《スルーか、報道か?》「7月5日に大災害」の予言、複数の風水師が呼びかけも…「予言」をメディアはどう扱えばよいのか
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ノストラダムス的なものとは「奇妙な同居」という感じだった
80年代に子どもだった自分の感覚を思い出すとノストラダムス的なものとは「奇妙な同居」という感じだった。小学校の学級文庫にはノストラダムス、UFO、未知の生物という3点セットがあったのを思い出す。日常に半信半疑とうさん臭さがカジュアルに同居していた。 思い出すことがある。拙著「ヤラセと情熱 水曜スペシャル『川口浩探検隊』の真実」を書くために、昭和の人気テレビ番組「川口浩探検隊シリーズ」についてテレビ関係者に取材したときのことだ。ファンタジックであり、いい加減でもあり、牧歌的なテレビ番組が減った分岐点を尋ねたら、「ノストラダムスの大予言が外れたのが大きいかもしれません」と言っていた人がいた。 大予言が外れて以降、そんな「無駄なもの」は駆逐され、非合理はゆるされなくなった雰囲気になったという。カジュアルなオカルトを面白がる空気が減り、「白か黒か」という行間の無い時代に徐々に移行したのでは? という見立てだった。 しかし「牧歌的な時代は良かった」とも思えない。一連のオウム真理教事件も大きかったはずだからだ。オウムはノストラダムス的なものとも親和性が高かった。オウム自身もメディアで面白がられていた時期もあった。趣味でオカルトをたしなむのはよいが、想定外の影響を社会に与えたかもしれない一件だった。 今回の「7月5日」の件はそう考えると興味深い。あの頃よりも情報へのリテラシー(読み解く力)は高まっているはずだからだ。それなのになぜ? しかし情報が多いとリテラシーが高まるのではなく、むしろ根拠不明な情報も積極的に摂取してしまうという「リテラシーの罠」もある。それはオカルト的な「予言」だけではない。デマや根拠不明な情報に煽られたり、生活不安につけ込んだような排外主義的な言説は現在、政治や社会のジャンルでこそ飛び交っている。 私は冒頭に「この現実をメディアはどう扱えばよいのか。スルーか、報道か?」と書いたが、馬鹿らしく思うことでも「馬鹿にできない現象」になるのであれば、メディアは事実を淡々と伝えたほうが良いのではと思う。そんなの一部だよ、と笑っているうちに笑えない事態になることも想定してほしい。これは選挙報道にもつながる話だ。 “情報”について、最後にもう一度この言葉を載せておこう。 「過度に振り回されないように、専門家の意見を参考に、適切に行動していただくことが大事であると思います」(たつき諒) ◆◆◆ 文春オンラインで好評連載のプチ鹿島さんの政治コラムが一冊の本になりました。タイトルは『 お笑い公文書2025 裏ガネ地獄変 プチ鹿島政治コラム集2』 。
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