地に落ちて死なずば   作:本条謙太郞

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現実と妄想の境界線

 女は自身の死に臨み、恐れを抱かなかった。

 息子ロベル3世の王権委譲によるサンテネリ共和国成立を期に、彼女はその生の大半を過ごした光の宮殿(パール・ルミエ)を退き、実家フロイスブル屋敷に戻った。

 娘時代を過ごしたこぢんまりとした邸宅は、女の生を一つの円環の元に帰した。彼女はここで生まれ、ここで死ぬ。

 

 女の産み落とした息子はサンテネリ王として即位し、娘はアングラン王正妃となった。息子が父親——彼女の夫——から引き継いだ思想は、玉座なきサンテネリ共和国に継承された。そして娘が産んだ子はアングラン王として即位した。

 つまるところ彼女はサンテネリの国母であり、アングラン国王の祖母である。

 

 夫の死後、その遺言により与えられた年金は慎ましく、しかし体面を保って生きるに足る額を生涯保証していたため、彼女は他人の財力を頼る必要がなかった。そして新たな愛情もまた欲しなかった。20年に渡り連れ添った男との間に育んだ以上のものを彼女は見出し得ない。よって再婚はしなかった。

 

 女の生活は単調なものとなった。

「大改革」の最中は息子と共に一時デルロワズ領に避難したが、息子の政界復帰と同時にシュトロワへ戻り、常の住まいである宮殿に居を定めた。

 女は政治を好まなかった。

 しかし、息子や娘、弟、あるいは()()()とその娘たちを助けるための骨折りはやぶさかではない。彼女は時折夜会を開き、通常の方法では顔を合わせづらい関係性にある多くの人々を引き合わせ、和解せしめた。

 女の主催する夜会は自由な交流の場としてあった。

 彼女の夫を侮蔑すること以外は全てが自由な。

 

 第2共和制の成立とともに、彼女もまたその役割を終えつつあった。

 かつて艶やかに波打った見事な赤毛は沈み、かつて薄紅に輝いた頬もまた沈んだ。かつて気高く伸びた背は曲がり、かつて優美に進めた歩みは萎えた。

 そしていつしか寝台に伏せり、最後のときを迎えようとしていた。

 枕元には「サンテネリ第一の市民」にして「枢密院主催者」ロベル。アングラン王太后フローリア。孫たち。そして女がかつて()()()した人々。ただし、お友達であり競争相手であった女性達は、すでに皆この世を去っていた。

 

「母上、お加減は。今日は誠によい気候です。夏の盛りというのに過ごしやすい」

 

 夜も深まりつつある頃合い。傍らの息子が語りかける声を女は忘我の中で聞いた。否。音を聴きはしたが、それは息子のものではなかった。

 

「まぁ……グロワス様」

 

 喉の奥から発せられる乾いた女声。

 息子は母の手を握る。老年に差し掛かった男が、老女に。

 

「グロワスさま。御手が冷えて。でもいいのです。——ブラウネがおりますから。ブラウネがずっと……お世話を」

 

 女は笑みを浮かべた。

 そして死んだ。

 

 涙は極めて抑制的に流された。

 母の生が偉大なものであり素晴らしいものであったことを子ども達は理解していた。

 十分に。

 

 ブラウネ・エン・ルロワ。

 王妃(ロワイユ)ブラウネ。

「正教の守護者たる地上唯一の王国」国王グロワス13世妃。サンテネリ王太后の生は、真夏の夜のシュトロワにおいて、静かに終わった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 目を覚ましたとき、彼女がまず感じたのは息苦しさである。白を基調とした壁は身に迫るほどに感じられる。

 

 ——霊廟?

 

 自身が()()された部屋の余りの狭さに錯覚する。長い生涯において一度も見たことが無いほどに無機質な、無装飾な白い壁もまた、思い込みを助長した。

 

 寝台に仰向けに横たわる視界の正面には窓が見える。正確にはカーテンが。薄いレースの向こうにぼんやりと浮かぶ明かりは、それが陽光であろうことを予測せしめる。

 

 彼女は静かに上半身を起こし、身体をねじり、寝台から足を下ろす。立ち上がり、歩み出す。そして自身と外界を別つ布に手をかけ、ゆっくりと開いた。

 

 刹那。彼女の世界は反転した。彼女の意識において。

 実際には身体は膝から崩れ落ちていた。

 

 ——このようなことがありうるでしょうか。なんということ。

 

 叫び声を抑えるにはよほどの労力がいったらしい。彼女は半ば這うようにして寝台に戻った。

 

 ——三沢、青佳(はるか)? それは私? ブラウネ。ブラウネ。ブラウネ・エン・ルロワ? 三沢青佳?

 

 自身が何者であるか、彼女は理解した。可愛らしい黒い子犬の模様が入った掛け布団の上で。余りにも瑞々しく、余りにも輝かしい肌をその手で確かめるように撫でながら。

 

 彼女はブラウネ・エン・ルロワである。そして、三沢青佳であった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 体調不良を理由に会社を休んだ。携帯電話を見事に使って。

 状況は全て()()()()()。理解している。だが()()には時間を必要とした。

 

 彼女は同居する家族と顔を合わせることもなく、自室に籠もった。

 そして自身を取り巻く世界、所与の世界について整理を図る。

 

 ——私は地元の造園会社に勤めている。お仕事は、社長の秘書。ええ、分かります。商会の会頭を補佐するお仕事ですね。女の私が? ええ。でもそれは当たり前のこと。私は働いている! 女の私が!

 

 当たり前のことと心底思いながら、一方でいちいち驚きに目を回す。

 精神が二つに別たれる経験はおよそ人に耐えうるものではない。彼女はやがて力尽き、再びまどろみの中に戻っていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ——社長。

 青佳(はるか)がここ三年間そう呼びかけてきた男の姿は脳裏に鮮明に焼き付いている。元々営業職を志しながら総務部に配属。生来真面目な性格の彼女は自身の希望とそぐわぬ未来にあってさえその美点を曇らせはしなかった。正確に精密に、次から次へと湧いてくる小さなタスクを処理していく仕事内容は図らずも生まれ持った才能を開花させた。

 

 二年目には秘書課のメンバーに抜擢され、社長付となる。

 昭和の昔から続く古い体質の会社である。若く美しく、身元のしっかりした女性社員に求められるものも、組織形態の他の部分と同様多分に時代錯誤の色を残していた。

 理解はしながらも、彼女はそれを問題視しなかった。幼い頃から「真面目」であることは青佳の誇りである。目的の善し悪しよりも手順において正しくあることを望んだ。折り目正しく生きることを重視する家庭の価値観と生まれ持った気質が彼女をそう在るようにさせたのだ。

 

 この一人の日本人女性の目から見た”社長”の姿をブラウネは誠に興味深く、食い入るように追想した。

 男は適度にだらしない。机は整理されず、ごく稀に予定を忘れる。活力に溢れているようには見えないが、一方で、権力を希求する野心的な男性にありがちな粗暴もない。

 ブラウネはその長い生涯を通して多くの男性を見てきた。サンテネリという中央大陸随一の大国の核心部で働く男性達を観察してきた。才気走った者、見栄はりな者、享楽的な者。だが、国家を差配する地位を占める、あるいはこれから占めようとする者達は皆、一様に極めて()()()であった。最も大人しい自身の夫ですらも中年に至りその気を見せた。

 男といえば夫しか知らない彼女だが、見る目だけは誰よりも肥えていた。そうでなければ生き残ることすら危うい時代を生きたのだ。

 そんな彼女にとって「社長」の姿はともすると幼く映る。自身の骨を持たず、常にどこか腰が引けている。丁寧な物腰は不安から来るもの。臆病とすら感じられた。取るに足らぬ小娘——青佳に対してすら極微量の怯えがあった。

 

 にもかかわらず、ブラウネは目を離すことができない。理由は分からないがとにかく惹きつけられる。彼女は常ならぬ熱心さで、青佳という一人の日本人女性が撮り溜めた膨大な記憶のアルバムを一枚一枚捲っていく。取り憑かれたように。

 

 そして見つけた。

 

 職場の誰かが持参した差し入れのお菓子。

 自身が光の宮殿(パール・ルミエ)でよく作った”葉っぱ(フュー)”によく似た小麦色の菓子は、ここ日本では一個ずつ透明なプラスチック包装に包まれている。

 コーヒーを飲むためのお茶請け。

 

「ああ、申し訳ないな。私のために。ありがとう」

 

 青佳が持ってきたマグカップに口を付け一口すすり、机に戻す。そして包装を切り中身を半分押し出すと、遠慮がちに食いついた。

 

 痩せ型の男。黒髪を後ろに流して固めた髪型は、在りし日の夫を思い起こさせる。しかし顔立ちも瞳の色も、何もかもが違う。社長。

 

 だが、その後男が見せた振る舞いはブラウネの意識を明白に目覚めさせた。体内の奥深く暖かい塊を感じる。正確には暖かいなどという生やさしいものではなかった。それは腹の中から全て焼き尽くす、巨大な灼熱の鉄塊である。

 

「ああ、零してしまった……」

 

 机の上に散らばった菓子の欠片を不器用な手つきで拾い集めていく。

 

「このお菓子はとても美味しいんだけど、少し食べづらいね。私は不器用だから」

 

 ——零してしまった?

 

 そう珍しいことでもない。

 だがブラウネにとって、その日常の些細な一幕こそが生涯をかけるに値する()()の存在を表す天啓となった。

 

 ——グロワスさま

 

 愚かしいにもほどがある空想。

 ”正教の守護者たる地上唯一の王国”を統べる至尊の存在が、この珍妙な世界の、一地方の、それも数ある名も知れぬ商会の会頭と同一の存在であろうはずがない。

 ありえないこと。

 

 しかし、ブラウネにとって事は明白である。

 彼女には自負がある。グロワスという一人の男を誰よりも間近に、誰よりも深く、誰よりも熱心に見てきた自信がある。彼の周囲に集った3()()()()()()にさえ、決して劣ることはない。

 よって取り違えるなどありえない。

 最愛の夫を。

 

 ——これほどに不可思議なことがあるでしょうか。でも、それを言うならばわたしの存在自体が不可思議の極みなのです。

 

 実家の中庭を望む一室で、子ども達に見守られて息を引き取ったはずの自分が、この世界に生きている。三沢青佳という一人の女性として。それは彼女の中において明白な事実である。

 ならば。

 

 ——どのような仕組みかは分かりませんが、明らかに、わたしはこの世界にいるのです。ならばグロワス様がいらっしゃらないはずがありません。それは()()()()()

 

 グレーのスウェットに身を包み、小さなベッドの中央に身体を丸めながら女は歓喜の極みにあった。

 夫と死に別れて以来決して再度は得られなかったもの。諦念と静謐の中に揺蕩う生を重ねた女の心は、今まさに何かを取り戻そうとしていた。

 

 それは若さである。

 そして、若さの上にしか打ちたてることの叶わぬ壮麗な建造物。

 

 恋という。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 清廉な女の瞳に蕩けるような炎がくすぶり出す。小さな紅色の舌先が乾いた唇を軽く舐めた。

 

 ——これまでご不便でございましたね、グロワス様。でも今後はお任せ下さいませ。青佳(ブラウネ)が”お世話”いたしますので。

 

 女は三沢青佳という名の一人の女であった。器用に”作業”を熟しながら、目的を得るには不器用な25歳の女。そして彼女はブラウネ・エン・ルロワであった。器用に”作業”を熟し、確実に目的の()()を手に入れる女。

 

 王妃として、王母として半世紀近くに渡りサンテネリ王国の宮廷を生きた彼女は今、その意識に刻まれた膨大な経験を手にしながら、一人の乙女として立ち現れる。

 開花を間近に控えた若い女として。身体も、心も。

 

「さて。私はこれからどうしましょうか。——社長(グロワス様)に見初めていただくために」

 

 瞼を閉じて脳裏に流れる男の姿を転がしながら、女は小さく呟いた。サンテネリの美しい旋律の如き言葉とは似ても似つかぬ、不可思議な言葉で。

 

 

 

 

 

 

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