『人はなぜ結婚するのか』(中公新書)内容紹介
拙著『人はなぜ結婚するのか』(中公新書)が発売されました。中公新書では、『仕事と家族』について二冊目です。
執筆中に考えていたタイトルは『結婚とは何か』でした。出版社のほうでの討議の結果、『人はなぜ結婚するのか』になりましたが、同じような意味だと理解していただければと思います。
さて、なぜ人(人類)は結婚するのか。そもそも結婚とは何か。
詳しくは本を手に取っていただきたいところですが、部分的に本書の内容をまとめておきます。
■結婚とは何か?
結婚の意味や意義は時代や社会に応じて多様ですが、ある程度は共通する要素があります。それは、人類社会において、例外もありますが、たいていの結婚は「非親族の同輩との、性愛を含む共同生活」の典型例であったことです。
ここには四つの要素があります。「非親族(極端に近くない)」「同輩(だいたい同じ世代)」「性愛関係(あるいは性関係)」「共同性」です。
「同輩関係」というのは、たいていは結婚は同世代どうしのものであって、親子ほど歳の離れた結婚は、あるにはありますが、年齢は結婚においてランダムマッチングにはなりません。
「非親族」との関係であるというのは、要するに近親婚の禁止です。どの社会でも(程度の差はあれ)最低限の禁止規定があります。日本は比較的緩い方で、いとことの結婚は合法です。昭和までは、いとこ婚は全く珍しいものではありませんでした。
結婚相手として非親族が想定されているということは、それが「性(愛)」を含むこととつながっています。かつては結婚と性(愛)のつながりは強いものでしたが、近代の結婚の法では「結婚が性愛を含む」という規定はありません。というのは、当事者が性愛関係にあるかどうかを行政に証明することは実質的に不可能であるからで、その意味では現代の結婚制度は非性愛関係にも開かれています。したがって同性(異性)婚は、かならずしも同性愛(異性愛)婚ではありません。ただ、結果的にはほとんどの結婚が性愛≒恋愛関係を含んだものになっています。
「共同性」というのは、要するに関係が総合的であるということです。「一緒に暮らす」というのは、多かれ少なかれ、何らかのサービスに特化した関係ではなく包括的な関係を持つということです。時代や社会によっても違いますが、一部の例外を除き、結婚は「いろんな要素」を中に含み込むものでした。現代であれば、性愛を含む愛情、相互理解や承認、経済支援、世話や看病、レジャーの際の同行などです。こんな包括的な関係は他になかなかありません。会社と会社との関係、他の人間と人間との間の関係と比べても突出して共同性が強いのが結婚です。
現代社会では、結婚はそれなしでも生きていけるものですし、共同生活にしても、別に年齢、親族関係、性愛関係と関係なく営むことができますが、なぜか成人のほとんどの共同関係は、人生の特定の段階における親子関係を除けば、結婚あるいはそれに類する「非親族の同輩との性愛を含む」ものになっています(事実婚でも同性婚でもこのことは同じ)。これはなぜなのか、というのが本書のひとつ問いです。
日本では、親元を離れたあと、あるいは親と死別したあとも、単独で暮らす人が増えていますが、そうではなくて誰か他の人と「一緒に暮らす」場合、そのほとんどが「非親族の同輩との、少なくとも端緒において性愛を含む共同関係」であるというのは、ある意味で不思議と言えば不思議です。誰とでも(きょうだいでも友達とでも)共同生活を送ることは可能ですし、条件を満たせば結婚の登録をすることもできますが、そのような実践は(しばしば注目はされますが)あくまで例外的か、あるいは人生の一時期のものです。
先取り的にいえば、本書のとりあえずの答えは「それがコミットメントを伴う共同関係であるから」という、トートロジーに聞こえるものですが、詳しくは本を読んでいただければ...。
■結婚はどう変わってきたか
本書では、おおまかに時代を三区分しています。この区分それぞれで結婚の意味が違います。
ひとつは、結婚が「業務」あるいは「仕事」である、あるいはその要素が強い時代・社会です。この意味の結婚は、典型的には前近代社会で見られるものです。この業務の内容は、さまざまです。なにしろ家族(的集団)が現在でいう会社のような存在であり、その業務が様々だったからです。ここでは社長=家長、その他の成員は従業員でした。結婚は成員の拡充(女性に来てもらう、子どもを産んでもらう)の手段であり、また後継者の確定のために必要な制度でした。というのは、たいていは自明な母子関係と違って、そのような確証が持てない父子関係については、人類社会の多くでは結婚を通じて推定・確定するという制度を設けてきたからです。
この場合、家族や結婚は業務の一環としての色合いが強いため、情熱的な恋愛や相互理解はどちらかといえば家族の外に求められていました。「家族は遊びじゃないんだ、楽しいことをしたいのなら外でやれ」というわけです。情熱的な恋愛も「やりたいなら家族の外でやれ」という空気がありました。同じ理屈で、同性愛は社会の中で一定の居場所がありましたが、家族あるいは結婚に組み込まれる道筋は小さかったといえます。
この段階では、「なぜ結婚するのか」という問いは、「なぜ企業は人を雇うのか」のようなあまり意味のない問いになります。「なぜって、結婚がないとやっていけないだろ」ということです。
次に、近代の前半(前期近代)。近代化の最大の特徴は、業務の成分が家族から抜け出して会社組織に移し込まることです。こうなると家族はもはや「仕事場」ではなくなります。業務成分が家族から抜けた分、恋愛あるいは情緒関係の要素が一気に入り込んできます。ただ前期近代においては恋愛(ロマンティック・ラブ)、結婚、出産と親子関係はかたく結びついており、前近代とは逆に「結婚の外で、その後の出産につながらない恋愛をするな」という空気になりました。
この段階で同性愛は、家族の中にも外にも居場所を無くします。「性愛関係は結婚の中でのみ(よそでやるな)、しかも親子関係もセットで」となるからです。性別分業も含めて、この時代の結婚や性愛は画一的かつ抑圧的でした。自由恋愛婚が優勢になったのに、窮屈だったのです。
そして現代(後期近代)ですが、こんなかんじになります(あるいはなりつつある)。
私たちは、自分が関係性に求める要素(性愛でも経済的安定でも子どもでも、はたまたルックスでも会話の楽しさでも)を引きつれて、他者との共同生活を結婚あるいはそれに類するかたちで構築しようとします。性愛を重視する人たち(欧米には多い)もいれば、経済的要素を重視する人たち(東アジアには多い)もいます。でも、わりと重点は人によってばらばらですし、結婚年数の経過に従って結婚において大事なことが変化することもあります。
要するに、前近代や前期近代のように、中身が最初から決まった「結婚」というパッケージがあってそこに入っていくわけではなくて、中身がちゃんと決まっていない箱に、おのおのが「そこに求めるもの」を想定して入っていく、ということです。合意と交渉が上手くいけば、他のカップルが重視している要素が自分たちの箱には全く入ってなくても、共同生活を送ることができます。なのでよその夫婦のことは、外から見てもちゃんと理解できないわけです。
中身のない箱といっても、この箱のなかに居続けることには条件があります。それは、性愛関係を維持していることでもないし、家計を共有することでもありません。前向きな共同性、相互扶助の体制を維持していることです。性愛関係や経済的援助がこの共同性にとって重要であれば、それは必要な条件になりますが、これはケースバイケースです。
この前向きな相互扶助の体制を政府も求めます(そのように民法に規定する)。相互扶助があると、政府は(公的に支援することが減るので)この関係を優遇します。もし「一緒に暮らす」という共同性の実態がないのに登録制度(公的な箱)だけを利用していることが発覚すれば、行政や司法はそれなりの処置をとることがあります。
事実婚でも、共同生活の実態があれば、現代の政府はわりと結婚と類似した扱いをします(日本でも社会保険や離婚法制はある程度そうです)。共同生活の実態は、性愛関係の有無よりもまだ行政が確認しやすいものです。
この「前向きな共同性」の実態がない場合、司法は無責離婚の法理に基づいて結婚の解消を許可するようになりました。無責離婚の導入で、前期近代のように、前向きな協力体制がないのに外形的に結婚が維持されてしまうこと(いわゆる家庭内離婚)は減ってきました。
■なぜ結婚「制度」があるのか
結婚制度というのは、現代では要するに公的登録とそれに基づいた措置(義務とベネフィット)を指します。
共同生活を自由に構築してよいのなら、人々がわざわざ公的な登録する必要もないし、また政府も共同性の実態にあわせて税制優遇をすればよいわけで、この場合登録制度の必要性は小さくなります。実際、欧米では法律婚制度の利用は減っています。
ただ、登録制度(PACSのようなシビルユニオンでも法律婚でも)の意味はまだ残っています。最も大きな理由は、政府にとって、共同生活の実態は(性愛関係の有無よりは証明しやすいものの)やっぱりよく知り得ないからです。あるカップルがどれだけ実質的に相互扶助体制にあるのか(それによって潜在的にどれくらい政府の負担を減らしているのか)を個々に調べることは、コスト的に無理です。
したがって政府は、「よくわかんないけど、登録してくれれば共同生活の実態があるものとして《ひとまずは》認めますよ」という方針をとります。「ひとまずは」というのは、登録は比較的自由ですが、偽装結婚などが判明すれば罰則(日本の場合、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金)があるよ、ということです。
また、共同生活はコミットメント(上手くいくかどうかわからないリスクがあるのに特定の関係に資源を費やすこと)を伴います。共同関係の構築は個々人にとっても利得が大きくなる可能性があるものですが、衝突も障害も多いものです。ですから、人々はちょっとしたトラブルで別れてしまわないように、自らの行動を縛るという意味で登録制度、あるいは儀式(お金をかけること、お披露目すること)を利用することもできます。
■現代の結婚は自由だが「面倒」
現代の結婚は、中身がスカスカの箱のようなものです。しかしいったんそのなかに入ることを決めた当事者は、そこで包括的な共同性と相互扶助の関係を作り上げようとします。入れ物が制度としてはスカスカであるがゆえに、中身はバラエティーに富んだもりだくさんな内容になり得るのです。
こうなると、当事者が主体的に考え、動き、実践し、交渉する余地が大きくなります。共同関係に何を希望するか、どう相手とすりあわせるか、別れたら別れたでその後どう生活(親子関係を含めて)を再構築するか。
なにしろ箱の中身は当事者によってバラバラですから、決まり切ったガイドラインも少ないし、行政や司法のサポートも部分的なものになりがちです。離婚調停をやる家庭裁判所の人も、個々の関係の詳細を踏まえて判断・助言するというおそろしく面倒な作業を強いられます。
この面倒さを、当事者ももちろん引き受けることを求められるわけです。結婚は人々の人生に外からあてがわれる枠組みではなくなり、当事者が苦労して営むプロセスになります。関係に持ち込む要素(価値)はさまざまであるので、問題解決も一律の対応ではできなくなります。
■結婚と性愛の結びつきは、前時代のレガシーか?
無論、他の制度と同様に、結婚にも前時代のレガシー(遺産)がまとわりついています。たとえば、性愛関係にあることの証明は結婚の際には求められませんが、人々の考え方あるいは「当たり前の基準」が根強く残っていますので、結婚はおのずと性愛関係を想定したものになります。つまり、結婚という箱には、「性愛関係にある者限定」という注意書きが貼られたままです。ただ、この注意書きは公式の取説ではありません。
これは私の予測(推測)でもありますが、結婚の制度的要素としての「非親族」(相手として近親は除く)が外れることはおそらく近い将来にはないだろうし、この予測には一定の根拠もあると考えています。この予測については、本書を手に取っていただければ。
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