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エスカレーターにまつわる2本の動画と、カウンセリングにおける社会正義アプローチ(カルガリー大学教育学部カウセリング心理学科 Associate Professor / Director of Training:和田香織)

国際女性デーに拡散されたエスカレーター動画

3月のある日、SNS上である動画が広く拡散されていた。

「今日は #国際女性デー 。映像はヤングカンヌで金賞を受賞したCM。」という文言を添え、クリエーターの富永省吾さんがTwitterにあげていた動画だ。

スーツをまとったサラリーマンらしき男性が、スマートフォンを持っているらしい手元に目をやったままエスカレーターに乗っている。別の二人のスーツ姿の男性が続く。上りエスカレーターだから、何をしなくても自動的に上に運ばれてゆく。対照的に、隣の下りエスカレーターでは、ひとりの女性が進行方向に逆行し自力で上がろうと奮闘している。ヒールのあるパンプスとタイトスカートではいかにも動きづらそうだ。少しでも歩を緩めれば、容赦無く低い位置に連れ戻される。動画の最後に「女性はこのような状況に置かれている」という意味の、「Women are in situation like this」というキャプションが表示される。

女性の社会進出が謳われて久しいが、女性はいまだに不利な社会的構造に置かれているということを表現した動画で、これまでに1万回以上リツイートされ、4万回以上の「いいね」がいた。

この動画を見ながら、私は十数年前に見たもう一つのエスカレーターにまつわる動画を思い出していた。

もう一つのエスカレーター動画

それはアメリカで開催されたある心理学会でのことだった。私がまだカナダの大学で博士学生をしていた、2008年ごろのことだったと思う。登壇者は7、80歳代の心理学者だった。長年名門大学に勤め、多くの研究成果を出し、名誉教授の称号を得て引退した後も数多くの著作を出した研究者で、ここではX博士とする。

発表はX博士がこれまでに提唱した理論とそれを実証する研究成果をまとめたもので、後半には我々はどう生きるべきかという啓蒙的な要素を含んでいた。発表もほぼ終わりに近づいた頃、X氏は自らの啓蒙が「非常にうまく表現されている動画」だとして、ある動画を会場の大きなスクリーンに映し出した。

「壊れたエスカレーター」というタイトルのその動画は、元はアメリカのマーガリンのCMで、現在はこちらのサイトで閲覧することができる。X博士が会場で披露したのは、中盤で一旦画面が暗くなるまでの冒頭1分ほどまでの部分だ。

人気ひとけのないオフィスビルで、ビジネススーツを身に纏った男女が乗ったエスカレーターが突然停止する。「遅れそうなのに!」「もう泣きそう」とイラつく女性。「誰かなんとかしてくれ!」と叫ぶ男性。二人は大声をあげて来ない助けを呼び、そして立ち尽くす。

動画の滑稽さに学会会場に苦笑が漏れた。狼狽したり、助けを呼んだりする間に、自分の足でエスカレーターを登ってしまえばいいのに、ということが明らかだからだ。苦境に対し受け身にならず、ポジティブで前向きな態度で行動すること。それがX氏の啓蒙する教訓だった。

「まとめ」のスライドを足早に読み上げた後、X博士は発表を終え、質疑応答に入った。終了間際、中堅の心理学者が手を挙げた。ある学術ジャーナルのチーフ・エディターに就任したばかりの、一目置かれていた研究者だった。

「X博士、あなたがお選びになった動画ですが、壊れたエスカレーターで身動きが取れなくなっているのは、白人女性と黒人男性であることにお気づきですか?」

X博士は高齢の白人男性、対するA博士は名前からも容姿からも明らかな、中東系アメリカ人の中年女性だった。英語の「針が落ちる音さえ聞こえる」という慣用句がピッタリなほどの静寂が、会場を満たした。A博士が、かすかに震える、けれど落ち着き払った声で続けた。

「私が乗ったエスカレーターとあなたが乗ったエスカレーターは、同じスピードで動くでしょうか? 故障が起きる確率は同じですか? そもそも、エスカレーターの乗り口までたどりつくまでの道のりは?」

この後の展開は、今思えばことさら描写するのも憚られるほど凡庸だ。X博士は、メッセージ性で動画を選び俳優の属性には注意を払わなかったが、不快な思いをされたなら申し訳ないと「謝罪」し、おそらくX博士の「弟子」のような存在の中年白人男性が、X博士の業績を讃えて「些細なこと」でX博士の発表に水を差すA博士をやんわり非難した。気まずい雰囲気のなか、拍手と共に発表は終了し、それまで沈黙を守っていた女性やマイノリティの参加者がA博士に駆け寄り、彼女を取り囲んで勇気を讃えた。学生だった私は、ただただ言葉もなく状況を凝視していた。

特権と社会構造

今年3月拡散された国際女性デーの動画を見た時、私の中でエスカレーターにまつわる2本の動画がリンクした。A博士があの日指摘したのは、X博士や彼のような属性にある人たちの特権だった。選んだ動画内の俳優や自らの属性に気付かずにいられる特権。弟子として上りエスカレーターに引き上げてもらえる特権。不均衡な社会構造から生じる苦難や生きづらさを自己責任化できる特権。そしてその暴力性を「些細なこと」と矮小化してしまえる特権。

国際女性デーの動画は、女性が不利な状況で奮闘する中で、男性が特権というエスカレーターに「乗っかって」社会的階層を上昇する構造を可視化した。「女性はこのような状況に置かれている(Women are in situation like this)」というキャプションの文言は、翻れば「男性はこのような状況に置かれている(Men are in situation like this)」と言い換えることもできる。

もちろん、上りエスカレーターから振り落とされないための競争は熾烈で、何もしなくても上昇できるような生やさしいものではないかもしれない。しかし往々にして、生産性ゲームの競争に勝ち続け、上昇することが可能な男性の影には、ケアを担う女性の存在がある。また、そもそもそのようなゲームのルールは、女性たちが乗る隣のエスカレーターを、下り●●エスカレーターとして固定する要因でしかない。

さらに男性であっても、性別以外の属性――例えば、セクシュアリティ、経済的階層、出自、障害の有無など――に対する差別や排除により、上りエスカレーターにアクセスできない人もいるだろう。また、女性は下りエスカレーターを逆行して登らされていることに怒りを持って当然だが、その下りエスカレーターは車椅子対応でないし、小さな子どもや介護の必要な人の手を引いて登るには危険すぎる。特権と抑圧は複雑に絡み合い、その存在を不可視化する。乗り口にさえ辿り着けない人々がいることを忘れてはならない。

カウンセリングにおける社会正義アプローチ

心理療法やカウンセリングに持ち込まれる問題には、多くの場合、特権と抑圧の権力構造が背景にある。上り下りに関わらず、エスカレーターから振り落とされまいと奮闘する日々で感じる不安やストレス、燃え尽き、不眠。生き残るために他人を蹴落としたり見捨てたりすることの罪悪感。人間関係の軋轢。振り落とされたり、そもそも入口に辿り着けなかったりすることから生じる喪失、怒り、自責、自己嫌悪、そしてトラウマ。それらを紛らわすための依存行為。しかしながら、主流のカウンセリングの理論や手法は、「個人」の問題に焦点を当て、社会的な権力構造が見過ごされがちな傾向にある。

X氏の発表があった2000年代後半の北米では、カウンセリングの現場だけでなく、学校、職場、テレビやソーシャルメディアでポジティブ心理学が席巻していて、ポジティブな思考や感情の促進キャンペーンが至るところで繰り広げられていた。下りエスカレーターで奮闘する人、もしくは奮闘することに疲れ果ててしまった人に対し、構造的な問題を考慮せず「苦境に対し受け身にならず、ポジティブで前向きな態度で行動すること」と啓蒙することは、暴力に近い。ましてそのメッセージが、上りエスカレーターに乗っかっている(とクライアントから見て思われる)人から発せられていたとしたらなおさらだ。マインドフルネスや効果的なコーピング・スキルの促進、自尊感情やレジリエンスの向上。それら自体は有益な手段であっても、特権や抑圧の社会構造に注意を向けないままでの運用は、不正義な社会への適応を強いる。近年、ポジティブ心理学の批判論文が頻出し^1、「有害なポジティブさ」(トキシック・ポジティビティ)という言葉がSNSを通して一般に広がったことは大変興味深い。

心理学の知識やカウンセリングの手法が、不公正な社会の維持装置になってきた反省を踏まえ、近年では社会正義アプローチが心理カウンセリングにおける第五派と言われるまでになった^2。社会正義アプローチには複数の定義が存在するが、その一つは「ある集団の社会的位置付けや、格差の根本的原因に焦点を当て、その根絶のために何ができるかを模索すること」としている^3。言わば、女性らしくパンプスとタイトスカートを身につけたまま、けれど効率的に、逆走するエスカレーターを駆け上がること(だけ)を支援するのではなく、そのようなシステムの不正義や暴力の構造を明白にしたうえで、抵抗の手段を模索し、根底にある社会構造にも働きかけようとするアプローチだ。社会正義を理念として掲げ、それを軸に心理職養成カリキュラムを組む学科で教員をする私は、社会正義をめざすなかでの実践でこそ、既存のカウンセリングの理論や手法は真価を発揮すると考えている。

おわりに

国際女性デーの動画に触発されて思い出したA博士の行動で、新たに気づいたことがある。あの時、A博士の声が微かに震えていたのを、私はX博士に対する怒りの表れだと思い込んでいた。

当時学生だった私も、今では中堅と言われる段階に差し掛かり、ディレクター職を任されるようにもなった。カナダの大学の教授会や委員会では、学生代表も同席することが多い。そのような中、自分より強い立場の人が発する配慮に欠けた発言を、私が指摘するという状況を幾度か経験した。そのような時、私の声は決まって震える。怒りに震えるのではなく、怖れによって。アジア人女性である私が乗っているのは、やはり下りエスカレーターで、何かに躓けば瞬く間に今いる場所より下に連れ戻されてしまうからだ。それはとても怖い。

それでも声を上げるのは、同席する若手や学生に絶望してほしくないからだ。だから、あの時果敢に見えたA博士も、怖れに身を震わせていたのだと今は分かる。そしてそれでも沈黙を選ばなかったのは、あの会場にいた私のような者のためであったことも。

文献

1. -Yakushko, O., & Blodgett, E. (2021). Negative reflections about positive psychology: On constraining the field to a focus on happiness and personal achievement. Journal of Humanistic Psychology, 61, 104–131. https://doi.org/10.1177/0022167818794551
-van Zyl, L. E., Gaffaney, J., van der Vaart, L., Dik, B. J., & Donaldson, S. I. (2023). The critiques and criticisms of positive psychology: A systematic review. The Journal of Positive Psychology. Advance online publication. https://doi.org/10.1080/17439760.2023.2178956
2. -Ratts, M. J., Singh, A. A., Nassar‐McMillan, S., Butler, S. K., & McCullough, J. R. (2016). Multicultural and Social Justice Counseling Competencies: Guidelines for the counseling profession. Journal of Multicultural Counseling and Development, 44(1), 28–48. https://doi.org/10.1002/jmcd.12035
-蔵岡智子・井出智博・草野智洋・森川友子・大賀一樹・上野永子・吉川麻衣子(2023). 心理臨床領域における社会的公正とアドボカシーの視点 ―養成プログラムへの統合を見据えて―,東海大学文理融合学部紀要,第1号,37-53.
440f0157c8f3c97365f971ba60b184e7.pdf (u-tokai.ac.jp)
3. -Edwards, N. C., & MacLean Davison, C. (2008). Social justice and core competencies for public health: Improving the fit. Canadian Journal of Public Health, 99(2), 130–132. https://doi.org/10.1007/BF03405460

著者プロフィール


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和田香織(わだ・かおり)
カルガリー大学教育学部カウセリング心理学科 Associate Professor / Director of Training。カナダ心理学会「心理学における人権と社会正義委員会」メンバー。研究分野は死生学、多様性と社会正義、フェミニズム、心理臨床教育など。
Website: https://profiles.ucalgary.ca/kaori-wada
Twitter: https://twitter.com/kw_mtl



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