(内容が充実しているので、2回に分けて紹介します。第1回はこちら)
評価 ★★★★
第五章では、第二次大戦以前にユダヤ系知識人がアメリカ社会に参入する様子が紹介されている。
F・D・ルーズヴェルト大統領が政権をになった1930年代に、そのニューディール政策のブレーンとして学者・知識人が何人も加わったが、その中にユダヤ系の人間も含まれていたのである。フェリックス・フランクファーター、ヘンリー・モーゲンソウ、サム・ローゼンマン、ベン・コーエンなど。
ただ、この時期のアメリカはまだまだユダヤ系に対する(カトリックに対しても)偏見が強かった。自動車王フォードが反ユダヤ主義の運動に熱を上げていたのは1920年代のことである。まだまだWASP中心だったアメリカに、非WASPが受け入れられた条件は何だったのか。
アメリカが経済的に大きく発展して富が蓄積され、また他方では大衆文化社会が出現したことがその背景にあると著者は述べる。こうした社会は知識人による言論の主導を必要とし、また余った富によって大学が増設されて従来より多くの大学生が生み出されると、大学の教員も新たに多数必要となる。新たな大学教員は、在野の知識人からも雇用される。
こうした中で、ユダヤ系のNY知識人も大学教員として迎え入れられる。ライオネル・トリリングがWASPの牙城だったコロンビア大学英文学科で史上初めてのユダヤ人終身教授となったのは1948年のことだった。しかしそこに至るまでの道のりは平坦ではなかった。トリリングは1932年にいちどコロンビア大学英文科の専任講師となるが、このこと自体が異例の人事で、彼の妻によると名前がユダヤ人らしくなかったからではないか、という。しかしそれも束の間、1936年には「ユダヤ人、マルクス主義者、フロイト主義者だから」という理由で、講師契約の更新はしないと告げられてしまう。この危機を彼は何とか乗り切るのだが、当時のアメリカの名門大学がいかに偏見だらけで閉鎖的だったかが分かるエピソードだ。
しかしナチ時代になるとヨーロッパから亡命知識人が少なからずアメリカにやってくる。ハンナ・アーレントやエーリヒ・フロム、ルネ・ヴェレクやエルヴィン・パノフスキー、ローマン・ヤコブソンやエーリヒ・アウエルバッハなどは有名な例だが、こうした知識人をアメリカの大学は迎え入れて、脱地方化が進んでいく。NY知識人の大学への参入も、これと連動する形で行われたのだという。ユダヤ人が少なくない亡命知識人をアメリカの大学がいったん受け入れると、数世代前からアメリカに住んでいたユダヤ人を拒む理由もなくなってしまう。
こうして、特に米英文学の分野でユダヤ系NY知識人が大学教員として雇用されていく。彼らの社会的歴史的、或いは精神分析的な視野が、アカデミズムにも受け入れられていく。
社会科学の分野でも、『孤独な群衆』のリースマンや『イデオロギーの終焉』のダニエル・ベルなどが注目を浴びる。
さらに美術史の分野では、マイア・シャロピ、ハロルド・ローゼンバーグ、そしてクレメント・グリーンバーグが、アメリカ現代美術の評価と位置づけに貢献する。批評や評価だけでなく、シャガールやモンドリアン、ミロやカンディンスキーなどの画家も、ナチによるパリ占拠のためにアメリカに拠点を移さざるを得ず、画家の世界的中心地がパリからニューヨークに事実上移ることにもなった。また美術には目利きでお金持ちの収集家が欠かせないが、そうした収集家は多くがユダヤ系であった。
またNY知識人の文芸批評により、ユダヤ系作家が広く認められていく。ソール・ベロウはその代表的な例である。
この章では次に、1952年に『パーティザン・レヴュー』で行われたシンポジウムが取り上げられている。第一に知識人の政治的姿勢、第二に大衆文化に知識人がいかなる態度をとるべきか、が問題とされた。
政治的姿勢に関しては、反共産(党)主義と反スターリニズムはほぼ一致しているが、アメリカの体制派と合致しても反共を強調する立場と、アメリカの体制に組み込まれることへの「ノー」を重んじる立場とに分かれている。後者は赤狩りのような行き過ぎた反共主義への批判も行っている。「非順応主義」は原語ではノン・コンフォーミズムだが、これは「反体制主義」とも訳されるけれど、反対のための反対ではなく、民主主義のためにはアメリカに何が必要かを考えつつ、共産主義者にも体制的な政治家やマスコミにも距離を置く、という態度を彼らは選択する。
大衆文化への態度においてもノン・コンフォーミズムという単語が使われている。かつてはユダヤ系という「疎外」状況が存在し、しかしだからこそ彼らは距離を保ちつつ文化について批評を行うことができたのだが、マスコミと大衆文化はそうしたスタンスを危機に陥れる。大衆文化は一面では民主主義の実現であるが、他方で高度な知的能力を持つ人間に限定されていた文化を通俗化し、場合によっては赤狩りのような集団ヒステリーと連動してしまう。
少数者としての知識人と大衆文化という難題は、この後もNY知識人につきまとうことになる。
第六章では、NY知識人の分裂と激動の60年代が振り返られている。
前章の後半で指摘されていたように、NY知識人の戦後の政治姿勢は、ソ連にもアメリカにもノーを言う立場(反対者dissenter)と、アメリカの反共政策に肯定的な立場(肯定者affirmer)とに分かれていた。
この分離がはっきりしたのは、「肯定者」たちによって1950年にシドニー・フックを中心として「文化的自由を守るアメリカ委員会the American Committee for Cultural Freedom」が生まれたことである。これは1939年に『パーティザン・レヴュー』を中心に結成された反ファシズム組織「文化的自由と社会主義を守る同盟the League for Cultural Freedom and Socialism」から派生したものであるが、実際には1949年に共産党系の「ウォルドーフ会議」(第四章で触れられていた「世界平和のための文化人科学者会議」のこと)が開催されたことに対抗して作られたのであった。またこの委員会は欧米の反共・反ソ知識人の国際組織「文化的自由会議 the Congress for Cultural Freedom」のアメリカ支部でもあった。
肯定者により作られたこの組織に、「反対者」は招かれることがなかった。
とはいえ、この委員会が単なるNY知識人の枠を超えて欧米の知識人が結集したものであった事実は否定できない。スターリニズムの危険性を直視せず、ウォルドーフ会議のような共産党シンパが「平和主義」をいわば独占しているような戦後の状況に危機感を募らせた、ソ連の内実を知る人間の集まりだったからだ。
また、アメリカ知識人の中で『パーティザン・レヴュー』に集ったNY知識人こそが最初にスターリニズムの内実を見抜いていたという事実、そしてそれがヨーロッパ知識人から評価されていたことの現れでもあった。
この流れに連動したヨーロッパ知識人には、アーサー・ケストラー、ジョージ・オーウェル、スティーヴン・スペンダー、レイモン・アロン、アンドレ・マルロー、イグナチオ・シローネ(イタリア詩人)などがいた。オーウェルやケストラーは『パーティザン・レヴュー』とも従来からつながりがあった。
そして1950年に西ベルリンで最初に開かれた「文化的自由会議」には、ジュール・ロマンやアルフレート・ウェーバー(マックス・ウェーバーの弟)、ハーバート・リード、アメリカの歴史家シュレジンガーなども参加した。この会議の模様は『パーティザン・レヴュー』誌上でも報告されている。基調演説を行ったケストラーは、「専制の共産主義か、相対的自由の民主主義か、二者択一だ」と語り、またフックはフランスのサルトルとメルロー=ポンティが(共産党とのつながり故に)会議への出席を断った事実を伝えている。
著者はここで、この会議に集った面々は今日でいう「リベラル派」だと言えるとしている。しかし、エドワード・シルズによると、戦後5年ほどはリベラル派の意味はこれとは異なっており、先に挙げたウォルドーフ会議に参加するような共産党シンパの人間が自分を「リベラル派」と称していたという。彼らは自分たちと反対側にいる人間を「マッカーシー主義者」と呼んでいたという。そして共産党が推進する平和運動の妨害者だと非難する。
ここで当ブログ制作者のコメントを入れるなら、共産党シンパ学者が自分を平和主義者と規定する現象は日本では1980年代初頭になっても見られた。それも老いた世代ではなく、大学院生クラスの若い世代に、である。日本の大学の内実が見て取れよう。また、極左が自分をリベラルと称するケースは現在のアメリカの大学でも珍しくない。リベラルとは本来自由主義のことであるが、実際は自由を嫌う教条主義者、つまり極左に使われがちであることには注意したい。
話を戻すと、とにかくNY知識人は「肯定者」と「反対者」に分かれた。
前者はヨーロッパ知識人との連合で雑誌『エンカウンター』を出したが、それとは別にアメリカ国内向けに雑誌『コメンタリー』を拠点とした。この雑誌は1945年創刊でもともとはユダヤ色が強かったが、それを超えた全米的な性格を強めていく。
逆に「反対者」は、1954年に雑誌『ディセント』を創刊する。
また、この時期には政治評論から離れ、文化批評に重きをおく人間も出てきて、そういう人間はミドルブラウな雑誌『ニューヨーカー』に移っていった。また『パーティザン・レヴュー』も美術や文化に関する記事が増えていく。
その分、「反対者」の『ディセント』は逆に政治的左翼主義の牙城となっていく。とはいえ、50年代末にはマルクス主義を捨て、社会民主主義的な方向性をとるようになる。そして60年代に大学紛争が激化すると、旧左翼と若い新左翼の架け橋の役割を担うことになるのである。
『コメンタリー』誌と『ディセント』誌はお互いを批判し合い、激しい論戦を繰り広げた。
しかしながら、彼らの位置は、かつて大学ではなく雑誌に依拠して独立した知識人としてその主張を展開していた時代とは、(「反対者」であっても)明らかに異なってきていた。戦後アメリカで文化の大衆化が急速に進み、また大学進学率の向上によって彼らも大学教員として仕事をするようになると、アメリカの体制を完全に否定することは難しくなる。
1960年に発表されたダニエル・ベルの『イデオロギーの終焉』が、知識人の置かれたそうした位置を端的に表現しているという。ベルはのちに新保守主義に分類される、『コメンタリー』誌に所属する人間だが、『ディセント』誌にも寄稿しており、中間派的な場所に身をおこうとしていた。『イデオロギーの終焉』は、旧来の左翼知識人の政治参画から脱し、学者として客観的な立場から政治に貢献する道を示したという点で、NY知識人の未来のありようを提示していたのである。
コーザーも、「反対者」であっても変革をめざした行動ではなく、覚醒している進歩的知識人であることが大事なのだと、1956年の時点で発言している。
他方で、50年代には文化的にはビート・ジェネレーションが登場する。麻薬、ジャズ、アルコール、セックスなどに耽溺する若者たちを描いたケルアックの『路上』(1957年)がセンセーションを巻き起こしたのである。ケルアックはコロンビア大学時代、前述したトリリングの教え子であった。しかも親子ほども年代が離れていた。大学教授として体制化したNY知識人と、その「父」に反抗する息子世代。
ビート世代を当惑しながら批判するNY知識人の中にあって、明瞭に新世代に対する攻撃をしかけたのが、ケルアックより数歳若いノーマン・ポドレツであった。彼はNY知識人の知的伝統を守ろうとするかのように、ケルアックの作品を非理性的で神秘主義的で、知性への敵意そのものだと酷評したのである。もっとも旧世代でもノーマン・メイラーはケルアックを評価していた。
こうした新しい文学は、美術のニューヨーク・スクールとも共通する面をもっていた。いずれも伝統に対する反逆児としての自己主張を基盤にしていたからである。もっとも十年ほどたって1960年代になると、逆に認められたことで反逆精神は後退し、世代的な一体感も失われていく。
そして1960年代に入ると、今度はニューレフトの学生運動が激化してゆく。左翼運動の再活性化である。
その契機となったのは、左翼学生の組織「民主社会を求める学生同盟Students for a Democratic Society: SDS」が1960年に発足したことで、これは社会民主主義の左翼組織「産業民主化同盟 League fo Industrial Democracy: LID」を上部組織として生まれた。
もっとも、LIDのほうはすでに活動が形骸化していた。学生団体のSDSはそれを尻目に活動を活発化させ、1962年6月、デトロイト近郊のポート・ヒューロンで全米自動車労働組合の集会が開かれると、「ポート・ヒューロン声明」を発表した。その草案はのちに学生運動のリーダーとして名を馳せるトム・ヘイドンの手になり、またNY知識人の第三世代マイケル・ハリントンが助言を行っていた。ハリントンは『ディセント』誌の編集にもたずさわっていた「反対者」の一人である。
しかしハリントンはNY知識人として反ソの戦は譲れないとしたのに対し、若い世代の学生には反ソの傾向はあまりなく、むしろ先行世代が反ソを押しつけてくることへの反感があり、またキューバのカストロに素朴な共感を抱いていた。
とはいえ、先行する世代のNY知識人にもニューレフトに期待する向きはそれなりに存在していた。また若い世代にしてもNY知識人がそれまで積み上げてきた知的な認識に接してきていたのである。
そうした矛盾を抱えた両世代の曖昧な関係は、やがて大学紛争が勃発するに及んで「どちらにつくか」の問題を突きつけられることになる。1964年にカルフォルニア大学バークレイ校で、そして1968年にはコロンビア大学で紛争が起こる。(コロンビア大学のそれは、映画『いちご白書』でも有名になった――当ブログ制作者のコメント。)
コロンビア大学には、ダニエル・ベル、R・ホフスタッター、トリリング、F・W・デュピーなどのNY知識人が教授として勤務していた。
事態に対処するために教授たちは臨時委員会を設けたが、やがてこの委員会内部に意見の分裂が生じる。警官隊を導入するかどうかが論点だった。ダニエル・ベルをはじめとする多数派は導入に慎重で、あくまで学生との話し合いで解決が可能だと主張していた。しかしこうした煮え切らない態度に、学内のホフスタッター、夫を案じていたトリリング夫人、教員ではないがこの紛争に興味を示していたシドニー・フックは批判的であった。フックは、「最初に暴力に走ったのが学生側であることを教授会は忘れている」と厳しく論難した。
結局学生の占拠から一週間後、学長が教授会の意向を無視して警察の導入を要請し、事態は終焉に向かった。
もっとも、学生の行動を支持したノーマン・メイラーのような人物もいた。
とはいえ、多くのNY知識人は学生の暴力行使に否定的であった。大学教授となった彼らが体制的な位置に納まったからという見方もできるが、しかし彼らが教授として、それまで狭い専門領域にこもる教員が多かった中、幅広い分野に目を開き社会情勢に敏感であるようにと学生を指導してきたことを考えれば、むしろそういう方向性を破壊して特定の党派性に走ろうとする学生たちの態度は到底容認できるものではなかったのである。
また、かつて共産党の人民戦線路線を批判したNY知識人には、学生の行動とは、集団的熱狂、教条主義的状況認識、イデオロギーへの過剰な依存、冷静な思惟を蜂起しての実力行使などなどにおいて、類似した代物と映ったのである。実際、1965年にハウは『ディセント』誌上においてこうした理由をもって学生を厳しく批判したのであった。
(日本では、極左学生に研究室の資料を破壊されて、お前たちはナチよりひどいと怒った丸山真男・東大法学部教授のことが想起される。また最近のアメリカの大学で類似した極左的傾向が広がっていることに注意すべきである。この点については当ブログで何度か記事を載せているが――当ブログ制作者のコメント。)
他方、ニューレフトは文化面ではカウンターカルチャー(対抗文化)と結びついていた。マリファナ、LSD、長髪とヒゲ、サイケデリックな服装と音楽、フリーセックスなどなど、これにはフランクフルト学派のマルクス主義、特にマルクーゼの『エロスと文明』が理論的支柱を提供していたが、カウンターカルチャーでは理論よりはパフォーマンスが優先した。ハイブラウな知性や価値観とは正反対であったから、NY知識人とはまったくそりが合わない。
ニール・ジュモンヴィルは、両者を以下のようにまとめているという。
NY知識人: 合理主義、多元主義、体系、節度、学識に裏づけられた議論、市民道徳、現実主義、理性
カウンターカルチャー: 神秘主義、非合理主義、ニヒリズム、反文化、ロマン主義、感情主義、絶対主義、非柔軟性
しかし振り返ってみれば、NY知識人のかつての主張自体が、すでにアメリカの中では実現されていたのである、モダニズムはこの時点では承認された文化になっており、スターリン主義はとうに信用を失い、アメリカ内部の国際性も進展していた。
つまり彼らの役割はすでに終わっており、その息子の世代が新たな反抗を開始した、とも受け取れる。
一方で、トリリングは、かつて自分たちが推進しようとしたモダニズムの中に学生の無軌道な行動を招来する部分があったのではないかと自省的に述べているという。
ダニエル・ベルも『資本主義の文化的矛盾』の中でモダニズムとカウンターカルチャーとのこうした皮肉な関係に言及している。もっともベルは別の書物ではカウンターカルチャーと反文化(adversary culture)を区別している。前者は資本主義的な享楽の果てに生まれたものだが、後者は「真面目な文化」であり、「ブルジョワ社会と文明の持つすべての束縛を粉砕」しようとする根源的な意図がある、という。
カウンターカルチャーには、麻薬文化がつきまとっていた。そこから生じる神秘主義がヒンドゥー教や仏教への親近感を生み、場合によっては殺人事件につながっていく。NY知識人の中で無政府主義者の傾向が強くニューレフトの学生たちとの思想的類似性が目立ったポール・グッドマンですら、こうした宗教性には疑問を呈していた。
ともあれ、学生たちの行動は過激化する一方であり、旧世代の知識人のリベラリズムに敵対する若い世代のラディカリズムという構図が鮮明になっていく。そうした傾向はアメリカ以外の先進国にも見られたし、アメリカの黒人グループであるブラック・パンサーは武力闘争路線へと向かっていた。
1970年代には全米で過激派による爆弾テロが相次ぎ、オハイオ州立ケント大学では反戦デモの学生4人が州兵に射殺された。この事件により、全米の2500の大学のうち30%がストに突入した。ちょうどニクソン大統領によるカンボジア侵攻という国際情勢も加わって学生運動の激しさはその頂点に達することになる。ニクソンはカンボジアからの撤退を余儀なくされたが、これを境にニューレフトの運動は沈静化に向かうのである。
第七章は「反大衆と新保守主義」である。
カウンターカルチャーや、大衆化した大学生のニューレフト的な方向性は、NY知識人に改めて大衆への反発、そして一部には保守化をすら生み出した。
1930年代、『パーティザン・レヴュー』に集ったNY知識人、例えばフィリップ・ラーヴは、アメリカの庶民を描いたドライザーなどの自然主義文学よりも、ホーソンやH・ジェイムズなど、エリート階級の文学を、そしてヨーロッパのモダニズム文学を評価していた。
また、第三章でも触れたように、大衆文化をキッチュと位置づけ、前衛(アヴァンギャルド)とは正反対な、安易で商業主義にそまった存在と見るグリーンバーグのような論者もいた。つまりハイカルチャーとロウカルチャーを対比させ、前者を肯定する方向性である。また都市の中産階級の好む文化をミドルカルチャーとする分類もあり、またロウカルチャーはマスカルチャーとも名づけられた。
しかしそうした方向性はエリート主義であり、反民主主義的であって、彼らの政治的な民主主義とは齟齬を来すことになる。ただし彼らの「文化的多元主義」は、そうした矛盾を解消するようにも思われた。
この辺の矛盾や齟齬は、オルテガの大衆論へのスタンスにも見て取れる。『パーティザン・レヴュー』は1933年にはオルテガをファシストの中心論客として批判していた。しかし1950年代になるとオルテガの『大衆の反逆』は、アメリカにおいても現実のものとなる。商業主義と大衆社会はどこよりもアメリカで実現・顕在化し、知識人に危機感を抱かせる。誰にもわかりやすいマスカルチャーは知識人を無用のものとするからだ、とニール・ジュモンヴィルは指摘する。かつては先鋭的なモダニズムを解説し、一般人を理解へと導くのが知識人であった。マスカルチャーは知識人の存在意義を危うくする。
また、カウンターカルチャーとして現れたマスカルチャーは、その感性的で時として破壊的な性格ゆえに、知的文化という前提で仕事をしてきたNY知識人には受け入れがたいものとなる。学生のニューレフトを彼らが拒否したのと同様に。
こうした中で、NY知識人の一部は文化的保守主義、および政治的保守主義へと向かうことになる。
そもそも、ユダヤ人は大衆への恐怖心を持つよう運命づけられている。スターリニズムもホロコーストも、大衆が暴徒と化した場合に、その攻撃対象となる人間(ユダヤ人、その他)がどういう立場に追い込まれるかの実例であった。アメリカの大学紛争もそれに類したものと見られた。また、ユダヤ教には、人間は獣性を持つ存在であり、それを抑えることができるのは神の戒律のみであるという教えがある。
だからNY知識人が大学紛争に批判的な態度をとるのも分かるということになるわけだが、他方でNY知識人の子供世代のユダヤ人が大学紛争で活動家として振る舞っていた事実は、事態を複雑にする。
貧しさとは無縁の環境で育ち、当たり前のように大学に進学した世代にとって、マルクス主義は貧困から抜け出すための手段ではない。反抗のための理論的支柱として使えるからだ。カウンターカルチャーも含めて「反抗し破壊する」ことが流行となった。逆に言えば、そういう若い世代に先行するNY知識人が批判的に対応したのも当然であったということになる。
そして70年代、従来のNY知識人の「肯定者」と「反対者」――両者とも学生運動には批判的だった――の前者の中から、「新保守主義者Neoconservatives」が生まれてくる。ノーマン・ポドレツ、ネイサン・グレイザー、アーヴィング・クリストル、シーモア・マーティン・リプセットなどである。従来からあった『コメンタリー』誌に加え、『パブリック・インタレスト』誌を拠点とした。
そこに見られるのは、大衆運動への批判、エリート主義、秩序志向などであるが、特に彼らの多元主義が大衆批判を生むことに注意が喚起されている。すなわち、巨大化し複雑化した現代社会の中で、秩序ある民主的生活に到達するには多くの妥協と取引が欠かせないのだが(=多元主義)、大衆はそういう複雑な事情を理解せず、知らずして画一的な全体主義を志向してしまう、という認識である。
他方で、学生運動にシンパシーを表明する知識人もいて、「ニュークラス」と呼ばれていた。科学者、法律家、都市計画者、ソーシャルワーカー、教育者、犯罪学者、社会学者、医師などから成り、私企業よりは公的な部門に所属し、その理想主義に基づいて弱者救済を図ろうとするが、実際には隠された計画に従って行動しており、その計画とは、「福祉国家」という修正資本主義にある国を、細部にいたるまで幻覚に規定された経済システム、つまり左翼の伝統的な反資本主義的野望実現のためのシステムへと移行させることである、とクリストルは定義している。
また、クリストルによれば、ニュークラスの知識人の発言はマスコミが好んで取り上げるため、その反逆的性格が社会に影響を及ぼしやすい、という。
ニュークラスを支持したのは『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌であった。1963年創刊のこの雑誌は、当初はリベラリズムとハイカルチャー擁護を基盤としていた。創刊したのはかつてポドレツと一緒に『コメンタリー』誌を編集したNY知識人左派のエプスタインで、ハンナ・アーレンとも寄稿していた。しかし60年代後半になるとヴェトナム反戦、反アメリカの論調が目立つようになり、ニューレフトのオピニオン誌という性格を強めていく。「反対者」の雑誌『ディセント』よりさらに左寄りという位置づけになる。
『コメンタリー』誌は当初は中道よりやや右寄りという位置にあったが、『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』の極端な左寄り路線に反発し、ニュークラス批判を開始する。しかしヴェトナム戦争への批判などでは必ずしも正反対の主張をしたわけではなく、当初はカウンターカルチャー批判など、文化面での保守主義が目立ってた。
ユダヤ人としての立場も両者の方向性に影響した。1967年の第三次中東戦争(六日戦争)において、『ニューヨーク・レヴュー』は反イスラエル・親アラブの立場をとったが、『コメンタリー』は発行母体がユダヤ人委員会ということもあり、親イスラエルであった。イスラエルの完勝に終わったこの戦争をポドレツはアメリカにおけるユダヤ人の成功と結びつけ、さらにはニューレフトはリベラリズムの敵にして、アメリカ・ユダヤ系にとっての敵だと見るようになっていく。(この辺は、最近のイスラエル・パレスチナ戦争に対するアメリカ国内の親イスラエル派と親パレスチナ派の抗争にもつながっていよう――当ブログ制作者のコメント。)
もっとも、彼ら新保守派の政治的立場も一様ではない。クリストルの妻はあるとき、NYタイムズ紙にニクソン支持の広告を出すので署名してほしいとトリリング夫妻に持ちかけたが、断られている。そればかりか、これを機に長年交友を続けた両夫妻は袂を分かったという。トリリングは一面ではリベラル派を批判していたが、この場合のリベラルとはニューレフトの、いわば新しいスターリニズムのことであって、トリリング自身はJ・S・ミル以来の伝統的なリベラリズムを信奉していた。(前者の意味のリベラリズムを、現在のアメリカでの左翼或いは極左が自称に用いていることに注意しよう――当ブログ制作者のコメント。)
ネイサン・グレイザーが新保守主義の代表格で、70年代に法制化されたアファーマティブ・アクション(割当制〔クオータ制〕とも)に対して、新たな差別と不平等を生み出すものだとして批判を加えた。(この辺、女性を優遇すればそれでいいと、全然考えずに主張・行動している最近の日本のマスコミや政治家や学者は、ちゃんと見ておくべきところだと思うけどね――当ブログ制作者のコメント。)
ポドレツが編集長を務める『コメンタリー』は反共・反リベラル(極左という意味でのリベラルである)の性格を強めていき、レーガン政権の外交政策にも加担してゆく。ただしNY知識人の反大衆性は維持されており、レーガンの支持基盤だった右翼宗教勢力とは一線を画していた。
しかしNY知識人の中でこうした新保守主義者は少数派であり、ダニエル・ベルは左右に振れない中道的な学者としての立場を貫き、新保守主義者へは批判的だった。
なお新保守主義の雑誌としては、すでに触れた『コメンタリー』『パブリック・インタレスト』以外にも「自由世界委員会」の『ナショナル・インタレスト』や『ニュー・クライテリオン』がある。
さて、カウンターカルチャーにNY知識人はほぼ一貫して否定的な態度をとってきたが、『パーティザン・レヴュー』誌には1960年代半ばになると、新しい文化に理解を示す論考も載るようになった。そして72年には同誌で「芸術、文化、保守主義」というシンポジウムが行われる。
ここで、新世代の論客リチャード・ギルマンによって旧世代の分析がなされた。それによれば、旧世代の支持したモダニズムでは文化と政治が切り離せないものとされ、したがってモダニズムの中でも政治的に退嬰的とされる作品(マラルメの詩、ジョン・ケージの音楽、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』)には否定的な態度がとられた。しかし本来、モダニズム文化は政治とは無関係なところから出発していた。マルキシズムとモダニズムが手を組む局面があったとしても、それは偶然からでしかない。NY知識人の支持したモダニズムとは、彼らの頭の中で理想化された存在であり、モダニズムの中に存在した反社会的・反道徳的な面から彼らは目を背けていた。ボリンゲン賞事件にしても、モダニズムの危険な側面をどう評価するかが浮上した出来事だったのである。新しいモダニズム、つまりポストモダンは、社会性を重視するNY知識人が毛嫌いしていた唯美主義的新批評にむしろ親和的なのであって、新世代にとってはポストモダンが新たなモダニズムなのである。
この章ではこのあと、カウンターカルチャーとハイカルチャー、モダニズムの定義についての議論が紹介されており、ポール・オースターのような新しい世代のユダヤ系作家がもつ、アヴァンギャルドとポップカルチャーの中間性、すなわち「アヴァン・ポップ」に言及がなされている。
第八章はまとめである。
特にNY知識人の社会性を重視した文芸批評が、アカデミックな批評理論との対比で評価されている。
アメリカの文芸批評はニュー・クリティシズムの技術批評の伝統を受け継ぎ、構造主義、ポスト構造主義或いはディコンストラクションなどのポストモダニズムなどが、フランス批評理論を輸入してその焼き直しを行う形で続いてきた。大学や学会という制度の中で、その時々の流行に乗じ、或いは派閥抗争を繰り広げる中で展開されたそうした理論は、一般の文学愛好家にも、また実際に作品を書く作家にもまったく無意味な代物であった。これに対して、NY知識人の批評は創造の現場にまで影響を及ぼした。
ラッセル・ジャコビーの『最後の知識人』(1987年)によれば、現代アメリカ知識人は歴史的に見て三段階から成っていたという。第一世代は大学教員ではなくフリーランスで仕事をしていたルイス・マンフォードやエドマンド・ウィルソンなど。第二世代としてNY知識人が登場し、当初はフリーランスで、しかし後に大学教員として仕事をした。アカデミズムに組み入れられても、社会に向けた発言をする批評家としてのスタンスを失わなかった。真の知識人としての最後の世代だった、とジャコビーは評価する。第三世代は1940年代以降に生まれたベビーブーマーで、彼らは最初から大学に奉職し、大学や学会といった制度の中でだけ生きることを考える「研究者」である。
そしてジャコビーはNY知識人の特徴を以下のようにまとめている。
1.自分の専門分野以外の問題について論じた。
2.専門家に対してだけでなく一般読者に向けて書いた。
3.同時代の政治的社会的諸問題に関わった。
4.ハイカルチャーを解説して社会に普及させる公共的機能を担った。
他方で、NY知識人のハイブラウな姿勢と、ベビーブーマーのカウンターカルチャーの橋渡しをする役割を果たした世代もあるとして、スーザン・ソンタグが取り上げられている。彼女が1964年に『パーティザン・レヴュー』誌に載せた「〈キャンプ〉に関するノート」である。
要するに大衆化しつつある文化に関する感受性を示す言葉が「キャンプ」なのであるが、彼女はこの概念に含まれる項目を57にわたり「陳列」する。つまり分析するのではなく、感受性として並べることしかできない、というわけだ。
具体的には、内容の形姿とスタイルの重視、非政治性、軽さ、都市的、装飾的、審美的、両性具有的、などなど。実際の作品としては、ジャン・コクトー、R・シュトラウスのオペラ、ティンパンアレーとリヴァプールの音楽の融合、アールヌーヴォー、ガウディの建築、ジャン・ジュネ、非芸術的な三流映画、ファッショナブルなレストラン、など。
「あまりに良すぎて〈キャンプ〉ではない」「重要すぎて、つまりマージナルではないから、〈キャンプ〉ではない」という言い方が可能だから、つまりキッチュな芸術のこととも言える。「悲劇に対するアイロニーの勝利」という言い方もなされている。もっとも、「キャンプはマスカルチャー時代においていかにダンディーであるかという問題に対する回答である」とも言われているので、エリート性を捨てて大衆趣味に走っているわけではなく、その点でNY知識人の系統を継ぐものとも見られるのだそうだ。
このあと、1967年に『パーティザン・レヴュー』誌に載ったビートルズ論が紹介されている。歴史的視点を導入して、ビートルズの『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の引喩(アリュージョン)に注目し、合わせて言葉遊びやジャケットからモダニズム文化との関連にも言及している。
このあと、英国知識人との連携にも触れている。第六章で出てきた「文化的自由会議CCF」とその雑誌『エンカウンター』を通じて、アーサー・ケストラーやスティーヴン・スペンダーらはNY知識人の「肯定者」たちとつながりを持った。
しかし「反対者」たちも英国の左派知識人とつながっていた。英国の雑誌『ユニヴァーシティーズ・アンド・レフト・レヴュー』と『ディセント』誌との交流があったからだ。
この『ユニヴァーシティーズ』誌はオックスフォード大学出身の4人の左派知識人により創刊されたが、そこにはカルチュラル・スタディーズの創始者のひとりスチュアート・ホールも含まれていた。4人はともに英国の生まれではなく、また西インド諸島出身の黒人であるホールと、ユダヤ系であるラファエル・サミュエルは、アングロサクソンでもなかった。オックスフォード大学の学生が多くは上・中流階級の出身者であるのに対し、彼らは奨学金で大学まで進んだのであり、マルクス主義者にして反スターリン主義者である点で共通していた。
『ユニヴァーシティーズ』にはアイザック・ドイッチャーやホブズボームが寄稿し、世代を超えた英国左派のフォーラムを形成した。そして1960年には他誌と合併して『ニュー・レフト・レヴュー』となる。
ただしこの雑誌は知的な理論面を重視したため、現実の政治を動かすという点では十分な力を持つには至らなかった。70年代後半の英国では政治面で新保守主義が台頭したわけだが(サッチャーが首相になったのは1979年)、それに十分対抗することはできなかった。
しかし英国左派は文化の社会性を重視し、(NY知識人とは異なり)マスカルチャーを敵視せず、それがカルチュラル・スタディーズの創出につながっていったという。
それから改めてNY知識人の功罪が振り返られている。
70年代以降、大衆化した大学の中で批評理論として次々と生み出されたポスト構造主義、ディコンストラクション、フェミニズム、新歴史主義など。そしてカルチュラル・スタディーズもその中に組み入れられていく。しかしこれらは、かつてニーチェがソクラテス以来の西洋哲学の在り方にくさびを打ち込んだ「パースペクティヴィズム」、つまり「事実は存在せず、あるのは解釈のみ」をいささかも超えていないという。
これに比べるなら、NY知識人の仕事は、むしろ公共性を重視するリベラリズムを基盤としつつ、近代的な価値観の枠組(広義のモダニズム)を維持しようとするものであった。新批評からディコンストラクションにいたるまでの「批評・分析」があくまで大衆化した大学での教科書としてしか通用しないものであるのに対し、NY知識人の仕事は、一般の人間にも通用する・理解できる・応用可能であるようになされてきた。
ただし、カルチュラル・スタディーズについては、これが文化をあらゆる社会生活と権力構造との関連で捉えようとするという性格を持つがゆえに、社会的歴史的文脈を重視する方向性においてNY知識人とつながっている、と。
と同時に、その創始者のひとりスチュアート・ホールが、エイズの問題に関連させてカルチュラル・スタディーズの「頼りなさ、空虚さ」を指摘し、現実社会との接点を意識せずに「理論によってまんまと逃げおおせる」ことへの警鐘を鳴らしている事実を、著者は忘れずに付け加えている。
以上、本書はNY知識人という存在についてまとまった記述を行っている点で、あまり類書がない貴重な内容であると言える。NY知識人がマルクス主義を奉じても、反スターリニズムという点では妥協しなかったという指摘も興味深い。理論的にはマルクス主義ではあっても現実のソ連には距離を置いていた。この点で、戦後長らくソ連シンパのままでいた日本の知識人たちとの違いが鮮明になっていると言える。あくまで私の興味ということだが、その辺での日米知識人の相違について研究してくれるとありがたいな、と思ったことであった。
なお、細かいことで申し訳ないけれど、作家トマス・マンはトーマス・マンが正しく、カフカ『審判』の主人公はジョゼフ・Kじゃなくてヨーゼフ・K、である。ドイツ語の発音にご注意!
それから、フランスの知識人にはわずかしか触れていないが、サルトルに関する記述はきわめて不十分。有名なカミュ=サルトル論争時代のサルトルがスターリニズムを盲信していたこと、戦時中のサルトルが「レジスタンス」に従事していた(と本書は記しているけれど)かどうかは怪しいことなど、もう少しリサーチが必要だろう。西永良成『サルトルの晩年』を参照していただきたい。
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。