8-28 地上にも何もない
凶悪な魔王ならば幾人も存在する。
異常性、異端性に富んだ特殊な魔王ならば幾人も実存する。
だが、色香が極まった魔王はたった一人のみだ。それが『淫らな夜の怪女』と呼ばれる魔王、淫魔王である。
淫魔王が、多数の大型モンスターを引き連れて目前にいる。
「この子達に無用な殺生をさせたくないから待っていたのに、困ったわね」
熟れた体付きが巨大モンスターの背中で寝転がり、肘を付く。
半裸に等しい体付きは豊満。体を隠しているのは濃い色合いの鱗だけなので、本当は全裸なのかもしれない。ラミアという半人半蛇のキメラに似ているが、同様の特徴を持つ種族は多いので特定は難しい。
淫魔王は顎先を撫でるような声の持ち主だった。バッドスキルの一つ、『淫魔王の蜜』を与えた張本人であるが、そんなに面識が深い相手ではない。
……淫魔王を前にした男が、そう何度も理性を保てるとは思えない。
『はぁ、あうえ、余は何でこんな状況で、はぁはぁっ!』
少年顔のアニッシュでさえ、興奮を押さえきれずガクガクと震えだしてしまっていた。
「……顔を赤くしたり、青くしたり。その坊や、危ないわよ」
魔界の生態系は多様だ。色欲を司る種族がいない訳ではない。スキャバスが代表格となるが、淫魔王にはスキャバスのように品のない淫靡さは皆無である。
高級遊郭の花魁とも違う。
魔王に対して使う表現ではないが、美の女神というのが最も適切だ。
「――沈黙、睡眠、催眠月。精神が熱でうなされて、焼け焦げる前に眠らせます」
月桂花の魔法によりアニッシュが強制的に眠りに落ちる。淫魔王の視線を受けてから興奮状態に陥りかけていたため、月桂花の対処方法は正しい。
意識を失ったアニッシュを支えながら、淫魔王を睨み付ける。
俺も男なので淫魔王の異常な色香による影響を受けているが、『破産』スキルで防いでいる。
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“『破産』、両手から消え去った金に泣くスキル。
資産がなくなった圧倒的な喪失感により精神崩壊する。既に精神異常状態であるため、魔法やスキルによる精神攻撃を拒否できる。
垂れた顔になるのはスキルの仕様ではない”
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「そっちの不思議な仮面の子は耐えているの。偉いわ」
「それで、クソ。これかよ」
防いでいるが……それでもランニング直後みたいに心拍数が高まっていた。淫魔王は存在自体が男性にとって毒々しい。
男が淫魔王と対峙するのは相性的に厳しい。とはいえ、淫魔王のパラメーターはそう高くないように感じられる。倒すだけなら、吸血魔王よりも容易なはず。
だが、それは淫魔王が単身でいるのならば、という贅沢な前提付きだ。
俺達は既にスロープを上がってくる大型モンスターの大群により、完全に囲まれてしまっている。
地を這うオオトカゲ。
枝分かれした角を突き出すトナカイ。
長い舌を伸ばすカメレオン。
『モっ、『鑑定』! あ、あっちはレベル50!? こっちはレベル43。あの大きいのはレベル63!! 何でこんなに高レベルなモンスターばっかり』
一体一体が強力な力を持つ怪物ばかりだ。レベルは40から60。迷宮魔王の三騎士、パラメーターだけならばオルドボやメイズナーを凌駕する個体だって簡単に見付かる。そんな怪物が百体以上も集まっているとなれば、最初から抵抗する気になれない。
餌として認識されている俺達がまだ殴殺されず囲まれているだけなのは、淫魔王が荒ぶる大型モンスターの頭を撫でて抑制しているからだ。
妙案などない。か弱い俺達はただ身を寄せ合う。
俺達の命は、淫魔王の気分一つで終わる。
「そこの仮面の子。もっと顔を見せなさい」
ふと、淫魔王は俺に興味を持ち指名してきた。断れる理由ではないので、首の角度を調整する。
「…………貴方が、強い子であれば良かったのに」
淫魔王は何かを呟くと、一瞬だけ残念そうな表情を見せる。
けれども、そんな事はなかったというような優しい微笑みを向けてくると、周囲のモンスター共に命じた。
「可愛い子供達。母は早く地上の風を感じたいわ」
まさかという気分であるが、淫魔王は、俺達を見逃した。
大型モンスターは未練なく俺達から目線を外して、地上への侵攻を再開する。
「ここを通るのは私と子供達が最後です。生き残りたければ、少し待ってから地上にお上がりなさい」
淫魔王が寝そべるオオトカゲもスロープの上を目指して、群れの中に消えていく。
群れの後続も俺達五人を避けて通過していき、最後の一匹までもが淫魔王の命令を忠実に守って素通りしていった。
「どうして、淫魔王は俺達を見逃した??」
群れが完全に去った後、息を吹き返したかのように深い深呼吸を行う。
「凶鳥様の人外の人望としか言いようがありませんわ」
「この仮面の所為で、むしろ気に入られないものなんだが」
『キョウチョウさんを見ている目が、情愛に満ちたものに感じられましたが?』
「むしろ敵のはずなんだが。リセリの気のせいだろう」
命拾いしたとはいえ、理由が分からないのはやっぱり納得できない。
その後、淫魔王の忠告通りに時間を置いてから俺達は地上を目指した。
どこまでも続く螺旋のスロープの上を歩き、眠り、また歩く。このようにして歩き続けて、とうとう出口に到着し、俺達は久しぶりに太陽の日差しを浴びた。
時刻は夕方らしく、赤い光が眩しく懐かしい。
「色々あったが、生きて戻れたぞ!」
つい、雄叫びを上げたくなった。釣られたのか、アニッシュも声を上げる。
『そうだっ。余達は、生きている!』
生還を喜ぶ俺達を祝福したのは、地上でしか味わえない風の心地良さ。それと壁で閉鎖されていない地平線まで続く広々した景色だ。
『余は生きているのに! 始め、地下迷宮の街を訪れた時、余は三人であったのにっ! 余だけが生き残ってしまって。余は余はっ――』
平坦で何も残っていない荒野を、夕刻の冷たい風が通り過ぎている。
三百六十度、何もないから風が心地良い。
『――街は?』
ダンジョンの入口にあった荷馬車の停留場はもちろん、冒険者が行き来していた舗装された道も、その向こうにあった街も、何一つなくなってしまっている。
安普請な宿場もない。
夕食を楽しんだ複雑な歓楽街もない。
俺を含め、大量の奴隷を商っていた市場もない。
残っているのは平坦化という破壊の痕跡。ハンマーで丁寧に潰していったかのように、目に見える全域がヒビだらけだ。すり鉢で潰していったかのように、建物の瓦礫すらも小さく潰されてしまっている。
大破壊が行われた、という証拠は広く残っているのに、その手法だけが分からない。
モンスターの大群が街を襲ったにしても、ここまで丁寧に潰す理由がない。
『街は、どこに消えたのだ! 人は、どこに消えたというのだ!!』
ただし……地平線の先に見えている物体。城のように巨大な直方体が犯人だとすれば、なるほど、と納得できるかもしれない。
黒く磨かれた面が、夕日に照らされて光っている。
大きな面が夕日を遮っているため、長方形の長い影が山一つを覆ってしまっている。
直方体の人工的で均一な造形は、どことなく墓石を思わせた。
『あれは、何?!』
「アイサで分からないのなら、俺も分からない。リセリや月桂花は知っているか?」
『無法者の街であったが、それでもナキナの一つであったというのに! 皆はどこに消えたのだ!!』
直方体の正体は、俺とアイサ以外は知っていた。
頻繁に侵攻されている人類圏の国民には馴染み深い魔王のようだ。
『お前もか。お前も、魔王連合とやらなの一柱なのかっ! 『行軍する重破壊』墓石魔王ッ!!』
黒い直方体はなかなか地平線の向こうに消えなかったが、太陽が沈むのと同時、アニッシュの声が枯れる頃には遠くに消え去った。