死に値する罪とは何か──集団ブロックと「メタバース村八分」の静かな暴力に抗って
clusterをはじめとする「メタバース」という仮想空間は、本来なら現実以上に多彩で自由な交流ができるはずの場所です。
しかし、そこで私は「見えない村八分」を体験しました。
きっかけは、「つ」さんによるメタバースDJ練習場での、私の愚痴でした。
村八分の始まり
2025年6月27日13時、あるとき私は、「最近ついてないんだよね」と弱音を漏らしました。
TommyTuckerから罵られた・MacのSSD認識不良・以前のようなDJができなくなった・仕事でミスをした…。
長いこと話したので、その言葉が場の空気を曇らせたのかもしれません。
それを受けてある人からブロックされ、私は強いショックを受け、「なんだお前、ブロック?ふざけんなよ」と怒り狂いました。
すると、その場にいた方が指摘してくださったので、すぐに我に返り、「自分が周囲に不快な思いをさせた」と反省し、すぐに謝罪しました。
自分の未熟さを認め、誰かを傷つけたのであれば謝る──これは、社会的に当然のマナーであると同時に、人間としての誠意でもあると私は思っていたからです。
翌日、関係者のところを周って謝罪し、改善の意思を表明しました。
しかし、それでも事態は終わりませんでした。
集団ブロックのつるぎで
2025年6月30日、今回の事件とは無関係なはずの「とろろろろろろ」さん、「?」さんが、次々にブロックしていったのです。
いずれも直接的なやりとりはなく、理由の説明もありません。ただ静かに、私の存在は、彼らの世界から消されていきました。
さらに、2025年7月1日、DJ練習場の管理者代理役だった「でと」さんのDJパフォーマンスを「いい曲ですね」と素直に称賛したわずか数分後、またしてもブロック。
そして、最終的に「zakosiki」さんにもブロックされました。
この時点で、私ははっきりと自覚しました。
これは偶然ではない。「メタバースにおける村八分」、つまり、説明も対話もないままに、「空気を読んで」人を消して排除する、「おかしな構造」が起きているのだと。
私も愚かだった──しかし、対話すら拒むその姿勢に疑問を抱く
私は、自分の発言が場の雰囲気を悪くしてしまったことを、今でも申し訳なく思っています。
誰しも、気づかぬうちに人を傷つけることはあります。だからこそ、私は謝罪しましたし、誠実でありたかったです。
けれども、対話の機会すら与えず、一方的に集団でブロックし、理由も告げずに人を「存在しないもの」とするやり方は、果たして「正義」であり「真理」なのでしょうか?
そうした行為に潜むのは、「人は過ちを犯したら終わり」「一度間違えば、もう関わる価値がない」という、過酷で冷たい価値観です。
しかし、果たして私たちの誰が、完全に罪のない存在なのでしょうか。
聖書が語る「赦し」の力
聖書には、次のような言葉があります。
「あなたがたのうち、罪のない者が、まずこの女に石を投げよ」
この言葉は、「姦通の罪」で石打ちにされそうになった女性を前に、イエス・キリストが語ったものです。
しかし、誰一人として石を投げられませんでした。人は皆、何かしらの罪を抱えているからです。
もう一つの聖句にも、こうあります。
「すべての人は罪を犯しており、神の栄光を受けられなくなっています」
つまり、人間は誰しも不完全であり、だからこそ他者に対しても寛容であるべきだ、というメッセージが繰り返し語られているのです。
「メタ村八分」という構造的な問題
現実の村八分は、共同体からの排除や無視として現れます。メタバースでは、それがより静かで、より無機質な形で現れます。
対話の拒絶:説明もなく、関係修復の機会を奪う
感情の不可視化:相手の苦しみや誤解を知ることもできない
集団による同調排除:一人が排除されると、他の人も「空気」を読んで追従する
こうした「空気による排除」は、一見合理的でクリーンに見えるかもしれません。けれども、そこには他者への想像力や、関係性を回復しようとする努力が決定的に欠けているのです。
エコーチェンバー構造の危険性
排除の文化が定着していくと、メタバース空間には「エコーチェンバー(反響室)構造」が生まれます。
これは、自分と似た考えの人たちだけが集まり、異なる意見や立場がどんどん排除されていく現象です。
「この人は空気を悪くする」
「みんなが不快に思ってる」
「私もなんとなく嫌だったから、ブロックしておこう」
このように、“空気”や“感情”がフィルターとなって、異なる視点や不器用な声が遠ざけられる。
結果として、その空間では本当の対話が成立せず、同じような価値観だけが反響し続けるようになります。
知恵ある者は忠告を聞き入れる。しかし愚か者は、自分の意見を正しいと見なす。
他者の声を聞かない空間は、やがて知恵を失い、成長を止めてしまいます。
誰もが似た考えに染まっていく環境は、見かけの「調和」は保たれても、異なる意見を持つ人間が安心して発言できる空間ではなくなります。
特にメタバースのように自由と相互扶助と相互理解を理念に掲げる場において、このような排他的エコーチェンバーは、根本的な価値を裏切るものです。
「赦し」と「思いやり」が、メタバースを救う
「あなたがたが人を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださる」
この言葉は、赦すことが人間関係の根幹であり、社会の成熟を支える行為であることを教えてくれます。
完璧な人間などいません。誰もが迷い、つまずき、ときに誰かを傷つけます。だからこそ、私たちは互いに思いやり、許し合い、もう一度つながる努力をしなければならないのです。
メタバースという空間が、ただの“気の合う者だけの閉鎖空間”になるのではなく、多様な背景や価値観をもった人が共に生きられる場所であってほしいと、私は強く願います。
結論──「人間らしさ」とは、赦しあうこと
私は、「自分が100%正しくて自分さえ良ければいい」「悔い改めさえすればなんでも許してもらえる」などというアホな考えを持っているわけではありません。
また、「自分は被害者である」とも考えていません。
とはいえ、人を簡単に消すのではなく、まず声をかけて、話を聞き、理解しようとする。その姿勢こそが、人間らしさの根本ではないでしょうか。
メタバースという新しい社会空間にも、私たちの「弱さを認め合い、赦し合う力」が必要です。それがあってはじめて、私たちはこの場所を、誰もが安心して存在できる「本当の居場所」にすることができるのだと思います。
「人を裁くな。裁かれないためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」
本記事の削除について
お互いの対話を持って平和的に解決するまでは、本記事を永遠に削除しません。
今回のDJコミュニティによる排斥行為には、明らかに「悪意」を感じたからです。
そのため、どうしてもこの記事を消して欲しいというのなら、まずはブロックを解除して、事情を説明し、お互いの和解を約束することです。
しかし、もしそれでも私と「戦う(?)」というのなら、はっきりと警告します。こちらも一切容赦しません。
…と2025年7月2日16時にこのサイトで書いたところ、同日19時に、「でと」さんがブロックを解除して、私のところに来ました。
その時は、相手が集団ブロックに加担したことを謝罪せず、「ブロックは個人の問題」「あなたは大袈裟だ」「記事を削除してください」という主張をしてきましたが、当時私はあくまでも平和的和解を望んでいたため、「警告なしにでとさんはTsuikyuをブロックしない」という条件で、相手の要望である「記事の削除」に応じ、それで形式的には「対話成立」となりました。
ところが、2025年7月5日にもう一度確認しましたが、また「警告なし」でブロックしてきました。
本当に反吐が出るほど残念です。
したがって、この記事は永遠に削除しません。
対話にも応じません。
そのままブロックしたままにしてください。
ブロックするなら早くしてください。
あなたもあなたの仲間たちも、二度と私にかかわらないでください。
近づかないでください。
私が悪いです。
それで結構です。
そして、あなたがたが約束をすぐに破る者たちだと知れたことに感謝します。
さようなら。
追記: 6:54
この出来事からインスピレーションを受けた小説「沈黙のつるぎ」を公開しました。ぜひお読みください。




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