雑記
大丈夫だと思ってた。
私なら大丈夫って思ってた。
「なんで私ひとりで戦わなきゃいけないの?」って、自分から出た言葉がトリガーだった。
「つのちゃんは見せ方が下手なんだよ」「アンチの相手なんかしなくていい」「相手にしたら喜んでつけあがるだけ」「世間の大多数はそんなふうに思っていない」
そんな友人や識者の言葉を無碍にしないためにも、教えをなるべく守ってきた。確かに、会った人は皆私のことなんて気にしていなくて、むしろ興味深いと渦中の話を聞きにさえきてくれた。
でももう限界だった。突然だった。フォロワーが減るのも、友達にがっかりされるのも全然どうでもよかった。
私はまた、自分から何でそんな言葉がでてきたか探らなきゃいけなくなった。
思いついたことを書かせてほしい。脈絡がなくても、誤字があったり言い回しがおかしくても許してほしい。
1
実際多分、私じゃなくてあの子やあの子が対象になっていたらとっくにアカウントを消すか命を絶っていたと思うから、確かに私は多少強い人間なんだろう。(厳密にいえば心は普通だけど、処理が上手い方なんだと思う)
しかしね、もうじき約3ヶ月になるか。そんなにも長い間、誹謗中傷が直接向けられ、私に見えないところでも書かれて、そんな生活を続けてみてごらんよ。
「見なきゃいい」「無視しろ」ってみんな言うけど、この立場に立ったことある人だけがそう言ってよ。この規模で、この期間、ずっとだよ。
見ないようにすることに、どれだけ強い我慢が必要か。
そしてこのちゃんと生きるのも大変な最中、自分に我慢を課すことがどれだけ大変か。
その間、どんなふうに胸がざわつき続けるのか。
2
好き嫌い.comというゴミの巣窟には、すでに5万件以上の誹謗中傷が並んでいる。いまだに1日に1000件ほど書き込まれることもある。自分への悪口と嘲笑だけが1日に1000件この世に生み出されているなんて。芸能人でも政治家でもあるまい。
(自分の過去やプライベートを詮索するものも多いので、見ないでほしいと思いつつ、でもあの惨状を社会見学的にちらりとのぞいてきてほしいとも思う。並ぶ言葉も、そんなことを吐ける人間がこの同じ社会で生きていることも、彼らにも生活や心や守るもの、愛するものがあるだろう事実を考えると、吐き気がする)
確かに私が過去に作ったものは著作権のガイドライン違反だった。しかし2024年末当時すでに対応していて、とっくに頒布停止している。版元と購入者以外が何か言う権利はないし、そもそも理由がなんであれ長期間にわたる過剰な非難や誹謗中傷が許される所以はない。
そういえば、以前アンチたち(今はほとんどは応援側にまわっているが)と話した時「私の言ってること全然響いてないじゃないですか」と笑った人がいた。
おそらく私が謝罪や何かをした時のみ「響いた」と判断するのだろう。そこから察するに、アンチという生き物は「対象を自分(たち)の力で動かす」ということが目的で、そこからだけ快楽を得られるのだろう。和解や理解には快楽や安心を見出せないようだ。
つまり、アンチのゴールは私を動かすことだ。動かせたら、また次の角度で攻めて違う動きを作らせることが次のゴールだ。そこに倫理も論理もない。快楽のためには、何もかも都合よく解釈する。そしてその全てを彼らは自己認知できないまま、「これは正義だ」と心の底から信じて仲間同士でいいねをしあって快楽を積み重ねているようだ。
学生時代に教室で繰り広げられていた、くだらないいじめを思い出すな。
ブロックするに限る。重箱の隅をつつきにきて、放火しては「また燃えている!」というイカれた人種に付き合う理由はない。
中には正当な批判もあるのかもしれないけど、もはや私に悪意の有無なんて区別がつかない。気持ち悪いと思ったら、全部ブロックする。区別がつかなくしているのは、悪意あるアンチなんだからしょうがない。
3
先日私のBOOTHが強制非公開になってしまった。在庫切れで長期間発送できていないものがあり、購入者とはメッセージで合意が取れていたが、運営がそこまで把握できておらず、非公開にしてしまったらしい。
それも、彼らは「版元がついに動いた!」「版元から怒られのお手紙が届いたんだ!」「BOOTHまで動かすなんてすげーよw」と嘲笑していた。
呆れて言葉も出ない。そのレベルの思い込みと嘘が、さも事実かのように彼らの間では語られる。名誉毀損も甚だしい。何が楽しくて彼らは生きているんだろうか。
実生活では相手にしないすごい層の人間が、SNSでは一瞬で隣に来て暴言を吐き散らかせるんだなあと、この渦中で学んだ。
ちなみにそれらの中には事実も混じっている。したがって、一部を否定することは一部を事実だと暗に肯定することになるので、言及できないのがまた、なんとも。
4
木村花氏は死んだ。りゅうちぇる氏は死んだ。
彼らは批判の「余地」がある行動はとっていた。でも、心を蝕まれても仕方ないようなことはしていない。
テラスハウスのメンバーは、とっくに仲直りしてた。あれは演出の一部だった。なのになんで外部の人間が叩くのか。
りゅうちぇるのことも、ぺこちゃんはいいよって言ってた。ぺこちゃんがいいって言ってるのに、なんで外部の人間が叩くのか。
5
申し訳ないけど、「応援してるね」なんて渦中では想像以上に無力だ。エナジードリンクみたいに、一過性の効果しかない。砂漠でエナジードリンクを飲めば、じきに喉が乾く。頭が痛む。それでも次を渇望してしまう。途切れれば、落ちる。
「見なきゃいい」「休んでください」「病院に行ってください」「負けないで」「謝ったらいいと思う」これは全部きつい。
見ないという行為が楽にできるならそうするよ。でも温泉に入っている間すら、湯船で「どんな批判や嘘が蔓延してるんだろう」って考える。
休めるなら休んでる。何をしてても気が休まらない。
病院は行きたくない。合わない医者と話したら、間違いなく私は憤りをかかえながらニコニコしなきゃいけないし落ち込む。薬は対症療法でしかない。根本治療じゃない。
負けてる。無視できてない時点で全然負けてる。かっこ悪いな。あんなくだらない連中のために、善意の言葉をないがしろにしてしまってる。
「謝る時は、謝るべき相手にだけ謝る」…芸能人のスキャンダルを見るたびに、無関係な世間が謝れと合唱する醜さに辟易していた。だからこそ、赤いきつね騒動の顛末は強い希望に思えた。私はあのムーブメントがスタンダードになってほしい。ここでこの流れを断ち切ってしまうわけにはいかない。だから、「自衛のために謝る」ことだけはしないと決めた。
理由があって行動しているし、理由があってそうしていない、そうできていない。そこに他人の言葉が一つあったからって、いや時にはそれは絶大な効果を発揮するけど、少なくともさっき述べたような言葉は渦中の私を苦しめた。
労わってくれてるのに、そんな受け取り方しかできなくなってしまっている事実もまた、私を苦しめるだけだった。
そんなことを書くと、脳内で「被害者面しやがって」と響く。
一瞬ゆらぐけど、いやあ、被害者でしょう。
おっと、こんな特徴的な言い回しをすると構文化して掲示板でおもちゃにして遊ばれちゃうな。はははは。
6
「味方にまで噛み付いてしまうなんて、精神科に行った方が…」と言う人もいたけど、この点は精神科に行くべきと判断する要素にはならないと思う。
あくまで持論というか私の感覚だけど、精神科はイレギュラーが起きて制御できなくなった時にかかるものだと思っている。
自分の信念に反することを勧められたり、やりたいけどできないことを勧められたりすると、辛いのは当然ではないか。
(……誤解のないように言っておきたいんだけど、これは私も渦中に来て初めてわかったことだし、善意でそういう言葉をかけてくれた人のことを責める意図は一切ない。わからないんだから仕方ない。)
そういうわけで、辛いことを言われて当然に辛いと思っているので、それはイレギュラーではない。
7
結局、「なんで一人で戦わなきゃいけないんだよ」の正体だけど、応援の声はあるはずなのになぜか孤独感が強いことにあると思う。
先にあげたように、渦中に立った人にしかわからない苦痛がある。
人はそれぞれ苦しい思いや辛い思いをしていると思う。でも、同じ苦しみ、同じ境遇、似た心を持った人以外の「わかる」は想像の「わかる」以上にはなかなかなり得ない。相当な想像力なしに「わかる」と言ってしまうと、それは寄り添いたい意思は感じるけど、どこか「やっぱりわからないよね」と孤独感が増してしまう。
お堀に囲まれたみたいな感じかもしれない。姿は見える、声は聞こえる、応援したい気持ちも感じる。でも、「わかる」のたびにお堀が深く広くなっていく感じ。
悲しいことに、アンチは飛び道具を使ってくる。数も相当だ。暇だし、アンチ活動にご執心だから、いつまでも居座ることができる。守るべきものもないから、いくらでも醜悪な振る舞いができる。(開示請求してみると、学生や主婦、生活保護受給者だったということが多いそうだ)
応援する人には、仕事があって、生活があって、友人付き合いがあって忙しい。応援の声を届けたら、あとは自分に今できることはないなと自分の城に帰っていく。また見にきてくれては、帰っていく。
うしろには守るべき企業や活動仲間がいるから、表立って声をあげられないという人もかなり多い。そういう方がDMをくださったりする。それはお堀を越えて届く手紙のようなものだ。
声援も、手紙も嬉しい。嬉しいんだけど。ありがたいんだけど。
お堀の向こうの風景を写真に撮った時に、居座ってゲラゲラ笑っては矢を飛ばすアンチの方が多く写る。どんなに応援の母数が多くても、だ。
だからお堀の向こうの応援より、飛んできた矢の痛みばかりを強く感じてしまう。
そしてあの声援を無碍にしてはならないという気持ちが、より傷を深くする。矢が刺さったまま声援に手を振ろうとするから、傷は深くなる。
8
不倫のガセ報道や紅白の楽曲差し替えなどで苦しんだ星野源氏のインタビューは、まさに渦中からしか出てこない言葉ばかりで、これは静かに私に寄り添ってくれる感覚があった。
「ああ、源さんも同じ道を通ったんだな」って。私たちは常にひとりだし孤独だし、このインタビューはメッセージ性を持たせる意図はなかったと思うけど、同じところを歩いた孤独がちゃんとこの世にまだいる事実が私の心に寄り添ってくれた。
ちなみに、続きはKindle Unlimitedで無料で読めます。購入もできます。
9
昨日、先生から「大丈夫?」と電話がきた。
「私は人に期待し過ぎだと常々言われてきましたけど、さすがにいろんなことに諦めがつきましたね。いやあ、勉強になりましたよ」と話した。
先生は「諦めとはそんな悲しいものではなくて、仏教では『理解する』ということだ」と言った。今調べたら確かに「物事の真理を明らかにし、それを受け入れることだ」と書いてある。
私は人間をもう少し理解できたのかもしれない、と思った。
10
「僕は先日酷い風邪を引いたんだけど、鼻うがいをしたら鼻詰まりが酷過ぎて、目から鼻水が出てきたんだよ。おかげで結膜炎になってね」
いつもスマートでスーツをびしっと着こなす先生が、そんな汚くて酷い目にあっているのが面白くて笑ってしまった。
辛さとか悲しさとかそういうものと、面白い、おいしい、そういうのが混在している。「色々な側面が同時に存在している」という源さんの言葉を改めて思い出した。
でもあまり自覚はないけど、多分いつ急に終わってもおかしくないんだと思う。
今はそういう側面の存在と、それを作ってくれる友人とファンがいるおかげで、私は日々「大丈夫」に帰ってこられている。
大丈夫と思ってしまっていることがいいのか悪いのかはわからないけど、先生の話は好きだ。先生に「またランチに誘ってください、結膜炎が大丈夫そうならですけど」と言える程度には、大丈夫な側面がまだある。
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