2025年夏至の日に初参拝。
撮影SNS投稿禁止のお宮
写真撮らせてもらっていたけれど、本殿あたりでそれとなく近寄ってきたおじさんが「境内には写真撮影不可の立て札があるよ」と教えてくれました。
それでも境内で動画とってYouTubeにあげたりしてる人たくさんおるけどな、とも。
(YouTubeとかチェックしてるんだ、、、)
それと「本殿の下にイザナギのお墓があるという噂があって、横から見たら拝殿の階段の下に石がみえるよ」とも。(石が見える位置まで連れて行ってもらいました)
よく気にしてみれば、ところどころ撮影禁止の旨の小さな立て札があり
あとで向かった社務所にもちゃんと掲げられていました。
写真撮ってるのは
わたしと、ごっついカメラ持ったおじさんたちだけでした。
参拝だけの方々のほうが圧倒的多数で。
どこからどこまで上げていいのかわからんので
これ以降写真はなしです。
以下、Wikipediaを下敷きにさせてもらい
「せきれいの里」等での情報補完、および、自分が実際に見た所感を交えてのメモになります。
ほぼ公式サイト
境内案内図と各所の写真があります。
伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)
兵庫県淡路市多賀740
式内社(名神大社)、淡路国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
所在地である旧一宮町(現 淡路市)の地名は、当社に由来する。
1月15日(小正月)に御粥占祭。
2016年4月25日、構成文化財のひとつとして日本遺産に認定。
ご祭神
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
幽宮(かくりのみや)
日本書紀神代巻に「是以構幽宮於淡路之洲」とあり、
神功をはたされた伊弉諾大神が、御子神の天照皇大御神に国家統治の大業を委譲され、最初に生まれた淡路島に帰還され、多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごされたと伝える。
この地で終焉の時を迎えられた伊弉諾大神は、その住居の跡に神陵を築いて(現本殿の位置)お祀りされ、これが最古の神社である伊弉諾神宮の創祀の起源とされる。
伊弉諾尊の幽宮と伝わる場所は、他に滋賀県の多賀大社があるが、
これは『古事記』の真福寺本の「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述による。
ただし、多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐淡路之多賀也。」になっており、その他の諸々の理由から、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。
『幽宮御記』に祭神は「伊弉諾尊一柱也」
本来は伊弉諾尊のみを祀ったと考えられる。
1931年(昭和6年)の「神社古文書写」に祭神に関する願上書があり、
「当社は幽宮伝承(後述を参照)の神社で神位も一品の極位で、社格も官幣大社である。伊弉諾尊と伊弉冉尊の2神が国産み・神産みを行ったのであり、『延喜式神名帳』所載の座数に関係なく2神が祭祀されるべきであるが、明治3年(1870年)に名東県より伊弉諾尊1柱とされた。これは摂社末社が公認されるのに不当である。1930年(昭和5年)本殿を開くと伊弉冉尊も伝来のまま祭祀されていたので、資料を添えて願い奉る
との内容で伊弉諾尊と伊弉冉尊の2神を祀る許可を求めたところ、1932年(昭和7年)内務大臣より「請祭神を配祀として増加の件聴届く」と許可があり、正式に2神を祀る形になった。
女神像(兵庫県指定有形文化財)
震災復興事業で平成十七年に隠蘇された状態で所蔵が確認された神像(九躯)は、新発見ですべて女神像で、平安中期から鎌倉前期のもの、県内最古の貴重な神像
※この仏像チックな姿形、八幡系の比賣神、はたまた、伏見の宇迦御魂を想起するんですが
そして「陵の上に建つ」という点でも、伊弉諾神宮は宇佐神宮となにか共通してますね
松前健は、地方神であった伊弉諾尊の神話が、淡路国から大和朝廷の神話に組み込まれたとする。松前によれば、伊弉諾尊を皇祖神の親とする信仰が宮廷に古くからあったとは思えず、2神が組み込まれたのは7世紀中頃以降で、大嘗祭卯の日の神事に召された淡路出身者や、宮廷に食料を運んだ淡路の海人が伝えたとする。
また、『日本三代実録』で当社が無品勲八等から一品の極位へ一足飛びに神位を進めるのは、この時期に正式に皇祖神の最近親者とされたため、とする。
(天安3年(859年)1月27日、無品勲八等から一品勲八等 - 表記は伊佐奈岐命)
本殿 - 1879年(明治12年)に現在の場所よりも十間ほど前方に再建されたが、1881年(明治14年)に本殿の後ろにある禁足地であった御陵を造成してその上に移築された。檜皮葺三間社流造で、幣殿と屋根で連結されている。
墳丘を覆うように二重の基壇を構える。周囲三方は菱格子の透塀で囲む。
外削ぎ・鰹木4本 十六菊花紋
※現在幣殿工事中。
※幣殿前の左右に大六角燈籠。格狭間に獅子、火口と笠に十六菊花紋、蕨手は尾を立てる魚(鯱?)、火焔宝珠
祓殿・神饌殿・渡廊
本瓦葺ほんがわら入母屋造二方縁回、渡廊に連結する。祓殿と神饌殿を一棟とし、恒例祭儀では祓殿で修祓式を行ひ、神饌殿では神前に献る神饌(お供物)を調理する。
その一隅に特殊神事の粥占(かいうら)祭の神事を行ふ竈場が設けてある。1月14日夕からの粥炊(かいだき)神事では、翌15日丑刻(二時)、寅刻(四時)、卯刻(六時)の三度、占ひの竹筒を納めた神釜を炊き上げる。
釘隠:六葉
神輿庫 - 文化5年(1808年)に徳島藩主蜂須賀治昭により建立。
昭和天皇御手植の楠 ※この他に伏見宮、常隆宮、三笠宮など皇族御手植の楠がある。
伊勢皇大神宮遥拝所 - 伊勢神宮は弉諾神宮と同緯度であり、ここから真東に鎮座している。
樋口季一郎中将像
西神門 - 江戸時代に徳島藩主蜂須賀氏により建立。元禄元年(1688年)改修、当宮最古の建物。
正門(表神門) - 1883年(明治16年)再建。以前は随神門であった。
茶室「明日庵」みょうにちあん
香翫亭 こうがんてい ※数珠付き三つ巴紋
手水舎 ※亀が口からお水を出す。亀の尾が大きく長い。
延壽宮 ※放生の神池のなかの弁天様かと思われるお宮
外削ぎ・鰹木4本・中心が大きな十六菊花紋
本殿の方を向いている
神橋 手水舎と延壽宮のあいだ、正門手前の太鼓橋
放生の神池 - 幽宮跡の御陵を中心にあったとされる濠の遺構とされる。命乞いに鯉、快癒の報賽に亀を放って祈願が行われる。
※鯉と亀がたくさんいる。亀の噴水(口から水を噴射)。
※「放生」は「豊穣」にも通づるか
※大蘇鉄 神池の朱塗の橋のたもと、延壽宮となりの四阿の脇
直径3mほどの石囲のなか。最長4~5m
※夫婦鶺鴒像(めおとのせきれい)
二の鳥居から右、神池の手前に、お土産処とトイレ
その脇に、向かい合う鳥の御影石のレリーフ「伊弉諾神宮御神鳥 夫婦鶺鴒像」がある。そばに立派なヤマモモの木があり、ちょうど濃赤に熟れた実がたくさん砂利の上に落ちていた。
※石燈籠(許黄玉)
神池のほとりに2か所。太鼓橋の側のものは特大。
力石
さざれ石
摂末社
左右神社(さうのじんじゃ) - 祭神:天照皇大神、月読尊
「伊弉諾大神の禊で左目と右目から出現された貴神を祀る 本殿東の伊勢皇大神宮の方向に位置し眼病治癒のす信仰がある」
住吉神社(向かって右)・鹿島神社(向かって左)
祭神 住吉三神、武甕槌・經津主
外削ぎ・鰹木三本
竈神社(向かって右)・根神社(ねのじんじゃ、向かって左)
- 酒造・醸造の守護神。災難除、火防の神。
祭神 奥津彦命・奥津姫命、素盞嗚命
外削ぎ・鰹木三本
岩楠神社 - 祭神:蛭子命。樹齢約900年の夫婦(めおと)の大楠(兵庫県指定天然記念物)の根本に鎮座している。子授け・安産の神とされる。平安時代中期から奉祭されている。
淡路祖霊社 - 祭神:淡路島出身の先覚者、賢人功労者の御霊8,000余柱。1876年(明治9年)建立。※桜紋
※燈籠 火口は雲と瓢箪、宝珠位置は大瓢箪、蕨手は渦巻く雲(蝸牛にも似ている)、笠に十六菊花紋
貴賓殿
十六菊花紋、数珠付き三つ巴
授与所
チラッと見ただけですが「桃のオブジェ」がありました。桃は伊弉諾が黄泉比良坂で追手に投げつけたもの、魔を祓う力をもつもの
この伝説にちなんで「よみがえり」グッズを製作するなど、ここでは桃と黄泉がえりはキーワードになっています
境外社※未参拝
濱神社(浜之宮) - 祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊
大事忍男神社 - 祭神:大事忍男神
陰陽石
本寿寺
参集殿あたりより道路を隔てた、伊弉諾神宮の西隣に位置する