9-3 月の女神
三日後、ナターシャが目を覚ました、とユウタロウから連絡があったので向かう。クゥに行くかと聞くと、ぎこちなくも行くと返事をしたので連れていく。
机の上で眠っていたナターシャの体は、眠る前とほとんど変化がない。修理は進んでいないと見て分かる。机の周辺には宝貝人形の分解物が乱雑に並んでおり、足の踏み場に困った。
「――おい、仮面の救世主。そこのブタ面から聞いたが、お前達はスノーフィールドと遭遇していたのか!?」
俺が挨拶するよりも先に、ナターシャが訊ねてきた。体が損傷していなければ詰め寄られていた勢いである。
「スノーフィールド。あー、遭遇しているぞ」
「いつだ!」
「さてな、一か月は前か」
「つい最近ではないかっ。あの時の決戦を生き延びていたのか……」
ナターシャとカエル救世主は知り合いだったのか。いや、どちらも半世紀前に召喚された救世主職ならば、顔見知り以上、仲間だったはずなので知っていて当然だ。
「機械にカエル。多種多様の救世主職を召喚したものだ」
「カエル? 誰の事だ??」
「スノーフィールドの事だろ。フルネームは確かスノーフィールド・ラグナロッタ」
「女性に対して失礼な事を言うな」
カエルをカエルと言って何が悪い。
いまいち話が嚙み合っていない気がする。いちおう、スノーフィールドが大剣使いという特徴は一致している様子だが。
「横綱みたいな大柄の両生類が、スノーフィールドの特徴だ」
「馬鹿を言うな。長身美麗の金髪と白雪のごとき肌がスノーフィールドだ」
どう贔屓しても人間大アマガエル。特定外来生物のウシガエルよりマシというレベルであり、普通にモンスターな見た目だったのだが。別人か、半世紀の内にイメチェンしたのか。事情を察するほどの知人ではないので分かるはずがない。
「天竺で何か起きたという事か。……御母様に楯突いたのだから、当然か」
「その天竺について俺達はほとんど分かっていない。どういう組織で、どうして黄昏世界の絶対神に逆らったのか。そして、どうして失敗したのか。……成り行きとはいえ現在の俺達は天竺と同じように御母様と敵対している。天竺と同じように失敗したくはない。知っている事を教えてくれ」
天井を見上げ、その向こう側の西を望む。
しばらくそうしていたナターシャは、ふと目を瞑る。
本のページを一枚一枚捲るように、金属で出来ているとは思えない唇がゆっくりと語り始める。
「半世紀前に天竺を創設し、御母様に反乱したお方は神性、嫦娥様。太陽の灼熱宮殿に対する月の月宮殿に座し、荒廃する世界の維持に努めた女神であり、唯一、御母様を諭せた善神だったと聞いている」
成層圏より彼女は荒れ果てた世界を見下ろしている。
天竺と呼ばれる、高く聳える塔の頂上部より見える世界は、どこもかしこも渇いてしまって、見ごたえはなさそうだ。
彼女も決して楽しんでいる訳ではない。
顔色はまったくもって暗い。暗鬱に浸りきっている。半世紀以上も暗い表情をしていれば、長きを生きる神性とて笑い方や泣き方も分からなくなってしまうものだ。
「……はぁ。一時は激情に駆られた事もあったがな。それも今となっては懐かしい。……この半世紀で、ほとほと疲れ果てた」
彼女、天竺に住む神性、嫦娥は窓から差す忌々しい陽光を避けている。玉座は絶対に光の届かない場所に配置されているものの、それでも光を嫌って玉座の片側に身を寄せて、決して暗がりより動かない。
陰鬱な気分のまま嫦娥は、黄昏た女が半世紀前に吐いた言葉を思い出す。
“――貴女は僅かに残っている神性であり、大事な友人。それは間違いないでしょう。ただし……どうしてそう口うるさいのでしょうか。やれ、感情を抑えろ。やれ、体を動かすな。やれ、世界を焼くな。まったく口うるさくてかなわん。此方の悲しみを理解していたならば、もっと優しくしてくれるのが当然ではないかと”
黄昏た女は、ある日、何の予兆もなくそんな前置きをしてから、何でもない事のように嫦娥に言った。
“――ああ、なるほど。きっと此方と同じ体験をしていないから、親身になってくれないのです。実に簡単な事でした。貴女も此方と同じように……子をすべてを殺されたのなら、此方の気持ちを理解してくれるのでしょう”
その瞬間、黄昏世界の周囲を巡る十の衛星、小さな月が一斉に砕け散ったのだ。
“――これで、此方の悲しみが貴女にも分かりましたね?”
衛星破壊。
惑星レベルの大事件であるが、月の神性たる嫦娥にとってはそれどころではない。
太陽たる黄昏た女に多くの娘がいたように、月の嫦娥にも十二の娘がいたのである。あの日、あの瞬間も黄昏世界の周りを巡って、強い陽光を遮断するために衛星として働いてくれていたはずなのだ。
しかし、黄昏た女の戯言により、嫦娥はすべての娘達に先立たれてしまったらしい。現実感など一切覚えない。神性の権能により、衛星が粉微塵になってしまった事は分かっても、娘達は悲鳴さえ上げられなかったのである。全員が亡くなったなどとどうして理解できるだろうか。
それでも、現実は受け入れなければならない。
黄昏た女の精神が日々、不安定になっており、嫦娥の娘達に手を下す程度の凶行はやってのけてしまえる。天運の尽きかけた女とはいえ、それだけの権能を有している。実行犯は御母様以外にありえないのだ。
嫦娥のその後の行動は早かった。神性らしく神罰を下すべく、御母様と対峙した。
「我が子の亡骸、月の宝玉をすべて使い潰して、異世界の救世主職まで巻き込んでな。……まったく、狂っておったのは黄昏た女だけではなかった。犠牲を無駄に増やした此方こそが狂っていた」
勝算などありはしなかった。
嫦娥が有する勢力は少数。異世界より救世主職を呼び寄せて補強したとしても、焼けた大地に水。
御母様自身は言うまでもなく、付き従う妖怪共は本来、天に使えし神性の眷属だ。自然発生の人間とはスペックが違う。敗北は必至だったとはいえ、それでも、嫦娥に採れる選択に報復以外はあっただろうか。
「…………こうして地表を眺めていられるのも、黄昏た女の気まぐれだな。あれは、此方を敵とさえ見ていなかった」
甚だしさに怒り散らす事さえ嫦娥はできず、ただ悲嘆している。
子の仇を果たせなかった嫦娥は何もかも諦めていた。