革命は彼方より電撃的に到来する ~外山恒一教養強化合宿ルポ "死の23期"という零度~
日本列島、西の最果てにファシスト革命家がいるという。革命家の名は外山恒一。ファシスト党我々団党首総統にして"教養強化合宿"の主宰者である。いくらアメリカ普遍的リベラリズムを徹底敵視する論客であれ、ファシズム•ナチズムは「一切、認めない」というのが完全な社会的コンセンサスとなっていたはずのこの時勢に、この九州の潜在的政治犯がなんと学生に危険思想を注入しているというのだ。あまりにも恐ろしい。
これはファシスト革命家外山恒一による10日間の教養強化合宿の内実を語る禁断のルポルタージュである。
契機
イロモノ、泡沫、ヤケッパチ候補etc……。外山恒一は東京都知事選挙政見放送を起点に広く一般に知られるようになった。無論私も、あの“伝説の政見放送”をネタ的に摂取していた大衆のうちの一人である。中学生の頃、ネタ的政見放送ブームが到来し(このときのブームは後藤輝樹によるものだった)、過去の政見放送の視聴に明け暮れていたところ、外山氏の放送を発見した。当時の私は、鋭敏な政治的洞察力はなかったもので、私は“革命”だの、“こんな国は滅ぼせ”だのといった如何にも中学生に刺さりそうな過激な言葉に"ウケ
"ていた。
それから幾年かが経ち、人並みに政治的関心が芽生え、社会運動に参画する中で、文化的な人脈が大きくなってきたこともあり、"界隈"のあまり少なくない人数が外山合宿OBOGであったということもあり、もともと左翼的文化や自治寮空間が好きだったこともあり、というわけで諸々(運動のヒントや仲間など、或いはもちろん教養も!)同時に摂取できるだろうという算段で合宿への参加を決めた。
講義内容
ここでは講義に関する内容を簡潔にまとめておこうと思う。扱ったテキストの名称に関しては外山氏のnoteでは伏せられているようなのでそれに準じて括弧に入れておこうと思う。また、講義の核心部分については、あらゆるものを簡素化し「他者なきわかりやすさ」を希求する日本の幼稚な知的状況に徹底的に反発し、高度なコンテクストやその回収の瞬間の衝撃をありありと受け取ってもらうべく、敢えて言及はしないこととしたい。仮に言及したところで松茸味の合成粉末に松茸が一切入っていないことと同じこと(?)である。
マルクス主義入門
初日は共産主義及びマルクス主義の基本的事項を抑える講義となっている。勿論、ソビエトを中心にレーニン主義、スターリン主義、トロツキズムなどといった具体的な政治史についてもコンパクトに解説がなされる。ここで扱うテキストは唯一、外山氏の自作テキストとなっているため、補足はあまりないのだが、世界史の知識、共産主義に関するごく基本的な事項を抑えておかないと後々(特に新左翼運動史では頻繁にこの基礎事項が引用される)厳しくなるため、個人的にはある程度の知識を事前に詰めてくることを推奨する。
新左翼運動史
ここからが本格的詰め込み教育のスタートとなる。最初の三日は日本の新左翼運動史について。例えば、全学連、全共闘、中核派、解放派など、"聞いたことはあるけどよくわからない新左翼党派・機構に関する歴史的解説やイデオロギーの考察、党の論理や意義、その脆弱性など、この合宿の表向きのメインポイントとなる点である。ここでは内ゲバ、あるいはテロルについての言及が大部分を占める(といっても必ずしも批判的な言及しかしないというわけでもない)ので既存の左翼党派の方はあまりいい顔をしないかもしれないが、事前に聞いていたような露骨な新左翼へのネガキャンのようなものは一切感じられなかった(合宿全体を通して反左翼としての外山氏が表出することはほぼなく、自説のアジも一切なかった)。そもそも事件をただの事件として扱っているのだとしたらあまりにもお粗末であるし(福岡なんぞに行かず、自分でテキストを買って読めばよい)、問題はもっと普遍的で根源的なのだ。
革命の零度
テキストが二冊目に突入すると、合宿の表層的な役割はほぼ終了する。何度も繰り返すが、合宿の本義を「内ゲバ」を軸とした新左翼諸党派への批判と「全共闘」運動の称揚として捉えるのはあまりにお粗末だ。何にしてもテクストに書かれざる思いを引き出し、著者の葛藤や決断を読み込んでこその人文学だ。まあ、それはさておき。ここでは"テクノロジーとしての革命"が完全に顛倒され、大衆、或いは有象無象、実体や顔のない曖昧な主体、器官なき身体としての「個」、或いは宇宙そのものとの関係に着地する新しい革命論が美学的に語られる。"革命は彼方より電撃的に到来する"というのはオーギュスト・ブランキの言葉であって、著者の念頭にブランキの言葉があるのかは不明だが、この新しい革命論の核心を非常に美しく簡潔に述べた言葉であると思う。この顛倒にはたいへん大きな衝撃を受けた。一目には理解できない非常に大規模で複雑な伏線が至る所に張り巡らされ、その回収の瞬間に大きな衝撃が私たちを襲う、というポイントがこの合宿には二つあるのだが、これがそのうちの一つである。
誰が革命を起こすのか
最後のテキストでは排外的ポリティカル・コレクトネス派(外山氏の一つのテーマでもあるのだろう)の出自や社会運動における党の一揆的蜂起や自然発生性的反乱への圧倒的な優位が、その唯一性こそが孕む危険を前提として語られる。アンビバレントな思いを抱える著者のその自己撞着への葛藤が伝わってくる最後の一文は素晴らしい名文であった。ここを精読することができれば、外山氏のファシストとしての理念や私たちが潜在的に感じている“民主主義”の欺瞞をかなりうまく消化できるだろうと思う。加えて、この最後のテキストは二冊目とセットで理解してはじめて価値ある示唆となる。10日間の構成の中で絶えずメタ的に、テクストの位置づけに付与された外山氏の思惑を意識し続けよう。
所感
まず、10日間の"詰め込み"がなす成果には尋常ならざるものがある。核心的ではないが単にノートをとっているだけでもキャッチできる情報の質と量が圧倒的に変化する。それを踏まえて講義の核心を丁寧に探れれば、革命的なものの訪れを身体に強く感じることができるだろう。
であるがしかし、正直なところ、外山氏の或いはテキストの著者の意図を精密に読み取っているOBOGはあまり多くはない。合宿によって何か“新しいもの”を得たという人間より、恣意的に切り取った"外山ism"を非常に猥雑な自説に援用している人間があまりに多すぎるせいで外山界隈は正当な評価を受けづらいのかもしれない。特にごく一部の、反PCやアンチ・フェミニズム的言説を垂れ流している外山派(笑)の醜悪な“運動”には正直目も当てられない。まあ、その類の人間はオモテの方の最高学府やその他の社会集団のどれに属したとて愚者であることは明らかなので相手をする必要もないのだが。
※追記
反PC・アンチフェミ系の外山派は大きくは確かにそうなのだが、なかなか難しい線引きなどがあり、概して雑に語ってしまったのは結構反省している。OB・OGに関しても合宿そのもの形態が試行錯誤的に変化してきたということが近年の研究で判明しておりそこらへんに関しても関係者には謝罪しておきたい。反面、このルポは記念碑的意味を持つものにもなるのでそのまま残させていただく。
合宿について
外山合宿の醍醐味はもちろん"お勉強"だけではない。合宿特有の諸々について話しておく。
死の23期とは
外山合宿"死の23期"。私たちはそう自称している。例の感染症が我々を襲った凄惨な記録をここに記しておこう。
そもそも外山氏はコロナは質の悪い風邪派なので合宿内での感染対策などは基本的にないに等しい、というかない。どちらにせよ10人以上の人間が普通の一軒家で寝食を共にするわけだから、したところで無駄と言えば確かにその通りである。まあこれほど(当時の感染状況はおそらく終息後の今振り返ってもピークに近かったように思う)の感染爆発が各地で起きているのだから予想できる事態ではあったのだが、合宿三日目、最初の犠牲者が出ることとなった。
第一の犠牲者M君は三日目の朝、軽い体調不良を訴えた。筆者は二度コロナに罹っていたため、症状を聞いてまあまず間違いなくコロナだろうと思っていたのだが、M君が頑なにこれは風邪であると言い張るのでそれ以上追及するのはよしておいた。しかし、午後になると彼は講義中であるにも関わらず柱にもたれかかり"うわごと"を言っていた。
その日は何とか彼も貫徹し、無事に終了したのだが、彼の様子はかなりおかしかった。風呂からあがり談笑する私たちの声を遮り「なあ、茨城弁って半分は詭弁なんやで」と言い放ち、深い闇の中へ去っていった時には我々は大いに戦慄したものだった。
その翌朝、二人目の犠牲者が出る。この時、おそらく外山氏を除くすべての人間がこう思っていた。「始まった」と。そしてさらに翌々朝に3人、その翌朝に2人の犠牲者が出ることとなった。講義室や至る部屋に死屍累々が積み上げられ、それでもなお前進する少数の精鋭と外山氏の姿はまさに"革命的な何か"の表象であり、この阿鼻叫喚は何らかの啓示であると思い込むほかなかった。毎朝、目覚める瞬間に生を実感し、夜にはまた明日の健やかなる目覚めを祈って寝る生活はここでしか体験のできないことだ。事態が悪化するにつれ、外山株の発生(学生の持ち寄った全国各地の株が急速的に変異する可能性を考えて)が現実味を増し、サナトリウム合宿やら山本桜子野戦病院(今回の炊事係と看病を担当してくださった)などといった謎の用語が氾濫しはじめ、明らかに極限状態における精神汚染が起こっていた。
“死の防波堤”
しかしながら、このような状態においても依然として感染せず、参加し続けたのが外山氏と三名の喫煙者である。以前からまことしやかに喫煙のコロナ感染への予防性は指摘されていたのだが、この合宿では極めて科学的にこの事実が証明されることとなった。うち、一名は喫煙者の強靭な身体を目の当たりにし、同じ道を歩むこととなり、外山邸は副流煙に包まれた。圧倒的数の暴力によって生成された煙は滞留し、大気中のタール値は15ミリ程度まで上昇していた。
新しい共産主義
ここで、TOBACCOMMUNIST PARTY(TCP タバコミュニスト・パルタイ)が結成される。大気中のニコチン・タール濃度を政策的に上昇させる(そもそもこの合宿には嫌煙権の持ち込みは許されていない)ことにより受動喫煙による私有喫煙の廃止へ踏み切ることが可能になったのである。随時党員を募集しているので参照のこと。
本党は受動喫煙によるニコチン・タールの共有に着想を得、これこそ真に革命的な共産主義であると気づいた外山合宿出身者により結成されました。
— タバコミュニスト・パルタイ(TCP) (@tabacommunist) August 11, 2022
空間の共有と心身性
我が総統、石原慎太郎都知事閣下(筆者はおひざ元、石原新自由主義大学東京の学生である)が晩年、芥川賞候補作品について「今の小説には心身性というものが一切感じられない」とおっしゃられあそばされなさったことがあったが、これは深刻な問題だ。まず、同じ釜の飯(合宿中の料理はどれも素晴らしく大変感謝しております)を食うこと、同じ部屋で目覚め、眠りにつき、夜を語り明かすこと。この経験によってしか生まれない"言葉の外"にある感覚。そこに生まれる人間関係。これを理解しないことには社会について、人間について論じる資格など一切ない。そう断言できる。その点、外山氏が我々が築いた大災害ユートピアをまったく理解し得ない生温いOBOGのオンライン参加を認めなかったことはたいへんな英断であった。疑似環境の乱立時代に同じ時間、同じ空間を生きる。この経験もまた外山合宿のもたらす素晴らしき教養の一部分なのだ。
※追記
情報の錯綜によって、過激なOB・OG批判がまた挿入されているのだが、当事者の方から後日お話を伺ったところ、事実とは異なる部分が多分にあったようでした。
未来の同志諸君へ
行かなければわからないという言葉は何も語らないことで多くを語る、と思う。というかそう言及するしかないのだ(これはファシストによる言論活動の検閲を示唆するものではない)。問題は身体性、心身性だ。知識だけ得たいなら、そのつまらない言語体系の中に組み込まれた世界に安住していればよい。我々は革命勢力である。画面の前の諸君。かの地、九州で会おう。同じ屋根の下で議論し、葛藤し、闘った我々卒業生の"記憶"はそこに眠っている。革命的なものを希求する同志諸君、外山合宿へ結集せよ!



コメント
1えー、
>>「なあ、茨城弁って半分は詭弁なんやで」
茨城弁をひらがなにすると“いばらきべん”であり、分割すると”いばら”と
”きべん”だから確かに茨城弁の(後ろ)半分は詭弁なんですね…
誰が得するんだこの注釈