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参政党の「発達障害など存在しません」をどう考えるか?

何かと話題の参政党ですが、以下の本に書かれた「発達障害」に関する記述のページが、xを中心に出回っていて、これも話題。

その記述の部分を引用すると以下のようになっている。

A. 通常の子供たちと全く同じ教育を行なえば問題ありません。そもそも、発達障害など存在しません。
 子供たちはそれぞれが様々な個性を持っています。現代では、その個性が目立つと発達障害と判断されてしまうのです。
 漫画を例にとると、「ドラえもん」の野比のび太は勉強が苦手ですが、あやとりは得意。ジャイアンはのび太に対して執拗に暴力を振るい、スネ夫はジャイアンの腰巾着と化している。しかし、しずかちゃんは潔癖症で毎日お風呂に入っています。それぞれキャラの個性と言えるものですが、現代では彼らは総じて発達障害の傾向があると見なされてしまうのです。

『参政党Q&Aブック 基礎編』

まず、ドラえもんに出てくるこれらキャラクターの振る舞いをもって「発達障害の傾向があると見なされる」というのは、なんの根拠もないラベリングではないかと思われる。

1963年にJ.F.ケネディが、精神疾患等を持つ患者たちに対してケアをするための法案を提出して以来、研究が進んでいて、現在では発達障害か否かも慎重な診断がなされるようになっている。なので、振る舞いだけを見て「◯◯は発達障害である」と考えるのは危険だし、世の中がそのように見ていると言い出すのも危険だろう。

参政党による「発達障害は存在しない」には全く持って同意できないだが、しかしながら文脈を変えて、メタ思考というか、ある種のものの見方を変えると「発達障害は存在しない」という考え方は成立する。「障害」という部分に注目をすれば。

例えば「発達障害」については、医療・心理学・教育学の分野だけではなく、一つの“社会現象”として捉えた社会学の一分野としての研究がある。

中でももっとも有名なのが、Judy Singer の以下の書籍だ。

彼女自身、自閉症スペクトラムの当事者である立場から、「発達障害」に関する社会学的な研究を行っており、この「Neuro Diversity」という言葉にまとめた(生み出した)人物として知られている。

私はこの neuro diversity という言葉を積極的に支持しているのだが、この観点から見ると、先の参政党による「発達障害は存在しない」という発言については以下のように考える。

  1.  ある特性を「障害 disabilities」として捉えてしまう社会は、それ自体が「障害を持つ者」と「障害を持たない者」と二分している。つまり、「何が“正常”で何を“障害”とするのか」が社会的に決められていると考えることができる (Singer, 2016)など。

  2. 「発達障害」を(正常の対概念としての)“障害”ではなく、「脳や神経の特性の一つ」として捉え、それを“個性”として捉えることができるような neuro divergent という捉え方を私は指示する。これは、一般的に“正常”として捉えられているのは「多数派の脳・神経の特性(定型特性)」であり、“障害”として捉えられているのは「少数派の脳・神経の特性(否定形特性)」と考えるもので、両者の優劣やどちらかが正常でどちらかが正常でない(障害である)と考えるものではない。

  3.  つまり、すべての人がどちらかの「脳や神経の特性」に属する。この点で「少数派」の特性が存在することが論理的にも支持されることにな

  4.  neuro diversity の見方を持つと、「発達“障害”」として、“障害”として捉えるべきかどうかについては、議論の余地があると考えることになる。neuro diversity という考え方を支持するものとしては、「発達“障害”というものは存在しない」という文章そのものは支持ができうるものとなる。しかし、参政党がここでこの文章に含意しているものと、私がその文章を使った場合に意味するものは、まったく違ったものになる。

  5.  参政党による「発達障害は存在しない、個性なのだ」という考え方は、「個性」という言葉を使って多様であるように思わせているが、実際のところは「脳特性」を均一なものとして捉えている。それゆえに、本当にケアが必要な人への適切なケアは「障害じゃないんだから要らない」という話になり、neuro divergent の生きづらさを助長する可能性がある。例えば、「同じ教育を行えば問題ありません」というのは、視覚障碍者に対して活字のテキストで勉強しろと強要するのと同様に、dyslexia の人たちに対してその特性に応じた教育を提供しないということになり、実質的に教育からの“排除”を促すことになる。これは憲法26条と教育基本法4条に反することになる。


以上のことから、

  • 参政党の主張から想定される、彼ら・彼女らの含意による「発達障害は存在しない」は支持しない

  • またその考え方は、憲法・法令違反に繋がると考える

一方で、

  • 「発達障害」と“障害”として捉える社会においては、それをそのまま支持するものでもなく、neuro diversity の考え方を支持する。

  • “障害”なのか、“特性”なのかは見方による。


neuro diversity/neuro divergent の考え方を現在積極的に取り込んでいる企業の一つはIBMである。

自閉症スペクトラム他「発達"障害"」として捉えられているものを、「脳や神経の特性」として捉え、その特性を"スキル"として、それに適した業務をマッチングさせている。

これなども、「発達障害なんて存在しない」とは真逆の、「"障害"として捉えられているものを"特性"として活かす」という実践なのであって、「存在している」からこそ起きている、経営現象・組織運営・人材採用であると考えることができるだろう。


neuro diversity については、日本でも書籍が揃ってきたので、興味を持たれた方はお読みになると良いと思う。

企業・組織・経営における、neuro diversityについては、以下。


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コメント

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参政党の「発達障害など存在しません」をどう考えるか?|高広伯彦(Ph.D. of Management Science)
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