儗 後漢書抄訳

儗とは、①なぞらえる ②おごる。身分を越えておこなう ③比べる。比較する 先人をなぞらえ、分をわきまえずに翻訳をしようという企図。 信用するべからず。もろもろと比較すべし。

カテゴリ:本紀 > 孝霊皇帝紀

霊帝


 孝霊皇帝、諱は宏[1]、粛宗章帝の玄孫である。
 曾祖は河間孝王の劉開りゅうかい、祖父は劉淑りゅうしゅく、父は劉萇りゅうちょう。代々解瀆亭侯に封じられ[2]、霊帝も侯爵をいだ。母は董夫人。
 桓帝が崩御すると、子がなく、皇太后とその父の城門校尉の竇武とうぶが禁中で策定し、守光禄大夫の劉儵りゅうしゅくに節を持たせ、左右羽林騎を率いて河間国にまで奉迎させた[3]

▼原文
孝靈皇帝諱宏,肅宗玄孫也。
曾祖河閒孝王開,祖淑,父萇。世封解瀆亭侯,帝襲侯爵。母董夫人。
桓帝崩,無子,皇太后與父城門校尉竇武定策禁中,使守光祿大夫劉儵持節,將左右羽林至河閒奉迎。


[1] 謚法にいう、「乱にして損なわず、いわく霊」。
 伏侯古今注にいう、「宏の字は大という意味である」。
[2] 劉淑は河間王の子ということで封じられて解瀆亭侯となり、劉萇が父の封爵を襲いだので、代々封じられたという。
 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「河間王劉開伝には「;劉長りゅうちょう」とある。古く長と萇は多く通用されていた」。
[3]  続漢志にいう、「桓帝の初め、京都で童が謠って言った、「城の上の烏、尾ばねは畢逋とうごく。父は吏となり、子は徒となる。一人の徒が死に、百乗の車がゆく。車は班々ぞろぞろと、河間に入る。河間の奼女おとめは数銭をつくり、銭を室とし金を堂とし、石の上で慊々とあきずに黄梁おおあわを臼でひく。梁のもとには鼓を懸け、我はこれを撃とうとしたが丞卿は怒りだす」。
 いわく、『城の上の烏』とは、高所で独りでものを食らい、下々とともにせず、多くの税を取り立てることをつかさどる人をいう。『父が吏となり。子が徒となる』とは、蛮夷が反逆し、父はすでに軍吏となっており、子弟がまた兵卒となって行ってこれを攻撃することをいう。『一人の徒が死に、百乗の車がゆく』とは、前に一人が胡を討ってから死ぬと、後にはまた百乗の車が赴くということをいう。『車が班々と』とは、乗輿が班々と河間郡の霊帝を迎えたことをいう。『奼女が數錢をし』とは、帝が立ち、その母の永楽大后はお金を集めるのが好きで、堂室をつくったことをいう。『石の上で慊々と』とは、太后が金を積みあがるほどためてもなお、慊々として飽き足らず、人に黄梁を臼で引きかせてこれを食うことをいう。『私はこれを撃とうとした』とは、太后が帝に売官をさせて銭を受け取るように教唆し、天下の忠篤の士が怨みをもち、鼓を撃って丞卿に会見をもとめるも、鼓を管理する者は怒って我を止めるということをいう」。






建寧元年(168年)


 建寧元年、春正月壬午(1月3日:西暦168年1月30日)、城門校尉の竇武が大将軍となった。
 己亥(1月20日:西暦168年2月16日)、霊帝は夏門亭につき[4]、竇武に節を持たせ、王の青蓋車を殿中に迎え入れさせた。

 庚子(1月21日:西暦168年2月17日)、皇帝の位に即いた。十二歳だった。改元して建寧とした。以前の太尉の陳蕃ちんはんを太傅とし、竇武と司徒の胡広ここうを参録尚書事とした。
▼原文
建寧元年春正月壬午,城門校尉竇武為大將軍。
己亥,帝到夏門亭,使竇武持節,以王青蓋車迎入殿中。
庚子,即皇帝位,年十二。改元建寧。以前太尉陳蕃為太傅,與竇武及司徒胡廣參錄尚書事。


[4] 東観記にいう、「夏門の外の万寿亭につくと、群臣が謁見した」。




 護羌校尉の段熲だんけいに先零羌を討たせた。

▼原文
使護羌校尉段熲討先零羌。




 二月辛酉(2月13日:西暦168年3月9日)、孝桓皇帝を宣陵に葬り[5]、廟号を威宗とした。
▼原文
二月辛酉,葬孝桓皇帝于宣陵,廟曰威宗。


[5] 洛陽の東南三十里にあり、高さは十二丈、周囲は三百步。




 庚午(2月22日:西暦168年3月18日)、高祖廟に謁した。

 辛未(2月23日:西暦168年3月19日)、世祖廟に謁した。天下に大赦した。それぞれに差をつけて民に爵と帛を下賜した。
▼原文
庚午,謁高廟。辛未,謁世祖廟。大赦天下。賜民爵及帛各有差。。




 段熲は逢義山で先零羌を大いに破った。
▼原文
段熲大破先零羌於逢義山。




 閏三月甲午(?)[6]、霊帝は祖父を孝元皇、その夫人の夏氏を孝元皇后、亡父を孝仁皇、その夫人の董氏を慎園貴人と追尊した。
▼原文
閏月甲午,追尊皇祖為孝元皇,夫人夏氏為孝元皇后,考為孝仁皇,夫人董氏為慎園貴人。


[6] 私はいう、建寧元年閏三月は、戊申がついたちである。甲午はない。




 夏四月戊辰(?)[7]、太尉の周景しゅうけいが薨じた。司空の宣鄷せんほうが罷免され、長楽衛尉の王暢おうちょうが司空となった。

▼原文
夏四月戊辰,太尉周景薨。司空宣酆免,長樂衛尉王暢為司空。


[7] 校勘する、後漢書校補にひく銭大昭はいう、「建寧元年四月は、戊寅がついたちである。戊辰はない」。
 また後漢書校補はいう、「袁宏後漢紀は「夏四月戊辰、王暢が司空となった」とする。誤りは范曄後漢書から始まったわけではない」。




 五月丁未ついたち(5月1日:西暦168年6月23日)、日食があった。詔して公卿以下におのおの封事を上げさせ、郡国の守相に有道の士をおのおの一人を挙げさせ、またもとの刺史・二千石で清高で遺恵があり、衆人がみな心を寄せるものをみな公車に参上させた。

▼原文
五月丁未朔,日有食之。詔公卿以下各上封事,及郡國守相舉有道之士各一人;又故刺史、二千石清高有遺惠,為眾所歸者,皆詣公車。




 太中大夫の劉矩りゅうくが太尉になった。
▼原文
太中大夫劉矩為太尉。




 六月、京師に雨水があった。
▼原文
六月,京師雨水。




 秋七月、破羌将軍の段熲がまた涇陽県で先零羌を破った。
▼原文
秋七月,破羌將軍段熲復破先零羌於涇陽。




 八月、司空の王暢が罷免され、宗正の劉寵りゅうちょうが司空となった。
▼原文
八月,司空王暢免,宗正劉寵為司空。




 九月丁亥(?)[8]、中常侍の曹節そうせつが詔を矯げて太傅の陳蕃、大将軍の竇武と尚書令の尹勲いんくん、侍中の劉瑜りゅうゆ、屯騎校尉の馮述ふうじゅつを誅し、みなその一族を皆殺しにした。竇太后は南宮にうつった[9]。司徒の胡広が太傅・録尚書事となった。司空の劉寵が司徒となり、大鴻臚の許栩きょくが司空となった。
▼原文
九月丁亥,中常侍曹節矯詔誅太傅陳蕃、大將軍竇武及尚書令尹勳、侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。皇太后遷于南宮。司徒胡廣為太傅,錄尚書事。司空劉寵為司徒,大鴻臚許栩為司空。


[8] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「建寧元年九月は、乙巳がついたちである。丁亥はない。袁宏後漢紀には「辛亥(9月7日:西暦168年10月25日)」とある」。
[9] 太后と竇武は密かに謀って曹節を誅そうとした。今、竇武らはすでに誅されたので、竇太后は遷された。




 冬十月甲辰つごもり(10月30日:西暦168年12月17日)、日食があった。天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人にそれぞれの量刑に応じてかとりで罪を贖わせた。

▼原文
冬十月甲辰晦,日有食之。令天下繫囚罪未決入縑贖,各有差。




 十一月、太尉の劉矩が罷免され、太僕の沛国の聞人襲もんじんしゅう[10]が太尉となった。
▼原文
十一月,太尉劉矩免,太僕沛國聞人襲為太尉。


[10] 聞人は姓である。名を襲という。字は定卿。風俗通にいう、「少正のぼうは、魯の聞人であった。その後にそれを氏とした」。聞人とは、名の聞こえた人、という意。




 十二月、鮮卑と濊貊が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
十二月,鮮卑及濊貊寇幽并二州。






建寧二年(169年)


 建寧二年、春正月丁丑(?)[11]、天下に大赦した。
▼原文
二年春正月丁丑,大赦天下。


[11] 私はいう、建寧二年正月は、甲辰がついたちである。丁丑はない




 三月乙巳(3月3日:西暦169年4月17日)、慎園董貴人を孝仁皇后とした
[12]
▼原文
三月乙巳,尊慎園董貴人為孝仁皇后。


[12] 続漢志にいう、「永楽宮を置き、桓帝の尊匽貴人の礼のように儀した」。




 夏四月癸巳(4月22日:西暦169年6月4日)、大風があり、雨雹があった。詔して公卿以下におのおの封事を上げさせた。

▼原文
夏四月癸巳,大風,雨雹。詔公卿以下各上封事。




 五月、太尉の聞人襲が辞任し、司空の許栩が罷免された。
 六月、司徒の劉寵が太尉となり、太常の許訓きょくん[13]が司徒となり、太僕の長沙郡の劉囂りゅうごう[14]が司空となった。

▼原文
五月,太尉聞人襲罷,司空許栩免。
六月,司徒劉寵為太尉,太常許訓為司徒,太僕長沙劉囂為司空。



[13] 許訓、字は季師、汝南郡平輿県の人。
[14] 劉囂、字は重寧



 秋七月、破羌将軍の段熲は射虎塞外の谷で先零羌を大いに破り、東羌をすべて平定した。
▼原文
秋七月,破羌將軍段熲大破先零羌於射虎塞外谷,東羌悉平。




 九月、江夏蛮が叛き、州郡はこれを討って平定した。
▼原文
九月,江夏蠻叛,州郡討平之。




 丹陽郡の山越賊は丹陽太守の陳夤ちんいんを囲み、陳夤はこれを撃ち破った。
▼原文
丹陽山越賊圍太守陳夤,夤擊破之。




 冬十月丁亥(10月19日:西暦169年11月25日)、中常侍の侯覧こうらんは有司にほのめかして奏上させ、もと司空の虞放ぐほう、もと太僕の杜密とみつ、もと長楽少府の李膺りよう、もと司隸校尉の朱瑀しゅう[15]、もと潁川太守の巴粛はしゅく、もと沛国相の荀翌じゅんよく[16]、もと河内太守の魏朗ぎろう、もと山陽太守の翟超てきちょうらはみな鉤党[17]とされ、獄に下され、死者は百余人にもなり、その妻子は辺境へ流刑となった。付き従っていた者たちへの禁錮は五属[18]に及んだ。制詔して州郡に大いに鉤党を検挙させ、そこで天下の豪桀や儒学をおさめ義を行う者は、その一切が党人となった[19]
▼原文
冬十月丁亥,中常侍侯覽諷有司奏前司空虞放、太僕杜密、長樂少府李膺、司隸校尉朱瑀、潁川太守巴肅、沛相荀翌、河內太守魏朗、山陽太守翟超皆為鉤黨,下獄,死者百餘人,妻子徙邊,諸附從者錮及五屬。制詔州郡大舉鉤黨,於是天下豪桀及儒學行義者,一切結為黨人。


[15] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「党錮伝および竇武伝には皆な「朱㝢しゅう」とある。「朱瑀」とするのは誤りである」。
[16] 校勘する、洪頤煊こういけん読書叢錄にいう、「「荀翌」は「荀昱じゅんいく」とするべきである。荀淑伝、党錮傳序および竇武伝にはともに「荀昱」とある」。
[17] 鉤とは、互いに牽引しあうことである。劉淑伝・李膺伝にくわしい。
[18] 五属とは、五服の内親のことである。
[19] 続漢志にいう、「建寧年間(168年~172年)、京都の長者はみな葦の方笥を家具とした。このときの有識者がひそかに言うには、葦の笥は郡国の讞篋ブラックリストであるとした。そののち、党錮の禁が起こり、大赦があったが、疑いがある者はみな廷尉に裁かれた。その人名はすべて方笥の中に入っていた」。



 庚子つごもり(?)、日食があった[20]
▼原文
庚子晦,日有食之。



[20] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう「五行志には「〔建寧〕二年、十月戊戌つごもり(10月30日:西暦169年12月6日)、日食があった。右扶風がこれを報告した」とある」。




 十一月、太尉の劉寵が罷免され、太僕の郭禧かくき[21]が太尉となった。
▼原文
十一月,太尉劉寵免,太僕郭禧為太尉。


[21] 郭禧、字は公房、陳留郡扶溝県の人。
 私はいう、郭禧は、潁川郡陽翟県のひとでは? 郭躬伝にくわしい。




 鮮卑が并州に侵攻した。

▼原文
鮮卑寇并州。




 この年、長楽太僕の曹節が車騎将軍となり、百余日で罷免された。
▼原文
是歲,長樂太僕曹節為車騎將軍,百餘日罷。






建寧三年(170年)


 建寧三年、春正月、河内郡の人で婦が夫を食らい、河南の人で夫が婦を食らった。
▼原文
三年春正月,河內人婦食夫,河南人夫食婦。




 三月丙寅つごもり(3月30日:西暦170年5月3日)、日食があった。
▼原文
三月丙寅晦,日有食之。




 夏四月、太尉の郭禧が辞任し、太中大夫の聞人襲が太尉となった。
 秋七月、司空の劉囂が辞任した。
 八月、大鴻臚の橋玄きょうげんが司空となった。
▼原文
夏四月,太尉郭禧罷,太中大夫聞人襲為太尉。
秋七月,司空劉囂罷。
八月,大鴻臚橋玄為司空。




 九月、執金吾の董寵とうちょうが獄に下されて死んだ。
▼原文
九月,執金吾董寵下獄死。




 その冬、済南郡に賊が起こり、東平陵県を攻めた。
▼原文
冬,濟南賊起,攻東平陵。




 鬱林県の烏滸の民[22]が互いに連れ合って内地に属した。
▼原文
鬱林烏滸民相率內屬。


[22] 烏滸とは、南方の夷の号である。
 広州記にいう、「その習俗は、人を食らい、鼻で水を飲み、口の中で食べ進める」。






建寧四年(171年)


 建寧四年、春正月甲子(1月3日:西暦170年2月25日)、霊帝は元服し、天下に大赦した。それぞれに差をつけて公卿以下に恩賞を下賜した。ただ党人だけは赦さなかった。
▼原文
四年春正月甲子,帝加元服,大赦天下。賜公卿以下各有差,唯黨人不赦。




 二月癸卯(2月13日:西暦170年4月5日)、地震がおこり、海水が溢れ、黄河の水がきれいになった。
▼原文
二月癸卯,地震,海水溢,河水清。




 三月辛酉ついたち(3月1日:西暦170年4月23日)、日食があった。
▼原文
三月辛酉朔,日有食之。




 太尉の聞人襲が罷免され[23]、太僕の李咸りかん[24]が太尉となった。
▼原文
太尉聞人襲免,太僕李咸為太尉。


[23] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「蔡質さいしつの漢官典職儀に載る建寧四年七月の宋皇后立后の儀によれば、太尉の聞人襲に節を持たせて璽綬を奉らせたとある。聞人襲が三月に罷免されたなら、七月の立后の事に立ち会うことはできない」。
 また後漢書集解にひく何焯はいう、「蔡氏の載せるこの詔書は、対応しないところがあり誤りがある。この本紀の書く拜罷まだつまびらかではないのだ」。
 按ずるに、後漢書校補はいう「袁宏後漢紀は「建寧四年三月、太尉の劉寵、司空の喬玄が災異によって罷免された」とする。太尉を罷免された者は聞人襲ではない。そのほかの拜罷もまた范曄後漢書と異なっている。いずれの説が正しいのだろうか」。
[24] 李咸、字は元卓、汝南郡西平県の人。




 詔して公卿から六百石にいたるまで、おのおの封事を上げさせた。
▼原文
詔公卿至六百石各上封事。




 大いに疫病がはやり、中謁者を巡行させて治療薬を届けさせた。
▼原文
大疫,使中謁者巡行致醫藥。




 司徒の許訓が罷免され、司空の橋玄が司徒となった。
 夏四月、太常の来艶らいえん[25]が司空となった。

▼原文
司徒許訓免,司空橋玄為司徒。
夏四月,太常來豔為司空。


[25] 来艶、字は季德、南陽郡新野県の人。




 五月、河東郡で地割れが起き、雨雹があり、山では水が氾濫した。

▼原文
五月,河東地裂,雨雹,山水暴出。




 秋七月、司空の来艶が罷免された。
▼原文
秋七月,司空來豔免。




 癸丑(?)[26]、貴人の宋氏が皇后に立てられた[27]

▼原文
癸丑,立貴人宋氏為皇后。


[26] 校勘する、後漢書集解にひく何焯はいう、「礼儀志に載せる蔡質の記した立后の儀には、詔を下した日は癸丑ではなく、乙未(?)とする。また璽綬を奉じた者は聞人襲であり、李咸ではない。范曄が誤っている疑いがある」。
 按ずるに、本紀では七月癸丑とし、蔡質が記すのは七月乙未である。建寧四年七月は、己未がついたちである。癸丑・乙未はない。「癸丑」の上に「八月」の二字が脱落しているのではないか。蔡質の記す七月乙未というのも、八月乙未の誤りではないか。
 私はいう、建寧四年八月癸丑(8月25日:西暦171年10月12日)
 私はいう、建寧四年八月乙未(8月5日:西暦171年9月24日)
[27] 執金吾の宋酆そうほうの娘である。前年に掖庭に入って貴人となった。




 司徒の橋玄が罷免された。
 太常の宗俱そうぐ[28]が司空となり。もと司空の許栩が司徒となった。

▼原文
司徒橋玄免。
太常宗俱為司空,前司空許栩為司徒。


[28] 宗俱、字は伯儷、南陽郡安衆県の人。




 その冬、鮮卑が并州に侵攻した。
▼原文
冬,鮮卑寇并州。






建寧五年・熹平元年(172年)


 熹平元年、春三月壬戌(3月8日:西暦172年4月18日)、太傅の胡広が薨じた。
▼原文
熹平元年春三月壬戌,太傅胡廣薨。




 夏五月己巳(5月16日:西暦172年6月24日)、天下に大赦し、改元して熹平とした。
▼原文
夏五月己巳,大赦天下,改元熹平。




 長楽太僕の侯覧には罪があり、自殺した。
▼原文
長樂太僕侯覽有罪,自殺。




 六月、京師に雨水があった。
▼原文
六月,京師雨水。




 癸巳(6月10日:西暦172年7月18日)、皇太后の竇氏が崩じた。
 秋七月甲寅(7月2日:西暦172年8月8日)、桓思皇后(竇氏)が葬られた。
▼原文
癸巳,皇太后竇氏崩。
秋七月甲寅,葬桓思皇后。




 宦官がほのめかして司隸校尉の段熲に千余人の太学の諸生を捕らえさせ、獄につなげさせた[29]
 冬十月、渤海王の劉悝りゅうかいは謀反しようとしたと誣告された。
 丁亥(10月6日:西暦172年11月9日)、劉悝とその妻子はみな自殺した。

▼原文
宦官諷司隸校尉段熲捕繫太學諸生千餘人。
冬十月,渤海王悝被誣謀反,
丁亥,悝及妻子皆自殺。


[29] このとき、朱雀闕に書き付けて言ったものがいた、「天下は大いに乱れ,公卿はみな尸禄をむさぼる」。ゆえに捕らえられた。このことは宦者伝にみえる。




 十一月、会稽郡の許生きょせい[30]は自称して越王とし、郡県に侵攻した[31]。揚州刺史の臧旻ぞうびん、丹陽太守の陳夤[32]を派遣してこれを打ち破らせた。
▼原文
十一月,會稽人許生自稱「越王」,寇郡縣,遣楊州刺史臧旻、丹陽太守陳夤討破之。


[30] 校勘する、後漢書集解にひく何焯はいう、「許生について、三国志呉志には「許昌きょしょう」とある」。
 また後漢書集解にひく恵棟はいう、「天文志・臧洪伝にはみな「許生」とあある」。
[31] 東観記にいう、「会稽郡の許昭きょしょうは人々を集めて自称して大将軍とし、父の許生を立てて越王として、郡県を攻め破った」。
 校勘する、後漢書集解にひく何焯はいう「許昭について、三国志呉志には「許韶きょしょう」とある」。また後漢書集解にひく恵棟はいう、「晋の司馬昭の諱をさけたので、「許韶」としたのだ」。

[32] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「天文志には「陳寅」とある」。按ずるに、前に建寧二年では「陳夤」とし、後に熹平三年では「陳寅」とする。帝紀の前後で一律ではない。




 十二月、司徒の許栩が辞任し、大鴻臚の袁隗えんかいが司徒となった。
▼原文
十二月,司徒許栩罷,大鴻臚袁隗為司徒。




 鮮卑が并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇并州。




 この年、甘陵王の劉恢りゅうかいが薨じた[33]
▼原文
是歲,甘陵王恢薨。


[33] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「清河王劉慶伝には「梁太后が安平孝王の子の経侯の劉理りゅうりを甘陵王とし、これを威王とし、劉理は立って二十五年で薨じた。子の貞王の劉定りゅうていが跡を継ぎ、劉定は立って四年で薨講じた。子の献王の劉忠りゅうちゅうが跡を継いだ」とある。劉恢という名の者はいない。考えるに、劉理は桓帝の建和二年(148年)に封じられ、熹平元年(172年)に至るまでちょうど二十五年である。つまり劉恢と劉理は実は同一人物であろう」。






熹平二年(173年)


 熹平二年、春正月、大いに疫病がはやり、使者を巡行させて治療薬を届けさせた。
▼原文
二年春正月,大疫,使使者巡行致醫藥。




 丁丑(1月27日:西暦174年2月27日)、司空の宗俱が薨じた。
▼原文
丁丑,司空宗俱薨。




 二月壬午(2月3日:西暦174年3月4日)、天下に大赦した。
▼原文
二月壬午,大赦天下。




 光禄勲の楊賜ようしを司空とした。
▼原文
以光祿勳楊賜為司空。




 三月、太尉の李咸が罷免された。
 夏五月、司隸校尉の段熲を太尉とした。
▼原文
三月,太尉李咸免。
夏五月,以司隸校尉段熲為太尉。




 沛国相の師遷しせんは国王を誣罔した罪に問われ、獄に下され死んだ[34]
▼原文
沛相師遷坐誣罔國王,下獄死。


[34] 国王とは、陳愍王の劉寵りゅうちょうである。
 臣李賢が案じるに、陳敬王伝には「国相の師遷」とある。また東観記には「陳行国相の師遷が奏し、沛国相の魏愔ぎいんが、以前に陳国相となり、陳王の劉寵と連絡をとっていたとした」。明らかに魏愔が沛相であるといっており、このように師遷が沛国相と言っているのは、おそらく誤りであろう。




 六月、北海郡で地震があった。東萊郡・北海郡の海水が溢れた[35]
▼原文
六月,北海地震。東萊,北海海水溢。


[35] 続漢志にいう、「このとき、大魚が二匹あらわれ、それぞれ長さは八、九丈、高さは二丈余りだった」。




 秋七月、司空の楊賜は罷免され、太常の潁川郡の唐珍とうちんが司空となった。
▼原文
秋七月,司空楊賜免,太常潁川唐珍為司空。




 冬十二月、日南郡の境界外の国が通訳を通して貢物を献上した。
▼原文
冬十二月,日南徼外國重譯貢獻。




 太尉の段熲が辞任した。
▼原文
太尉段熲罷。




 鮮卑が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽并二州。




 癸酉つごもり(12月29日:西暦175年2月18日)、日食があった[36]
▼原文
癸酉晦,日有食之。


[36] 校勘する、按ずるに、熹平二年十二月は、乙巳がついたちである。また翌熹平三年正月は、乙亥がついたちである。つまり熹平二年十二月のつごもりは甲戌である。癸酉ではない。
 今、推察するに、熹平三年正月のついたちを甲戌に合わせると、こうなる。帝紀の月日に誤りがある。






熹平三年(174年)


 熹平三年、春正月、夫余国が使者を派遣して貢物を献上した。
▼原文
三年春正月,夫餘國遣使貢獻。




 二月己巳(2月2日:西暦174年3月22日)、天下に大赦した。
▼原文
二月己巳,大赦天下。




 太常の陳耽ちんたん[37]が太尉となった。
▼原文
太常陳耽為太尉。


[37] 陳耽、字は漢公、東海郡の人。




 三月、中山王の劉暢りゅうちょうが薨じた。子は無く、国は除かれた[38]
▼原文
三月,中山王暢薨,無子,國除。


[38] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「中山王劉焉伝を按ずるに、「穆王の劉暢は立って三十四年で薨じた。子の節王の劉稚りゅうちが跡を継ぎ、子は無く、国は除かれた」とある。劉暢にはもともと子がおり、国もまたまだ除かれてはいない」。




 夏六月、河間王の劉利りゅうりの子の劉康りゅうこうを済南王に封じ、孝仁皇(霊帝の父の劉萇)の祭祀を奉じさせた。
▼原文
夏六月,封河閒王利子康為濟南王,奉孝仁皇祀。




 秋、洛水が溢れた。
▼原文
秋,洛水溢。




 冬十月癸丑(10月14日:西暦174年11月25日)、天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人に、かとりで罪を贖わせた。
▼原文
冬十月癸丑,令天下繫囚罪未決,入縑贖。




 十一月、揚州刺史の臧旻が丹陽太守の陳寅ちんいんを率い、会稽郡で許生を大いに破り、これを斬った。
▼原文
十一月,楊州刺史臧旻率丹陽太守陳寅,大破許生於會稽,斬之。




 任城王の劉博りゅうはく薨が薨じた。
▼原文
任城王博薨。




 十二月、鮮卑が北地郡に侵攻し、北地太守の夏育かいくはこれを追撃して破った。
 鮮卑がまた并州に侵攻した。
▼原文
十二月,鮮卑寇北地,北地太守夏育追擊破之。
鮮卑又寇并州。




 司空の唐珍が辞任し、永楽少府の許訓が司空となった。
▼原文
司空唐珍罷,永樂少府許訓為司空。






熹平四年(175年)


 熹平四年、春三月、詔して諸儒に五経の文字を正させ、石に刻んで太学の門の外に立てた。
▼原文
四年春三月,詔諸儒正五經文字,刻石立于太學門外。




 河間王の劉建りゅうけん[39]の孫の劉佗りゅうたを任城王に封じた[40]
▼原文
封河閒王建孫佗為任城王。



[39] 劉建は、桓帝の弟である。
[40] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「光武十王伝によれば、「劉佗は劉建の子」とある。劉建の孫ではない」。



 夏四月、七つの郡国に洪水があった[41]
▼原文
夏四月,郡國七大水。


[41] 校勘する、後漢書校補はいう、「続漢志には「三つの郡国に洪水があった」とある」。




 五月丁卯(5月1日:西暦175年6月7日)、天下に大赦した。
▼原文
五月丁卯,大赦天下。




 延陵園[42]に火災があり、使者に節を持たせて遣わして延陵に報告をして祀った。
▼原文
延陵園災,遣使者持節告祠延陵。


[42] 前漢成帝の陵である。




 鮮卑が幽州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽州。





 六月、弘農郡・三輔にずいむしがわいた。
▼原文
六月,弘農、三輔螟。




 守宮令を塩監[43]へ遣わして、渠を穿ち民のために利便を興した。
▼原文
遣守宮令之鹽監,穿渠為民興利。


[43] 前書地理志と続漢郡国志には、ともに塩監はない。今(唐代)、蒲州安邑の西南に塩池がある。




 郡国に令して被災した者には田租を半分に減らさせ、その傷害が十分の四以上の者には、取り立てをさせなかった。
▼原文
令郡國遇災者,減田租之半;其傷害十四以上,勿收責。




 冬十月丁巳(10月23日:西暦175年11月24日)、天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人に、かとりで罪を贖わせた。
▼原文
冬十月丁巳,令天下繫囚罪未決,入縑贖。




 沖帝の母の虞美人を憲園貴人とし[44]、質帝の母の陳夫人を渤海孝王妃とした[45]
▼原文
拜沖帝母虞美人為憲園貴人,質帝母陳夫人為渤海孝王妃。



[44] 順帝の虞美人である。憲園は洛陽の東北にある。
[45] 渤海孝王の劉鴻りゅうこうの夫人である。



 平準[46]を改めて中準とし、宦官にその中準令をさせ、部署内に列席させた。これより諸部署ではみな宦官が丞令となった。
▼原文
改平準為中準,使宦者為令,列於內署。自是諸署悉以閹人為丞、令。


[46] 漢官儀にいう、「平準令は一人。秩は六百石である」。






熹平五年(176年)


 熹平五年、夏四月癸亥(?)[47]、天下に大赦した。
▼原文
五年夏四月癸亥,大赦天下。


[47] 私はいう、熹平五年四月は、壬辰がついたちである。癸亥はない。
 私はいう、袁宏後漢紀にいう、「〔熹平五年〕夏四月癸丑(4月22日:西暦176年5月18日)、天下に大赦した」。




 益州郡の夷が叛き、益州太守の李顒りぎょうがこれを討ち平定した。
▼原文
益州郡夷叛,太守李顒討平之。




 崇高山の名を嵩高山とした[48]
▼原文
復崇高山名為嵩高山。


[46] 前書によれば、武帝が中嶽として祀り、嵩高山を崇高山とした。
 東観記にいう、「中郎将の堂谿典とうけいてんに雨乞いをさせた。そこでこれを改めるよう言上し、名づけて嵩高山とした」。




 大雩をおこなった。侍御史に詔獄亭部へ行かせ、免罪を取り調べ、軽罪の者を赦し、囚人たちを休ませた。
▼原文
大雩。使侍御史行詔獄亭部,理冤枉,原輕繫,休囚徒。




 五月、太尉の陳耽が辞任し、司空の許訓が太尉となった。
▼原文
五月,太尉陳耽罷,司空許訓為太尉。




 閏五月、永昌太守の曹鸞そうらんが党人のことについて訟した罪に問われ、棄市となった[49]。詔して党人の門生故吏、父兄子弟で位にあるものをみな免官して禁錮した。
▼原文
閏月,永昌太守曹鸞坐訟黨人,棄市。詔黨人門生故吏父兄子弟在位者,皆免官禁錮。


[49] 訟とはこれの無実を主張することをいう。その言辞が切実率直であったため、霊帝は怒り、檻車を槐里獄に送り彼を拷問して殺した。




 六月壬戌(6月3日:西暦176年7月26日)、太常の南陽郡の劉逸りゅういつ[50]が司空となった。
▼原文
六月壬戌,太常南陽劉逸為司空。


[50] 劉逸、字は大過、南陽郡安衆県の人。
 校勘する、殿本、集解本にはともに「字は大迥」とある。




 秋七月、太尉の許訓が辞任し、光禄勲の劉寛りゅうかんが太尉となった。
▼原文
秋七月,太尉許訓罷,光祿勳劉寬為太尉。




 冬十月壬午(10月24日:西暦176年12月13日)、御殿の後ろの槐樹が自然と抜けて逆さまに倒れた。
▼原文
冬十月壬午,御殿後槐樹自拔倒豎。




 司徒の袁隗が辞任した。
 十一月丙戌(?)[51]、光禄大夫の楊賜が司徒となった。

▼原文
司徒袁隗罷。
十一月丙戌,光祿大夫楊賜為司徒。


[51] 私はいう、熹平五年十一月は、戊子がついたちである。丙戌はない。




 十二月、甘陵王の劉定りゅうていが薨じた。
▼原文
十二月,甘陵王定薨。



 太学生で六十歳以上のもの百余人を試験し、郎中や太子舍人[52]に叙した。王家の郎、郡国の文学吏にまで至るものもいた。
▼原文
試太學生年六十以上百餘人,除郎中、太子舍人至王家郎、郡國文學吏。


[52] 漢官儀にいう、「太子舍人とは、王家郎中とならんで秩は二百石。無員」。




 この年、鮮卑が幽州に侵攻した。
 沛国が譙県にて黄龍を見たと報告した。
▼原文
是歲,鮮卑寇幽州。
沛國言黃龍見譙。






熹平六年(177年)


 熹平六年、春正月辛丑(1月15日:西暦177年3月2日)、天下に大赦した。
▼原文
六年春正月辛丑,大赦天下。




 二月、南宮の平城門[53]と武庫の東垣屋[54]が自壊した[55]
▼原文
二月,南宮平城門及武庫東垣屋自壞。


[53] 平城門は、洛陽城の南門である。蔡邕はいう。「平城門とは、正陽んの門である。宮と連なり、郊祀の法駕がお出ましになるところで、門のうち最も尊いものである」。
[54] 武庫は、禁中の兵器を保管してあるところである。東垣とは。庫の外障である。易伝にいう、「小人が位にあると、の妖は城門を自ら壊す」。
[55] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「謝承後漢書・続漢志にはみな光和元年条にある。帝紀に誤りがあるのだろう」。



 夏四月、大いに旱があり、七州にいなごがわいた。
▼原文
夏四月,大旱,七州蝗。




 鮮卑が三辺(東西北の三方向)に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇三邊。




 市場の商人たちで宣陵孝子となる者が数十人おり、みな太子舍人を叙された。
▼原文
市賈民為宣陵孝子者數十人,皆除太子舍人。




 秋七月、司空の劉逸が罷免され、衛尉の陳球ちんきゅうが司空となった。
▼原文
秋七月,司空劉逸免,衛尉陳球為司空




 八月、遣破鮮卑中郎将の田晏でんあんが雲中県から出、使匈奴中郎将の臧旻と南単于が鴈門関から出、護烏桓校尉の夏育が高柳県から出、並んで鮮卑を討伐し、田晏らは大敗した。
▼原文
八月,遣破鮮卑中郎將田晏出雲中,使匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門,護烏桓校尉夏育出高柳,並伐鮮卑,晏等大敗。




 冬十月癸丑朔(10月1日:西暦177年11月9日)、日食があった。
▼原文
冬十月癸丑朔,日有食之。




 太尉の劉寛が罷免された。
▼原文
太尉劉寬免。




 霊帝が辟雍に臨んだ。
▼原文
帝臨辟雍。




 辛丑(?)[56]、京師で地震がおこった。
▼原文
辛丑,京師地震。


[56] 校勘する、熹平六年十月は、癸丑がついたちである。辛丑はない。
 後漢書校補はいう、「袁宏後漢紀には「癸丑ついたち(10月1日:西暦177年11月9日)、日食があり、また地震があった」とある。「辛丑」とは「癸丑」の誤りでなのではないか」。




 辛亥(?)[57]、天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人に、かとりで罪を贖わせた。

▼原文
辛亥,令天下繫囚罪未決,入縑贖。


[57] 校勘する、按ずるに、熹平六年十月、癸丑がついたちである。辛亥はない。辛亥は翌月にあるが、誤りであろう。




 十一月、司空の陳球が罷免された。
 十二月甲寅(12月3日:西暦178年1月9日)、太常の河南の孟戫もういく[58]が太尉となった。
 庚辰(12月29日:西暦178年2月4月)、司徒の楊賜が罷免された。太常の陳耽が司空となった。

▼原文
十一月,司空陳球免。
十二月甲寅,太常河南孟戫為太尉。
庚辰,司徒楊賜免。太常陳耽為司空。



[58] 孟戫、字は叔達。




 鮮卑が遼西郡に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇遼西。




 永安太僕の王旻おうびんが獄に下されて死んだ。
▼原文
永安太僕王旻下獄死。








熹平七年・光和元年(178年)


 光和元年、春正月、合浦郡・交阯郡の烏滸蛮が叛き、九真郡・日南郡の民を引き込んで郡県を攻略した。
▼原文
光和元年春正月,合浦、交阯烏滸蠻叛,招引九真、日南民攻沒郡縣。




 太尉の孟戫が辞任した。
▼原文
太尉孟戫罷。




 二月辛亥ついたち(2月1日:西暦178年3月7日)、日食があった。
▼原文
二月辛亥朔,日有食之。




 癸丑(2月3日:西暦178年3月9日)、光禄勲の陳国の袁滂えんぼう[59]が司徒となった。
▼原文
癸丑,光祿勳陳國袁滂為司徒。


[59] 袁滂、字は公喜。




 己未(2月9日:西暦178年3月15日)、地震があった。
▼原文
己未,地震。




 始めて鴻都門学生がおかれた[60]
▼原文
始置鴻都門學生。


[60] 鴻都は、門の名である。その内に学を置いた。このとき、その諸生は、みな州郡や三公に命じて尺牘や辞賦ををよく作ることができるもの、また鳥書篆書を巧みに書けるもの挙げ召させて試験をおこない、千人にまでなった。




 三月辛丑(3月21日:西暦178年4月26日)、天下に大赦し、改元して光和とした。
▼原文
三月辛丑,大赦天下,改元光和。




 太常の常山郡の張顥ちょうこう[61]が太尉となった。
▼原文
太常常山張顥為太尉。



[61] 張顥、字は智明。
 捜神記にいう、「張顥が梁国相となり、春の新雨のあと、近くの土地でかささぎが飛翔し、令して人にこれをうち落とさせた。〔鵲は〕地に落ちると丸い石となり、張顥は命じて叩き割らせた。一つの金印を手に入れ、文には『忠孝侯印』とあった」。



 夏四月丙辰(4月7日:西暦178年5月11日)、地震があった。
▼原文
夏四月丙辰,地震。




 侍中寺の雌鶏が変化して雄となった。
▼原文
侍中寺雌雞化為雄。




 司空の陳耽が罷免され、太常の来艶が司空となった。
▼原文
司空陳耽免,太常來豔為司空。




 五月壬午(5月3日:西暦178年6月6日)、白衣の人間が徳陽殿の門に侵入し、消え去ってしまい捕らえられなかった[62]
 六月丁丑(6月29日:西暦178年7月31日)、黒い気が温徳殿の庭の中に堕ちてきた[63]
 秋七月壬子(?)[64]、青虹が霊帝のおわす玉堂後殿[65]の庭の中に見えた。
 八月、ほうき星が天巿垣の位置にあった。

▼原文
五月壬午,有白衣人入德陽殿門,亡去不獲。
六月丁丑,有黑氣墯所御溫德殿庭中。
秋七月壬子,青虹見御坐玉堂後殿庭中。
八月,有星孛于天巿。


[62] 東観記にいう、「白衣の人は言った、「梁伯夏である。我を殿に上らせよ」。中黃門と桓賢かんけんは語りあったが、忽然を姿を消した」
[63] 東観記にいう、「堕ちてきた温明殿の庭の中は、車蓋のように隆起し、勢いがあり、五色で、頭があり、体長は十余丈あり、姿かたちが龍に似ていた」。
[64] 私はいう、光和元年七月は、己卯がついたちである。壬子はない。
[65] 洛陽宮の殿の名である。南宮に玉堂の前殿・後殿がある。楊賜伝によれば、嘉德殿の前に落ちたという。




 九月、太尉の張顥が辞任し、太常の陳球が太尉となった。司空の来艶が薨じた。
 冬十月、屯騎校尉の袁逢が司空となった。
▼原文
九月,太尉張顥罷,太常陳球為太尉。司空來豔薨。
冬十月,屯騎校尉袁逢為司空。




 皇后の宋氏が廃され、皇后の父の執金吾の宋鄷そうほうが獄に下されて死んだ。
▼原文
皇后宋氏廢,后父執金吾酆下獄死。




 丙子つごもり(10月30日:西暦178年11月27日)、日食があった。
▼原文
丙子晦,日有食之。





 十一月、太尉の陳球が罷免された。
 十二月丁巳(12月12日:西暦179年1月7日)、光禄大夫の橋玄が太尉となった。
▼原文
十一月,太尉陳球免。
十二月丁巳,光祿大夫橋玄為太尉。




 この年、鮮卑が酒泉郡に侵攻した。
 京師では馬が人を生んだ[66]
 初め、西邸を開いて売官をし、関内侯から、虎賁、羽林をそれぞれの価格に差をつけて売った[67]。私的に左右に令して公卿に売らせ、公は千万、卿は五百万を使わせた。

▼原文
是歲,鮮卑寇酒泉。
京師馬生人。
初開西邸賣官,自關內侯、虎賁、羽林,入錢各有差。私令左右賣公卿,公千萬,卿五百萬。


[66] 京房けいぼう易伝にいう、「諸侯が伐ちあえば、の妖、馬が人を生む」。
[67] 山陽公載記にいう、「このとき、売官し、二千石が二千万銭、四百石が四百万銭であり。その徳の順次に応じて選ばれた者はこれの半額、あるいは三分の一の値段となった。西園に庫をたててこれに貯金した」。






光和二年(179年)


 光和二年、春、大いに疫病がはやり、常侍・中謁者に巡行させて治療薬を届けさせた。
▼原文
二年春,大疫,使常侍、中謁者巡行致醫藥。




 三月、司徒の袁滂が罷免され、大鴻臚の劉郃りゅうこう[68]が司徒となった。
 乙丑(3月22日:西暦179年5月15日)、太尉の橋玄が辞任し、太中大夫の段熲が太尉となった。

▼原文
三月,司徒袁滂免,大鴻臚劉郃為司徒。
乙丑,太尉橋玄罷,太中大夫段熲為太尉。


[68] 劉郃、字は季承。




 京兆尹で地震があった。
▼原文
京兆地震。




 司空の袁逢が辞任し、太常の張済ちょうさい[69]が司空となった。
▼原文
司空袁逢罷,太常張濟為司空。


[69] 張済、字は元江、汝南郡細陽県の人。




 夏四月甲戌ついたち(4月1日:西暦179年5月24日)、日食があった。
▼原文
夏四月甲戌朔,日有食之。




 辛巳(4月8日:西暦179年5月31日)、中常侍の王甫と太尉の段熲が獄に下されて死んだ。
▼原文
辛巳,中常侍王甫及太尉段熲並下獄死。




 丁酉(4月24日:西暦179年6月16日)、天下に大赦し、小功(曾祖父が同じ者)以下諸党人の禁錮をみな除いた[70]
▼原文
丁酉,大赦天下,諸黨人禁錮小功以下皆除之。


[70] このとき、上禄県長の和海かかいは上言して言った、「党人の禁錮が五族及ぶのというのは、典訓からかけ離れております」。霊帝はこれにしたがった。




 東平王の劉端りゅうたんが薨じた。
▼原文
東平王端薨。




 五月、衛尉の劉寛が太尉となった。
▼原文
五月,衛尉劉寬為太尉。




 秋七月、使匈奴中郎将の張脩ちょうしゅうが罪により獄に下されて死んだ[71]
▼原文
秋七月,使匈奴中郎將張脩有罪,下獄死。


[71] このとき、張脩は独断で単于の呼微こちょうを斬り、羌渠きょうきょを立てて単于とした。ゆえに罪に問われて死んだ。




 冬十月甲申(10月14日:西暦179年11月30日)、司徒の劉郃、永楽少府の陳球、衛尉の陽球、步兵校尉の劉納りゅうどうは宦者を誅そうと謀り、ことが漏れ、みな獄に下されて死んだ
▼原文
冬十月甲申,司徒劉郃、永樂少府陳球、衛尉陽球、步兵校尉劉納謀誅宦者,事泄,皆下獄死。




 巴郡の板楯蛮が叛いた。御史中丞の蕭瑗しょうえんを派遣して益州刺史を督させてこれを討たせたが、勝てなかった。
▼原文
巴郡板楯蠻叛,遣御史中丞蕭瑗督益州刺史討之,不剋。




 十二月、光禄勲の楊賜が司徒となった。
▼原文
十二月,光祿勳楊賜為司徒。





 鮮卑が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽并二州。




 この年、河間王の劉利が薨じた。
 洛陽の女子が児を生んだが、頭が二つに臂が四つだった[72]

▼原文
是歲,河閒王利薨。
洛陽女子生兒,兩頭四臂。


[72] 京房易伝にいう、「二つの首は、一つのからだには表れないものだ。の妖、人が両頭児を生む」。






光和三年(180年)


 光和三年、春正月癸酉(?)[73]、天下に大赦した。
▼原文
三年春正月癸酉,大赦天下。


[73] 私はいう、光和三年正月は、庚子がついたちである。癸酉はない。




 二月、公府の駐駕のひさしが自壊した[74]
▼原文
二月,公府駐駕廡自壞。



[74] 公府とは、三公の府である。駐駕とは、車を停めるところである。廡とは、廊の屋根である。
 続漢志にいう、「南北に四十余間が壊れた」。




 三月、梁王の劉元りゅうげんが薨じた。
▼原文
三月,梁王元薨。




 夏四月、江夏蛮が叛いた。
▼原文
夏四月,江夏蠻叛。




 六月、詔して公卿に尚書[75]・毛詩・左氏伝・穀梁春秋によく通じた者をそれぞれ一人づつ挙げさせ、その全員を議郎に叙した。
▼原文
六月,詔公卿舉能通尚書、毛詩、左氏、穀梁春秋各一人,悉除議郎。


[75] 校勘する、殿本考證にひく顧炎武はいう、「「尚書」の上に「古文」の二字が脱落している」。古文尚書。
 按ずるに、李慈銘はいう、「古文尚書および毛詩・左氏・穀梁春秋は皆な学官が立てられていなかった。ゆえに詔によりよくこれらに通じている者に議郎を拝させたのである。安帝紀の延光二年にかかれたものと同様である」。




 秋、表是県で地震があり、水が湧き出た。
▼原文
秋,表是地震,涌水出。




 八月、令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人にそれぞれの量刑に応じてかとりで罪を贖わせた。
▼原文
八月,令繫囚罪未決,入縑贖,各有差。




 冬閏月[76]、ほうき星が狼星・弧星の位置にあった。
▼原文
冬閏月,有星孛于狼、弧。



[76] 校勘する、按ずるに、光和三年に閏月はない。「閏月」の二字は衍字である。




 鮮卑が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽、并二州。




 十二月己巳(12月6日:西暦181年1月8日)、貴人の何氏[77]を立てて皇后にした。
▼原文
十二月己巳,立貴人何氏為皇后。


[77] 南陽郡宛県の人である。車騎将軍の何真かしんの娘である。




 この年、罼圭苑・霊昆苑をつくった[78]
▼原文
是歲,作罼圭、靈昆苑。


[78] 罼圭苑は二つあり、東の罼圭苑は周囲一千五百步、中には魚梁台がある。西の罼圭苑は周囲三千三百步。ともに洛陽の宣平門の外にある。






光和四年(181年)


 光和四年、春正月、初めて騄驥厩丞を設置し[79]、郡国から馬を徴発した。豪右が〔馬を〕買い占めため、馬一匹が二百万銭にまでなった。
▼原文
四年春正月,初置騄驥廄丞,領受郡國調馬。豪右辜搉,馬一匹至二百萬。


[79] 騄驥とは、良馬のこと。



 二月、郡国が芝英の草を献上した。
 夏四月庚子(?)[80]、天下に大赦した。

▼原文
二月,郡國上芝英草。
夏四月庚子,大赦天下。


[80] 私はいう、光和四年四月は、癸亥がついたちである。庚子はない。




 交阯刺史の朱雋しゅしゅんが交阯郡・合浦郡の烏滸蛮を討ち、これを破った。
▼原文
交阯刺史朱雋討交阯、合浦烏滸蠻,破之。




 六月庚辰(6月19日:西暦181年7月18日)、雨雹があった[81]
 秋七月、河南の尹は新城県で鳳凰を見、鳥の群れがそれに随ったと報告した。それぞれに差をつけて、新城県令と三老に力田と帛を下賜した

 九月庚寅ついたち(9月1日:西暦181年9月26日)、日食があった。
▼原文
六月庚辰,雨雹。
秋七月,河南言鳳皇見新城,群鳥隨之;賜新城令及三老、力田帛,各有差。
九月庚寅朔,日有食之。


[81] 続漢書にいう、「雹の大きさは鶏卵ほどだった」。




 太尉の劉寛が罷免され、衛尉の許戫きょいく[82]が太尉となった。

▼原文
太尉劉寬免,衛尉許戫為太尉。


[82] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「袁宏後漢紀には「許郁きょいく」とある」。




 閏九月辛酉(閏9月2日:西暦181年10月27日)、北宮の東掖庭の永巷署[83]に火災があった。
▼原文
閏月辛酉,北宮東掖庭永巷署災。


[83] 永巷とは、宮中の部署の名である。
 漢官儀にいう、「令が一人。宦官がこれに就任し、秩は六百石。宮中の婢や侍使をつかさどる」。




 司徒の楊賜が辞任した。
 冬十月、太常の陳耽が司徒となった。
▼原文
司徒楊賜罷。
冬十月,太常陳耽為司徒。




 鮮卑が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽并二州。




 この年、霊帝は後宮に商店街をつくり、采女たちに販売させ、さらに互いに盗ませたり呼び込み合いをさせたりした。霊帝は商人の服を着、酒宴をして楽しんだ。
 また西園で犬とあそび、進賢冠[84]を着せ、綬を帯びさせた。
 また驢馬の四頭立ての駕にのり、霊帝みずから轡を操り、馳せ駆けめぐった。京師では次々とこれを模倣した[85]

▼原文
是歲帝作列肆於後宮,使諸釆女販賣,更相盜竊爭鬥。帝著商估服,飲宴為樂。
又於西園弄狗,著進賢冠,帶綬。
又駕四驢,帝躬自操轡,驅馳周旋,京師轉相放效。



[84] 三礼図にいう、「進賢冠とは、文官の服装である。前の高さは七寸、後ろの高さは三寸、長さは八寸である」。
 続漢志にいう、「霊帝は佞倖の臣の子弟を寵用し、転じて抜擢しはじめ、関内侯を五百万銭で買わせた。令長のうち強い者の貪欲さは豺狼のようで、弱い者はいい加減にふるまって善悪を区別しない。まことに狗の冠をかぶっているようなものだ」。
 昌邑王が狗に方山冠をかぶせると、龔遂きょうすいは言った、「王の左右はみな狗の冠をかぶっているな」。
[85] 続漢志にいう、「驢というものは重いものを帯びて遠くへ行き、山谷を上り下りするもので、野人だけが用いるもの。どうして帝王君子がこれを驂駕とするのだろうか。天意若にいう、「国が大いに乱れ、賢愚が倒錯し、凡そ執政者がみな驢のようになる」」。






光和五年(182年)


 光和五年、春正月辛未(1月14日:西暦182年3月6日)、天下に大赦した。
▼原文
五年春正月辛未,大赦天下。




 二月、大いに疫病がはやった。
▼原文
二月,大疫。




 三月、司徒の陳耽が罷免された。
▼原文
三月,司徒陳耽免。




 夏四月、旱があった。
▼原文
夏四月,旱。




 太常の袁隗が司徒となった。
▼原文
太常袁隗為司徒。




 五月庚申(5月5日:西暦182年6月23日),永楽宮に火災があった[86]
 秋七月、ほうき星が太微垣の位置にあった。
▼原文
五月庚申,永樂宮置災。
秋七月,有星孛于太微。


[86] 続漢志にいう、「徳陽前殿の西北より入って門の内の永楽太后の宮署に火災があった」。




 巴郡の板楯蛮は巴郡太守の曹謙そうけんのもとに出向いて降伏した。
▼原文
巴郡板楯蠻詣太守曹謙降。




 癸酉(5月18日:西暦182年7月6日),令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人にそれぞれの量刑に応じてかとりで罪を贖わせた。
▼原文
癸酉,令繫囚罪未決,入縑贖。





 八月、阿亭道に四百尺(9240㎝)の楼観をたてた。
▼原文
八月,起四百尺觀於阿亭道。




 冬十月、太尉の許戫が辞任し、太常の楊賜が太尉となった。
▼原文
冬十月,太尉許戫罷,太常楊賜為太尉。




 上林苑で校猟をおこない、函谷関をわたり、とうとう広成苑で巡狩をした。
 十二月、帰還し、太学にみゆきした。
▼原文
校獵上林苑,歷函谷關,遂巡狩于廣成苑。
十二月,還,幸太學。






光和六年(183年)


 光和六年、春正月、日南郡の境界外の国が通訳を通して貢物を献上した。
▼原文
六年春正月,日南徼外國重譯貢獻。




 二月、長陵県にも、豊県・沛県と同等に〔賦役を免除〕した。
 三月辛未(3月21日:西暦183年4月30日)、天下に大赦した。
▼原文
二月,復長陵縣,比豐、沛。
三月辛未,大赦天下。




 夏、大いに旱があった。
▼原文
夏,大旱。




 秋、金城郡で黄河が溢れた。五原郡の山岸が崩れた。
▼原文
秋,金城河水溢。五原山岸崩。




 始めて圃囿署を設置し、宦官をその令とした。

▼原文
始置圃囿署,以宦者為令。



 冬、東海郡[87]・東萊郡・琅邪郡の井戸の中の氷の厚さが一余尺ほどもあった。
▼原文
冬,東海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。


[87] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「続漢志五行志には「北海郡」とある」。




 大豊作の年だった。
▼原文
大有年。






光和七年・中平元年(184年)


  中平元年、春二月、鉅鹿郡の張角ちょうかくが自称して黄天とし、その部師は三十六万人おり[88]、みな黄色い頭巾をかぶり、同日に反乱をおこした。安平国・甘陵国の人々はそれぞれの国の王[89]を捕らえてこれに呼応した。
▼原文
中平元年春二月,鉅鹿人張角自稱「黃天」,其部師有三十六萬,皆著黃巾,同日反叛。安平、甘陵人各執其王以應之。


[88] 校勘する、殿本考證にひく後漢書集解にひく恵棟はいう、「その部帥は三十六方あり……」。
[89] 安平王は劉続りゅうしょく、甘陵王は劉忠りゅうちゅう




 三月戊申(3月3日:西暦184年4月1日)、河南の尹の何進が大将軍となり、兵を率いて都亭に駐屯した。八関都尉の官を置いた[90]
 壬子(3月7日:西暦184年4月5日)、天下の党人に大赦し、流刑になっているものを帰還させ[91]、ただ張角だけを赦さなかった。詔して公卿に馬・弩を供出させ、将軍の位に列している者のうちと吏民のうちから戦闘の機略がある者を挙げさせ、公車に参上させた。
 北中郎将の盧植ろしょくを派遣して張角を討たせ、左中郎将の皇甫嵩こうほすう、右中郎将の朱雋を派遣して潁川郡の黄巾を討たせた。
 庚子(?)[92]、南陽郡の黄巾の張曼成ちょうまんせいが南陽太守の褚貢ちょこうを殺した。

▼原文
三月戊申,以河南尹何進為大將軍,將兵屯都亭。置八關都尉官。
壬子,大赦天下黨人,還諸徙者,唯張角不赦。詔公卿出馬、弩,舉列將子孫及吏民有明戰陣之略者,詣公車。
遣北中郎將盧植討張角,左中郎將皇甫嵩、右中郎將朱雋討潁川黃巾。
庚子,南陽黃巾張曼成攻殺郡守褚貢。


[90] 都亭は洛陽にある。八関とは、函谷関・広城関・伊闕関・大谷関・轘轅関・旋門関・小平津関・孟津関である。
[91] このとき、中常侍の呂強りょきょうが霊帝に言った、「党錮の禁から久しくたちましたが、もし黄巾賊と謀を合わせたなら、これを悔いても救いようがありません」。霊帝は恐れ、党人をみな赦した。
[92] 私はいう、中平元年三月は、丙午がついたちである。庚子はない。




 夏四月、太尉の楊賜が罷免され、太僕の弘農郡の鄧盛とうせい[93]が太尉となった。司空の張済が辞任し、大司農の張温が司空となった。
▼原文
夏四月,太尉楊賜免,太僕弘農鄧盛為太尉。司空張濟罷,大司農張溫為司空。



[93] 鄧盛、字は伯能。




 朱雋が黄巾賊の波才はさいに敗れた。
▼原文
朱雋為黃巾波才所敗。




 侍中の向栩しょうく張鈞ちょうきん[94]が宦官の言葉により罪に問われ、獄に下されて死んだ[95]
▼原文
侍中向栩、張鈞坐言宦者,下獄死。


[94] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「袁宏後漢紀には「張均ちょうきん」とある」。
[95] このとき、張鈞は上書して言った、「今、常侍を斬り、その首を南郊に懸けて天下に謝せば、すぐさま兵事はおのずから立ち消えるでしょう」。霊帝はこの章を常侍に示した。ゆえに獄に下された。




 汝南郡の黄巾賊は邵陵県で汝南太守の趙謙ちょうけんを敗北させた。
 広陽郡の黄巾賊は幽州刺史の郭勲かくくんと広陽太守の劉衛りゅうえいを殺した。
▼原文
汝南黃巾敗太守趙謙於邵陵。
廣陽黃巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衛。




 五月、皇甫嵩・朱雋はまた長社県で波才らと戦い、大いにこれをやぶった。
▼原文
五月,皇甫嵩、朱雋復與波才等戰於長社,大破之。




 六月、南陽太守の秦頡しんけつ張曼成ちょうまんせいを攻撃し、彼を斬った。
▼原文
六月,南陽太守秦頡擊張曼成,斬之。




 交阯郡の屯兵が交阯刺史と合浦太守の来達らいたつを捕らえ、柱天将軍と自称した。交阯刺史の賈琮かそうを派遣してこれを討平させた。
▼原文
交阯屯兵執刺史及合浦太守來達,自稱「柱天將軍」,遣交阯刺史賈琮討平之。




 皇甫嵩・朱雋は西華県で汝南郡の黄巾賊を大いに破った。詔して皇甫嵩に東郡を討たせ、朱雋に南陽郡を討たせた。
 盧植が黄巾賊を破り、広宗県で張角を包囲した。宦官は盧植を誣奏し、罪に抵てられた[96]。中郎将の
董卓とうたくを派遣して張角を攻めさせたが、勝てなかった。
▼原文
皇甫嵩、朱雋大破汝南黃巾於西華。詔嵩討東郡,朱雋討南陽。
盧植破黃巾,圍張角於廣宗。宦官誣奏植,抵罪。遣中郎將董卓攻張角,不剋。


[96] 盧植は張角を連破し、あと少しでこれを抜くことができそうであった。小黄門の左豊さほうは霊帝に言った、「盧中郎は塁を固めて軍を休め、〔張角に〕天誅がくだるのを待っています」。霊帝は怒り、とうとう檻車で盧植を徴し、死一等を減じた。




 洛陽の女子が児を産んだが、頭が二つに体が一つだった[97]
▼原文
洛陽女子生兒,兩頭共身。


[97] 続漢志にいう、「上西門の外の女子が児を生んだ。頭が二つで、肩は異なり胸は共にしていた。不吉だと考え、これを地に落として棄てた。そののち、政治は私物化され、上下の別なく、二つの頭があるような様相となった」。





 秋七月、巴郡の妖巫の張脩ちょうしゅうが叛き、郡県に侵攻した[98]
▼原文
秋七月,巴郡妖巫張脩反,寇郡縣。


[98] 劉艾紀にいう、「このとき、巴郡の巫人の張脩は病を治療し、快癒した者は五斗の米を支払わせた。五斗米師と号した」。




 河南の尹の徐灌じょかんが獄に下されて死んだ。
▼原文
河南尹徐灌下獄死。




 八月、倉亭で皇甫嵩は黄巾賊と戦い、その将帥[99]を生け捕った。
▼原文
八月,皇甫嵩與黃巾戰於倉亭,獲其帥。


[99] その帥とは、卜已ぼくきである。倉亭は東郡にある。




 乙巳(8月3日:西暦184年9月25日)、詔して皇甫嵩に北へ張角を討たせた。
▼原文
乙巳,詔皇甫嵩北討張角。





 九月、安平王の劉続が罪により誅され、国は除かれた。
▼原文
九月,安平王續有罪誅,國除。




 冬十月、皇甫嵩が広宗県で黄巾賊と戦い、張角の弟の張梁ちょうりょうを生け捕った。張角はこれより先に死んでおり、そこでその屍をはずかしめた[100]。皇甫嵩を左車騎将軍とした。
 十一月、皇甫嵩はまた下曲陽県で黄巾賊を破り、張角の弟の張宝ちょうほうを斬った。

▼原文
冬十月,皇甫嵩與黃巾賊戰於廣宗,獲張角弟梁。角先死,乃戮其屍。以皇甫嵩為左車騎將軍。
十一月,皇甫嵩又破黃巾于下曲陽,斬張角弟寶。


[100] 棺を掘り出して頭を断ち、馬につけて市におくった。




 湟中義従胡の北宮伯玉ほくきゅうはくぎょくと先零羌が叛き、金城郡の辺章へんしょう韓遂かんすいを軍の帥とし、護羌校尉の伶徴れいちょう[101]、金城太守の陳懿ちんいを攻め殺した。

▼原文
湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛,以金城人邊章、韓遂為軍帥,攻殺護羌校尉伶徵、金城太守陳懿。


[101] 伶とは、姓である。周には大夫の伶州鳩れいしゅうきゅうがいた。




 癸巳(11月22日:西暦185年1月11日)、朱雋が宛城を抜き、黄巾別帥の孫夏そんかを斬った。
▼原文
癸巳,朱雋拔宛城,斬黃巾別帥孫夏。




 詔により太官の用意する珍膳を減らし、御食は一肉とした。廏の馬のうちで郊祭に用いないものは、すべて軍に供出した。
▼原文
癸巳,朱雋拔宛城,斬黃巾別帥孫夏。




 十二月己巳(12月29日:西暦185年2月16日)、天下に大赦し、改元して中平とした。
▼原文
十二月己巳,大赦天下,改元中平。




 この年、下邳王の劉意りゅういが薨じた。子はなく、国は除かれた[102]
 郡国に異草が生え、龍蛇鳥獣の形をしていた[103]

▼原文
是歲,下邳王意薨,無子,國除。
郡國生異草,備龍蛇鳥獸之形。


[102] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう「下邳王劉衍伝には、「中平元年、劉意が薨じた。子の哀王の劉宜りゅうぎが跡を継ぎ、数か月して薨じた。子は無く、建安十一年(206年)、国は除かれた」とある。劉意には子がいた」。
[103] 風俗通にいう、「また人の形をしており、兵器や弩を持って操り、一々詳細に備わっていた」
 続漢志にいう、「龍蛇鳥獣、その羽毛や頭、目や足や翅などの形状はみな詳細だった。これは黄巾賊が起こって、漢がとうとう微弱となるしるしである」。






中平二年(185年)


 中平二年、春正月、大いに疫病がはやった。
▼原文
二年春正月,大疫。




 琅邪王の劉拠が薨じた。
▼原文
琅邪王據薨。




 二月己酉(2月2日:西暦185年3月28日)、南宮で大火災があり、火は半月して消えた[104]
 己亥(?)[105]、広陽門[106]の外屋が自壊した。

▼原文
二月己酉,南宮大災,火半月乃滅。
己亥,廣陽門外屋自壞。


[104] 続漢志にいう、「このとき、霊台殿・楽成殿が焼けて北闕にまで延焼し、道を渡って、西へ嘉徳殿・和驩殿が焼けた」。
[105] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「五行志には「癸亥(2月24日:西暦185年4月11日)」とある。中平二年二月は、庚子がついたちである。己亥はない」。
[106] 洛陽城の西面の南頭の門である。




 天下の田に税をかけ、畝につき十銭とした[107]
▼原文


[107] 宮室を修築するためである。




 黒山賊の張牛角ちょうぎゅうかくら十余りの輩がみな挙兵し、それぞれのいるところに侵攻した。
▼原文
黑山賊張牛角等十餘輩並起,所在寇鈔。




 司徒の袁隗が罷免された。
 三月、廷尉の崔烈さいれつが司徒となった。
▼原文
司徒袁隗免。
三月,廷尉崔烈為司徒。




 北宮伯玉らが三輔に侵攻した。左車騎将軍の皇甫嵩はこれを討ったが、勝てなかった。
▼原文
北宮伯玉等寇三輔,遣左車騎將軍皇甫嵩討之,不剋。




 夏四月庚戌(4月12日:西暦185年5月28日)、大風と雨雹があった。
▼原文
夏四月庚戌,大風,雨雹。




 五月、太尉の鄧盛が辞任し、太僕の河内の張延ちょうえん[108]が太尉となった。
▼原文
五月,太尉鄧盛罷,太僕河南張延為太尉。


[108] 張延、字は公威。張歆ちょうきんの子。




 秋七月、三輔にずいむしがわいた。
▼原文
秋七月,三輔螟。





 左車騎将軍の皇甫嵩が罷免された。
 八月、司空の張温を車騎将軍とし、北宮伯玉を討たせた。
 九月、特進の楊賜を司空とした。
 冬十月庚寅(?)、司空の楊賜が薨じた[109]。光禄大夫の許相きょそう[110]が司空となった。

▼原文
左車騎將軍皇甫嵩免。
八月,以司空張溫為車騎將軍,討北宮伯玉。
九月,特進楊賜為司空。
冬十月庚寅,司空楊賜薨,光祿大夫許相為司空。


[109] 校勘する、後漢書集解にひく錢大昕はいう、「中平二年十月は、丙申がついたちである。庚寅はない。庚寅は9月24日であるので、必ず月日に誤りがある」。
 今、按ずるに、楊賜伝によれば、「中平二年九月、また張温がかわって司空となり、その月に薨じた」とある。帝紀は十月とするが、誤りである。
[110] 許相、字は公弼。汝南郡平輿県の人。許訓の子である。



 もと司徒の陳耽、諫議大夫の劉陶りゅうとうが直言により罪に問われ、獄に下されて死んだ。
▼原文
前司徒陳耽、諫議大夫劉陶坐直言,下獄死。




 十一月、張温が美陽で北宮伯玉を破り、そこで盪寇将軍の周慎しゅうしんを派遣してこれを追撃させ、榆中県を包囲した。また中郎将の董卓を派遣して先零羌を討たせた。周慎・董卓はともに勝てなかった。
▼原文
十一月,張溫破北宮伯玉於美陽,因遣盪寇將軍周慎追擊之,圍榆中;又遣中郎將董卓討先零羌。慎、卓並不克。




 鮮卑が并州に侵攻した。
▼原文
鮮卑寇幽、并二州。




 この年、西園に万金堂を作った。
 洛陽の民が児を産んだが、頭が二つに臂が四つだった。
▼原文
是歲,造萬金堂於西園。
洛陽民生兒,兩頭四臂。






中平三年(186年)


 中平三年、春二月、江夏郡の兵の趙慈ちょうじが叛き、南陽太守の秦頡しんけつを殺した。
▼原文
三年春二月,江夏兵趙慈反,殺南陽太守秦頡。




 庚戌(2月16日:西暦186年3月24日)、天下に大赦した。
▼原文
庚戌,大赦天下。



 太尉の張延が辞任した。
 車騎将軍の張温が太尉となり、中常侍の趙忠ちょうしゅうが車騎将軍となった。
▼原文
太尉張延罷。
車騎將軍張溫為太尉,中常侍趙忠為車騎將軍。




 また玉堂殿を飾りたて、銅像を四つ、黄鐘[111]を四つ、天禄・蝦蟆[112]を鋳造し、また四出文銭を鋳造した。
▼原文
復修玉堂殿,鑄銅人四,黃鍾四,及天祿、蝦蟆,又鑄四出文錢。


[111] その音は黄鍾に該当する。私はいう、黄鐘とは基準となる音律である。
[112] 天禄は、獣である。このとき、掖廷令の畢嵐ひつらんに銅人を鋳造させ、倉龍闕・玄武闕の外に並べさせ、鍾は玉堂と雲台殿の前に懸けさせた。天禄・蝦蟆は平門の外で水を吐いていた。このことは宦者伝にくわしい。
 〔李賢が〕案ずるに、今(唐代)の鄧州南陽県の北に宗資そうし碑があり、その両方の傍らには石獣がいる。そこには片方が天禄で、もう片方が辟邪と彫ってある。漢には天禄閣があり、それもまたその獣にちなんで名づけられたのだ。



 五月壬辰つごもり(5月30日:西暦186年7月4日)、日食があった。
▼原文
五月壬辰晦,日有食之。




 六月、荊州刺史の王敏おうびんが趙慈を討ち、これを斬った。
▼原文
六月,荊州刺史王敏討趙慈,斬之。




 車騎将軍の趙忠が辞任した。
▼原文
車騎將軍趙忠罷。




 秋八月、懐陵の上に雀が万数ほどあらわれ、悲鳴をあげ、戦って殺しあった[113]
▼原文
秋八月,懷陵上有雀萬數,悲鳴,因鬥相殺。


[113] 懐陵とは、沖帝陵である。
 続漢志にいう、「天戒若に言う、「爵禄を抱き厚く尊ばれている者たちは、帰ってみずから害しあう」」。




 冬十月、武陵蛮が叛き、郡界に侵攻した。武陵郡の兵はこれを討ち破った。
▼原文
冬十月,武陵蠻叛,寇郡界,郡兵討破之。




 もと太尉の張延が宦官に讒言をうけ、獄に下されて死んだ。
▼原文
前太尉張延為宦人所譖,下獄死。




 十二月、鮮卑が幽州・并州に侵攻した。
▼原文
十二月,鮮卑寇幽并二州。






中平四年(187年)


 中平四年、春正月己卯(1月21日:西暦187年2月16日)、天下に大赦した。
▼原文
四年春正月己卯,大赦天下。




 二月、滎陽県の賊が中牟県令を殺した[114]
▼原文
二月,滎陽賊殺中牟令。


[114] 劉艾紀にいう、「県令の落皓らくこくと主簿の潘業はんぎょうは、陣に臨んで顧みず、みな被害をうけた」。




 己亥(2月11日:西暦187年3月8日)、南宮内殿の罘罳[115]が自壊した
▼原文
己亥,南宮內殿罘罳自壞。


[115] 前書音義にいう、「罘罳とは、闕の連なるところの曲がった閣のことである」。




 三月、河南の尹の何苗かびょうは滎陽県の賊を討ち、これを破った。何苗は拝して車騎将軍となった。
▼原文
三月,河南尹何苗討滎陽賊,破之,拜苗為車騎將軍。




 夏四月、涼州刺史の耿鄙こうひが金城郡の賊の韓遂を討ち、耿鄙の兵は大いに敗け、とうとう漢陽郡に侵攻し、漢陽太守の傅燮ふしょうが戦死した。扶風の馬騰ばとうと漢陽郡の王国おうこくはともに叛き、三輔に侵攻した。
▼原文
夏四月,涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗,遂寇漢陽,漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰、漢陽人王國並叛,寇三輔。




 太尉の張温は罷免され、司徒の崔烈が太尉となった。
 五月、司空の許相が司徒となり、光禄勲の沛国の丁宮ていきゅう[116]が司空となった。
▼原文
太尉張溫免,司徒崔烈為太尉。
五月,司空許相為司徒,光祿勳沛國丁宮為司空。


[116] 丁宮、字は元雄。




 六月、洛陽の民が男の子を生んだが、頭が二つに体が一つだった[117]
▼原文
六月,洛陽民生男,兩頭共身。

[117] 劉艾紀にいう、「上西門の外の劉倉りゅうそうの妻が生んだ」。




 漁陽郡の張純ちょうじゅんと同郡(漁陽郡)の張挙ちょうきょは挙兵して叛き、右北平太守の劉政りゅうせい、遼東太守の楊終ようしゅう[118]、護烏桓校尉の公綦稠こうきちゅうらを攻め殺した。張挙は自称して天子とし、幽州・冀州に侵攻した。
▼原文
漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛,攻殺右北平太守劉政、遼東太守楊終、護烏桓校尉公綦稠等。舉兵自稱天子,寇幽、冀二州。


[118] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「水経注には「楊紘ようこう」とある」。




 秋九月丁酉(9月13日:西暦187年11月1日)、天下に令して収監されていて罪がまだ決定していない囚人に
かとりで罪を贖わせた。
▼原文
秋九月丁酉,令天下繫囚罪未決,入縑贖。




 冬十月、零陵郡の観鵠かんこくが平天将軍と自称し、桂陽郡に侵攻した。長沙太守の孫堅そんけんは攻撃してこれを斬った。
▼原文
冬十月,零陵人觀鵠自稱「平天將軍」,寇桂陽,長沙太守孫堅擊斬之。





 十一月、太尉の崔烈は辞任し、大司農の曹嵩そうすうが太尉となった。
▼原文
十一月,太尉崔烈罷,大司農曹嵩為太尉。




 十二月、休屠各胡が叛いた。
▼原文
十二月,休屠各胡叛。





 この年、関内侯を売りだし、金印紫綬を仮えて代々伝えるようにし、銭五百万を手に入れた。
▼原文
是歲,賣關內侯,假金印紫綬,傳世,入錢五百萬。






中平五年(188年)


 中平五年、春正月、休屠各胡が西河郡に侵攻し、西河太守の邢紀けいきを殺した。
▼原文
五年春正月,休屠各胡寇西河,殺郡守邢紀。




 丁酉(1月15日:西暦188年2月29日)、天下に大赦した。
▼原文
丁酉,大赦天下。




 二月、ほうき星が紫宮星の位置にあった。
▼原文
二月,有星孛于紫宮。





 黄巾余賊の郭太かくたい[119]が西河郡の白波谷で挙兵し、太原郡・河東郡に侵攻した。
▼原文
黃巾餘賊郭太等起於西河白波谷,寇太原、河東。


[119] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟にいう、「「太」はもともと「泰」とする。范曄が父の諱を避けたのだ」。郭泰かくたい




 三月、休屠各胡が并州刺史の張懿ちょういを攻め殺し、とうとう南匈奴の左部胡と合流してその単于を殺した。
▼原文
三月,休屠各胡攻殺并州刺史張懿,遂與南匈奴左部胡合,殺其單于。




 夏四月、汝南郡の葛陂の黄巾賊が郡県を攻撃した。
▼原文
夏四月,汝南葛陂黃巾攻沒郡縣。





 太尉の曹嵩が辞任した。
 五月、永楽少府の樊陵はんりょう[120]が太尉となった。

▼原文
太尉曹嵩罷。
五月,永樂少府樊陵為太尉。


[120] 樊陵、字は徳雲、南陽郡胡陽県の人。
 校勘する、樊陵は、樊英はんえいの孫である。樊英伝によれば、樊英は南陽郡魯陽県の人である。ここでは胡陽県とするが、間違いである。




 六月丙
寅(6月16日:西暦188年7月27日)、大風があった。
▼原文
六月丙寅,大風。




 太尉の樊陵が辞任した。
▼原文
太尉樊陵罷。




 益州黄巾の馬相ばそうが益州刺史の郗倹げきけんを攻め殺し、自称して天子とした。また巴郡に侵攻し、巴郡太守の趙部ちょうぶを殺した。益州従事の賈龍かりゅうは馬相を攻撃し、これを斬った。
▼原文
益州黃巾馬相攻殺刺史郗儉,自稱天子,又寇巴郡,殺郡守趙部,益州從事賈龍擊相,斬之。




 七つの郡国に洪水があった。
▼原文
郡國七大水。




 秋七月、射声校尉の馬日磾ばじつていが太尉となった。
▼原文
秋七月,射聲校尉馬日磾為太尉。





 八月、初めて西園八校尉が置かれた[121]
▼原文
八月,初置西園八校尉。


[121] 楽資山陽公載記にいう、「小黄門の蹇碩けんせきを上軍校尉とし、虎賁中郎将の袁紹えんしょうを中軍校尉とし、屯騎校尉の鮑鴻ほうこうを下軍校尉とし、議郎の曹操そうそうを典軍校尉とし、趙融ちょうゆうを助軍左校尉とし、馮芳ふうほうを助軍右校尉とし、諫議大夫の夏牟かぼうを左校尉とし、淳于瓊じゅんうけいを右校尉とした。およそ八人の校尉がおり、みな蹇碩に統制された」。




 司徒の許
相が辞任し、司空の丁宮が司徒となった。光禄勲の南陽郡の劉弘りゅうこうが司空となった[122]。衛尉の董重とうちょうが驃騎将軍となった。
▼原文
司徒許相罷,司空丁宮為司徒。光祿勳南陽劉弘為司空。衛尉董重為票騎將軍。


[122] 劉弘、字は子高、南陽郡安衆県の人。




 九月、南単于が叛き、白波賊とともに河東郡に侵攻した[123]
 中郎将の孟益もうえきに騎都尉の公孫瓚こうそんさんを率いさせて派遣し、漁陽郡の賊の張純らを討たせた。

▼原文
九月,南單于叛,與白波賊寇河東。
遣中郎將孟益率騎都尉公孫瓚討漁陽賊張純等。


[123] 校勘する、後漢書集解にひく恵棟はいう、「後漢書考異には、「匈奴伝は中平六年の霊帝崩御ののち、於夫羅おふらと白波賊が侵攻した」とある。帝紀が誤っている」。




 冬十月壬午(?)、御殿の後ろの槐樹が自然と抜けて逆さまに倒れた[124]
 青州・徐州の
黄巾賊がまた挙兵し、郡県に侵攻した。
▼原文
冬十月,壬午御殿後槐樹自拔倒豎青、徐
黃巾復起,寇郡縣。


[124] 校勘する、按ずるに、熹平五年の条にすでに「冬十月壬午、御殿の後との槐樹が自然と抜けて逆さまに倒れた」とする記事がある。重複している。中平五年十月は、己酉がついたちである。壬午はない。




 甲子(1
0月16日:西暦188年11月22日)、霊帝は自称して無上将軍とし、平楽観[125]で閲兵した。
▼原文
甲子,帝自稱「無上將軍」,燿兵於平樂觀。


[125] 平楽観は、洛陽城の西にある。




 十一月、涼州の賊の王国は陳倉県を包囲し、右将軍の皇甫嵩がこれを救った。

▼原文
十一月,涼州賊王國圍陳倉,右將軍皇甫嵩救之。





 下軍校尉の鮑鴻を派遣して葛陂の黄巾賊を討たせた。
▼原文
遣下軍校尉鮑鴻討葛陂黃巾。





 巴郡の板楯蛮が叛き、上軍別部司馬の趙瑾ちょうきんを派遣してこれを討たせて平らげさせた。
▼原文
巴郡板楯蠻叛,遣上軍別部司馬趙瑾討平之。




 公孫瓚は張純と石門にて大いに戦い、大いにこれを破った[126]
▼原文
公孫瓚與張純戰於石門,大破之。


[126] このとき、烏桓が反乱し、賊の張純らと薊中を攻撃した。ゆえに公孫瓚はこれを追って攻撃した。
 石門とは、山の名である。今(唐代)の営州の西南にある。




 この年、刺史をあらためて、新たに牧を置いた。

▼原文
是歲,改刺史,新置牧。






中平六年・光熹元年・昭寧元年(189年)


 中平六年、春二月、左将軍の皇甫嵩は陳倉県で大いに王国を破った。
▼原文
六年春二月,左將軍皇甫嵩大破王國於陳倉。




 三月、幽州牧の劉虞りゅうぐは漁陽郡の賊の張純を斬るのに賞金をかけた。
▼原文
三月,幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。




 下軍校尉の鮑鴻が獄に下されて死んだ。
▼原文
下軍校尉鮑鴻下獄死。




 夏四月丙午ついたち(4月1日:西暦189年5月3日)、日食があった。
▼原文
夏四月丙午朔,日有食之。




 太尉の馬日磾が罷免され、幽州牧の劉虞が太尉となった。
▼原文
太尉馬日磾免,幽州牧劉虞為太尉。




 丙辰(4月11日:西暦189年5月13日)、霊帝が南宮の嘉徳殿で崩御した。年は三十四歳だった[127]
 戊午(4月13日:西暦189年5月15日)、皇子の劉辯りゅうべんが皇帝の位に即いた。年は十七だった。皇后を皇太后とし、太后は臨朝した。天下に大赦し、改元して光熹とした。皇弟の劉協りゅうきょうを封じて渤海王とした。後将軍の袁隗を太傅とし、大将軍の何進に参録尚書事を与えた。上軍校尉の蹇碩が獄に下されて死んだ[128]
 五月辛巳(5月6日:西暦189年6月7日)、驃騎将軍の董重が獄に下されて死んだ[129]

 六月辛亥(6月7日:西暦189年7月7日)、孝仁皇后の董氏が崩じた。
▼原文
丙辰,帝崩于南宮嘉德殿,年三十四。
戊午,皇子辯即皇帝位,年十七。尊皇后曰皇太后,太后臨朝。大赦天下,改元為光喜。封皇弟協為渤海王。後將軍袁隗為太傅,與大將軍何進參錄尚書事。上軍校尉蹇碩下獄死。
五月辛巳,票騎將軍董重下獄死。
六月辛亥,孝仁皇后董氏崩。


[127] 校勘する、按ずるに、「年は三十三歳とするべきである」。
 張燴ちょうかい読史挙正にいう、「霊帝が位に即いたのは十二歳のときであり、この年に改元して建寧とした。そこから至ることおよそ二十二年であるので、このとき霊帝は三十三歳である」。
[128] このとき、蹇碩は謀って渤海王の劉協を立てようとし、発覚した。
[129] 董重は、孝仁皇后(董皇后)の兄の子である。




 辛酉(6月17日:西暦189年7月17日)、孝霊皇帝を文陵に葬った[130]
▼原文
辛酉,葬孝靈皇帝于文陵。


[130] 洛陽の西北へ二十里にある。陵の高さ十二丈、周囲は三百步。




 雨があった。
▼原文
雨水。




 秋七月、甘陵王の劉忠が薨じた。
▼原文
秋七月,甘陵王忠薨。




 庚寅(7月16日:西暦189年8月15日)、孝仁皇后を河間郡の慎陵に帰葬した。
▼原文
庚寅,孝仁皇后歸葬河閒慎陵。




 渤海王の劉協をうつして陳留王とした。
 司徒の丁宮が辞任した。
▼原文
徙渤海王協為陳留王。
司徒丁宮罷。




 八月戊辰(8月25日:西暦189年9月22日)、中常侍の張譲ちょうじょう段珪だんけいらが大将軍の何進を殺した。そこで虎賁中郎将の袁術えんじゅつが東西宮を焼き、諸宦官を責めた。
 庚午(8月27日:西暦189年9月24日)、張譲・段珪らは少帝と陳留王を攫って北宮の徳陽殿にみゆきした。何進の部曲将の呉匡ごきょうは朱雀闕下で車騎将軍の何苗と戦い、何苗を破ってこれを斬った。
 辛未(8月28日:西暦189年9月25日)、司隸校尉の袁紹は兵をまとめて偽の司隸校尉の樊陵、河南の尹の許相、諸宦官らを、長幼の別なくみな斬った。張譲・段熲らはまた少帝・陳留王を攫って小平津に走った[131]。尚書の盧植が張譲・段熲らを追い、数人を斬り、その他のものはみな黄河に身を投じて死んだ[132]。少帝と陳留王の劉協は夜通し歩いて蛍の光を追って数里ゆき、民家の蓋のない車を手に入れ、ともにこれに乗った。
▼原文
八月戊辰,中常侍張讓、段珪等殺大將軍何進,於是虎賁中郎將袁術燒東西宮,攻諸宦者。
庚午,張讓、段珪等劫少帝及陳留王幸北宮德陽殿。何進部曲將吳匡與車騎將軍何苗戰於朱雀闕下,苗敗斬之。
辛未,司隸校尉袁紹勒兵收偽司隸校尉樊陵、河南尹許相及諸閹人,無少長皆斬之。讓、珪等復劫少帝、陳留王走小平津。尚書盧植追讓、珪等,斬數人,其餘投河而死。帝與陳留王協夜步逐熒光行數里,得民家露車,共乘之。


[131] 小平津は、鞏県の西北にある。
 続漢志にいう、「このとき、京師で童が謡っていった、「侯は侯にあらず、王は王にあらず。千乗万騎は北邙に上る」。案ずるに、献帝がいまだ爵号をもたず、段珪らに捕らえられ、公卿百官がみなその後の随い、黄河の上に至って帰還できるということだ」。
[132] 献帝春秋にいう、「河南中部掾の閔貢びんこうは天子を見つけだし、騎兵を率いてこれを追い、夜明けになるころに黄河の上についた。天子は飢え渴き、閔貢は羊をさばいて出し、声を励まして張譲らを責めて言った、「あなたは宦官のしもべや、刀鋸の残により、汚泥を越え、日月に〔帝の〕世話をするようになり、国恩をもてあそんで売り払い、賤しきを貴きにあがらせ、帝主に迫って攫い、王室を転覆し、時間をとめて、河津に魂を遊ばせておる。新王朝が滅んでから、君のような姦臣賊子はいまだ現れたことがない。今、速やかに死なずとも、わたしがおまえを射殺すだろう」張譲らは恐れおののき、叉手して再拝し、叩頭し、天子に向かって辞して言った、「臣らは死にますが、陛下はご自愛ください」とうとう黄河に身を投げて死んだ」。




 辛未(8月28日:西暦189年9月25日)、宮に帰った[133]。天下に大赦し、光熹を改めて昭寧とした。
▼原文
辛未,還宮。大赦天下,改光喜為昭寧。


[133] 校勘する、後漢書集解にひく陳景雲はいう、「上文にすでに「辛未」とある。重複していて呼応していない」。




 并州牧の董卓が執金吾の丁原ていげんを殺した。
 司空の劉弘が罷免され、董卓が自ら司空となった。
▼原文
并州牧董卓殺執金吾丁原。
司空劉弘免,董卓自為司空。




 九月甲戌(9月1日:西暦189年9月28日)、董卓は少帝を廃して弘農王とした。
▼原文
九月甲戌,董卓廢帝為弘農王。




 六月から雨が降り、この月まで降り続けた。
▼原文
自六月雨,至于是月。



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