正林寺御住職指導(R7.7月 第258号)
令和の米騒動といわれる今、米の品薄と価格高騰により政府では、備蓄米を市場に放出する政策が取られています。
宗祖日蓮大聖人は『白米和布御書』に、
「今施主は白米五升を以て法華経に供養す。是の故に成仏し候ひ了んぬ。何故に飢ゑを申すべき。」(御書928)
と仰せであります。
今、施主は白米五升(7.5キロ)をもって法華経に供養されています。どうして成仏しないことがありましょうか。まして飢饉の世であることを考えれば、その功徳はなおさらですとの意味になります。
御本尊へ仏飯をお供えさせていただくことは、非常に尊いことであり、成仏するための大切な所作仏事であります。また、寺院への玄米や白米の御供養も同じことです。
その尊い御供養の志しは、飢饉の時代でも御本尊に護られながら生きることができます。
白米和布御書は、日蓮大聖人が建治元年(1275)、54歳の時に身延山中の草庵において認められた御書です。本抄は、白米五升と貴重な和布一連を御供養された信徒への返書として書かれました。対告衆(宛先の人物)は不明ですが、身延山中では貴重な品々を遣わした施主への感謝の思いが込められています。
本抄では、古代インドの阿育大王の前世である得勝童子(徳勝童子)の故事が引用されています。この童子は五歳の時、王舎城で乞食行をしていた釈尊に砂で作った餅を供養しました。その功徳によって後に阿育大王として生まれ、一閻浮提(全インド)を統治する大王となったのであります。
大聖人は、この故事を通して供養の根本的な意義を示され、得勝童子の供養は深い志から発したものではありませんでしたが、供養した相手が仏という尊い存在であったため、大きな果報をいただくことができました。
白米に関連する御書は他に有名な『白米一俵御書』があります。大聖人は、
「白米は白米にはあらず。すなわち命なり」(御書1545)
と仰せあそばされております。まさに白米は、身の財と心の財となる大切な命であります。その先に蔵の財を果報として頂くことが叶います。
また大聖人御在世当時の御信徒が白米を御供養として申し上げられた量の表記には種々あります。『白米和布御書』の「五升」の他には、
『止観第五之事』に、
「白米一斗御志申しつくしがたう候」(御書420)
と、「一斗(いっと)」との文言が拝せられ、『六郎次郎殿御返事』にも、
「白米三斗(中略)給び畢んぬ」(御書1103)
と「斗」の表記を拝見することができます。
次に『王舎城事』において、
「麦の白米一だ(駄)・はじかみ(薑)送り給び候ひ了んぬ」(御書976)
と、「一駄」との言葉が拝され、『松野殿御返事』にも、
「白米一駄(だ)・白小袖(こそで)一つ送り給び畢(おわ)んぬ」(御書1045)
と、「一駄」の表記が拝されます。
また『四条金吾殿御返事』に、
「白米の米俵一つ」(御書1291)
と、『白米一俵御書』と同じ「俵」の表記が拝見できます。
さらに『南条殿御返事』には、
「はくまい(白米)ひとふくろ(一袋)」(御書1498)
と、「袋」の表記が拝せられます。
大聖人御在世の表記は、「升」「斗」「袋」「俵」「駄」がありました。
それぞれの表記を現代的に置き換えた場合、以下のようになります。
一升は、約1.5㎏になります。5kg袋換算では、約0.3袋。30kg袋換算では、約0.05袋。「お茶碗約10杯分」や「コンビニおにぎり約10個分」に相当します。お茶碗の杯数(目安)としては、約22杯になり、炊き上がり後のご飯の量は約3.3㎏になります。
一斗は、約15㎏になります。5kg袋換算では、3袋。30kg袋換算では、約0.5袋。「5キロ米袋3つ分」や「家族4人の1ヶ月分」に相当します。お茶碗の杯数(目安)としては、約220杯になり、炊き上がり後のご飯の量は約33㎏になります。
一袋は、約30㎏になります。5kg袋換算では、6袋。30kg袋換算では、1袋。「現在の米袋1-3つ分」になり、現代の米流通では30 kg袋が標準。半俵(1俵=60 kg)のサイズになります。お茶碗の杯数(目安)としては、約440杯になり、炊き上がり後のご飯の量は約66㎏になります。
一俵は、約60㎏になります。5kg袋換算では、12袋。30kg袋換算では、2袋。「10キロ米袋6つ分」や「大家族の4ヶ月分」に相当します。お茶碗の杯数(目安)としては、約880杯になり、炊き上がり後のご飯の量は約132㎏になります。
一駄は、約120㎏になります。5kg袋換算では、27袋。30kg袋換算では、4.5袋。「軽トラック1台分」や「小さな米屋さんの在庫」に相当します。お茶碗の杯数(目安)としては、約1760杯になり、炊き上がり後のご飯の量は約264㎏になります。
『白米和布御書』の「白米五升」は約7.5キロです。「スーパーの5キロ米袋を1つと、2キロの小袋を1つ」となります。備蓄米が店頭に並べられ販売される量は、主に5kgサイズです。
大聖人は『聖愚問答抄』に、
「得難きは人身、値(あ)ひ難きは正法なり」(御書399)
と、人間として生まれること難得中の難得であり、まさに正しい仏法に出会うことの困難さを仰せであります。そして『白米和布御書』での供養は、まさにこの二つの稀有な条件が揃った時にさせて頂くことのできる尊い御供養になります。
人身を得た尊さとして、白米五升を御供養申し上げた施主は、人間として生まれ、しかも供養という尊い行為ができる境遇にありました。
『雑寶蔵経』に説かれる過去五百世という永い間、必ず野良犬にしか生まれることのできなかった畜生や餓鬼の衆生では、たとえ物があっても供養の心は起こりません。
さらに正法に値った功徳として、施主は法華経という最高の正法に出会い、日蓮大聖人という正師に供養することができました。これこそ「値い難き正法」との値遇であります。
供養の真の意味は、大聖人が「是の故に成仏し候ひ了んぬ」と仰せになられたのは、単に米を供養したからではなく、得難い人身を得て、値い難い正法に出会い、その正法に真心から供養させていただいた所作という、三つの稀有な条件が重なったからであります。 現代の私たちも同様です。人間として生まれ、正法に出会えた有り難さを確認されて、日々の御供養に真心を込めることにより、大きな功徳をいただくことができる仏法と申す道理があります。
御法主日如上人猊下は、
「大聖人様は『十法界明因果抄』に、
『慳貪(けんどん)・偸盗(ちゅうとう)等の罪に依って餓鬼道に堕することは世人知り易し。慳貪(けんどん)等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近(しんごん)し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能(よ)く能く恐るべきか』(御書208)
と仰せられ、間違った教え、すなわち謗法によって知らず知らずのうちに餓鬼道に堕ちて苦しむとのことであります。まさに、謗法がいかに恐ろしいかを御教示あそばされているのであります。」(大日蓮 第953号 R7.7)
と御指南されております。「得難きは人身」から餓鬼道へ堕ちないように精進いたしましょう。
最後に、7月から8月の盂蘭盆会奉修前に「お盆経」が行われます。法華講正林寺支部に所属の檀信徒の方で希望される方は、寺院までお申し込み願います。
宗祖日蓮大聖人『一生成仏抄』に曰く、
「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(御書46)
