私も力が強かったら 王谷晶さんが「ババヤガの夜」でかなえた願い
私も力が強かったら――。世界中のたくさんの女性たちがきっと考えたことのある願いを、王谷晶さんは小説「ババヤガの夜」でかなえた。
翻訳本は英米で大きな反響を呼び、英ダガー賞の翻訳部門を受賞する快挙を成し遂げた。
「物理的に女性が男性を凌駕(りょうが)するのはまあまあ難しいことだと思うんですけども、フィクションの中ならやれるなと思った」
小説の中でなら、どんな人でも、いかようにも、暴れさせることができる。
主人公には暴力が唯一の趣味の女性、新道依子を据えた。依子が服を脱ぎ捨てれば、あらわになった乳房よりも見事に割れた腹筋が威容を見せる。その腕っぷしの強さを買われて、暴力団会長の令嬢の護衛をすることになり、裏社会の男性たちと対峙(たいじ)していく。
だが、一筋縄にはいかない。
「男性社会にあらがう女性という芯をもって書き始めたんですが、スカッとして終わりという話にはしたくなかった。現実はスカッとしないので」
王谷さんが表現してきたこと ルッキズムへの思い
女性のあらがいを、王谷さんはこれまでも表現してきた。
2019年に刊行したエッセー集「どうせカラダが目当てでしょ」(文庫化で「カラダは私の何なんだ?」に改題)では「社会から女とみなされることのめんどくささ」を赤裸々につづり、私の肉体は私だけのものだと叫んだ。
日雇い労働で食いつないでいたころ、真夏に屋内で働きたくてコールセンターのバイトに応募した。女性の場合、自分のような低い声のままでは「お客様に失礼」だと言われて驚いた。
性的な意味を勝手に背負わされる「乳」を自分で無意味に触る時間を「肉体を我が物として扱う大切な時間」だと感じていること。「髪は女の命」なんて言われ、伸ばせば「色気づいた」、切ったら「失恋した」と意味を持たせてくる世間。坊主にしたら「オナベ、レズ」と差別的なレッテルを貼られたこと。たしかに自分はレズビアンだが、それは男性のようにしたい、男装したい、というようなこととイコールではない。胃が痛かった。
〈髪を短くするだけで、人生のそんなディープなところまでいきなり土足で踏み込まれちゃうんだな〉(「カラダは私の何なんだ?」から)
女性に対するルッキズムに対して、「なくなりゃいいとは思っているけど、なくならないだろうなという諦め」もある。だから、「ババヤガの夜」では、シーンに必要な描写以外は、容姿を細かく書かないと決めていた。「物理的な容姿を書かなくても、その他のことで人物像は表せるはず」と。
あいまいさを残すこと。それは依子と暴力団組長の令嬢・尚子のシスターフッド(女性同士の連帯)の描き方にも現れる。
依子は尚子との関係が一体何なのか。一度も決めたことがないし、決められない。でも人は誰かと誰かが一緒にいることに名前をつけないと不安になるらしい。
そんな社会に、物語で抵抗した。
この数年、すぐに白黒はっきりつけたがる世の中になっていると感じてきた。「問題が起きたら反射的に、考える時間も与えず、どちらか決めろと迫られているような環境になっている」
だからこそ、思う。「それに抵抗するためには、あいまいでいることが、人間性を保持するためにも大切なんじゃないかな」と。
「自分のあいまいな部分とか、他人や社会全体のあいまいな部分を確認することで、もうちょっと世の中がよくなっていくんじゃないかな」
小説を書くときには、女性同士の組み合わせが自然と思い浮かぶ。王谷さんにとっては「作品の中で、男女のカップルを出す方が100%意図的」だという。
「あいまい」という強さ
自身がレズビアンであることとは「多分関係なくはないと思うんですけど」とした上で「正直、あんまり関係ないんじゃないかな」。自らのセクシュアリティーと異なる関係を描く作家は多くいる。「セクシュアリティーがレズビアンだからもっと女同士の話を書け、みたいに思われるのも何か嫌ですし。別の物も書くので」
「お前は何作家なんだ」と、親からもよく聞かれるという。「自分でもよくわかっていない。読者として、色んなジャンルのものを読むので、書く方もいろいろ書きたくなって」
警備員やコールセンターなど様々な職を転々とした後、「最終的にもうここしか働ける場所がなくなった」と思って作家になり、純文学もエンタメも書いてきた。
「一貫したテーマみたいなものがないのが、作家としての自分のテーマなのかなと思っている。決めちゃうとなんか危ない気もしますしね」
あいまいでいる。それは、強さだ。
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