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目次
1.建寧元年(168年)
2.建寧二年(169年)
3.建寧三年(170年)
4.建寧四年(171年)
5.建寧五年・熹平元年(172年)
6.熹平二年(173年)
7.熹平三年(174年)
8.熹平四年(175年)
9.熹平五年(176年)
10.熹平六年(177年)
1.建寧元年(168年)
2.建寧二年(169年)
3.建寧三年(170年)
4.建寧四年(171年)
5.建寧五年・熹平元年(172年)
6.熹平二年(173年)
7.熹平三年(174年)
8.熹平四年(175年)
9.熹平五年(176年)
10.熹平六年(177年)
霊帝
孝霊皇帝、諱は宏[1]、粛宗章帝の玄孫である。
曾祖は河間孝王の劉開、祖父は劉淑、父は劉萇。代々解瀆亭侯に封じられ[2]、霊帝も侯爵を襲いだ。母は董夫人。
桓帝が崩御すると、子がなく、皇太后とその父の城門校尉の竇武が禁中で策定し、守光禄大夫の劉儵に節を持たせ、左右羽林騎を率いて河間国にまで奉迎させた[3]。
▼原文
孝靈皇帝諱宏,肅宗玄孫也。
曾祖河閒孝王開,祖淑,父萇。世封解瀆亭侯,帝襲侯爵。母董夫人。
桓帝崩,無子,皇太后與父城門校尉竇武定策禁中,使守光祿大夫劉儵持節,將左右羽林至河閒奉迎。
曾祖河閒孝王開,祖淑,父萇。世封解瀆亭侯,帝襲侯爵。母董夫人。
桓帝崩,無子,皇太后與父城門校尉竇武定策禁中,使守光祿大夫劉儵持節,將左右羽林至河閒奉迎。
[1] 謚法にいう、「乱にして損なわず、いわく霊」。
伏侯古今注にいう、「宏の字は大という意味である」。
[2] 劉淑は河間王の子ということで封じられて解瀆亭侯となり、劉萇が父の封爵を襲いだので、代々封じられたという。
校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「河間王劉開伝には「;劉長」とある。古く長と萇は多く通用されていた」。
[3] 続漢志にいう、「桓帝の初め、京都で童が謠って言った、「城の上の烏、尾ばねは畢逋とうごく。父は吏となり、子は徒となる。一人の徒が死に、百乗の車がゆく。車は班々と、河間に入る。河間の奼女は数銭をつくり、銭を室とし金を堂とし、石の上で慊々とあきずに黄梁を臼でひく。梁のもとには鼓を懸け、我はこれを撃とうとしたが丞卿は怒りだす」。
いわく、『城の上の烏』とは、高所で独りでものを食らい、下々とともにせず、多くの税を取り立てることをつかさどる人をいう。『父が吏となり。子が徒となる』とは、蛮夷が反逆し、父はすでに軍吏となっており、子弟がまた兵卒となって行ってこれを攻撃することをいう。『一人の徒が死に、百乗の車がゆく』とは、前に一人が胡を討ってから死ぬと、後にはまた百乗の車が赴くということをいう。『車が班々と』とは、乗輿が班々と河間郡の霊帝を迎えたことをいう。『奼女が數錢をし』とは、帝が立ち、その母の永楽大后はお金を集めるのが好きで、堂室をつくったことをいう。『石の上で慊々と』とは、太后が金を積みあがるほどためてもなお、慊々として飽き足らず、人に黄梁を臼で引きかせてこれを食うことをいう。『私はこれを撃とうとした』とは、太后が帝に売官をさせて銭を受け取るように教唆し、天下の忠篤の士が怨みをもち、鼓を撃って丞卿に会見をもとめるも、鼓を管理する者は怒って我を止めるということをいう」。
建寧元年(168年)
建寧元年、春正月壬午(1月3日:西暦168年1月30日)、城門校尉の竇武が大将軍となった。
己亥(1月20日:西暦168年2月16日)、霊帝は夏門亭につき[4]、竇武に節を持たせ、王の青蓋車を殿中に迎え入れさせた。
庚子(1月21日:西暦168年2月17日)、皇帝の位に即いた。十二歳だった。改元して建寧とした。以前の太尉の陳蕃を太傅とし、竇武と司徒の胡広を参録尚書事とした。
▼原文
建寧元年春正月壬午,城門校尉竇武為大將軍。
己亥,帝到夏門亭,使竇武持節,以王青蓋車迎入殿中。
庚子,即皇帝位,年十二。改元建寧。以前太尉陳蕃為太傅,與竇武及司徒胡廣參錄尚書事。
己亥,帝到夏門亭,使竇武持節,以王青蓋車迎入殿中。
庚子,即皇帝位,年十二。改元建寧。以前太尉陳蕃為太傅,與竇武及司徒胡廣參錄尚書事。
[4] 東観記にいう、「夏門の外の万寿亭につくと、群臣が謁見した」。
護羌校尉の段熲に先零羌を討たせた。
▼原文
使護羌校尉段熲討先零羌。
二月辛酉(2月13日:西暦168年3月9日)、孝桓皇帝を宣陵に葬り[5]、廟号を威宗とした。
▼原文
二月辛酉,葬孝桓皇帝于宣陵,廟曰威宗。
[5] 洛陽の東南三十里にあり、高さは十二丈、周囲は三百步。
庚午(2月22日:西暦168年3月18日)、高祖廟に謁した。
辛未(2月23日:西暦168年3月19日)、世祖廟に謁した。天下に大赦した。それぞれに差をつけて民に爵と帛を下賜した。
▼原文
庚午,謁高廟。辛未,謁世祖廟。大赦天下。賜民爵及帛各有差。。
段熲は逢義山で先零羌を大いに破った。
▼原文
段熲大破先零羌於逢義山。
閏三月甲午(?)[6]、霊帝は祖父を孝元皇、その夫人の夏氏を孝元皇后、亡父を孝仁皇、その夫人の董氏を慎園貴人と追尊した。
▼原文
閏月甲午,追尊皇祖為孝元皇,夫人夏氏為孝元皇后,考為孝仁皇,夫人董氏為慎園貴人。
[6] 私はいう、建寧元年閏三月は、戊申が朔である。甲午はない。
夏四月戊辰(?)[7]、太尉の周景が薨じた。司空の宣鄷が罷免され、長楽衛尉の王暢が司空となった。
▼原文
夏四月戊辰,太尉周景薨。司空宣酆免,長樂衛尉王暢為司空。
[7] 校勘する、後漢書校補にひく銭大昭はいう、「建寧元年四月は、戊寅が朔である。戊辰はない」。
また後漢書校補はいう、「袁宏後漢紀は「夏四月戊辰、王暢が司空となった」とする。誤りは范曄後漢書から始まったわけではない」。
五月丁未朔(5月1日:西暦168年6月23日)、日食があった。詔して公卿以下におのおの封事を上げさせ、郡国の守相に有道の士をおのおの一人を挙げさせ、またもとの刺史・二千石で清高で遺恵があり、衆人がみな心を寄せるものをみな公車に参上させた。
▼原文
五月丁未朔,日有食之。詔公卿以下各上封事,及郡國守相舉有道之士各一人;又故刺史、二千石清高有遺惠,為眾所歸者,皆詣公車。
太中大夫の劉矩が太尉になった。
▼原文
太中大夫劉矩為太尉。
六月、京師に雨水があった。
▼原文
六月,京師雨水。
秋七月、破羌将軍の段熲がまた涇陽県で先零羌を破った。
▼原文
秋七月,破羌將軍段熲復破先零羌於涇陽。
八月、司空の王暢が罷免され、宗正の劉寵が司空となった。
▼原文
八月,司空王暢免,宗正劉寵為司空。
九月丁亥(?)[8]、中常侍の曹節が詔を矯げて太傅の陳蕃、大将軍の竇武と尚書令の尹勲、侍中の劉瑜、屯騎校尉の馮述を誅し、みなその一族を皆殺しにした。竇太后は南宮にうつった[9]。司徒の胡広が太傅・録尚書事となった。司空の劉寵が司徒となり、大鴻臚の許栩が司空となった。
▼原文
九月丁亥,中常侍曹節矯詔誅太傅陳蕃、大將軍竇武及尚書令尹勳、侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。皇太后遷于南宮。司徒胡廣為太傅,錄尚書事。司空劉寵為司徒,大鴻臚許栩為司空。
[8] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「建寧元年九月は、乙巳が朔である。丁亥はない。袁宏後漢紀には「辛亥(9月7日:西暦168年10月25日)」とある」。
[9] 太后と竇武は密かに謀って曹節を誅そうとした。今、竇武らはすでに誅されたので、竇太后は遷された。
冬十月甲辰晦(10月30日:西暦168年12月17日)、日食があった。天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人にそれぞれの量刑に応じて縑で罪を贖わせた。
▼原文
冬十月甲辰晦,日有食之。令天下繫囚罪未決入縑贖,各有差。
十一月、太尉の劉矩が罷免され、太僕の沛国の聞人襲[10]が太尉となった。
▼原文
十一月,太尉劉矩免,太僕沛國聞人襲為太尉。
[10] 聞人は姓である。名を襲という。字は定卿。風俗通にいう、「少正の卯は、魯の聞人であった。その後にそれを氏とした」。聞人とは、名の聞こえた人、という意。
十二月、鮮卑と濊貊が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
十二月,鮮卑及濊貊寇幽并二州。
建寧二年(169年)
建寧二年、春正月丁丑(?)[11]、天下に大赦した。
▼原文
二年春正月丁丑,大赦天下。
[11] 私はいう、建寧二年正月は、甲辰が朔である。丁丑はない。
三月乙巳(3月3日:西暦169年4月17日)、慎園董貴人を孝仁皇后とした[12]。
▼原文
三月乙巳,尊慎園董貴人為孝仁皇后。
[12] 続漢志にいう、「永楽宮を置き、桓帝の尊匽貴人の礼のように儀した」。
夏四月癸巳(4月22日:西暦169年6月4日)、大風があり、雨雹があった。詔して公卿以下におのおの封事を上げさせた。
▼原文
夏四月癸巳,大風,雨雹。詔公卿以下各上封事。
五月、太尉の聞人襲が辞任し、司空の許栩が罷免された。
六月、司徒の劉寵が太尉となり、太常の許訓[13]が司徒となり、太僕の長沙郡の劉囂[14]が司空となった。
▼原文
五月,太尉聞人襲罷,司空許栩免。
六月,司徒劉寵為太尉,太常許訓為司徒,太僕長沙劉囂為司空。
六月,司徒劉寵為太尉,太常許訓為司徒,太僕長沙劉囂為司空。
[13] 許訓、字は季師、汝南郡平輿県の人。
[14] 劉囂、字は重寧。
秋七月、破羌将軍の段熲は射虎塞外の谷で先零羌を大いに破り、東羌をすべて平定した。
▼原文
秋七月,破羌將軍段熲大破先零羌於射虎塞外谷,東羌悉平。
九月、江夏蛮が叛き、州郡はこれを討って平定した。
▼原文
九月,江夏蠻叛,州郡討平之。
丹陽郡の山越賊は丹陽太守の陳夤を囲み、陳夤はこれを撃ち破った。
▼原文
丹陽山越賊圍太守陳夤,夤擊破之。
冬十月丁亥(10月19日:西暦169年11月25日)、中常侍の侯覧は有司にほのめかして奏上させ、もと司空の虞放、もと太僕の杜密、もと長楽少府の李膺、もと司隸校尉の朱瑀[15]、もと潁川太守の巴粛、もと沛国相の荀翌[16]、もと河内太守の魏朗、もと山陽太守の翟超らはみな鉤党[17]とされ、獄に下され、死者は百余人にもなり、その妻子は辺境へ流刑となった。付き従っていた者たちへの禁錮は五属[18]に及んだ。制詔して州郡に大いに鉤党を検挙させ、そこで天下の豪桀や儒学をおさめ義を行う者は、その一切が党人となった[19]。
▼原文
冬十月丁亥,中常侍侯覽諷有司奏前司空虞放、太僕杜密、長樂少府李膺、司隸校尉朱瑀、潁川太守巴肅、沛相荀翌、河內太守魏朗、山陽太守翟超皆為鉤黨,下獄,死者百餘人,妻子徙邊,諸附從者錮及五屬。制詔州郡大舉鉤黨,於是天下豪桀及儒學行義者,一切結為黨人。
[15] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「党錮伝および竇武伝には皆な「朱㝢」とある。「朱瑀」とするのは誤りである」。
[16] 校勘する、洪頤煊読書叢錄にいう、「「荀翌」は「荀昱」とするべきである。荀淑伝、党錮傳序および竇武伝にはともに「荀昱」とある」。
[17] 鉤とは、互いに牽引しあうことである。劉淑伝・李膺伝にくわしい。
[18] 五属とは、五服の内親のことである。
[19] 続漢志にいう、「建寧年間(168年~172年)、京都の長者はみな葦の方笥を家具とした。このときの有識者がひそかに言うには、葦の笥は郡国の讞篋であるとした。そののち、党錮の禁が起こり、大赦があったが、疑いがある者はみな廷尉に裁かれた。その人名はすべて方笥の中に入っていた」。
庚子晦(?)、日食があった[20]。
▼原文
庚子晦,日有食之。
[20] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう「五行志には「〔建寧〕二年、十月戊戌晦(10月30日:西暦169年12月6日)、日食があった。右扶風がこれを報告した」とある」。
十一月、太尉の劉寵が罷免され、太僕の郭禧[21]が太尉となった。
▼原文
十一月,太尉劉寵免,太僕郭禧為太尉。
[21] 郭禧、字は公房、陳留郡扶溝県の人。
私はいう、郭禧は、潁川郡陽翟県のひとでは? 郭躬伝にくわしい。
鮮卑が并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇并州。
この年、長楽太僕の曹節が車騎将軍となり、百余日で罷免された。
▼原文
是歲,長樂太僕曹節為車騎將軍,百餘日罷。
建寧三年(170年)
建寧三年、春正月、河内郡の人で婦が夫を食らい、河南の人で夫が婦を食らった。
▼原文
三年春正月,河內人婦食夫,河南人夫食婦。
三月丙寅晦(3月30日:西暦170年5月3日)、日食があった。
▼原文
三月丙寅晦,日有食之。
夏四月、太尉の郭禧が辞任し、太中大夫の聞人襲が太尉となった。
秋七月、司空の劉囂が辞任した。
八月、大鴻臚の橋玄が司空となった。
▼原文
夏四月,太尉郭禧罷,太中大夫聞人襲為太尉。
秋七月,司空劉囂罷。
八月,大鴻臚橋玄為司空。
秋七月,司空劉囂罷。
八月,大鴻臚橋玄為司空。
九月、執金吾の董寵が獄に下されて死んだ。
▼原文
九月,執金吾董寵下獄死。
その冬、済南郡に賊が起こり、東平陵県を攻めた。
▼原文
冬,濟南賊起,攻東平陵。
鬱林県の烏滸の民[22]が互いに連れ合って内地に属した。
▼原文
鬱林烏滸民相率內屬。
[22] 烏滸とは、南方の夷の号である。
広州記にいう、「その習俗は、人を食らい、鼻で水を飲み、口の中で食べ進める」。
建寧四年(171年)
建寧四年、春正月甲子(1月3日:西暦170年2月25日)、霊帝は元服し、天下に大赦した。それぞれに差をつけて公卿以下に恩賞を下賜した。ただ党人だけは赦さなかった。
▼原文
四年春正月甲子,帝加元服,大赦天下。賜公卿以下各有差,唯黨人不赦。
二月癸卯(2月13日:西暦170年4月5日)、地震がおこり、海水が溢れ、黄河の水がきれいになった。
▼原文
二月癸卯,地震,海水溢,河水清。
三月辛酉朔(3月1日:西暦170年4月23日)、日食があった。
▼原文
三月辛酉朔,日有食之。
太尉の聞人襲が罷免され[23]、太僕の李咸[24]が太尉となった。
▼原文
太尉聞人襲免,太僕李咸為太尉。
[23] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「蔡質の漢官典職儀に載る建寧四年七月の宋皇后立后の儀によれば、太尉の聞人襲に節を持たせて璽綬を奉らせたとある。聞人襲が三月に罷免されたなら、七月の立后の事に立ち会うことはできない」。
また後漢書集解にひく何焯はいう、「蔡氏の載せるこの詔書は、対応しないところがあり誤りがある。この本紀の書く拜罷まだつまびらかではないのだ」。
按ずるに、後漢書校補はいう「袁宏後漢紀は「建寧四年三月、太尉の劉寵、司空の喬玄が災異によって罷免された」とする。太尉を罷免された者は聞人襲ではない。そのほかの拜罷もまた范曄後漢書と異なっている。いずれの説が正しいのだろうか」。
[24] 李咸、字は元卓、汝南郡西平県の人。
詔して公卿から六百石にいたるまで、おのおの封事を上げさせた。
▼原文
詔公卿至六百石各上封事。
大いに疫病がはやり、中謁者を巡行させて治療薬を届けさせた。
▼原文
大疫,使中謁者巡行致醫藥。
司徒の許訓が罷免され、司空の橋玄が司徒となった。
夏四月、太常の来艶[25]が司空となった。
▼原文
司徒許訓免,司空橋玄為司徒。
夏四月,太常來豔為司空。
夏四月,太常來豔為司空。
[25] 来艶、字は季德、南陽郡新野県の人。
五月、河東郡で地割れが起き、雨雹があり、山では水が氾濫した。
▼原文
五月,河東地裂,雨雹,山水暴出。
秋七月、司空の来艶が罷免された。
▼原文
秋七月,司空來豔免。
癸丑(?)[26]、貴人の宋氏が皇后に立てられた[27]。
▼原文
癸丑,立貴人宋氏為皇后。
[26] 校勘する、後漢書集解にひく何焯はいう、「礼儀志に載せる蔡質の記した立后の儀には、詔を下した日は癸丑ではなく、乙未(?)とする。また璽綬を奉じた者は聞人襲であり、李咸ではない。范曄が誤っている疑いがある」。
按ずるに、本紀では七月癸丑とし、蔡質が記すのは七月乙未である。建寧四年七月は、己未が朔である。癸丑・乙未はない。「癸丑」の上に「八月」の二字が脱落しているのではないか。蔡質の記す七月乙未というのも、八月乙未の誤りではないか。
私はいう、建寧四年八月癸丑(8月25日:西暦171年10月12日)
私はいう、建寧四年八月乙未(8月5日:西暦171年9月24日)
[27] 執金吾の宋酆の娘である。前年に掖庭に入って貴人となった。
司徒の橋玄が罷免された。
太常の宗俱[28]が司空となり。もと司空の許栩が司徒となった。
▼原文
司徒橋玄免。
太常宗俱為司空,前司空許栩為司徒。
太常宗俱為司空,前司空許栩為司徒。
[28] 宗俱、字は伯儷、南陽郡安衆県の人。
その冬、鮮卑が并州に侵攻した。
▼原文
冬,鮮卑寇并州。
建寧五年・熹平元年(172年)
熹平元年、春三月壬戌(3月8日:西暦172年4月18日)、太傅の胡広が薨じた。
▼原文
熹平元年春三月壬戌,太傅胡廣薨。
夏五月己巳(5月16日:西暦172年6月24日)、天下に大赦し、改元して熹平とした。
▼原文
夏五月己巳,大赦天下,改元熹平。
長楽太僕の侯覧には罪があり、自殺した。
▼原文
長樂太僕侯覽有罪,自殺。
六月、京師に雨水があった。
▼原文
六月,京師雨水。
癸巳(6月10日:西暦172年7月18日)、皇太后の竇氏が崩じた。
秋七月甲寅(7月2日:西暦172年8月8日)、桓思皇后(竇氏)が葬られた。
▼原文
癸巳,皇太后竇氏崩。
秋七月甲寅,葬桓思皇后。
秋七月甲寅,葬桓思皇后。
宦官がほのめかして司隸校尉の段熲に千余人の太学の諸生を捕らえさせ、獄につなげさせた[29]。
冬十月、渤海王の劉悝は謀反しようとしたと誣告された。
丁亥(10月6日:西暦172年11月9日)、劉悝とその妻子はみな自殺した。
▼原文
宦官諷司隸校尉段熲捕繫太學諸生千餘人。
冬十月,渤海王悝被誣謀反,
丁亥,悝及妻子皆自殺。
冬十月,渤海王悝被誣謀反,
丁亥,悝及妻子皆自殺。
[29] このとき、朱雀闕に書き付けて言ったものがいた、「天下は大いに乱れ,公卿はみな尸禄をむさぼる」。ゆえに捕らえられた。このことは宦者伝にみえる。
十一月、会稽郡の許生[30]は自称して越王とし、郡県に侵攻した[31]。揚州刺史の臧旻、丹陽太守の陳夤[32]を派遣してこれを打ち破らせた。
▼原文
十一月,會稽人許生自稱「越王」,寇郡縣,遣楊州刺史臧旻、丹陽太守陳夤討破之。
[30] 校勘する、後漢書集解にひく何焯はいう、「許生について、三国志呉志には「許昌」とある」。
また後漢書集解にひく恵棟はいう、「天文志・臧洪伝にはみな「許生」とあある」。
[31] 東観記にいう、「会稽郡の許昭は人々を集めて自称して大将軍とし、父の許生を立てて越王として、郡県を攻め破った」。
校勘する、後漢書集解にひく何焯はいう「許昭について、三国志呉志には「許韶」とある」。また後漢書集解にひく恵棟はいう、「晋の司馬昭の諱をさけたので、「許韶」としたのだ」。
[32] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「天文志には「陳寅」とある」。按ずるに、前に建寧二年では「陳夤」とし、後に熹平三年では「陳寅」とする。帝紀の前後で一律ではない。
十二月、司徒の許栩が辞任し、大鴻臚の袁隗が司徒となった。
▼原文
十二月,司徒許栩罷,大鴻臚袁隗為司徒。
鮮卑が并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇并州。
この年、甘陵王の劉恢が薨じた[33]。
▼原文
是歲,甘陵王恢薨。
[33] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「清河王劉慶伝には「梁太后が安平孝王の子の経侯の劉理を甘陵王とし、これを威王とし、劉理は立って二十五年で薨じた。子の貞王の劉定が跡を継ぎ、劉定は立って四年で薨講じた。子の献王の劉忠が跡を継いだ」とある。劉恢という名の者はいない。考えるに、劉理は桓帝の建和二年(148年)に封じられ、熹平元年(172年)に至るまでちょうど二十五年である。つまり劉恢と劉理は実は同一人物であろう」。
熹平二年(173年)
熹平二年、春正月、大いに疫病がはやり、使者を巡行させて治療薬を届けさせた。
▼原文
二年春正月,大疫,使使者巡行致醫藥。
丁丑(1月27日:西暦174年2月27日)、司空の宗俱が薨じた。
▼原文
丁丑,司空宗俱薨。
二月壬午(2月3日:西暦174年3月4日)、天下に大赦した。
▼原文
二月壬午,大赦天下。
光禄勲の楊賜を司空とした。
▼原文
以光祿勳楊賜為司空。
三月、太尉の李咸が罷免された。
夏五月、司隸校尉の段熲を太尉とした。
▼原文
三月,太尉李咸免。
夏五月,以司隸校尉段熲為太尉。
夏五月,以司隸校尉段熲為太尉。
沛国相の師遷は国王を誣罔した罪に問われ、獄に下され死んだ[34]。
▼原文
沛相師遷坐誣罔國王,下獄死。
[34] 国王とは、陳愍王の劉寵である。
臣李賢が案じるに、陳敬王伝には「国相の師遷」とある。また東観記には「陳行国相の師遷が奏し、沛国相の魏愔が、以前に陳国相となり、陳王の劉寵と連絡をとっていたとした」。明らかに魏愔が沛相であるといっており、このように師遷が沛国相と言っているのは、おそらく誤りであろう。
六月、北海郡で地震があった。東萊郡・北海郡の海水が溢れた[35]。
▼原文
六月,北海地震。東萊,北海海水溢。
[35] 続漢志にいう、「このとき、大魚が二匹あらわれ、それぞれ長さは八、九丈、高さは二丈余りだった」。
秋七月、司空の楊賜は罷免され、太常の潁川郡の唐珍が司空となった。
▼原文
秋七月,司空楊賜免,太常潁川唐珍為司空。
冬十二月、日南郡の境界外の国が通訳を通して貢物を献上した。
▼原文
冬十二月,日南徼外國重譯貢獻。
太尉の段熲が辞任した。
▼原文
太尉段熲罷。
鮮卑が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽并二州。
癸酉晦(12月29日:西暦175年2月18日)、日食があった[36]。
▼原文
癸酉晦,日有食之。
[36] 校勘する、按ずるに、熹平二年十二月は、乙巳が朔である。また翌熹平三年正月は、乙亥が朔である。つまり熹平二年十二月の晦は甲戌である。癸酉ではない。
今、推察するに、熹平三年正月の朔を甲戌に合わせると、こうなる。帝紀の月日に誤りがある。
熹平三年(174年)
熹平三年、春正月、夫余国が使者を派遣して貢物を献上した。
▼原文
三年春正月,夫餘國遣使貢獻。
二月己巳(2月2日:西暦174年3月22日)、天下に大赦した。
▼原文
二月己巳,大赦天下。
太常の陳耽[37]が太尉となった。
▼原文
太常陳耽為太尉。
[37] 陳耽、字は漢公、東海郡の人。
三月、中山王の劉暢が薨じた。子は無く、国は除かれた[38]。
▼原文
三月,中山王暢薨,無子,國除。
[38] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「中山王劉焉伝を按ずるに、「穆王の劉暢は立って三十四年で薨じた。子の節王の劉稚が跡を継ぎ、子は無く、国は除かれた」とある。劉暢にはもともと子がおり、国もまたまだ除かれてはいない」。
夏六月、河間王の劉利の子の劉康を済南王に封じ、孝仁皇(霊帝の父の劉萇)の祭祀を奉じさせた。
▼原文
夏六月,封河閒王利子康為濟南王,奉孝仁皇祀。
秋、洛水が溢れた。
▼原文
秋,洛水溢。
冬十月癸丑(10月14日:西暦174年11月25日)、天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人に、縑で罪を贖わせた。
▼原文
冬十月癸丑,令天下繫囚罪未決,入縑贖。
十一月、揚州刺史の臧旻が丹陽太守の陳寅を率い、会稽郡で許生を大いに破り、これを斬った。
▼原文
十一月,楊州刺史臧旻率丹陽太守陳寅,大破許生於會稽,斬之。
任城王の劉博薨が薨じた。
▼原文
任城王博薨。
十二月、鮮卑が北地郡に侵攻し、北地太守の夏育はこれを追撃して破った。
鮮卑がまた并州に侵攻した。
▼原文
十二月,鮮卑寇北地,北地太守夏育追擊破之。
鮮卑又寇并州。
鮮卑又寇并州。
司空の唐珍が辞任し、永楽少府の許訓が司空となった。
▼原文
司空唐珍罷,永樂少府許訓為司空。
熹平四年(175年)
熹平四年、春三月、詔して諸儒に五経の文字を正させ、石に刻んで太学の門の外に立てた。
▼原文
四年春三月,詔諸儒正五經文字,刻石立于太學門外。
河間王の劉建[39]の孫の劉佗を任城王に封じた[40]。
▼原文
封河閒王建孫佗為任城王。
[39] 劉建は、桓帝の弟である。
[40] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「光武十王伝によれば、「劉佗は劉建の子」とある。劉建の孫ではない」。
夏四月、七つの郡国に洪水があった[41]。
▼原文
夏四月,郡國七大水。
[41] 校勘する、後漢書校補はいう、「続漢志には「三つの郡国に洪水があった」とある」。
五月丁卯(5月1日:西暦175年6月7日)、天下に大赦した。
▼原文
五月丁卯,大赦天下。
延陵園[42]に火災があり、使者に節を持たせて遣わして延陵に報告をして祀った。
▼原文
延陵園災,遣使者持節告祠延陵。
[42] 前漢成帝の陵である。
鮮卑が幽州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽州。
六月、弘農郡・三輔に螟がわいた。
▼原文
六月,弘農、三輔螟。
守宮令を塩監[43]へ遣わして、渠を穿ち民のために利便を興した。
▼原文
遣守宮令之鹽監,穿渠為民興利。
[43] 前書地理志と続漢郡国志には、ともに塩監はない。今(唐代)、蒲州安邑の西南に塩池がある。
郡国に令して被災した者には田租を半分に減らさせ、その傷害が十分の四以上の者には、取り立てをさせなかった。
▼原文
令郡國遇災者,減田租之半;其傷害十四以上,勿收責。
冬十月丁巳(10月23日:西暦175年11月24日)、天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人に、縑で罪を贖わせた。
▼原文
冬十月丁巳,令天下繫囚罪未決,入縑贖。
沖帝の母の虞美人を憲園貴人とし[44]、質帝の母の陳夫人を渤海孝王妃とした[45]。
▼原文
拜沖帝母虞美人為憲園貴人,質帝母陳夫人為渤海孝王妃。
[44] 順帝の虞美人である。憲園は洛陽の東北にある。
[45] 渤海孝王の劉鴻の夫人である。
平準[46]を改めて中準とし、宦官にその中準令をさせ、部署内に列席させた。これより諸部署ではみな宦官が丞令となった。
▼原文
改平準為中準,使宦者為令,列於內署。自是諸署悉以閹人為丞、令。
[46] 漢官儀にいう、「平準令は一人。秩は六百石である」。
熹平五年(176年)
熹平五年、夏四月癸亥(?)[47]、天下に大赦した。
▼原文
五年夏四月癸亥,大赦天下。
[47] 私はいう、熹平五年四月は、壬辰が朔である。癸亥はない。
私はいう、袁宏後漢紀にいう、「〔熹平五年〕夏四月癸丑(4月22日:西暦176年5月18日)、天下に大赦した」。
益州郡の夷が叛き、益州太守の李顒がこれを討ち平定した。
▼原文
益州郡夷叛,太守李顒討平之。
崇高山の名を嵩高山とした[48]。
▼原文
復崇高山名為嵩高山。
[46] 前書によれば、武帝が中嶽として祀り、嵩高山を崇高山とした。
東観記にいう、「中郎将の堂谿典に雨乞いをさせた。そこでこれを改めるよう言上し、名づけて嵩高山とした」。
大雩をおこなった。侍御史に詔獄亭部へ行かせ、免罪を取り調べ、軽罪の者を赦し、囚人たちを休ませた。
▼原文
大雩。使侍御史行詔獄亭部,理冤枉,原輕繫,休囚徒。
五月、太尉の陳耽が辞任し、司空の許訓が太尉となった。
▼原文
五月,太尉陳耽罷,司空許訓為太尉。
閏五月、永昌太守の曹鸞が党人のことについて訟した罪に問われ、棄市となった[49]。詔して党人の門生故吏、父兄子弟で位にあるものをみな免官して禁錮した。
▼原文
閏月,永昌太守曹鸞坐訟黨人,棄市。詔黨人門生故吏父兄子弟在位者,皆免官禁錮。
[49] 訟とはこれの無実を主張することをいう。その言辞が切実率直であったため、霊帝は怒り、檻車を槐里獄に送り彼を拷問して殺した。
六月壬戌(6月3日:西暦176年7月26日)、太常の南陽郡の劉逸[50]が司空となった。
▼原文
六月壬戌,太常南陽劉逸為司空。
[50] 劉逸、字は大過、南陽郡安衆県の人。
校勘する、殿本、集解本にはともに「字は大迥」とある。
秋七月、太尉の許訓が辞任し、光禄勲の劉寛が太尉となった。
▼原文
秋七月,太尉許訓罷,光祿勳劉寬為太尉。
冬十月壬午(10月24日:西暦176年12月13日)、御殿の後ろの槐樹が自然と抜けて逆さまに倒れた。
▼原文
冬十月壬午,御殿後槐樹自拔倒豎。
司徒の袁隗が辞任した。
十一月丙戌(?)[51]、光禄大夫の楊賜が司徒となった。
▼原文
司徒袁隗罷。
十一月丙戌,光祿大夫楊賜為司徒。
十一月丙戌,光祿大夫楊賜為司徒。
[51] 私はいう、熹平五年十一月は、戊子が朔である。丙戌はない。
十二月、甘陵王の劉定が薨じた。
▼原文
十二月,甘陵王定薨。
太学生で六十歳以上のもの百余人を試験し、郎中や太子舍人[52]に叙した。王家の郎、郡国の文学吏にまで至るものもいた。
▼原文
試太學生年六十以上百餘人,除郎中、太子舍人至王家郎、郡國文學吏。
[52] 漢官儀にいう、「太子舍人とは、王家郎中とならんで秩は二百石。無員」。
この年、鮮卑が幽州に侵攻した。
沛国が譙県にて黄龍を見たと報告した。
▼原文
是歲,鮮卑寇幽州。
沛國言黃龍見譙。
沛國言黃龍見譙。
熹平六年(177年)
熹平六年、春正月辛丑(1月15日:西暦177年3月2日)、天下に大赦した。
▼原文
六年春正月辛丑,大赦天下。
二月、南宮の平城門[53]と武庫の東垣屋[54]が自壊した[55]。
▼原文
二月,南宮平城門及武庫東垣屋自壞。
[53] 平城門は、洛陽城の南門である。蔡邕はいう。「平城門とは、正陽んの門である。宮と連なり、郊祀の法駕がお出ましになるところで、門のうち最も尊いものである」。
[54] 武庫は、禁中の兵器を保管してあるところである。東垣とは。庫の外障である。易伝にいう、「小人が位にあると、厥の妖は城門を自ら壊す」。
[55] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「謝承後漢書・続漢志にはみな光和元年条にある。帝紀に誤りがあるのだろう」。
夏四月、大いに旱があり、七州に蝗がわいた。
▼原文
夏四月,大旱,七州蝗。
鮮卑が三辺(東西北の三方向)に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇三邊。
市場の商人たちで宣陵孝子となる者が数十人おり、みな太子舍人を叙された。
▼原文
市賈民為宣陵孝子者數十人,皆除太子舍人。
秋七月、司空の劉逸が罷免され、衛尉の陳球が司空となった。
▼原文
秋七月,司空劉逸免,衛尉陳球為司空
八月、遣破鮮卑中郎将の田晏が雲中県から出、使匈奴中郎将の臧旻と南単于が鴈門関から出、護烏桓校尉の夏育が高柳県から出、並んで鮮卑を討伐し、田晏らは大敗した。
▼原文
八月,遣破鮮卑中郎將田晏出雲中,使匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門,護烏桓校尉夏育出高柳,並伐鮮卑,晏等大敗。
冬十月癸丑朔(10月1日:西暦177年11月9日)、日食があった。
▼原文
冬十月癸丑朔,日有食之。
太尉の劉寛が罷免された。
▼原文
太尉劉寬免。
霊帝が辟雍に臨んだ。
▼原文
帝臨辟雍。
辛丑(?)[56]、京師で地震がおこった。
▼原文
辛丑,京師地震。
[56] 校勘する、熹平六年十月は、癸丑が朔である。辛丑はない。
後漢書校補はいう、「袁宏後漢紀には「癸丑朔(10月1日:西暦177年11月9日)、日食があり、また地震があった」とある。「辛丑」とは「癸丑」の誤りでなのではないか」。
辛亥(?)[57]、天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人に、縑で罪を贖わせた。
▼原文
辛亥,令天下繫囚罪未決,入縑贖。
[57] 校勘する、按ずるに、熹平六年十月、癸丑が朔である。辛亥はない。辛亥は翌月にあるが、誤りであろう。
十一月、司空の陳球が罷免された。
十二月甲寅(12月3日:西暦178年1月9日)、太常の河南の孟戫[58]が太尉となった。
庚辰(12月29日:西暦178年2月4月)、司徒の楊賜が罷免された。太常の陳耽が司空となった。
▼原文
十一月,司空陳球免。
十二月甲寅,太常河南孟戫為太尉。
庚辰,司徒楊賜免。太常陳耽為司空。
十二月甲寅,太常河南孟戫為太尉。
庚辰,司徒楊賜免。太常陳耽為司空。
[58] 孟戫、字は叔達。
鮮卑が遼西郡に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇遼西。
永安太僕の王旻が獄に下されて死んだ。
▼原文
永安太僕王旻下獄死。
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