唐突ですが、「マルシン出前機」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。「マルシンハンバーグ」だったら、40代以上の読者は懐かしく思い出すことでしょう。でも、マルシン出前機という名前にはピンと来ないかもしれません。

「マルシン出前機」とは、出前のスーパーカブの荷台でゆらゆらしているアレです。以前ほどは見かけなくなりましたが、昔は出前といえばスーパーカブと決まっていて、その荷台には必ずこの「マルシン出前機」が付いているものでした。

Honda Super Cub With Sushi Carrer

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卓越した振動吸収性。X-TRAILとの勝負の行方は・・・

その構造は、基台に固定されたフレームの上部に空気ダンパーのサスペンションが付いており、そこから吊るした荷台に寿司桶や岡持ちを置くようになっいるというもの。このサスペンションが走行時の揺れや衝撃を吸収してくれるのに加え、荷台が振り子のように大きく揺れることで旋回時の遠心力も克服。安定走行を実現する優れ物なのです。

その振動吸収性能の高さを物語っているのが、昨年公開された日産X-TRAILの走行安定性を実証するプロモーションムービー。X-TRAILの荷室と、バイクに装着したマルシン出前機の両方に水の入ったビーカーを設置し、悪路を走行実験するというものです。この勝負では残念ながらX-TRAILに軍配が上がるのですが、こうして取り上げられるということ自体が、その能力が高く評価されている証明といえるでしょう。

X-TRAIL vs OKAMOCHI MOTORCYCLE

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用途によって4つのバリエーション

このマルシン出前機、実は様々なバリエーションがあるんです。まず日本そば・一般食堂用の「1型」。丼や皿を載せたお盆を重ねて出前することを想定して設計されています。お盆は何と4段重ねまで対応! ちょっと怖いような気もしますが、蕎麦を両手に抱えて自転車に曲乗りしていた時代を考えれば、これでもスマートな出前スタイルだったのかもしれません。

そして寿司店・魚店用の「2型」。木製の岡持桶を取り付ける設計です。そして中華・レストラン・食堂用の「3型」は、金属製の岡持箱を取り付けるバージョン。片側だけにぶら下げるタイプと、左右両側にぶら下げるタイプ、中央に一つだけ吊るすタイプの3種類が存在します。左右にぶら下げるタイプは重心も低く安定性は良さそうですが、横幅を取るので注意して走らないとぶつけてしまいそうですね(笑)。ちなみに「4型」は存在せず(時代を感じさせますね)、あとは自転車用の「5型」があるそうです。

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東京オリンピックでのエピソード

Wikipediaによると、1964年の東京オリンピックの聖火リレーにおいて、予備の聖火を運ぶ手段としてこのマルシン出前機が使われたんだそうです。聖火ランナーを追走する乗用車の後部座席に設置され、日本全国7,000キロのリレーを伴走したんだとか。その出前機が秩父宮スポーツ博物館に聖火ランプとともに保存されているというのも微笑ましいエピソードですね。

日本の出前文化を支え続けてきたマルシン出前機。最近では、スーパーカブによる出前よりもジャイロによるデリバリーが主流となり、目にする機会も少なくなりました。もし街で見かけたら、その雄姿に注目してみてください!

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世界に羽ばたく英才教育を施してやっている気など毛頭なく、こっちのテリトリーに丸ごと引っ張り込んでしまえばアレコレと融通効かせやすいし遊ばせるのも楽チン?くらいの "激ユル系ON ANY SUNDAY" スタイルな我が家。いちんち外遊びの〆にちょこっとバイク乗る、くらいの感じで全然構わないんですけど行けば行ったで色々とオーダーが出てきやがってこりゃあ五月蝿くっていけねーや?

「おとーさんあたしね、ハンドルをクイっと左に切りたいの」「は???」

WELCOME RACE FANS!! ダートトラックライダー/FEVHOTS "レースプロモーター" のハヤシです。右に切ってハンドルストッパーに当たるまでカキーン!と逆ハン、いわゆるカウンターステアこそがこのスポーツの雰囲気!醍醐味!カッケー!なんて先入観はちびっこたちには1ミリもありません。

画像: 「おとーさんあたしね、ハンドルをクイっと左に切りたいの」「は???」

カウンターステア少なめでターンに進入していったのち、ぐいっとイン側にハンドル切ってブレーキングと旋回区間を早送り的に収束させるための "フロントスクラブ" などとも呼ばれるテクニック、こちらをやってみたくて我慢ができないご様子の小2の長女。サラサラ路面で〜ヌルヌル路面で〜いい感じのしっとり路面で〜と色々試したいお年頃。しかも毎ターン写真撮れと!いくらちっちゃいショートトラックだって両方のコーナー走り回って写真撮れるかーい。マジでこっちが乗るヒマなくなるんですけど。ダンススクールかガールスカウトにでも放り込んでおくべきだったかな・・・。

どこで見知ってきたのか見当もつきませんよ。やってみれば?なんて一言も言ってないですからね。

「ねーちゃんが乗らない隙にあの速いほう乗りたいなー」「マジで???」

エンジンブレーキしっかり使えて乗り味もマイルドな4ストローク車でフロントスクラブに挑戦し続ける姉を横目に、乗ってないならあのパイーンっていう速いヤツ貸して!とのたまう未就学児長男。別にいいけどそれ15馬力くらいあるよ?勢い余って宙を舞ってもおれ知らんからね?

画像: 「ねーちゃんが乗らない隙にあの速いほう乗りたいなー」「マジで???」

ターン中の姿勢がどうこうってほど乗れやしませんが、毎度立ち上がりでガバっと開けて前輪ちょびっと離陸しちゃってますよ。ちゃんとやりすぎの手前でスロットル戻せるのは偉いなぁ。ねーちゃんは勢い余って竿立ちからバク転しちゃうスタイルだけどこっちは堅実派?そういうことじゃないか。

挙句の帰り道「やっぱり速いバイクはいいねぇ」とか目をギラつかせて言うのやめてください。次のバイク何にする?いやいや100年早い。当分ちびっこバイクで危険が危ない感じで遊んでてくれい。

電動バイクとかPW50とかでトトトトトっと走ってる時代も見てて面白かったですけど、このめんどくさい感じもなかなかオツなもんですね。いやぁまいんち楽しい。というわけでこの夏もプライベートトラック通い詰め!乗りまくり・・・はおそらくいや絶対にしないんでしょうけど。毎回の走行料もかかんないですしね。そこはまぁ良いことにしましょうか。

ではまた次週、金曜日の "Flat Track Friday!!" でお目にかかりましょう!

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4ストロークの高性能スポーツモデルのエンジンは気筒あたり4バルブを採用する・・・これは現代のライダーにとっては当たり前のことと認識されています。2バルブよりバルブ面積が大きくとれる、バルブの小型軽量化で高回転化に有利・・・などが一般によく知られる4バルブのメリットですが、鬼才ファビオ タリオーニがドゥカティの主任設計者だった時代、彼は気筒あたり2バルブのデザインにこだわりました。その理由は、どこにあったのでしょうか・・・?

気筒あたり2バルブ・・・の信奉者だったタリオーニ

ドゥカティに詳しくない方でも、ファビオ タリオーニの名前は聞いたことがあると思います。1950年代のグランプリで活躍した名門F.B.モンディアルを経て、1954年からドゥカティに加入したタリオーニは1956年にドゥカティ初のデスモドロミック(強制開閉弁)機構採用車の125GPを完成させます。

画像: F.タリオーニ(1920〜2001年)は、1954〜1989年の間ドゥカティの主任設計者および技師長をつとめました。 www.ducati.com

F.タリオーニ(1920〜2001年)は、1954〜1989年の間ドゥカティの主任設計者および技師長をつとめました。

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1968年型からデスモドロミック(以下デスモ)は量産単気筒にも採用されるようになり、1970年代以降の同社の主力製品となるVツインモデルにもデスモは採用され続けていきました。現在、MotoGP最高峰クラスを席巻しているドゥカティデスモセディチにも、その名が示すとおりデスモは取り入れられており、ある意味デスモはドゥカティの「シグネチャー的」技術になっているといえるでしょう。

デスモのことはさておき(笑)、タリオーニは気筒あたり2バルブの「信奉者」でした。1972年、タリオーニは当時ドゥカティが取り組んでいた世界ロードレースGP(MotoGPの前身)500ccクラス用マシン・・・500GPの開発のため4バルブヘッドをテストしたりしていました。しかし、期待ほどのパワーアップを2バルブバージョンより得られなかったこともあり、タリオーニはその後も2バルブ信仰を保ち続けることになりました。

画像: 伊ボローニャのドゥカティ ムゼオ(博物館)に展示される500GP。1971年から参戦開始しましたが、グランプリで優勝することはなく、1971年のユーゴスラビアでのレースイベントでジルベルト パルロッティが500GP唯一の勝ち星を記録しています。なお500GP用試作4バルブシリンダーヘッドはデスモドロミックではなく、一般的なバルブスプリングを採用していました。 www.facebook.com

伊ボローニャのドゥカティ ムゼオ(博物館)に展示される500GP。1971年から参戦開始しましたが、グランプリで優勝することはなく、1971年のユーゴスラビアでのレースイベントでジルベルト パルロッティが500GP唯一の勝ち星を記録しています。なお500GP用試作4バルブシリンダーヘッドはデスモドロミックではなく、一般的なバルブスプリングを採用していました。

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2輪の世界では、2バルブの競技用エンジンの時代が結構長く続きました

4ストロークの高性能スポーツモデルのエンジンは気筒あたり4バルブを採用する・・・これは現代のライダーにとっては当たり前のことと認識されています。2バルブよりバルブ面積が大きくとれる、バルブの小型軽量化で高回転化に有利、燃焼室中央に点火バルブを配置しやすい・・・などが一般によく知られる4バルブのメリットです。

インディアンやハーレーダビッドソンの4バルブレーシングモデル、通称「リッキー」ことハリー リカルドが開発したトライアンフ モデルR、そして放射4バルブを備えたラッジのTT用モデルなどなど第二次世界大戦前の成功例はありますが、1900年前後のモータースポーツ黎明期から1950年代まで活躍したロードレース用4ストロークエンジンのほとんどは、気筒あたり4バルブではなく2バルブを採用する例が主流でした。

画像: 1920〜1930年代にロードレースで活躍した英ラッジは、OHVの放射4バルブという当時としては非常にハイテックな動弁系を採用していました。 www.stratford-rudge.co.uk

1920〜1930年代にロードレースで活躍した英ラッジは、OHVの放射4バルブという当時としては非常にハイテックな動弁系を採用していました。

www.stratford-rudge.co.uk

有名なマン島TTレースのような、長丁場で過酷な公道利用コースが多かった時代、ロードレーサーは高性能とともに高度な信頼性が求められていました。それゆえ、4バルブより動弁系部品点数を減らすことができる2バルブは、「壊れる可能性のある部品点数を減らせる」という利点がありました。

もっとも、そういう消極的理由だけで2バルブが支持されたわけではありません。1960年代までの時代、「早く燃焼させる」という点で2バルブは4バルブより優れているといえました。ピストン上死点後10度近辺で、混合気の燃焼によって高まった圧力が最高になるのが効率的に好ましいです。そのため点火プラグがスパークする点火時期は、上死点前に設定されることになります。上死点後10度近辺で一瞬にして混合気すべてが燃焼を終えれば良いのですけど、それは物理的に無理ですから上死点前で点火させて、上死点後10度近辺で圧力が最高になるのをねらう・・・わけです。

上死点後10度近辺で圧力が最高になれば良いのなら、点火タイミング上死点前30度だろうが60度だろうが帳尻が合っていれるから良いのでは? と考える人もいるかもしれません。ただ燃焼が速ければ速いほど、燃焼室を構成する部品・・・ピストンやシリンダーヘッドを介しての熱損失の時間は短くなります。ゆえに効率については点火タイミング上死点前60度より、30度の方が好ましいのです。

M.ボルディの時代になり、ドゥカティは4バルブを製品化しました

層状で流れに乱れがない場合・・・ガソリン混合気の層流燃焼速度は約0.4m/sで、内燃機関をきちんと機能させるには燃焼が遅すぎます。そこで燃焼速度を上げるためには、混合気の燃焼時に乱流燃焼速度(数10m/s)を活用できる状態にする必要があります。そのために長年多くのエンジニアたちが、ポート形状、バルブ形状、そして燃焼室形状を工夫してきて今に至るわけです。

2輪レースエンジンの世界で長年2バルブが愛用されたのにはこの乱流のひとつ、スワール(シリンダーに対して左右方向の乱流)をコントロールしやすかったのも大きな理由です。吸気バルブが1つの2バルブ方式が理想的なスワールを生み出しやすかったのに対し、2つ吸気バルブを持つ4バルブ方式は、1960年前後の時代の当時の技術では、互いの吸気の流れが干渉してスワールをコントロールするのが難しかったのです。

ノートンファクトリーロードレース活動終焉期の、1954年型ノートンマンクスの燃焼室とピストンのイラスト。ポーランド人技術者のレオ クズミッキのアイデアを取り入れたマンクスは、燃焼室外周、そしてピストンクラウンの「フラット」部の設計が最適な混合気の乱流を発生させ、単気筒エンジンからより多くの出力を絞り出すことを可能にしていました。

www.grandprixengines.co.uk

1960年代までの多くの2バルブレーシングエンジンの点火時期が上死点前32〜35度くらいだったのに対し、多くの4バルブレーシングエンジンは上死点前40度以上の設定が必要でした。この燃焼の遅さこそが、タリオーニが当時4バルブを好まなかった理由のひとつといわれています。

画像: 1961年の世界ロードレースGP(現MotoGP)250ccクラスを席巻した、ホンダRC162(空冷250cc 4ストロークDOHC4バルブ)のピストンとシリンダーヘッド。一般的なシートリング材を使わず、燃焼室に鉄製のスカルを鋳込むのは、この時代のホンダ車の特徴でした。吸気・排気バルブの挟み角は広く、圧縮を稼ぐためピストンクラウン部は盛り上がっており、燃焼室の表面積は大きめでした。©︎The Motorcycle CLASSICS ©︎The Motorcycle CLASSICS

1961年の世界ロードレースGP(現MotoGP)250ccクラスを席巻した、ホンダRC162(空冷250cc 4ストロークDOHC4バルブ)のピストンとシリンダーヘッド。一般的なシートリング材を使わず、燃焼室に鉄製のスカルを鋳込むのは、この時代のホンダ車の特徴でした。吸気・排気バルブの挟み角は広く、圧縮を稼ぐためピストンクラウン部は盛り上がっており、燃焼室の表面積は大きめでした。©︎The Motorcycle CLASSICS

©︎The Motorcycle CLASSICS

1985年、ドゥカティはカスティリオーニ兄弟のカジバ傘下となり、技師のマッシモ ボルディが新型車開発の責任者となりました。ボルディはボローニャ大学時代の1973〜1974年に、4バルブ方式デスモドロミックの学位論文をまとめていたのですが、そのアイデアは1986年の748 IEプロトタイプ、そして1987年に発表されたドゥカティ初の水冷4バルブ・デスモドロミック採用量産車である851に結実します。

ボルディが4バルブ方式デスモドロミックを開発する際、参考にしたのは4輪F1エンジンの最高傑作と称されるフォード コスワースDFVでした。

画像: 851に搭載された、デスモクワトロエンジン。SBK(世界スーパーバイク選手権)などで活躍した歴代水冷4バルブツインモデルの、開祖となった名機です。 www.facebook.com

851に搭載された、デスモクワトロエンジン。SBK(世界スーパーバイク選手権)などで活躍した歴代水冷4バルブツインモデルの、開祖となった名機です。

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高い信頼性、ストレスメンバー構成などDFVの優れた設計はいろいろあげることができますが、燃焼室設計に関してDFVの特筆すべき点は、後にタンブルと呼ばれることになる、シリンダー縦方向の乱流・・・バレル タービュランスの活用に成功していたことでした。

英コスワースのキース ダックワースはバレル タービュランスによる燃焼促進効果に着目し、吸気・排気のバルブ挟み角やバルブタイミング、そして最適なダウンドラフト吸気ポート形状などを追求。その結果優れた燃焼速度を可能とした4バルブ燃焼室を有するDFVは、デビューした1967年のF1シーズンから高い戦闘力を発揮し、好成績を残しました。

当初DFVはロータスへの独占供給でしたが、1968年以降は他のコンストラクターにも供給されるようになります。するとやがてDFVのバレル タービュランスのポテンシャルは、多くのエンジニアたちの間にも知れ渡るようになっていきました。ドゥカティに入社する前の、若きボルディもダックワースの設計に魅了されたエンジニアのひとりです。彼の学位論文は、デスモドロミックとDFV式4バルブ燃焼室の融合といえるものでした。

バルブ挟み角32度、ダウンドラフトの吸気ポート形状、そしてコンパクトな燃焼室が特徴のフォード コスワースDFVエンジン(90度V8、3リッター)。4輪F1では1967〜1985年の間の262レースで、合計155勝を記録しています。

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なおドゥカティはデスモクワトロ開発初期に、コスワースの協力を得ていました。コスワースはデスモドロミックを放棄して一般的なバルブスプリングを採用すれば、40度より狭い角度のバルブレイアウトが可能と提案しましたが、のちの851を見てのとおりドゥカティはあえてデスモドロミック採用に固執することを選びました。

多くの歴史書の記述によると、2バルブ信奉者のタリオーニはデスモクワトロ開発に関しても冷淡だったようです。ただボルディは偉大な先輩であるタリオーニのデスモドロミック機構の信奉者であり、自身の夢である4バルブエンジン開発の際に、デスモドロミックを組み合わせることが成功の鍵になると信じていたと、後の時代のインタビューで語っています。2バルブと4バルブ・・・それぞれ異なる方式にこだわったタリオーニとボルディですが、結果的に1980年代半ばのドゥカティの技術革新は非常に上手く行ったといえるでしょう。

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モータースポーツに限らず、一般参加型のマイナースポーツがいつまでも弱小コンテンツであり続ける理由って、見る場所が用意されてないとか見せ方が下手とかで魅力が外に伝わってこないことが結構大きいんじゃないでしょうか?目指せ脱・内向きオールドボーイズクラブ?

無観客開催の運動会なんてきっとあんまり盛り上がらないでしょう?

WELCOME RACE FANS!! ダートトラックライダー/FEVHOTS "レースプロモーター" のハヤシです。いやあ暑い。運動会だとかプールなんか見てるだけの保護者はたまったもんじゃない季節ですが、それにしたってスペースが用意されてるかないかとか、プログラムの進行状況が外野によく伝わってるか否かとか、その辺からすでに場の雰囲気って大きく変わってくるように思います。

画像: 無観客開催の運動会なんてきっとあんまり盛り上がらないでしょう?

大規模なスタンドをこしらえるとか照明焚くとかはまぁ飛躍しすぎかもしれませんけど、見せ方=魅せ方だと思うんですよね。もちろん参加者サイドにもそれなりの (高めの) 意識を持ってもらう必要はあると思うんですが、ブレイクスルーの可能性があるのはそこらへんなんじゃないかなぁ。

というわけで?必要以上に歓声を送ってみた結果・・・

褒めて伸びるってホントかな?とふと思って我が子にやや過剰に声援を送って試してみたんですが、

画像1: というわけで?必要以上に歓声を送ってみた結果・・・
画像2: というわけで?必要以上に歓声を送ってみた結果・・・

テンションぶち上がっていつもよりアケアケでオーバースピード?になるらしく、何度も3度もアホほどの勢いでトラック外に飛び出していくお調子者。いや怪我しない程度にやってますけど。ほどほどで自分を抑えられるようになりさえすれば、これはプラスに働くのかも。いやぁ気づきだなぁ。

暑くて1日乗ってる場合じゃなくなってきたので、乗るのは路面が落ち着く夕方だけの短期集中で全然良いかもの季節。子供らには日中は水遊びかなんかで楽しんでもらって、こちらは重機借りてきて新たな施設改修でも始めますかねー。どーんと客席スペース作っちゃおうかな。なんて。

ではまた次週、金曜日の "Flat Track Friday!!" でお目にかかりましょう!

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MotoGP王者がFIM(国際モーターサイクリズム連盟)に反旗を翻し、独自のシリーズ戦立ち上げを宣言する・・・。今のMotoGPファンの人はそんな話を聞いたら、「んなアホな?」という感想しか抱かないかもしれません? しかし46年前の1979年、そのような話・・・「ワールドシリーズ」という構想にともなう混乱が、実際にロードレースの世界を騒がせたのです。

欧州中心のFIMと、新大陸出身王者の「確執」

戦前の欧州選手権の伝統を継承し、戦後世界ロードレース選手権(MotoGPの前身)が成立したのは1949年のことでした。そしてその30年後の1979年、当時の最高峰クラスであるGP500cc王者のケニー ロバーツは英国GP後に、翌1980年のFIM統括のレースには出場しないことを宣言しました。

1978、1979年、ヤマハのライダーとしてケニー ロバーツは、当時最高峰の500ccクラスの王者に輝きました。彼はアメリカ人初の、グランプリ王者としてロードレースの歴史にその名を刻んでおります。

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欧州主体のグランプリ界においてアメリカ育ちのロバーツは当時「異物視」されることが多い存在でした。1978年、スペインGPのプロモーターであり、当時のFIM会長だったニコラス ロディル デル ファレは、その年のスペインGPのロバーツのエントリーを拒否しています。

前戦のベネズエラGPにロバーツが参戦していないため、500ccクラスの経験がないというのがFIM側のエントリー拒否の理由でしたが、最終的にはFIMの譲歩でロバーツはスペインGPに出場することができました。これはロバーツとFIMの最初の大きな確執といえる出来事でしたが、翌1979年スペインGPでの「スターティングマネー」支払い拒否事件が、ロバーツのFIMへの不信を決定付けたといえるかもしれません。

当時のFIM規則で保証されたスターティングマネー=出走者に対する支払金拒否という嫌がらせに激怒したロバーツは、1979年5月開催のスペインGP500ccクラスに優勝したにも関わらず表彰式をボイコットしました。こちらの動画はスターティングマネーを支払わない理由をFIMが語らないことに、怒りを表明するインタビューが収録されています。

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1979年ベルギーGPでのひと悶着、そして英国GPでの「宣言」

そして同年7月のベルギーGPでは、62名のライダーがボイコットするという大事件が起きました。スパ フランコルシャンのコースは同イベントの直前に新しい舗装工事を終えたのですが、路面に油分が多く残留していたため練習走行と予選で転倒者が続出。安全面の不備を理由に、トップ選手含む多くのライダーがレースをボイコットしたわけです。

ベルギーのボイコット騒動から数週間後、8月の英国GP後にロバーツら40名のライダーは、「ワールドシリーズ オブ モーターサイクル レーシング」事務局を発足させたことを発表しました。これはすなわち、FIM統括の世界ロードレースGPとは別の新しいロードレースシリーズを立ち上げるという、FIMに対して反旗を翻す行動でした。

ワールドシリーズ事務局のライダー側の中心人物となったのは、ロバーツでした。命懸けの競技にも関わらず少ない賞金額、十分とはいえない安全対策など当時のグランプリに多くの不満を抱いていたロバーツの訴えに対し、バリー シーン、バージニオ フェラーリ、ウィル ハートフ、ジョニー チェコット、グレッグ ハンスフォードら有力選手たちも賛同。ワールドシリーズ事務局の実働部隊として交渉などに尽力したのは、当時35歳の英国人のバリー コールマン。彼は英新聞ガーディアンでの8年の記者生活を経て、2輪専門誌モトコースの編集に携わったジャーナリストでした。

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ワールドシリーズ構想が発表されたこの年の英国GPは、ロバーツとシーンの激しいバトルや、1967年以来グランプリに戻ってきたホンダのNR500炎上など、非常にドラマの多い一戦でした。このレースを観戦したIMG(インターナショナル マネージメント グループ)ロンドン事務所のイアン トッドは、グランプリは感動的でもっと金になるコンテンツ・・・という確信を得ていました。

米企業のIMGは、テニスのビョルン ボルグやジミー コナーズ、ゴルフのジャック ニクラスやアーノルド パーマーなど、当時世界のトップアスリート300人と契約し、マネージメントというビジネスを幅広い分野で確立していました。ロバーツのような才能あるライダーをサポートすることで、ロードレースをもっとマネタイズしたスポーツにできると考えたIMGは、1979年9月にワールドシリーズを支援することを明らかにしています。

ワールドシリーズ騒動が与えた後年のグランプリへの影響

1980年から開催を予定していたワールドシリーズは、500ccクラスをF1、250ccクラスをF2と区分する4輪モータースポーツ的区分を採用。開催コースは伊イモラとモンツァ、英ドニントンパーク、米ラグラセカ、仏ルマン、ベルギーのゾルダー、オランダのザントフォールト、そしてオーストリアのザルツブルクリンクなどが候補地にあげられていました。

1979年シーズンオフ、ワールドシリーズ事務局側は日欧米でメーカー、サーキットオーナー、そして各国のモータースポーツ統括団体に対する実現工作に励みました。しかし、長年グランプリが保持してきたステータス性を持っていない、新興勢であるワールドシリーズを積極的に支援する声は少なく、最終的にはFIMの切り崩し工作にも負けた格好となり、1980年初頭にはワールドシリーズ構想が成り立たないことが明らかになっていきました・・・。

ファンの声は賛否両論ありましたが、ファンにとってのプラス面をあまりアピールできなかったことも、ワールドシリーズが失敗した一因ともいえるでしょう。ワールドシリーズ構想はライダーの待遇改善という権力闘争的側面が強く、ファンのことは二の次的だったことは否めないでしょう。

ワールドシリーズ構想は潰えましたが、FIMとワールドシリーズ側の争いは一方的なFIM側の勝利に終わったわけでもありませんでした。ワールドシリーズ構想はFIMの旧態依然とした運営、安全面への配慮不足などを白日の下に晒す効果を発揮し、FIM変革への圧力として非常に強く機能しました。結果FIMはライダーたちの意見を飲むかたちで、1980年以降はライダーの賞金の大幅な増額、そしてコースの安全確保などに努力することになったのです。

画像: 1980年シーズン、ワールドシリーズ構想が潰えた結果、K.ロバーツはFIMグランプリの500ccクラスを走り、最高峰クラス3連覇の偉業を成し遂げることになりました。 www.yamaha-racing.com

1980年シーズン、ワールドシリーズ構想が潰えた結果、K.ロバーツはFIMグランプリの500ccクラスを走り、最高峰クラス3連覇の偉業を成し遂げることになりました。

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当時、次世代スター候補だったオーストラリア人のグレッグ ハンスフォードは、ワールドシリーズ構想に関わったことでキャリア的被害を被ったライダーのひとりといえるかもしれません。1980年にロバーツがワールドシリーズを走る場合、ヤマハはFIMグランプリの500ccクラスにハンスフォードを走らせることを考えていましたが、ワールドシリーズに賛同したハンスフォードはこの魅力的なオファーを断ってしまったのです・・・。

画像: グレッグ ハンスフォード(中央)は1978〜1981年という短いGPキャリアのなかで、250/350ccクラス通算10勝を記録。ヤマハのオファーを断りカワサキに残留したハンスフォードは、1980年シーズンのグランプリはKR500で一戦のみ出場。そして1981年ベルギーGPで大腿骨を骨折し、2輪のレースキャリアを終えることになりました。その後4輪に転向して活躍したハンスフォードですが、1995年のフィリップアイランドでのレースで事故死しています。 www.facebook.com

グレッグ ハンスフォード(中央)は1978〜1981年という短いGPキャリアのなかで、250/350ccクラス通算10勝を記録。ヤマハのオファーを断りカワサキに残留したハンスフォードは、1980年シーズンのグランプリはKR500で一戦のみ出場。そして1981年ベルギーGPで大腿骨を骨折し、2輪のレースキャリアを終えることになりました。その後4輪に転向して活躍したハンスフォードですが、1995年のフィリップアイランドでのレースで事故死しています。

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今では覚えていない、そして知らない人も多いであろう46年前のワールドシリーズ騒動は、グランプリの在り方を変えた大きな出来事でした。ライダーの待遇と安全性を改善し続けていくという流れは、今日のMotoGPにも受け継がれています。

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うちの子たちがフルサイズマシンに乗れるような背格好になるのなんてまだまだ当面先ですが、仕立てるのなんて相当な熱量も時間も資金も材料も必要なのだから、机上のプロジェクトだけは早めに興しておいたほうが良い?

手前でアレコレ考えるより最終形態をイメージするのが近道かもしれない?

WELCOME RACE FANS!! ダートトラックライダー/FEVHOTS "レースプロモーター" のハヤシです。水浴びたり虫つかまえたり果実を盗み食いしたり?と周囲の誘惑多すぎですが、とにかく頻繁に "バイク乗り場" で遊ぶ我が子たち。新しいマシンを与えるたびに、速すぎる!重すぎる!足が届かない!などと一丁前にひととおり文句を垂れますが、それでも気づけばあっという間に順応なさって、自力で足ついて停まれないくせにブンブン走り回っています。

画像: 手前でアレコレ考えるより最終形態をイメージするのが近道かもしれない?

身の丈に合うようにあれこれコサえてやろうかとも思うんですが、グングン成長するし勝手に慣れてくれちゃうので余計な調整は余程のことがない限りしなくてもいいかな?などと思ったり思わなかったり。シート高くて足が届かないだなんて言ったって、走り出しちゃえばカンケーないですからね。乱暴か。

趣味の世界だと個人的にはこういうのがとっても好みですけど・・・?

画像1: 趣味の世界だと個人的にはこういうのがとっても好みですけど・・・?

ストックフレームをちょっと改修 (ヘッドパイプの角度変更) して乗車姿勢を整えたSR系とか・・・

エンジンはストックに近いスペックでもきちんと作りこんだ車体に載せてやるとか・・・

ここんちは親子三代でこんなキチンと仕上がったのに乗ってますからね。最高か。

まぁ彼らが大きくなればなるだけコッチは衰えていくんでしょうけど。それでも知性vs若さvs経験vs度胸、みたいな感じで勝負できそうなのがグルグル系スプリント種目の良いところ、でしょうねぇ。

さてここで、他所の若い人たちをどう巻き込むかがこれからの大きな課題なわけですけど。
ではまた次週、金曜日の "Flat Track Friday!!" でお目にかかりましょう!

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フラッシュ焚いてるナイトレースの写真なんか見ると結構な明るさに感じますが、実際のところは眩しいってほどじゃなし、全員が同条件と考えれば薄暗い程度の照明でも案外なんとかなったりして。

小さいヒトたち連れて丸々いちんち乗りまくる、なんて日もそうそうないし

WELCOME RACE FANS!! ダートトラックライダー/FEVHOTS "レースプロモーター" のハヤシです。#プライベートトラックのある生活、が当たり前になってくるとなおさら?じわじわ暑さも増してくる季節、子供さんたちのバイク乗りたい気分は決して一日中持続したりはしませんね。

画像1: 小さいヒトたち連れて丸々いちんち乗りまくる、なんて日もそうそうないし

パドックに井戸水プールがあったり周囲に食べられる木の実がじゃんじゃんなってたり、ありがたいことに誘惑多すぎなのかもしれませんけど。というわけでやはり夏の釣りは夕まずめ、乗るのも競うのも夕方以降が楽しいなぁ、などと毎年思うわけです。

画像2: 小さいヒトたち連れて丸々いちんち乗りまくる、なんて日もそうそうないし

もちろん観客パンパンのナイトレースと比べたら月とスッポンですが、路面の具合とか身体への負担とか考えても、みんな大好き真夏の昼のBBQみたいなある種の不条理?は排除していいような気がします。もっともっとシンプルに気持ち良く乗れる環境を追求してやればそれが良いはず。

世の中には使えそうなアイテムが星の数ほどありますので試してみるしか?

10年ひと昔前ならば、煌々と照明焚こうと思ったら大出力ジェネレーターが必要でしたけど、今やお安いLEDとかハンディなソーラーパネルとか、外でのアクティビティに便利なツールがわんさか見つかる素敵な時代です。ちっちゃなショートトラックとの相性とか抜群なんじゃないでしょうか。

しかし音の問題が昼夜問わずなにもない、というリッチな立地が最高ですね。見立てた筆者、優勝。我がトラック近くのスポーツ公園は夜遅くまでガンガン照明つけて野球愛好者たちがヤイヤイやってますから、こっちもバオバオやったってきっと大丈夫なはずだ!?

まぁちょっとは自制しますけど。普通こういうときはやっぱり電気バイクなのかな・・・?
ではまた次週、金曜日の "Flat Track Friday!!" でお目にかかりましょう!

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レースレギュレーション改定によるインディアンFTR750の "退役" と時を同じくしてプロキャリアに終止符を打ったジャレッド・ミース、史上最多10度の年間チャンピオンに輝いたG.O.A.T. = Greatest of All Timeのひとりですが、全米最高峰のプロシリーズを引退したからって一切競技に参加しないというわけでもないらしく、ウィスコンシン州プリマスで先週末に開催された伝統あるローカルレースに、一風変わった?マシンを携えて登場したようです。

ルール変更でAFT公式戦から排除されたやや異形チューニングの450DTX。

WELCOME RACE FANS!! ダートトラックライダー/FEVHOTS "レースプロモーター" のハヤシです。ナンバー9のプレートをつけたホンダCRF450Rとジャレッドの組み合わせは、2009年初チャンピオン獲得以降かれこれ15年以上前から見慣れたカップリングですが、マシンをよーく眺めてみると、今日のAFTシーンでは間違いなくお目にかかることのない珍しいモディファイが加えられています。

画像1: ルール変更でAFT公式戦から排除されたやや異形チューニングの450DTX。

パっと見て前後の軸距、ホイールベースが極端に短くなっているのがお分かりいただけるかとお思います。これはメイカー純正のスイングアーム・リンケージ式リアサスペンションユニットを撤去し、断面の小さなクロモリ角パイプのスイングアームと、直押しカンチレバー式サスペンションに更新、フロントエンド一式はおそらくインディアンFTR750からとっ外してきたと思われるオーリンズ製正立フォーク、それに合わせてオフセット寸法の大きく取られたトリプルツリーに変更することで、伝統的なフレーマーのディメンションに近づけようという試み。大ジャンプを可能にする高剛性の倒立フォークとサスペンションリンクがなくなることで、車重も相当に軽くなっているはずです。

画像2: ルール変更でAFT公式戦から排除されたやや異形チューニングの450DTX。

ハンドルバーも所謂トラッカーバー、NEKEN製のジャレッド・ミースシグネイチャーモデルに変更している様子。リアフェンダーがタイヤ後端から大きく飛び出しているあたり、マシン全長の短さを物語っています。

以前ご紹介したNOT A FRAMERキットを組み込めば "誰でもジャレッド"?

今回ジャレッドは外装の模様替えまでしなかったようですが、スイングアーム関連は当コラムでも昨年ご紹介したこちらの "NAFキット" なるモノを組み込んでいるようです。そうなんですよね、モトクロッサーからのDTX化・・・前後サスペンション内部の作り替えとホイールサイズ変更って結構値の張るモディファイですが、思い切って正立化・リアショックの長さ硬さ動き方を変えることにだけ注力するというのはエントリーユーザー向けとしても相当アリの手法かもしれないです。

そう思って実は筆者も新たにちょっと仕込んでいるネタがあるのですが・・・何しろ中古のタマが激減していて研究しただけの効果 (人口増・台数増の見立て) がちょっと厳しいかなーといった重大な懸念。それでいて選べる新車も選択肢少ないってどういうこと!?やれやれ困っちまいますねー。

ではまた次週、金曜日の "Flat Track Friday!!" でお目にかかりましょう!

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