25-5 救世主は世界を救わない
原始的な肉体構造だった。肉食動物が登場する以前の、まだ外敵に備える必要のなかった原始生命の体からヘモグロビンをまだ利用していない血液が噴き出る。
『正体不明』スキルを所持する魔王は、突起の少ないナマコのような形状をした生物だ。神が三日目に即席で用意したような簡単な構造をしている。
ゆえに……『暗殺』の発動なくナイフの一突きで仕留められる程に高等な臓器を内包していない。
「『暗殺』失敗ッ。クソッ」
『暗殺』スキルは攻撃を悟られない奇襲で最も光る。心の隙へ切っ先を突き入れて、そのまま心筋を切開して動脈を断つ。体の重要器官の破壊により死という状態を確定させるのだ。
ただし、相手が攻撃に気付いている場合はその限りではない。
ばれている『暗殺』の一撃はただの斬り付けに過ぎない。原始生物のどこに攻撃を察知できる器官があるのかは分からないが、『暗殺』に失敗してしまう。
「だが、こいつの『守』ならスキルなしでもッ」
黒曜は即座に方針を変更した。ナイフの刃で血が吹き出る相手なら、通常攻撃でも仕留められる。
“――また、前のように、僕を殺すの?”
脳内に響く子供の声。童子のようでもあり、童女のようでもある。性別の差がまだ表層化する以前の幼い子供の声質だ。
魔王であるのならば『領土宣言』で意思疎通してくる事は可能である。が、頭脳があるかも定かではない原始生命が語りかけてくるのは不気味だ。
“どうして君達は僕を殺すの? 僕が何か悪い事をしたの?”
「うるさい、死ねッ」
“それはできない相談だよ。僕は僕の生態系をもっと広げないと”
溶岩の冷えた黒い地面を割って、葉のようなものが突き上がる。黒曜のナイフが阻まれて、黒曜自身も足元からの突き上げによって強制的に後退させられる。
“この子はサウマプロティオン”
植物ではない。葉のように見えるだけの動物が正体だ。二、三メートルの体を張って最終目標の周囲を囲んでいく。
“この子はシファッソークタム”
更に、肉の花びらを持つチューリップが地中に隠していた体を現する。何もなかった孤島は異形の植物もどきの豊かな島へと変わっていく。
モーニングスターよろしくチューリップもどきが自身を振った。『暗影』を使い切って孤島へ到達したばかりの黒曜には緊急回避手段がない。俺も島へようやく足を踏み入れたばかりで間に合わない。
背中を打たれた黒曜が狭い島を転がって、黒曜の細い体がマントルの海へと落ちていく。
「黒曜ッ!!」
ギリギリ、手が届いた。届いただけとも言える。
異世界を滅ぼす魔王は呼び出した怪生物に守られた島の中央に鎮座している。一方で、俺と黒曜は島の端の岸辺。小さな孤島なので直線距離で十メートル強といったところであるが、それが絶望的な程に遠い。
配下に守られる魔王の防御は崩せそうにない。
“これが僕の生態系。どう、すごいでしょう。君達の生態系よりもずっと強い。ここまで築くのに五億年ぐらい時間がかかったけど立派でしょう?”
「パパッ! 私に構わずアイツを殺して!」
“『中級モンスター掌握』。これぐらい呼べば納得してくれるかな。弱い生態系の君達?”
孤島の周囲のマントルが盛り上がった。眠っていた怪生物が立ち上がった余波だ。
遠くから跳び込んできた怪生物もいたのだろう。高温色の飛沫が孤島の岸に降りかかってくる。倒れた黒曜が浴びそうになったので体を盾にして守りに入るが……自身の肉が焦げる痛みに悶絶してしまう。
「うゥ、あがッ」
「パパッ」
飛沫の形に火傷が生じる。
「だ、大丈夫、と言いたいが……これはもう……」
魔王の呼びかけに応じた様々な怪生物が孤島を囲い込んでいた。
カンブリア・モンスターの見本市だ。髭を有する節足動物はまだ理解がおよぶが、コップから棒が出ている現代アートのような生物らしくない奴や、胃袋から蔦が生えているような奴に対してはもう乾いた笑いさえ出てこない。人智では図れない種の方が多いぐらいだった。そのすべてが、俺などより……人類などという脆弱で未完成な種よりも強靭だ。
奇襲作戦は完全に失敗。敵がその気になれば、直後には俺と黒曜は惨殺される。
「どうしてお前達は異世界を侵略するんだ!」
抵抗は無意味。言葉を繋げて僅かに生存時間を稼ぐのが関の山だと思って魔王に訴えた。
“侵略のつもりはないよ。君達の弱い生態系から学習ようなものは何もない”
「馬鹿を言え。お前達は俺達を喰おうとしているだろ」
“捕食は僕のすごい発明だよ? 僕以前の時代は個々の生物が栄養を吸収するしかなかったから効率が悪かったんだ。けど、持てる者から栄養を奪った方がとても効率的。それを悪い事のように言って欲しくないよ”
「喰われる側の立場を考えてくれ」
“食べられないための工夫が足りないんじゃないかな。甲殻がお勧めだよ”
想像以上に会話を続けられる事に内心驚く。もちろん、エイリアンと会話しているように価値観が違い過ぎて相互理解はできそうにないが、そこは人類とニワトリとでも発生しうる種族間の齟齬、立場の相違でしかない。
自己申告で五億年の時を過ごしている魔王の知能は、エイリアンたる俺達と会話可能な程に高いらしい。
まだ動けない黒曜を焼けた背中で隠し、俺は魔王と会話し続ける。
「馬鹿を言え。お前達の所からやってきた竜頭魔王がいただろ。あんな馬鹿げた生物を送り込みやがって。どう工夫すればあんな究極生物から逃げ切れるって言うんだ」
“竜頭魔王? アノマロカリスのこと? 確かに、あの子は僕でも制御できないぐらいに成長してくれた究極の一つだよ。僕も食べられそうになったら、三千年前にそっちに引っ越す事にしたんだけど、あの子が勝手に穴を通ってしまって焦ったかな”
蟲星の中でも頭一つ秀でた存在だった竜頭魔王。
“なんだ、君達は弱い生態系なのに三千年もアノマロカリスに捕食されなかったんだ。それはすごい事だよ”
だが、竜頭魔王は異世界侵略のための兵器ではなく、ただ偶然に、異世界へ渡った迷子に過ぎなかったらしい。
“僕の願いはね。あの子のようにすごい生物をもっと増やして。もっとすごい生態系を築く事なんだ。命ってすごい。周りを見て。生命は可能性に満ちていて際限がない!”
カンブリア爆発を始めた原始生命の魔王の願望は、五億年前から一貫していた。
生命の宿命。飽くなき繁栄だ。
周囲の怪生物の姿は異形ではなく偉業。人類の価値観では不気味な生命としか思えないが、強さという基準において怪生物共は人類などよりもよほど美しい。
「原始の魔王。お前には……悪意がないというのか」
“悪意なんて余分さ! 生命は美しいのだから”
原始の海の中。奇跡のような確率で誕生した生命に目的意識などありはしなかったはずだというのに、どうしてだろう。すべての生命体は繁栄という宿命を背負って生きてしまっている。しかも繁栄そのものを悪だと断じるのが不可能ときている。
終わりなき繁栄を望む魔王の無邪気な夢を、生命たる俺は否定できるはずがない。
「パパ……」
ふと、黒曜が手を握ってくる。俺も手を握り返す。
「分かっている。これは生存競争だ。善悪は関係ない。純粋な願いだって人を殺す」
「だったら……戦わないと」
「……それでも、俺は否定しない」
目と呼べる程の光学観測器官ではないだろうが……ナマコの頭にある小さなレンズを目撃してしまっては、戦いを続けられない。原始の魔王の目は、酷く、子供の目だった。
魔王の純粋な目を目撃して、俺は戦意を失ったかのごとくナイフを落とす。
どちらにせよ。三百六十度を怪生物に覆われて戦えるはずがない。会話の終わりと共に一斉に襲われて俺達は殺されて、異世界は滅びるのだ。
俺は救世主職として、世界を救うのを…………諦める。
魔王の生態系に人類は勝てない。
アニッシュは兵士達を率いて前線で戦う。人類生存の最前線では王様だろうとこき使う。
「救世主に続くのだ! 我等も一緒に戦うのだ!!」
「『千里眼』に『魔王殺し』! これで全前線をカバーできる。更に『分身』を使ってスキルをコンボしてい――気色悪ッ、俺の体を増やすなッ――」
体を得た初代救世主からのバックアップを得て、異世界人類は禁忌の大空洞より湧き出る無数の怪生物の拡散を防いでいる。人類よりも完成された生態系を相手に善戦している。
しかし、王を含む後方部隊まで投入して支えている前線は限界だ。戦線の崩壊は近い。
「御影ッ! 強制的にだが、俺は戦っているぞ!!」
俺は戦いを諦めて、ただ魔王の目を見て言い放つ。
「繁栄が、お前の願いか?」
“そうだよ。それ以外に何があるっていうんだい?”
魔王の返答はノータイムだった。
だから、俺は言ってやる。
「――――はは、子供は嘘が下手だな」
正確に言うなら、魔王は本心を語っていない。
「繁栄なんて子供の強がりだ。誰も、お前を助けてくれなかったから、繁栄という最もらしい理由を使ってだだをこねているだけだ! そうだろう!」
“だだ? 君は何を言っているの??”
俺は自信満々に言ってやる。
「言葉は必要ない。目を見れば分かる。散々ゼナに見られて『正体不明』スキルで防げない事は分かっている。『既知スキル習得』発動。対象はゼナの『読心魔眼』っ!!」
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“『読心魔眼』、心を見通すあやかしなる魔眼スキル。
元々は発音器官を必要としない妖精が持つコミュニケーションスキル。相手の瞳の奥に焦点を合わせる事で心の声を聞く事が可能になる”
“実績達成条件。
妖精職のBランクまで先祖返りする”
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ゼナの心読スキルの前ではプライベートなどありはしない。感情の希薄な純正のモンスターや、モンスターのような狂人には通用しないスキルであるが、純朴な子供相手にそのような心配は必要ない。
魔王の未熟な目の奥底にある本心を俺は視る。
そして、魔王の本心を、聞く。
『――ママに、ママに! 僕を見捨てられたくないから、僕がこんなに繁栄ったよ!――』
繁栄など結果に過ぎない。生命は宿命など背負ってはいない。そんなものは人類の勝手な価値観に過ぎない。
そも、子供に繁栄したいなどという願望があるものか。
子供はただ必死に鳴くだけなのだ。魔界の真ん中であろうと泣き喚くのだ。それを俺は知っている。親に見捨てられたくないと、己に可能な最大限のアピールを愚直に行うだけなのだ。
悲しい事に、怪生物の目には泣くという機能が備わっておらず。
悲しい事に、怪生物は繁栄増殖する機能のみを備えていた。
蟲星の侵攻とはそういう悲劇に過ぎない。
「絶滅の拒絶。繁栄はそのためのアピール手段に過ぎない。だったら――」
ナイフを落とし、自然に空けていた手に『暗器』で隠していたアイテムを取り出す。
「――『暗器』解放! 『モンキーカーズフィンガー(右の小指)』よ。狂ったカンブリア爆発を続ける子供に安らぎを!」
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“『モンキーカーズフィンガー(右の小指)』、悪辣なる猿帝の右の小指。
指を折る自傷行為によって他人の願いを叶える救済悪手。その小指。
原始の生命の願い事。それは、大いなる母に見捨てて欲しくないという愛の欲求。
……ゆえに、子は母の手に抱かれる。泣き疲れた子供は母の手の中で安らかな眠りにつく”
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世界を救うために魔王の願いを叶え、魔王の生態系の繁栄を終わらせるために、猿の手に残されていた最後の指を折った。
“もう良いよっ! ソイツを皆で殺して!”
魔王の命令に従い、孤島を囲むすべての怪生物が俺へと襲いかかる。防ぐ手段はない。
「総員退艦! 総員退艦! 海に沈むぞ!!」
異世界の海に沈んでいく神格戦艦から脱出していくパーティーメンバー。
命からがら救命ボートに乗り込んだ彼女達は、世界の命運を託した者達がいる方向へと振り返る。
「御影!」
「兄さん!」
「御影!」
「御影!」
彼女達は救世主を送り届けるという役目を果たしてしまっており、もうできる事は何もない。
救命ボートの上で、アイサは胸の前で両手を握り締めて祈る。
「凶鳥。僕の凶鳥。世界を救って。僕には世界を救えないけど、凶鳥ならきっとできるから!」
あっと言う間に圧死されてしまう状況だった。ここに至ってはレベルやパラメーター、『運』といった数値的な要素は何ら意味を成さない。ぐちゃり、べちゃり、と体が壊されていく。
それでも俺が生きている理由は……俺が蟲星の子供の願いを叶える唯一の手段だったからに他ならない。猿の手の呪いがなければ立っていられなかったに違いない。
だが、俺の役割はここまで。怪生物がどれだけ憐れな子供だったとしても、俺は彼等を同情できないし愛さない。それが可能な者をここに呼ぶのが精一杯だった。
アサシン職としての世界救済には失敗した。
救世主職としての世界救済はもう諦めた。
だから、他の誰かに世界を助けてもらう。
「深淵よ……。深淵が……私を覗……時、私もまた……深淵を、覗き込んで……」
牙か爪か角か触手か。よく分からない物に体を貫通させられた衝撃で、都合良く顔のマスクが落下する。
「だ、誰か……ある。泣き疲れた子供を救う、時間……だっ!」
血反吐で咳き込みながらも、顔の穴の奥に向かって声をかけた。
怪生物のような異形を子供として扱えるような奇特な存在がいたかというと……たった一人だけいた。
俺の影を伝って浮上してくるのは、半人半蛇の異形の母性。
「……っ! パパが、ママを呼び出して!?」
子供であれば魔族、人類分け隔てなく愛した女性。
淫魔王と呼ばれた異形の母、エキドナが俺の召還に応じて出現する。
エキドナは瀕死の俺を見て、やんちゃな子供が怪我をした時の母親の表情を作る。黒曜の方を見た際には、成人した我が子を喜ぶように表情を和らげる。
「やっぱり、淫魔王が来てくれ……た。……いつも頼んでばかりで申し訳ない。……ここの……子供達をっ、託したい。大切にっ……育てて欲しい!」
エキドナの答えは決まっていた。
“……任せなさい。大切に育てて、立派で優しい子に育ててみせるわ”
救世主の自覚が足りない俺は世界を救う仕事をアウトソーシングする。所詮は子供の育て方を知らない、教育免許も持たない大学生。全てエキドナに任せて意識を手放す。
救世主職だけがどうして世界を救わねばならない。
世界は、世界を救える者が救えば良い。
“――ママ?”
“さあ、可愛い可愛い子供達。貴方達は私の可愛い子供よ”
“――ああっ! ママなんだ。ママが帰ってきてくれたんだ!”
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“『汝、我が子たれ』、母とは血の繋がりではなく実績的なものであるというスキル。
赤の他人であろうと我が子認定可能。
ステータス的には子属性が付与されるが、基本的には無害”
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孤島はいつの間にか孤島ではなくなっていた。
カンブリア起源種をあやすエキドナを中心として、蟲星中の怪生物が行儀良く集合した結果、孤島の岸辺が分からなくなってしまっている。
“可愛い子供達。貴方達が頑張った事を母に教えて。大丈夫。私は見捨てたりしない。いつまでも、いつまでも。長く、長く。子供達の成長を見守っているから”
“本当! うん。分かった! 何から話そうか。いっぱい、いっぱい、がんばったら沢山あって困っちゃう”
いや、エキドナは既にエキドナという位から昇華している。彼女の生前の実績により、神格を得た彼女は『地母神』となっていた。
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“『地母神』、世界とは母によって成り立つスキル。
ありとあらゆるものを生み出すことが可能。父たる者の格にも大きく依存してしまうが、世界すら生み出す事が可能である。
そして、生み出した我が子に対して多大なる干渉が可能となる。精神掌握を望めば人格をすり潰して聞き分けの良い子を作る事も当然可能であるが、本スキルを有する者は子供の不利益を望みはしない。
大抵は我が子の命に関わらず厄災を、母たるスキル所持者が肩代わりする程度となる。
なお、本スキル所持者は我が子に殺害されるか、我が子の致命傷を肩代わりする以外に死ぬ事はなくなる”
“実績達成条件。
数千年におよび母としての徳を積み、子供の命を救い続けて、神格を得るに至った”
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“あの子が進化し続けると、あんなに強く空を飛ぶんだ!”
“ええ、そうなのね”
“あの子が進化し続けると、あんなに強く宇宙を飛ぶんだ!”
“すごいわ。皆、立派だわ”
“でもでも、あの子は少し弱いから駄目なんだ。脊索っていうのを進化させているけど、力が強くないから逃げるしかないし、進化してもすぐに終わっちゃうから!”
“いいえ、そんな事はないわ。どの子も愛らしい母の子。きっと素晴らしい可能性を秘めているのよ”
“ええー。そうかなー??”
“きっとそう”
“うーん。脊索から背骨になっても、魚になるぐらいだと思うけど。海から出られないまま終わってしまいそう”
地母神となった母の手が、子供の眠りを誘うように体を優しくタップする。母の声質は子守唄よりも心地良く、怪生物は生来の凶暴な性質を失って沈静化していく。
“うん、でも、ママが言うんだったら試してみようかな。僕の『魔』の回復力と『コントロールZ』なら、五億年前からだってやり直せるし。もちろん、ママも一緒だったらだけど……”
一日の出来事を報告し終えた子供は、明日の夢を語る。
“もちろんよ。母も一緒よ。母に子供達の可能性を見せてくれないかしら?”
“分かった! あの子達の生態系がどこまで続くか試してみるね! 絶滅しちゃったら、またやり直せば良いだけだし!”
“絶滅なんてしないわ。きっと、長く長く続いていく。可愛い子供達の時代が続いていく”
“うん。僕もそうだと良いと思う!”
神格を得たエキドナに物質界の理は通用しない。蟲星の時間が遡っても母を続けて、大地を育む存在となるだろう。
そしてカンブリア起源種たる救世魔王は、救世主職のスキルと膨大な量と回復力を誇る『魔』を総動員し、時間をカンブリア爆発の最盛期まで巻き戻す。彼の生態系の別の可能性を試行するだろう。
救世魔王の望み通り、母の登場で蟲星は救われた。
そのため、ゆっくりと蟲星の時が巻き戻り始める。
無邪気な子供達は大きくあくびをしてから体を丸めて、眠るように退化していく。強化され続けた強固なフォルムを失って、小さく、小さくなっていく。異世界にさえ届いた鋭い牙が失われていく。
“ママ! お休み!”
こうして、蟲星は原始に戻った。
こうして、蟲星は蟲星以外の可能性へと分岐する。
“ママ、おはよ――”
その可能性では……蟲星は、地球と呼ばれるようになるだろう。
――蟲星の時間が遡るまで、数分前――
「はぁ、はぁ、はぁ」
「パパ。禁忌の大空洞へと通じる道が、もう、あんなにか細く」
「はぁ、はぁ、はぁ」
「パパ。異世界に戻れると思う?」
重体の御影を背中に担いだ黒曜は、禁忌の大空洞へと至る山道を登っている。
周辺には多数の怪生物が存在するが、どの怪生物も黒曜を無視して襲ってこない。怪生物は孤島だった地点、母を見詰めるのに忙しい。
「はぁ、はぁ、はぁ」
御影の息は荒い。蟲星に侵入する際に『奇跡の葉』は当然持参していたものの、体中を穴だらけにされる程に激しい攻撃を受けたのだ。アイテムは使い物にならなくなってしまっている。
黒曜の所持アイテムは、御影が黒曜の回復に使ってしまって既にない。
「パパ。俺達って戻らないといけないのかな?」
救世主職の過酷な日々を思い出して、黒曜は登山する足を止めてしまった。
異世界への帰還が間に合ったとしても、異世界は黒曜を優しく迎えたりしないだろう。今回の世界滅亡をどうにか解決したからといって救世主職の呪縛からはきっと解放されない。
どうせ、次の世界滅亡が黒曜に辛い役目を押し付けてくるだけだ。
ならば、敵地で取り残されてしまう運命も、決して悪いものではな――。
「――黒曜! 俺達は……帰るぞ!」
御影は己の足で立ち上がって、黒曜の手を引いて歩き出す。
「それで、初代救世主に言ってやるんだ。こんな仕事、辞めてやるって! ブラック企業を、退職だ!」
御影に手を引かれた黒曜は笑いを噴き出しながら一緒に歩いた。
傷付き、疲労している二人は、禁忌の大空洞へと通じる世界の境界面へと意地のみで到着する。
境界面はかなり絞られていた。世界間の接続が切られる寸前であるのは間違いない。
跳び込んだところで無事に異世界に戻れる可能性は低い。世界間の移動中に接続が切られる可能性さえあり、そうなれば、何が起きてしまうのか想像さえできない。
「行くぞ。黒曜!」
「うん。分かった!」
それでも、二人は一緒に跳び込む。
黒曜の顔に不安はない。いや、世界の間に弾き飛ばされて素粒子に分解されてしまっても御影とならば許せる。
青い海原へと跳び込むような、黒曜が普段見せない信頼に満ちた笑顔だ。
次回、エピローグです。