鎌田さゆりの秘書として | Hiroko Yokotaブログ

鎌田さゆりの秘書として

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鎌田さゆり元衆議院議員の秘書となった。
何故?私が秘書に戻ったのか?心を込めて綴る。。。

話は、6年前にさかのぼる。
忘れもしない2013年参議院議員選挙投票日7月21日。 
5,102票差で参議院議員選挙に負けた。
当時、公設第一秘書をしていた私はその責任をとり、秘書の仕事を辞して、次の改選の参議院議員選挙が終わるまでは、誰の秘書にもならず、政治の世界へは戻らない。これからの6年間は、日々この責任を背負いながら、自分の1番大好きな職を辞すること、何より夢が叶っていた場所から離れることで、自らの責任をとり、御祓の6年間を過ごすと決意した日 だった。
こうして、私の6年間の御祓が始まった。

6年の月日が流れ、御祓の期間が終わり、私は再び政治の世界で生きる事を決めた。
私を拾ってくれた新たなボスが、鎌田さゆり元衆議院議員である。

鎌田さんは、私が6年前秘書をしていた岡崎さんの選挙で、選挙カーへ朝から晩迄12時間、乗車して下さり、岡崎さんの代わりとなり必死で走り続け、ご自分の声がガラガラになっても、訴え続けサポートしてくれた。岡崎選挙カーの中でも、一度も「鎌田さゆり」という名前をご自分では言わず、一人の運動員として戦ってくれたのだ。
鎌田さんが選挙カーへ乗車して頂き、岡崎さんを支えて下さったから、岡崎さんは17日間の選挙戦を最後迄戦うことができたと思う。

あの夏の戦いは、大臣経験者、宮城2議席の現職指定席だと誰もが思っていた戦いだった。しかし、選挙というものは、ましてや国政選挙。そんなに甘くはない。選挙の恐ろしさを身をもって、私は体験することとなった。

投票日迄、ラスト一週間。
新人候補者が猛威をふるい、並ばれてしまった。最後はどちらが勝に抜くのか?という戦いをしいられ、まさかの激戦となり、一気に全国の選挙区の中でも注目の選挙区となった。
ネット選挙が解禁された選挙でもあり、徹底的にネットで叩かれた。SNSが炎上する毎日。
全ての力を仙台へ集中「仙台決戦」という方針が掲げられ、後半の選挙カーの日程を全て変更し、選挙カーのメンバーを一新。戦力として、鎌田さんに選挙カーへ乗車してもらうことが決定した。
この厳しい選挙戦。岡崎さんを落選させるわけにはいかない。なんとしても勝ち抜く。
これが、選対の最終方針として打ち出された。

2013年7月21日投票日。事務所はご支持して下さった多くの皆様で埋め尽くされた。開票速報を見ながら、よくある選挙特番で、選挙事務所中継を対応しながら、各市町村の選挙結果を見守りながらの一喜一憂。拍手とため息。そして、最後の2つ目の議席を競う展開となった。

投票出口調査は、マスコミ各社違う数字だったので、最後まで分からぬ結果。どちらが勝っても負けても僅差の戦い。最後は、有権者の皆様を信じるしかなかった。
きっと岡崎さんに県民の皆様は希望を託してくれるだろうと。。。
しかし、その思いは叶わなかった。

深夜、仙台の票が開いた時に、NHKが相手候補に当確を出し、落選という最悪の結果で幕を閉じた。
まさかの結果に静まりかえる事務所。
結果が出てから事務所へ入るという当初の予定通り、岡崎さんは事務所へ到着した。事務所付近で待機している岡崎さんへ、落選を知らせたのは私だった。
「お疲れ様です。結果が出ました。事務所へ入って下さい」
「連絡ありがとう。今行きますね。」
と、いつもと変わらぬ岡崎さんの声を聞いた。
事務所へお集まりの多くのお支え頂いた皆様へ御礼と敗戦の弁を語る岡崎さん。カメラが向けられ、カメラのシャッター音が鳴り響く。テレビ中継が各社入り、インタビューが続く。
その様子の中で、一番辛かったは岡崎さんが深々とそして長い時間、頭を下げる姿を見つめた時だ。どんな思いだったのだろうか?結局、岡崎さんに聞くことすらできなかった。この姿を見た瞬間、私は、この責任は重く受け止めなければならない!と強く思った。
この時だった。鎌田さんが涙を流す瞬間を見た。事務所の入口付近で、顔を上げることなく、岡崎さんの落選の結果に涙を流していた。岡崎さんの敗戦の弁を聞きながら大粒の涙を流している姿。鎌田さんの涙。初めて見た。
つい最近、鎌田さんご本人が私に話してくれた。
「自分の選挙で落選した時も、当選した時も涙を流したことがない。人生で選挙の当落で涙を流したのは岡崎さんの選挙しかない」と。

公設第一秘書として挑んだ選挙。沢山の皆様のご支援を頂いたにも関わらず、岡崎トミ子という政治家を落選させてしまった。
先輩秘書さんから
「秘書は落選した選挙では、決して人前で泣いてはならない。涙を流すな」と若い時から教育されていたので、必死に涙をこらえたあの夜。支持者の皆様がお帰りなり事務所を閉めた真夜、私は車の中で一人で泣き続け、朝を迎えた。

投票日の翌日。私は、現実を受け止めることができず、新聞を見ることが出来なかった。まだ、目覚めることができずに、悪い夢を見ているのだ。と、この現実から、逃げていた。
ただ一つ言えることは、第一秘書としてのこの結果は、私の力不足だったということ。やれることがもっとあったはずだ。なんで負けてしまったのか?と。自分を攻め続けていた。
出した答えは、この現実を真摯に受け止め、私は私の責任をとること。つまり、政治の第一線から退くことだった。そして、6年間は、秘書にならないと決めた。
「そこまで、深く考える必要はない。」と岡崎さんからも周囲からも言われたが、これは私自身のケジメと責任の取り方であると決断した。
一度、自分の中で整理し、リセットして出直さなければ私は、ダメになると思った。そして、この日のことを6年間忘れはしない。悔しさも虚しさも悲しみも背負いながら、絶対に6年間は忘れまいと誓った。

「私の為に、共に戦ってくれたさゆりちゃんをなんとかしなくてはならない。選挙のご恩は選挙で返さなくては。国会へ戻さなければ!」
岡崎さんが、生前話してたことをふと思い出した。

「連座制によって、衆議院議員を辞職されてから、これまで、どんなに悔しく苦しい時間を過ごしてきたのだろうか?」と、話をしていた時もあった。あの事件を岡崎さんもずっと背負いなから、生きてきたのだ。

あれから6年の月日が経ち、鎌田さんから
「鎌田の秘書に」
と、ありがたい言葉を頂いた。そして、岡崎さんの言葉を思い出した。 
「さゆりちゃんをなんとかしなくては。」
こうして、私の責任と反省の御祓の6年間は終わりを告げ、あらたなミッションを遂行する為、私は「秘書」という職に、そしてこの場所へ戻った。

何故、私は秘書という職にこだわるのか?
よく聞かれる質問である。
一言で言うと、「秘書」という職業に誇りを持っている。何よりも、誰よりも「秘書」という職が大好きであるということだろう。自分で描く政治家の秘書像に少しでも近づきたい。
学問として学んできたし、現在も学生達に伝えるシーンもあるが、政治家の秘書の仕事はまさに総合商社。毎日違う24時間を過ごす。マニュアルや教科書に書かれていないことが山程あるから、常に緊張感をもって、スキルアップをしなくてはならない。政局を見ながら、情勢を読みながら選挙で勝ち抜く。勝っても、負けても、すぐに次の戦いが始まる。
見えないゴールへひたすら走り続ける。まさに、自分との戦いでもある。

高校2年生の時に、抱いた私の将来の夢が「秘書」だった。
当時、放送されたいた「ホテル」というドラマを見て、秘書に憧れた。スーツにハイヒール。片手にはスケジュール帳。かっこよすぎると高校生ながらの単純な考えだった。
どうしたら、秘書なれるのか?調べ、秘書になる為に秘書科があり、上級秘書士の称号をとるため、大学へ進学することを決めた。

大学一年生の春だった。
当時、村山政権で衆議院議員として、政務次官をしていた、岡崎さんと初めて出会った。統一地方選挙でうぐいすをしていた時、偶然にも岡崎さんが候補者の応援へ来て、選挙カーの中で一緒になった。
私が、仙台市議会副議長をした祖父の孫であること。秘書を目指し、秘書科の大学で学んでいることを話すとすぐに、大学生の私を招き入れ、事務所で勉強させてくれた。
大学生の私にとっては、国会議員の事務所に出入りできること。そして、テレビで見る国会議員と食事ができること。 毎日が新しい出会いと発見の繰り返しの毎日は学びの宝箱で、楽しくてしょうがなかったし、大学生の私に持たせてくれた「秘書の名刺」を受け取った時は、夢が叶ったと。。。涙が出るほど嬉しかった。

大学卒業と同時に、岡崎さんの正式な秘書になった。議員をしていた祖父の影響もあり、後援会の皆様、関係者の皆様に、とても温かくお迎えいただいた。また、祖父の存在の大きさを知ることもできた。

衆議院議員選挙で破れ、浪人時代を共に過ごした時期もある。また、描いていた秘書とは、政治家の秘書は違うのだと初めて分かった。
歳を重ねるごとに、政治の世界の裏切りを体験した。厳しさを学んだ。世論やマスコミに叩かれる事も経験した。組織で生きるということを深く学んだ。
落選した瞬間、波が引くように周りに人がいなくなることを目の当たりにした。
でも、それでも見捨てず手を差しのべてくれた人、お支え頂いた皆様の本当の優しさに触れることができた。「義理人情」という言葉の意味を深く考えることができた。

こうして、6年間の御祓を終えた。長かったのか?短かったのか?分からないけれど、この6年間の月日の流れの中での最大の悲しみは、岡崎さんとの永遠の別れであったことは間違いない。

「鎌田さゆり」という政治家と私の物語は、6年前から続いていて、巡り巡って、鎌田さんに拾ってもらい、私はここにいる。
「さゆりちゃんを、なんとかしなくては。選挙の借りは、選挙で返して、国会へ戻さないとね」
あらためて、岡崎さんの言葉を心へ刻んだ。

「秘書」とは、縁の下の力もちとして、日々精進すること。目配り、気くばりを常に持つこと。秘書の評価は、周囲がするのではなく、全てはボスの評価であること。そして何があろうと、ボスを信じ支えてゆくこと。私の学問と経験から成り立つ【秘書学】である。

組織を強くする為、仲間を増やす一心で懸命となって、走り続け、マイクを持ち、選挙カーで候補者の応援をするボスの姿に、何度も心が打たれた。
誰かの為に、こんなにも一生懸命になることができるのだと。嫌がられても煙たがられても、一人前の議員にしようと指導する様子に、昔ながらの大物政治家達の姿を重ねた。そして、あらためて、「鎌田さゆり」という政治家の秘書になれたことを心から嬉しく思う。そして、拾って下さったご恩に報いることができるようにと、決意を新たにした。

私の御祓の6年間。
時が、こんなに流れたはずなのに、こうして記憶を辿りながら綴ることができた。6年経っても、私はちゃんと覚えていた。しかも、はっきりと鮮明に。6年前の悔しさも虚しさも後悔も忘れず、6年前にした6年後の自分との約束を果たすことができたように思う。

この6年間。
決して無駄な時間ではなかった。政治の第一線から離れてみて、あらためて政治の世界を見ることができた。そして、私はやっぱり「秘書」という職が一番好きなのだとあらためて思えた時間でもあった。
多くの景色を見ることで、学ぶこと沢山あった。
生半可な考えで、「秘書」に復帰したつもりはない。覚悟をもって、これからの歩む道を決めた。

旅立った岡崎さんと新たなるボス鎌田さんに誓うことは、ただ一つ
「必ず国会へ戻すこと。」
この道のりは、決して楽な事ではない。容易な事でもない。厳しくもあり、険しい道のりであることは、百も承知の上での選択であった。

もしかすると、私の御祓はまだ続いていて、ボスを国会へ戻すことで、全ての御祓を終えることができ、この物語は、終止符を迎えるのかもしれない。

秘書人生【第二章】
久しぶりの「秘書」の肩書きに恥じぬよう、私の描く秘書道を信じて歩んでいく

巡り巡って ここに辿り着いた

私の【秘書学】に完成形などない
だからこそ
ボスを支えることができる一人前の秘書になり、初心に戻る 

これが私の歩む秘書道。。。



新たなる約束
この朝陽に誓う

©️sendai photo offce MIMURA

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