な主張をインターネットでよくみかけるが、だからこそ再分配は強者の感情ではなく制度によって機械的にやるべきだろう。強者の気分によって助かる人が決まる社会は助けられた人にも鎖がついて力関係が固定される地獄になっているように思う。
syamuさんの件で「本当の弱者は助けたくなるような人じゃない」と言われているが、だからこそ弱者救済などの福祉は人々の「温情」に頼るべきじゃなくて制度によってシステマチックにやるべきだと思うんですよね。人々の「温かい気持ち」では救えない。
「ストライキはいいが、迷惑をかけるのはよくない」とわけのわからないことを言う人がたまにいるが、ストライキとは手段として「迷惑をかけるもの」であり「迷惑のかからないストライキ」など無力なのだからストライキをやるなら真剣に真面目に確実に迷惑をかけなければならない。
オッペンハイマーを観た!不倫相手の死を自分のせいだと嘆くオッペンハイマーに妻が言った「罪を犯しておいてその結果に同情しろと?」という台詞がこの作品の肝だと思う。この台詞があったおかげで「原爆の父」としての苦悩に苛まれる彼をみても「善悪はない」という相対主義に引っ張られずにすんだ。
「少年呼びしてくる謎の歳上お姉さんの正体はおそらくはただの社会不適合者だったと気づいて辛い」というツイートが流れてきたが、「謎の歳上女性」が物語終盤で見せるそうした「弱さ」も魅力のひとつだと思っていたので単純に驚いた。むしろそうあってほしいと思っていたのは俺だけだったのだろうか。
ファンも擁護できないほど差別的なMVをおそらくはよく考えないでつくってしまった人達をみて「思想が弱い人」の恐ろしさを痛感した。事実を元に解釈しようとする人を「思想が強い」と冷笑して「善も悪もない」という立場にたつ人が一番賢いのだという幻想をつくってきた社会が生んだ悲劇とも言えそう。
この間、「映画はいろいろみてるよ〜だって映画って教養だからね〜」とかいってる大学生の会話が耳に入ってしまい、思わず「映画は面白いから観るの!」と堀江みたいになるところだった。
犯罪に走る人を「下層の人」として徹底的に「他者化」することで「真っ当な人」はそういうことはしないのだと目を背けてきた結果、大手会社の社員や警察官、自衛官までもが安易に詐欺や強盗に手を染める暗黒の時代に突入してしまったという感じがある。実際、その境界線は紙一重だと思ったほうがいい。
オタクを「裏切らない」女性タレントの人が誰とも付き合わず結婚せず三十路や四十路、五十路になったら「俺たちを裏切らなかった!」と支持され続けるのかというと、その頃には「おばさん」扱いされて別の若手に「推し変」されるようになるんだからこの手のオタクは根本的に勝手なんだよね。
最近よく「自分の機嫌は自分でとれ!」みたいなことを言う人がいるが、ブラックな労働によって損ねた「機嫌」を癒すためになけなしの賃金を使った消費をさせるような意味合いで使われている場合もあり、眉を顰めてしまう。それって骨の髄まで資本主義の「システム」に組み込まれているじゃないですか。
VIVANT、「多神教の日本には異なる考えの人を受け入れる美徳がある」とか「日本の公安は世界一公正な判断をしてくれる」とか「父親の命よりも国を優先するなら見どころがある」とかある種の人々が好きそうな台詞を無批判に垂れ流すドラマだったし、あれが海外でウケると思う方がどうかしているだろう。
太宰治の「恥」という作品は、「小説の作風からその作家のことを無学で貧乏だと思いこんだ女性が上から目線の想像を抱いて逢いに行ったら思っていた人物像とは真逆の男がでてきた」という内容だが、現代でも似たような話は聞く。退廃的な生活を詩的に綴るインターネットの人に騙されないようにしよう。
「ここに行けば人目を気にせずに好きなだけオタクコンテンツの話ができるんだ!」とドキドキしながら向かった大学のアニメサークルの部室で延々と創価学会の話をされた最悪な思い出がよみがえってきた。
「オタクたるもの行かねば」と半ば義務的にコミケに行ったことが何度かあるが、最近は行っていない。そもそも俺は酷暑や厳寒のなか列に並んで手に入れたいと思うほど二次創作の本は好きじゃなかった。「オタクたるものこうするべきだ」という風潮に流されずに好きなようにオタクをやるのが良いだろう。
「どうして自分は普通になれないんだ」と悩んでいる人に本当に必要なのは「ありのままでいい」という取り繕った言葉ではなく世の中の普通にこだわるのがばかばかしくなるくらい「変な人」で溢れかえっている環境だろう。昼間から変なパフォーマンスをしている自称芸術家のおじさん等が沢山いるといい。
読書だけがマッチョな文化だとは思わないが、小説「ハンチバック」の「筋力の弱い障害者は紙の本を読むことも一苦労なのに健常者は紙の匂いが好きとか感触が好きとか呑気なことを言って電子書籍を貶めている」という部分には納得させられた。「エモい」という言葉にも同種の軽薄さを感じることがある。
「ネットの言論なんて現実には何の影響力もない」というのは一昔前の感覚で、今はYouTube等に影響を受けた若者が素朴な排外主義をボソッと口にしたり、ドラえもんをもじったあだ名の人を崇拝していそうな社会人が「境界知能」を悪口として使っていたりする。冷笑をやめて真顔になるべき時がきている。
「ポリコレ」を揶揄することを「タブーを破るアウトサイダー的な行為」だと思っている人がたまにいるが、不可視化されてきた人々に向き合うことを安全位置から揶揄するのは単に強者の側についているだけだろう。権力者に都合が良い「道徳」を揶揄する「反権威のユーモア」とは全く性質が異なると思う。
インターネットが上手いある種のクリエイターは大物に好かれる「順応主義者」の振る舞いをしながら「社会に適合できない芸術家」の顔をすることがある。巧みにセルフブランディングをする彼らの二面性に気づけない若者が社会に不適合な自分と彼らを重ねあわせて生きていくと碌なことにならないと思う。
最近はヒップホップばかり聴いてるせいではてな匿名ブログで「人生辛い系」の記事を読む度に「その気持ちをラップにしたらいいんじゃない?」と安直に考えてしまうし、ツイッターでタワマン文学だのお受験文学だのをみかけるたびに「そんなことで川崎区で有名になれるのか?」と思ってしまう。
「推し活」はよく「宗教」にたとえられるけど、生身の人間をコンテンツとして扱う行為は「信仰」どころか「消費」の極致だと思う。「何があっても離れない」と豪語するファンは「推し」を人間としてではなく「商品」としてみているのであって、その価値を感じなくなれば残酷に裏切ることになると思う。
作品のことを「つまらない」と言った瞬間にリングに引きずりこまれて「それは面白いと思った俺に喧嘩を売っているということだよな!?」と言われるのがもし普通なら多くの人は萎縮して率直な感想を言わなくなるし、そうした風潮こそが大袈裟に絶賛する感想ばかりが蔓延る環境をつくっていると思う。
普段は好きなアニメのイラストの細部にフェティシズムを見出して「エッッ!」と叫んでいるのに、同じようなイラストが広告に使われて批評的に言及された途端、スンッとした顔で「これのどこがエロいんだい?」とか「エロっていう方がエロなんだが?」とか白々しいことを言うのはもうやめたほうがいい。
某女性配信者に限らずあの手の罵詈雑言系配信者って要は「お前らはどうしようもない人間だが、俺/私 だけは居場所を用意してやれる」という典型的な「洗脳」の話法を言葉を変えて何度もやっているだけだからな。「オモシレー」とかいってるやつは全員洗脳されてます。目を覚ませ。自分の足でたて。
グレタトゥーンベリのような環境活動家を冷笑しながら地球温暖化の原因を「令和ちゃんがドジっ子だから」と「萌えキャラ化」してしまうのは、ある種のオタク的態度である「現実逃避」の極致といえるだろうな。
かつて露悪の塊みたいな漫画を書いてバズっていた人がもう漫画をかくことをやめていたことを知ったが、ブログに「悪口やミームを絵とフキダシにしただけでバズる、気色が悪い」と書いていて「ああ、完全に露悪の時代が終わったな」と思った。だんだん嫌になってくるんだよね、ああいうのって。
他人の文章を読んで「自分の中にあったモニョモニョを言語化してくれた!」という人がわりといるが、本当にとりこぼされずにそれが言語化されているのかは慎重に検討したほうがいい。他人の思考を参考にすることは大切だが、自分で自分の胸の内を言語化する権利だけはそう簡単に手放さないでほしい。
今の十代がゼロ年代のインターネットの何に憧れているのかはわからないが、テキストサイトや2chの大規模オフ会、割れ文化などのことを言っているなら彼らは当時のネット民の仄暗い「連帯感」に憧れているのかもしれない。今はインターネットから日陰者の居場所がどんどん失われていっているもんな。
「推し活」などといってつまらないものを大量に購入する風潮はいい加減終わらせた方がいい。その商品に本当に価値があると思っているのならいいが、「応援」などという自己欺瞞で大枚を叩いても求めているものが手に入ることは永遠にないだろう。自分が本当は何を得たいのかを再度問い直した方がいい。
ある種の「繊細さ」をアピールするような短歌やエッセイが苦手になってきた。「弱さ」を作品に昇華しようとする姿勢は嫌いではないが、この手の創作をする人が他の場所では自分より弱い人を虐げているのをみてきたせいで結局はよくある「セルフプロデュース」のひとつにすぎないと思って冷めてしまう。
「辛いなら逃げてもいいと言う人はその後の責任をとってくれない」という人がわりといるが、「逃げるな」と叱責する人もパンクした時の責任はとってくれない。結局は自分で決断するしかないわけだが、限界を迎えていそうな人に「逃げる」という選択肢もあると気づかせることは悪いことではないと思う。
Replying to
この作品はオッペンハイマーの業績を称揚するものでもなければ彼のことを弁護するものでもない。だが彼を糾弾することを目的にした映画でもない。この映画の切先はむしろ未だに原爆を否定することはできないアメリカ、そして日本を含む「破壊された世界」の方を向いていると思う。観てよかったです。
「やましいことがない人は警察には捕まりませんよ」という人を見るたびに誤認逮捕の可能性などを一切考慮せずに警察を妄信しててひどいなと思っていたが、最近はこの「警察」の位置に「私人逮捕系ユーチューバー」を入れてる人をみかけるようになってまたひとつ社会の底が抜けたなと思ってしまった。
女子高生が特攻隊と恋愛する映画はよくある「難病もの」と同じで「恋人喪失系」として若者にウケたんだと俺も思うけど、難病ものは「実在しない病気」を使うことで実在する病気の当事者から抗議されるリスクを避けるようになってきているのにこの作品はわざわざ「特攻隊」を扱っている。そこが奇妙だ。
実際、ツイッターが「だれも社会や政治の話をせず、毎日みんなでアニメを観たりゲームをしたりして1日がおわるマジで楽しいSNS」だったら廃れてそう。社会や政治の話をしたいユーザーが多いというわけではないだろうが、このSNSには「口喧嘩」をしたいユーザーが多すぎる。
桐島聡の件もインターネットの人が見当外れなことをいって大騒ぎしている間に徐々に真相が明らかになっていくパターンだったな。それにしても国内にいながら国内の制度の外に逃げて、女からの誘いは断り、酒と音楽を支えに生きたというのは何とも言い難いハードボイルド小説の主人公みたいな人生だ。
おい、""ここ""(インターネットの最下層)は初めてか?ここでは「教養」とは義務教育レベルの知識を指し、「社会の闇」とは芸能人の不貞行為のことをいい、「巨悪」といえば醤油差しをペロペロすることなんだ。覚えておくんだな……
「障害者は助けてもらうのが当たり前になっている」というツイートをみたが、実際の当事者は「健常者と同じように生活したい」という願いが叶わない現状に不満を漏らすたびに大罪を犯したかのごとく叩かれているのだから「障害者に我慢してもらうのが当たり前になっている」というのが正しいと思う。
好きな作品が「サブカル」「アングラ」「不健康」のようなある種の人々のブランディングに使われはじめたからといって自分がその作品を好きな気持ちまで嘘にすることはないだろう。むしろその作品に対する愛を積極的に語ることで嫌な文脈を更に上書きしていくぐらいの気持ちでいるのが良いと思う。
無職時代に「人間っていうのはさ、たまに図書館に行って好きな本を借りて読むぐらいでちょうどいいんだよ」みたいなことを言ってたフォロワーさんが、再就職で立場が変わって「教育教育教育……」となっていくのをみると、労働とは、社会とは、そして正義とはなにかについて深く考えてしまうな。
「人権はフィクションだったんだよー!」「な、なんだってー!」という話はツイッターで定期的に盛り上がるが、「天皇制はフィクション」、「国家はフィクション」、「貨幣はフィクション」という話はいまいち盛り上がらないな。この手の人は「ポリコレ」を皮肉ることだけが目的なんだから当たり前か。
都合の悪い時だけ「現実と空想の区別をつけてください」などと言うオタクをみると本当にがっかりしてしまう。良くも悪くも物語や創作物に現実の人間の心を動かす力があるということを忘れてしまったのなら潔く思い出に手を振って現実にかえるべきだろう。その冷笑の姿勢じゃ誰にも何も届かないよ。
「大人は政治に関心を持てというけど、いざ関心を持ったら俺の意見を叩いてきたじゃないか」という人がたまにいるが、それは別におかしいことではないと思う。あれは「土俵にあがれ」という意味であって「君の意見は全て尊重する」という意味ではないだろう。土俵にあがればぶつかることもあると思う。
これは衝撃の事実なんですけど、どうやら「表現の自由」系のオタクは「こういうイラストは嫌い」というツイートをみると「規制しようとしている!」と解釈するらしいんですよね。プロの作品に対する好き嫌いの表明すら許さない自分達こそ別の意味で規制する側になっていることに気づいたほうがいい。
解釈の余地が大きい作品をみて「◯◯さんの考察待ちですね……」となってしまう人は、解釈に「正解」があることを意識するあまり率直な感想を言うことを恐れている。作品鑑賞を単に「作者の意図を当てるクイズ」にせずにまずはその作品をみてどう思ったのか自分自身の言葉で表していったほうがいい。
異質な他者を記号的に「美しい」、「かわいい」と評して消費するような欺瞞に満ちた最近の風潮に耐えかねて一から美学の本を読みなおしたり、美術館に足を運んだりして「美しさ」の本質に迫ろうとしている。こうした日々の積み重ねが「露悪サブカルチャーの時代」を解体することに繋がると信じている。
大学のアニメ研究会ってアニメを批評するなんてことはもちろんなく、「どのキャラに腹パンしたいか」みたいなことを話あってる異常者の集団だった。そのあと文学を批評する系のサークルをみにいったら新歓の時期なのにエロゲを西洋絵画の視点から考察していた。両方とも入らなかった。
例えばラーメン屋が客に「俺のラーメンに文句を言いたいならラーメン屋になってからにしろ」と言ったら完全にプロとしての責任を放棄していると思われるが、「クリエイター」という名札をつけた人の中には大真面目にこれを言う人がいるから不思議だ。商品を世に出せば批評されるのは当たり前だと思う。
コンテンツの批判に対して「好きな人もいるんだから悪く言わないで」と言う人がたまにいるが、この感覚がよくわからない。反論したくなる気持ちは分かるが、嫌いだと言うこと自体は自由だろう。自分が大好きな作品を嫌っている人間もいるという事実は自分の「好き」を揺るがすものにはならないはずだ。
資本主義社会に搾取されて低収入になっている労働者が少しでも綺麗な格好をしようとファストファッションに頼ると海の向こうの労働者を搾取することになるという搾取のスパイラルがあるんですよね。この構造はファストファッションを使う人を叩くことでも使わない人を冷笑することでも解決できないよ。
魔法少女まどか☆マギカは虚淵玄の作品が好きだった者としてはどうしても彼の脚本についてばかり話したくなるが、あれはキャラデザが蒼樹うめだったことも音楽が梶浦由記だったことも監督が新房昭之だったこともすべてが「正解」の満点アニメだったんですよね。ひとつでも欠けてたら成り立たなかった。
「インボイス制度とか警察によるデモ規制とか難しいことはよくわからねえけどよお……キョーサントーがエロいものを攻撃しているってことだけはわかるぜ!」みたいなオタクが多すぎる。そういう人は表現の自由を守りたいとかいうのはやめてもっと正直に「エロいもの大好きクラブ」と名乗るべきだろう。
オタクは正しくキモくあってほしい!具体的にはvtuber や声優にセクハラをしたり幻想を抱いたりするのではなく、アニメのカット数に偏執的なこだわりをみせたり誰に頼まれたわけでもないのに作品の解釈を延々と語り出したりしてほしい!それで周りから浮いたとしても俺だけは君の頑張りをみているよ。
「教養がないやつは下ネタしかいえない」という話も「地方の人間は排他的」という話もなーんか含みがあって嫌な感じよな。勿論そういうお前らは洗練された面白い冗談が言えるうえに誰に対しても親切に接しているんだよな?