俺的競馬考〜のべつまくなし競馬と人生 第1回
競馬を基に、様々なことを考える。不定期連載です。
競馬とは何か?
「競馬とは何か」
競馬ファンであれば誰もが一度は突き詰めて考える質問だろう。
もちろん人によって答えはそれぞれだが、それは「切り口」の問題である。
競馬をギャンブルとして見ている者、スポーツとして見ている者、データの蓄積として見ている者、愛玩動物のショーとして見ている者…全て切り口は異なり、それによって競馬イコール何か、という答えも変わってくる。
私の場合は、レースに至るまでのプロセスを、最もわかりやすい結果が示してくれるもの。複雑さとわかりやすさのコントラストこそが、競馬だと考える。
牧場関係者から始まり、馬主、調教師、厩務員、騎手、全てのプロセス。配合を考えるという、まだ何も産まれてすらいない段階からの全ての過程を、「最も早く回ってきたものが勝ち」という呆れるほど単純な結果によって規定するのが競馬だ。
ファンにとっても同じだ。G1であれば遅くとも2週間前には登録馬が発表され、そこから各々が知恵を振り絞って馬券を考える。クラシックであれば前年の6月から、POGなどに至ってはデビューすらしていない馬に目をつけて楽しむ。
そのような長い長いプロセスを、たった3分という、対比すれば一瞬にも等しい時間で決めてしまう単純明快さと残酷さ。それが、競馬の魅力でもあり怖さでもある。
結果がすべて、とはどういうことか
競馬に限らず、プロの世界は結果がすべてだと人は言う。これはすなわち、それまでの過程を全て無視し、結果によってその価値を決定し評価することに他ならない。
一般的な企業であれば、例え結果が芳しくなくても、普段の働きぶりであるとか、仕事に対する姿勢と言ったところで多少色は付けてくれるだろう。
しかし、プロの世界では例え死ぬほど練習をしていようが、真摯に競走に参加していようが、結果が出なければ評価されることはない。そういう選手はいつか淘汰され、姿を消すことになる。
「新しい価値観」の本質
ただし、これは「数字の観点」に限る話だ。選手をランク付けするにあたり、平等で客観的な評価を与えるために数字が持ち込まれただけの話であって、非常に機械的なものである。
もちろん平等や客観的という視点は必要不可欠だが、それ以外-人間的な部分も無視してはならない。
私は以前、「一流半は愛される」という表現で、一流になりきれない選手はファンの愛が実績を補完する、という記事を公開した。
数字に現れてこない部分、それこそ競走に対する姿勢などをファンが愛し、新たな評価を与える。これが「結果がすべて」とは言いきれない部分であり、「新しい価値観」の本質の一部である、と私は考える。
わかりやすい結果を求めすぎてしまう
競馬を見すぎると、わかりやすい結果を求めすぎてしまう嫌いがあると私は思う。
「過程はいいから結果を早く出してくれ」、と結果を急かすあまり、私は随分と「せっかち」になってしまった。これは良くない。
世界はそんなに単純ではなく、人の数だけそれぞれの事情があり、それが絡み合って結果として表出する。
情報が氾濫し、脳が情報で犯され「多忙化」した現代において、結果を早く出せ、と人は急かしすぎているのではないだろうか。
完成した料理を何も考えずかき込むよりも、それぞれの食材や調理法など、様々なことに思いをめぐらせしっかりと考え味わう。そのような姿勢が、今の情報社会に求められる「現代人のゆとり」ではないだろうか。
これからの責任世代に求められるのは「熟慮断行」。様々な情報をしっかり考え、スパッと行動する。行動は早く、次の手を考える時間を長く確保できるように。
目先の数字だけを追うのではなく、様々な切り口、視点で考えることが真に必要だと主張し、第1回の執筆を終えたいと思う。
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