島尾敏雄「マヤと一緒に」

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島尾敏雄「マヤと一緒に」(出発は遂に訪れず、新潮文庫)

(島尾マヤ)

2002年没

島尾 マヤ(故島尾敏雄氏の長女)

腹膜炎のため死去、52歳

写真家島尾伸三氏の妹

(本作について)

1961年(昭和36)44歳の作品、36ページ

(診察室)

私とマヤは、病院で診察を待っている

私は胃の診察

マヤは言語障害の診察

(マヤの発病)

「発音がもつれ、聞き取りにくい言葉しか言えなくなってからマヤの発言は控えめになり、体全体で何かを伝えたがっている」p315

(神経科)

「今までに、幾人かの医師の診察を受けたが

言語障害の原因がつかみ出せない」p316

「診察の時に、声を出し、舌を動かせたことがない」p317

(女子医局員の検査)

若い女性の巧みな誘導で「少しずつ物を言い出す」p319

「もう十歳になっているとは思えない

同じ年頃の少女たちと比べると、深い違いにめまいがしそうだ」p319

(発病)

「マヤはこの一二年の間に言葉の障碍がはっきりあらわれ次第に隠せないものになった

島の病院では病因がつかめない

K市の病院の診断でも、今までの診断を越えず治療法も変わらない」p321

(原因)

ありもとの推測である

息子の伸三と娘のマヤは「死の棘」に描かれた、妻ミホの発狂と敏雄の精神異常とに日夜疲れ果て

虐待を受けたに等しい心の傷を受けている

 

今ならPTSD(トラウマ(心の傷)を受けた後のストレスによる精神疾患)にあたるだろう

 

マヤは、父親には話ができるのだが、そのほかの人には全く会話ができない 発音も聞き取りにくい

これは、家では会話できるが学校では全く会話できない場面緘黙の症状に似ている

場面緘黙は、家庭内の精神的なショックなどで起きる心因性のものである

声を失う失声症も同様である

(償えぬ過ち)

私とマヤは外に出た

「こうしていてよいのかという不安から逃れることができない」p322

 

「妻や子どもと離れた遠くにいること自体

<どうしても償えぬ過ちでもあるかのように>私に無理強いする」p322

 

「償えぬ過ち」とは、不倫した女との過ちである

洗礼を受けたクリスチャンである島尾がキリスト教による悔い改めをし、「罪を償うこともできない」と絶望している

 

「私」と島尾敏雄を同一視することは問題がある

作家が私小説を書く時、正確な事実を書くことは稀だからだ

しかし、概略は、そう考えてよいだろう

言外には、私はマヤの発病の責任も感じていると思われる

(償う方法)

償い切れない罪を償うために、私はこう考える

「私はどこに行く時でもマヤを伴うだろう。

マヤの観察の圏外に自分を置くと、

とたんに<醜い黒い影>につきまとわれた自分の姿が浮かんでくる」p323

「醜い黒い影」は罪を犯した不倫相手である

(家族一緒)

どうしてもしなければならぬことは

「家じゅう四人が離れないで、島の中にいつもいっしょにいることだ」p324

 

私は「悪魔から逃れる唯一の方法は」

「一家四人が島の中にいつも一緒にいることだ」と断言する

 

だから「マヤと一緒に」なのだ

「マヤと共に」という抽象的な冷静なことではなく

「マヤと一緒に」という肉と肌を寄せ合った家族愛に救いを求めているのだ

ほかの日本近代文学に類例がない

 

それは、家族愛を強調するキリスト教信仰の深まりを感じさせる

しかし、日本文化の中で異質な思想だから、脆弱さも感じさせずにはいない

(家族愛とキリスト教)

マザーテレサは、ノーベル平和賞を受賞した時

「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか?」と聞かれて

「『家に帰って家族を大切にしてあげてください。』」と答えました

また、

「愛は家庭から始まります。どれだけの行いをしたかではなく、どれほどの愛を行いに込めたかが重要です。」とも言いました

 

家族愛をイエスが唱えたわけでもなく、家族を持ったわけでもありません

しかし、クリスチャンは「大草原の小さな家」のように家族を愛します

 

これは、

9:マタイによる福音書/ 19章 19節

父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。

11:マタイによる福音書/ 22章 39節

隣人を自分のように愛しなさい。

などから来ている

家族は、一番近しい隣人だからだ

 

(女らしさ)

「(マヤには)もうひとかどの女らしさが現れていて、小さいままに成女の相が出ている」p326

マヤの病気との戦いがメインテーマなら、

マヤの女性としての成熟がサブテーマになっている

そこに、キリスト教的な希望が現れている

つまり、復活、蘇りである

(復活)

4:マタイによる福音書/ 20章 19節

異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。

最悪の死を迎えても神を信じれば復活する、生き返る

これが、クリスチャンの抱く希望です

(初潮と希望)

マヤの下着に血がついていた

私は十歳の子にそんなことがあるかと疑うが

紛れもなく始まったのだ

「マヤ、ねんねしなさい。

心配しないでぐっすり眠るんだよ」

(考察)

(障害児を扱った稀有な小説)

だと思う

同時に障がい児の父の心情を自ら描いたことも貴重だ

マヤは健康体だったのに病を得た

どういう過程を辿ったのかわからないが

52歳で夭折している

(伸三の話)

伸三に言わせると

「妹、マヤの死は、十年経っても、私を悲しませるのに充分です。

どうして彼女を、狂った母の家から救い出せなかったのか……とです。

闇のなかに今も輝きつづける霊であることを私は知っています。暗い気持ちになっている時には、特にそれを思い知らされるからです。

一度は救い出すことに成功したのですが、三年経ったころに、また母に引き戻されてしまい、マヤはそれから八年もしないうちに、骨だけにまで痩せ細って、死んでしまいました」

(「小高へ 父 島尾敏雄への旅、島尾伸三」)

(結語)

伸三の話がどこまで真実かも、敏雄やミホの話がどこまで真実かも、赤の他人の憶測がどこまで真実かもわからないとしか言いようがない

 

ここにあるのは、「マヤと一緒に」という家族愛と深い信仰に溢れ、悔い改めて生きようとする島尾敏雄と言う作家の書いた創作である

 

どこまでが、事実でどこからが創作なのか、あるいは何を書かないで、何を誇張して書いたかもわからない

 

ここにあるのは、深いキリスト教信仰に基づいて、自らの過失によって病を得た愛娘に対する深い懺悔と愛情である

 

なぜ、私は体調が万全でない病気の娘を連れて来たのだろうか

病気の原因が突き止めたかったからである

しかし、それは初めからわかっていることであり

今なら治療できたかもしれない

島尾伸三の言葉が本当なら、マヤはミホから離すべきだったろうが

では、だれが育てるかと言う問いにはだれも答えられない

 

誰もが悔い多い人生を送っている

誰もが罪深い人生を送っている

誰もが大なり小なり子育てに失敗する

しかし、キリスト教は、これでおしまいだとは思わない

悔い改めに遅すぎることはない

どんなことがあっても、復活と言う希望を持ち続けている

2021年10月28日

主よ、子育てに苦しむすべての親が、過ちを悔い改め、後半生で罪を償い、愛情に溢れた家族を復活することができますように

アーメン

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