近内悠太

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近内悠太
@YutaChikauchi
1冊目『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(第29回山本七平賞 奨励賞 )amazon.co.jp/dp/4910063056/。2冊目が出ます!『利他・ケア・傷の倫理学ーー「私」を生き直すための哲学』(晶文社)amzn.to/3Ilvxbb
chikauchi.jpJoined January 2010

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1冊目は「受け取るとはどういうことか」を論じたので、2冊目は「与えること」について書きました。 ケアとは「その人が大切にしているものを共に大切にすること」と言えるのではないか。では利他は? ぜひ本書を読んでみてください。 近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』
人にちょっと小難しいことを言ったときに「哲学的ですねぇ」と言われたら、「それは文学的というのと、宗教的というのとどう違うのですか?」と言い返すのがマナーだと思っている。
目の前の相手に、興味と関心を向けながらも、ただし呪いをかけない、ということができたならば、それはもうすでに「祝福」になっているんじゃないか。とは言ってもこれが相当難しい。気になる相手にはついつい余計な言葉をかけ、「私はあなたを心配しています」という過剰なメッセージを送ってしまう。
岸田奈美さんとの対談の中で、ふと思いついて「プレゼントを貰って、値段が気になったり、いくらなのか調べたくなったとしたら、それは贈与ではない」と言ったのですが、けっこう正しい指摘だったなとふと思い出した。
『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』が本日発売となりました!Kindle版も。東浩紀さんからいただいた帯文に背中を押してもらえました。 利他とは自己犠牲ではなく、自己変容に至る道である。その理路を辿っていただけたら、と思います。 受け取ったから今度は与える、ケアとして。
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僕らに必要なのは自己啓発書ではなくて、 『苦渋の味わい方、辛酸の正しい嘗め方』 みたいな話じゃないだろうか。 しかも、それを暗いトーンでもなく、無駄にポップでもなく、ただまっすぐに書かれた本。 光の目指し方enlightenmentではなく、影との付き合い方。
いわゆる意識高い系が揶揄されるのは、彼らが饒舌だからだろう。意識が高いことそれ自体は、いいことに決まってる。しかし、その「目」に「手」を近づけることが必要となる。目は手を先行する。その二つの間の距離が開いてしまったと悟ったとき、僕らは沈黙する。語れなくなる時が正しく訪れる。
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大切なものは目に見えない、というのは、その大切なものが何かと何かの「関係性」だからだ。AとBは目に見えたとしても「AとBの関係性」は目に見えない。それはちょうど、星は見えるが星座は見えないのと同じだ。夜空には星と星を結ぶ線は存在しない。星を結ぼうとする意志がなければ星座は存在しない。
これは本当にそう思う。オードリー・タンが引用する詩がとてもよい。 「There is a crack in everything, that’s how the lights get in.」 あまりにも美しい、この世界の真実。
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山口周
@shu_yamaguchi
今の日本に必要なのはAI人材でもグローバル人材でもなく、詩人だと思います。役に立つ人より意味を作れる人。 x.com/shu_yamaguchi/…
拙著『世界は贈与でできている』が5万部(10刷)になりました。 なので帯がちょっとだけ変わりました。 出版からちょうど5年経ち、多くの方々に手に取ってもらえてうれしいです。これからもよろしくお願いします。
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親の呪いは祓うのではなく、「供養」しなければならないものだと、友人と話しているときに思った。その供養とは親を「毒親」と形容することではない。供養は、親を「正しく恨む」ことから始まる。それは親と、そして自分と向き合わなければ始まらない。
良い文章というのは、無防備な文章のことだと思う。それは、書いた人が、まさに書くという行為によって無防備になってしまうような文章です。それゆえ、うまく書こうとすればするほど、無防備からは遠ざかります。きっとそこには、不用意な言葉たちが並ぶはずです。無防備と不用意は違います。
逆説的だが、言葉が「しっくりこない」とき、僕らは心を取り戻す。言葉がしっくりこないとき、その言葉では捉えられていないと感じる「何か」が私の中にあることを知る。それがおそらく心なのだ。言葉と乖離するものが心なのだ。
そうね、たしかに、価値判断抜きで話を最後まで聴いてくれる人ってあんまりいないかもね。ひとが「自分の物語」を語り出そうとしているときに、その邪魔をしてはならない。いまその人は、セルフケアを為そうとしているのだから。
人に何かを告白するとき、勇気が要る、という。しかし、告白するときには本来は勇気など必要ない。勇気がいると感じるのは、それはまだ告白する時ではないのだ。準備ができれば、そして、それを告げるべき相手だと悟ることができれば、言葉はおのずから形になる。
呪いを解くには「トリガー」が要ります。そのトリガーは、私の外から到来します。つまり、トリガーとの邂逅がなければ呪いは解かれません。その意味では、呪いに対して「セルフケア」はできません。自身にかけられた呪いは、「誰かと一緒に」解いてもらう必要があります。
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岸田奈美|Nami Kishida
@namikishida
近内悠太さんとリモート雑談してメチャ楽しかった ・僕らは「親よりも大切な人」を見つけ、愛するために生きている。 ・それは親への裏切りではなく、むしろ、親への感謝ともいえる。 ・言葉は祝いにも呪いにもなるので、自分で呪いを解除する方法をできるだけ多く知っておいた方がいい。
『世界は贈与でできている』が期間限定ですが、全文公開されます。 また同じNewspicksパブリッシングから刊行された佐々木康裕さんの『D2C』、今日発売の石川善樹さんの『フルライフ』も公開されます。
重版となりました。 この本が、「贈与」という概念を知る最初の1冊になったとしたら、うれしいです。あるいは、読んでくれた人が「贈与」と出会い直す、そんな本になれたら、と思います。 新オビになりました。 推薦文をくださった茂木健一郎さん、糸井重里さん、山口周さん、ありがとうございます。
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教養というものが、専門性と対置されるものだとするならば、教養とは「できるだけ余計なことを考える」ためのもの、といえる。ある主張や立場を取ろうとしたとき、教養が僕らにためらいを与えてくれる。ある立場からはこう見える、しかしあの立場からするとそれは異なって見える。ためらいが生まれる。
決断の半分は断念でできている。何かを決断するということは、その決断した内容以外の「可能性」を手放し、諦めることを含む。だから、決断には勇気が要る。そして、可能性は決断した後に「最初からそこにあった」ことになる。決断によって世界の可能性が露出する。したがって、決断とは事件である。
自己肯定感と自己評価は、別の軸のような気がする。そして分析すると面白そうなのが、「自己肯定感は高いけど自己評価は低い人」と「自己肯定感は低いけど自己評価は高い人」です。前者はおそらく努力を続けられる人(努力を止めることがそもそもできない人)で、後者はルサンチマンの足音がする。
傾聴やエンパシーやケアといったものを強引に一言でまとめれば、「その人が大切にしているものを大切にする」という態度だと思います。なぜなら人は、自分が大切にしてきたものが何らかの原因により失われたり、傷つけられたときにケアを必要とするからです。
「いいかい?なぜ僕らが言語で世界を切り出すのかって言うと、沈黙するためなんだ。きちんと沈黙するためにはまずは語らなきゃいけないんだ。うまく語ることができたとき、君は正しく沈黙することができる。だから、語り得ぬものに触れるために語るんだよ。」
群馬県の公立高校入試に『世界は贈与でできている』の文章が出題されました。高校生や中学生にも読んでもらえるように、と思いを馳せながら書いた本だったのでとても光栄です。
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成長の様々な「可能性を殺ぐ」という意味では、やはり「呪い」と呼べると思います。子どもの可動域を制限するということなので。自身の呪いに気づく。僕らは「殺された(死んだ)可能性」、「あのとき、確かに生きていた可能性」に気づいたとき、後悔します。
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岸田奈美|Nami Kishida
@namikishida
@YutaChikauchi 母と話してて「子どものために、厳しく育てようとした時もあるけど、後になってから、その子らしさを抑圧してたと気づいて後悔した」って話を聞いて、後からもらってたことに気づく「贈与」の真逆で、奪ってたことに気づくこともあるんだと驚いたんですが、これに名前ってありますか?
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社会はあなたを「聞き分けのいい子」にしようとあの手この手を尽くしてくる。子どもの頃は教育システムが、大人になったらビジネスが、あなたをいい子にしようと躍起になって襲いかかる。甘く美しい言葉を囁きながら。
他者に「頼る」のはもちろんとして、他者に「甘える」ことを肯定する主義主張を立ち上げてみたい。だって、人間は根源的にいじらしいのだから。いじらしさを認めなかったり、いじらしさを愛せないことから多くの問題が発生している。
利他は相手を変えようとすることではない。相手を変えようとすることはケアではないからだ。ケアの要諦は「あなたは間違っていない」というメッセージを送ることにある。老いたことも、病と共にあることも、内なる矛盾を抱えていることも、それ自体は何ら間違っていない、と示すこと。
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これがなぜ呪いなのかというと、「私はあなたを心配しています」には、「あなたの現在の行動は間違っている(と私は判断しています)」というメッセージが含意されるからです。意図的に祝福することはできないが、意図的に呪いをかけないことはできる。
何かをもらったり、何かをしてもらったり、助けられてしまったり。 でも、お礼を言うと嘘っぽくなる。何かが台無しになる。大切な相手であれば、なおさらお礼がうまく言えなくなる。 だから、そのとき、僕らは一生懸命生きようと思う。せめて、そのもらったものに見合う人間になるために、と。
サードプレイスというのは「どこにも行き場所が無くなってしまったとき、ふと立ち寄れる場所」のことを言うのだろう。だから、必ずしもサードプレイスはキラキラした場所である必要はない。そうではなく、雨宿りのできる場所、一時的だとしても私を守ってくれる場所のことだと思う。
反省はするけど、後悔はしない。そんな生き方ができたとすれば、それは過去に執着するのではなく、ちゃんと過去を受け止めながら、今とこれからを生きようとしている姿ではないだろうか。
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自分の影を「ダークサイド」と呼んでもいいけど、それは別に悪を意味しない。それが悪かどうか決めるのは社会であって、いわゆる克己というのは、自分の中にある「社会」を倒すことをいう。本当の外にある社会を倒すのではなく、内面化してしまった社会を倒す。もちろんそれは大変なんですけどね。
「考える」と「悩む」は異なる。考えるというのは考えた結果、当初立っていた場所とは違う場所へ至ることをいう。考えることができれば、さっきまでとは違う風景の場所に出る。なぜなら、あなたは「理路」を通り抜けたから。それに対し、「悩む」とは固結びのひもをさらに強く引っ張ることに似ている。
利他の個別的なエピソードが広く拡散されると美談になってしまう。そして、その行為が規範性を獲得する。つまり「べき」という性質を帯び始める。この現象の何がよろしくないかというと、従わない人への非難が正当化されてしまう点である。あるいは従わない人自身が後ろめたさや罪悪感を持ってしまう。
僕らの中にある「他人から馬鹿にされたくない」という欲望を侮ってはならない。自分の中では「これは大義(人の役に立ちたい、美しいものを生み出したいなど)があるんだ」と思っていても、突き詰めて考えてみたら、ただ人から馬鹿にされるのを恐れているだけだった、ということもあり得る。
贈与や利他は、「私」を映す鏡となる。利他と見せかけた利己的振る舞い、贈与と見せかけた交換(「あなたのためなのよ?」という言葉を携えて)は呪いとなってしまう。 だからこそ、自分の中に利他の自意識が生じてしまったときは、戦略的に可愛げ、ユーモア、爽やかさをまとわせる必要があります。
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プロ奢ラレヤー🍣
@taichinakaj
「精神がダメになっている人を救いたい」と思ったときは、その人自身の精神がダメになっている可能性がとても高い。健康な人は、しらないうちに他人を救っている事はあっても、「救いたい」とはならない。他人を救おうとするのは、自分が救われていないからで、自分を救えていない人に他人は救えない。
頭がいいと(というか、勉強すると)なんで良いかって言うとさ、楽しく生きていくための金がかからないからなんだな。 天文学の知識があれば、夜空観てるだけで楽しいし、歴史とか地理の知識があれば、家の近所を歩き回るだけで楽しい(例:ブラタモリ)。
「自分の中にぽっかりと空いた穴を、自分で埋めることはできない。この穴は、他者だけが埋めることができる。」 「他者の穴を埋める行為、すなわち他者貢献は、取引ではなく贈与でなければならない。」 その通りだとぼくも思います。 note.com/fta7/n/nd60e8a
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F太🐈‍⬛
@fta7
・「取引」と「贈与」の違い。贈与のふりをした取引がいちばん怖い。 ・贈与は軽やかになされるべきであり、苦しいなら贈与ではない。 ・自分一人で背負わない。自分を一人に背負わせない。 という話を書きました。 note.com/fta7/n/nd60e8a
おかげさまで、4刷になりました。 手に取ってくださったみなさま、広めてくださったみなさま、ありがとうございます。
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