おはようございます。7月10日の木曜日です。
そして、820年前の今日、1205年7月10日(元久2年6月22日)は、畠山重忠が北条時政により武蔵・二俣川で討たれた日です。
「吾妻鏡」元久2年6月22日より
元久二年六月二十二日 戊申 天晴快 寅の刻、鎌倉騒然、由比ヶ浜に乱徒を討つため兵を発す。
畠山六郎重保、家人三人を従へて、見付の浦に来る。周囲を三浦平六兵衛尉義村、佐久間太郎等が取り囲む。重保、家人等と共に討ち死にせんと弓を引くも、敵多勢のため、遂に斬殺される。
この時、畠山次郎重忠が来るとの噂あり、道中にて討つべく決定する。北条愛州、執権等、皆兵を率いて出動、御所には兵少なし。
執権延州、御所の守りに、強兵四百を召し、四方に配す。 大手の将は北条愛州、先手は下総平兵衛尉清重、次いで佐々木平治兵衛尉経重、尾形四郎種親、国分五郎種親、相馬五郎義胤、東平太重胤等、皆馬鞭を高く掲げて出動す。
関戸の将は式部大夫時房、和田左衛門尉義盛、兵雲霞の如く、山野を埋む。
正午、武蔵国二俣川にて重忠と遭遇す。重忠、十九日自邸菅谷、男衾郡を発ち、この駅に至る。兄弟、長野三郎重親は信濃国に、六郎重保は奥州にあり、共に不在なり。従って次男小次郎重秀、家人本多次郎親常、半沢六郎成清、鈴木三郎親綱等を従へ、計百三十四騎、鶴嶺の麓に陣取る。
この時、朝より重保が討たれたとの報せあり、更に大軍が来るとの報せあり。家人等、退いて本陣に籠り、戦うべきと進言す。
重忠曰く、「我が家は代々将軍家に仕え、恩義深し。今日此処にて討たれん。退くべからず。」
是に由り、家人等と共に弓を引く。敵も弓を引く。双方矢を放ち合う。矢尽き果て、遂に刀を交える。
戦い、申の刻に至る。相馬五郎義胤の弓にて、重忠の胸を射抜く。重忠、馬上より落ち、遂に討たれる。首を取られ、北条愛州の陣に献上される。小次郎重秀、家人等も皆討たれる。生ける者は無し。
未の刻、北条愛州の室(伊賀守朝光の娘)、男子を産む。名を左京大夫と云う。
畠山重忠の乱と言われますが、重忠が謀反を起こしたわけでなく、牧の方と時政が自己の利益のために起こしたそうですから別の呼び方が良いと思うのですが…。
最後に記されているように、同日は義時の子、北条政村の誕生日です。
それでは、今日もよろしくお願いいたします