「プロ野球史上最弱チームはどこか?」を触れたばかりだ。長いスパンで見れば、暗黒時代の阪神タイガースであることを書いた。
しかし、私の心のなかに強烈な印象を植え付けたのは、
2002年~2003年のオリックスブルーウェーブ
である。
なぜか?2年の間で記録的貧打と記録的投壊の両方を味わったからだ。だいたい2年であれば、どちらかが極端に悪く出て低迷するのが普通である。いかにチグハグなチーム状態だったかがわかっていただけるはずだ。
谷佳知選手、金田政彦選手、ク・デソン選手の2002年と2003年の成績を下記に挙げておく。この2年間のチーム状態を反映しているからだ。なお、赤字は当該年度のタイトル獲得を表す。
谷佳知
2002年 138試合打率.326 5本塁打39打点41盗塁
2003年 137試合打率.350 21本塁打92打点9盗塁
金田政彦
2002年 23試合4勝9敗 防御率2.50
2003年 14試合4勝5敗 防御率4.12
ク・デソン
2002年 22試合5勝7敗 防御率2.52
2003年 19試合6勝8敗 防御率4.99
2002年。
140試合50勝87敗3分け勝率.365。
阪急ブレーブスだった1963年以来の最下位だった。石毛宏典監督を迎えたが、石毛監督の采配の拙さはダイエーホークス二軍監督で実証済みだったはずである。なぜこんな監督を迎えたのか理解できない。
チーム防御率は3.58、チーム失点は547と、ともにリーグ2位だったのに、チーム打率.235、チーム本塁打チーム得点438と、ともにリーグワーストと記録的貧打が響いた。打線では谷佳知選手が盗塁王を獲得して唯一気を吐いた。2点差以内で23勝44敗、いかに貧打線が投手陣を見殺していたかがよくわかる。
この年のオフ。ブラウン、オーティズ、山崎武司など長距離砲を補強し打線を強化した。投手陣もドラフト2位でマック鈴木、メジャーリーグから吉井理人を補強した。しかし、翌年に真逆の結果になると誰が予想したか。
2003年。
140試合44勝84敗4分け勝率.353。
2年連続最下位だった。しかし、チーム成績ではセ・リーグ最下位の横浜ベイスターズの.324を上回っている。チーム打率はリーグ2位の.276、チーム得点も652点と大幅に改善したが、チーム防御率は現在でもプロ野球ワーストの5.95、チーム失点は927点と、前年とは逆に改悪した。
特にダイエーホークス戦は酷かった。6月以降、20失点以上を4試合した。特に8月1日は1-29で大敗した。どこかの高校野球の予選会並のスコアだった。プロ野球では点差が開きすぎていても9回までは試合するから、当日観ていたオリックスファンは泣きたかっただろう。しかもその前後6試合で91失点を喫した。投壊はレオン監督だけではどうすることも出来なかったに違いない。投手陣が相次いで故障し、規定投球回数(試合数と同じ数)に到達した投手が誰もいなかったこともあるが、それにしても前年との差が余りに酷すぎる。
こんなチームに誰がしたのか?今思えば、1997年あたりから弱体化の足音が響いていた。日本一の翌年の1997年、シーズン途中で本西厚博、馬場敏史をトレードで放出した。特に守備面で貢献した両選手を簡単に放出したことが優勝から遠ざかる要因になった。前半終了時には首位に立つも、後半失速して優勝を逃した。これを境に優勝争いに顔を出すことがなくなった。仰木彬監督の力量で辛うじてAクラスになっていたが、チーム力は確実に無くなっていた。ドラフト指名でも高校生ルーキーをじっくりと育てられずに即戦力選手を求めた。しかも下位指名選手に契約金を与えなかった。しかも即戦力として入団したほとんどの選手が5年以内で球界を去った。今はその頃よりも財政も戦力が潤ってきたが、未だに低迷期を抜け出せないでいる。
プロ野球ファンの方へ、2002年、2003年のオリックスブルーウェーブを笑うことが出来ますか?

石毛宏典監督。ダイエーホークス二軍監督時代、スタメンをあみだくじやじゃんけんで決めるなど、監督としての技量を疑問視されていた。然るべき結果になったとも言える。

現役時代はロッテなどで活躍した、レオン監督。攻撃的布陣を敷くも、投手陣の相次ぐ故障や守備力を軽視して投手陣崩壊を招いた。この年限りで辞任。

2003年8月1日、オリックスブルーウェーブ対福岡ダイエーホークス戦。1-29と記録的大敗を喫した。3回までに23失点と、2003年の投壊を象徴する試合だった。

谷佳知。この2年間は活躍して一人気を吐いた。

金田政彦。2002年には背番号11を背負い、最優秀防御率を獲得するも4勝9敗。打線の援護に恵まれなかった。

ク・デソン。2002年には金田政彦に次ぐ防御率2位。打線の援護に恵まれなかったのが残念だった。
しかし、私の心のなかに強烈な印象を植え付けたのは、
2002年~2003年のオリックスブルーウェーブ
である。
なぜか?2年の間で記録的貧打と記録的投壊の両方を味わったからだ。だいたい2年であれば、どちらかが極端に悪く出て低迷するのが普通である。いかにチグハグなチーム状態だったかがわかっていただけるはずだ。
谷佳知選手、金田政彦選手、ク・デソン選手の2002年と2003年の成績を下記に挙げておく。この2年間のチーム状態を反映しているからだ。なお、赤字は当該年度のタイトル獲得を表す。
谷佳知
2002年 138試合打率.326 5本塁打39打点41盗塁
2003年 137試合打率.350 21本塁打92打点9盗塁
金田政彦
2002年 23試合4勝9敗 防御率2.50
2003年 14試合4勝5敗 防御率4.12
ク・デソン
2002年 22試合5勝7敗 防御率2.52
2003年 19試合6勝8敗 防御率4.99
2002年。
140試合50勝87敗3分け勝率.365。
阪急ブレーブスだった1963年以来の最下位だった。石毛宏典監督を迎えたが、石毛監督の采配の拙さはダイエーホークス二軍監督で実証済みだったはずである。なぜこんな監督を迎えたのか理解できない。
チーム防御率は3.58、チーム失点は547と、ともにリーグ2位だったのに、チーム打率.235、チーム本塁打チーム得点438と、ともにリーグワーストと記録的貧打が響いた。打線では谷佳知選手が盗塁王を獲得して唯一気を吐いた。2点差以内で23勝44敗、いかに貧打線が投手陣を見殺していたかがよくわかる。
この年のオフ。ブラウン、オーティズ、山崎武司など長距離砲を補強し打線を強化した。投手陣もドラフト2位でマック鈴木、メジャーリーグから吉井理人を補強した。しかし、翌年に真逆の結果になると誰が予想したか。
2003年。
140試合44勝84敗4分け勝率.353。
2年連続最下位だった。しかし、チーム成績ではセ・リーグ最下位の横浜ベイスターズの.324を上回っている。チーム打率はリーグ2位の.276、チーム得点も652点と大幅に改善したが、チーム防御率は現在でもプロ野球ワーストの5.95、チーム失点は927点と、前年とは逆に改悪した。
特にダイエーホークス戦は酷かった。6月以降、20失点以上を4試合した。特に8月1日は1-29で大敗した。どこかの高校野球の予選会並のスコアだった。プロ野球では点差が開きすぎていても9回までは試合するから、当日観ていたオリックスファンは泣きたかっただろう。しかもその前後6試合で91失点を喫した。投壊はレオン監督だけではどうすることも出来なかったに違いない。投手陣が相次いで故障し、規定投球回数(試合数と同じ数)に到達した投手が誰もいなかったこともあるが、それにしても前年との差が余りに酷すぎる。
こんなチームに誰がしたのか?今思えば、1997年あたりから弱体化の足音が響いていた。日本一の翌年の1997年、シーズン途中で本西厚博、馬場敏史をトレードで放出した。特に守備面で貢献した両選手を簡単に放出したことが優勝から遠ざかる要因になった。前半終了時には首位に立つも、後半失速して優勝を逃した。これを境に優勝争いに顔を出すことがなくなった。仰木彬監督の力量で辛うじてAクラスになっていたが、チーム力は確実に無くなっていた。ドラフト指名でも高校生ルーキーをじっくりと育てられずに即戦力選手を求めた。しかも下位指名選手に契約金を与えなかった。しかも即戦力として入団したほとんどの選手が5年以内で球界を去った。今はその頃よりも財政も戦力が潤ってきたが、未だに低迷期を抜け出せないでいる。
プロ野球ファンの方へ、2002年、2003年のオリックスブルーウェーブを笑うことが出来ますか?
石毛宏典監督。ダイエーホークス二軍監督時代、スタメンをあみだくじやじゃんけんで決めるなど、監督としての技量を疑問視されていた。然るべき結果になったとも言える。
現役時代はロッテなどで活躍した、レオン監督。攻撃的布陣を敷くも、投手陣の相次ぐ故障や守備力を軽視して投手陣崩壊を招いた。この年限りで辞任。
2003年8月1日、オリックスブルーウェーブ対福岡ダイエーホークス戦。1-29と記録的大敗を喫した。3回までに23失点と、2003年の投壊を象徴する試合だった。
谷佳知。この2年間は活躍して一人気を吐いた。
金田政彦。2002年には背番号11を背負い、最優秀防御率を獲得するも4勝9敗。打線の援護に恵まれなかった。
ク・デソン。2002年には金田政彦に次ぐ防御率2位。打線の援護に恵まれなかったのが残念だった。
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