最終更新 2018/07/19(追記改編)2016/11/16(加筆)  2016/07/09、01/31、 2015/12/15(加筆調整) 06/09(追記) 2014/09/08 (文章調整 公開 2012/08/23
天下布歩

末法にピリオドを打った天下布武



[堂上接武 堂下布武]

信長といえば「天下布武」、 誰もが知っている造語だが、その語源が何だったのかは殆ど知られていない。

無知故の誤解で信長のイメージが穢されている事は 嘆かわしい事だ。

「信長と十字架」の著者、立花京子氏は語源に注目し,数人の学者に依頼して深く調べてもらった。
しかし史学者が「武を布く」などという日本語的発想から探したから、「七徳の武」という言葉に行き着いた。 
立花氏は矛盾を感じながらも、どうにかそれを「布武」の意味として納得している。


「武」の字を武力の「武」とイメージする日本的漢字感からは、マナーブックである「禮記」(礼記、らいき)にはたどり着けない。

礼記を知らない現代の日本人は、悲しいかなその勘違いにさえ気づけないでいる。

「布武」という言葉には「歩き」以外の意味はない。 

自分は仏典と中国古典を徹底して調べようと、そのデータベースをチェックした。 
すると唖然としたほど意外に、簡単にその語源にたどり着けたのだった。

宋本廣韻:で「武(ふ)」を調べると色々な例があるが、曲禮曰 堂上接武 と出ている。
「天下布武」の語源となった、「堂下布武」は禮記(らいき)上の28にある。 

以下の文章である。


帷薄之外不趨,堂上不趨,執玉不趨。 堂上接武,堂下布武。 室中不翔,并坐不橫肱。授立不跪,授坐不立。

見た通り文章は 「室内では肘を鳥の羽ように張るな、又を広げて座るな」と、立ったり座ったりのマナーが続いている。

何の事はない、「堂下布武」は立ち居振る舞いの仕方を書いたマナーブックの言葉だった。

意味は 堂上(皇帝のいる所・幕でしきられた範囲)では接武(すり足),堂下それ以外)は布武布幅程の歩幅) で歩いてよいと、

《禮記·曲禮上》: 堂上接武,堂下布武。 の英訳は
Above, in the raised hall, the foot-prints should be alongside each other, but below it free and separate.である。

つまり歩くマナー、所作を言っているのだ。 

「武」(ふ)は「歩(ふ)」発音は(Fu、Wu)。その意味は 「the foot-prints」以外の何物でもない。


「礼記」は日本でも律令時代から殿上人が先ず習う、必須の作法の教科書であった。

御所に参内する可能性のある当時の公家、後世は侍達にとっても必読書であって、
「接武」「布武」は品格を保つために身につけなければならない基本的所作であった。

FuまたはWu の音に武の字が置かれただけの事であり、「接武」は前に出した足のかかとに、後に続くつま先が接する、歩幅を開かない歩き方である。

それに対して「布」は広げる意味だから、歩幅を普通に開く歩き方が「布武」の意味である。


堂上,堂下の「堂」とは、皇帝の政務・儀式を執り行う場所、そして国の政治に神仏が密接にかかわってからは、寺院の本堂等、神仏の結界内も「堂」と言われる。 

日本ではさしずめ紫宸殿や仏殿、神殿の中の聖域が「堂上」だ。

そこでは能舞台でシテが登場・退場する時の歩き方のように、一歩一歩の足先とかかとが離れないように、すり足、「接武」で歩けという事で、敬意を表すのである。

対して「布武」とは、そこ以外の「堂下」において、布幅程度に左右の歩幅を開けて、普通に歩く事である。

大股でがさつな歩きではなく、ある程度節度を保った歩き方を「布歩」というのであって、皇帝や神仏に仕える者としての気品や威厳を損なわない、立居振る舞いが求められるのは言うまでもない。


織田信長が「堂下」を「天下」に変えた事には当然意味が在る。

一義的には「天皇や、神仏等の既成の権威に捕らわれず、天意に沿ってわが道を歩く」 と云う意思表示である。

その意思表示した時期が末法500年の終焉直後という、当時の宗教的時代背景を知っていれば、更にその意味が深い事に気づく筈だ。

もし「武力」の意味だとしたら、「堂上接武」は紫宸殿の中で武力を接するという事になるから、「礼記」は謀反を勧めるとんでもないマナーブックだ。
そんなものが律令時代から用いられるわがない。

「武」は「歩」という本来の意味を知らずに、信長の心底に「武力による覇権」を表していると取る事は、無恥としか言いようがない。

天下布武の真の意味は「天道に叶うように節度を保って歩く」という意味であって、
そこには末法時代だからと当然のように世間を乱して来た末法思想と、それに則った天台宗など既存宗教の権威を廃そうとした信長の真意が観えているのだ。

念のため、「武を布く」という言葉自体が他の中国古典には在るのだろうかと調査した。

結論は 否である。 
諸子百家・雑家のどの書にも、全くその意味で使われた言葉は存在し無いのだ。

宋,明時代の、太平廣記、山の大竹路に 「路人徐步而進,若儒之布武也。」という文章を見つけたが、やはりこれも「歩み」を意味している。

当然ながら大正蔵経所載の全ての経典も文献として調べたと云ったが、八万巻と言われる釈迦の経文には「布武」という言葉は一つも無かった。

全大正蔵経中に、釈迦の「経」ではなく、釈迦以外の書いた論疏の中に、たった4件の使用例を見つけた。
その内の3件は明らかに「歩み」を意味しており、残る一つは「孫布武」という人名であった。

従って断じて言うが、古来から「布武」という言葉には歩き方以外の意味はない。中国字典もしかりである。

武を敷(布)くという発想事態が、和製漢語の感覚だったのだ。

再び言うが、若し「布武」に武力行使の意味合いであったとしたら、 「接武・布武」共 皇の堂内、玉座周辺には武器の持ち込みが可能で、皇の傍ではそれを接する、つまり刀を合わせる事になる。

マナーブックの「礼記」がそれを教える筈はないのだ。  



前回「雀がになる」の語源は太歳礼記にあると書いたが、この「堂上接武・堂下布武」も礼記であって、今ではすっかり忘れられたが貴族や武士のたしなみ、一般常識だったのである。

信長が「布武」を造語として勝手に「武力制覇」の意味を込めたくても、当時の普通に常識を持つ者には、そのような誤解する者は誰一人とてないし、 信長が自説を説明し歩いた記録もなく、それを言えば只笑われて、馬鹿にされるだけである。 

信玄の「風林火山」や家康の「厭離穢土欣求浄土」を掲げたが、信長の旗印は永楽銭の旗の先に「南無妙法蓮華経」の題目の小旗を付けた物だった。

「天下布武」に天下を覇す意味があるならば、当然戦場の旗印として掲げただろう。
だが信長は「天下布武」を旗印にはしていない。 


「天下布武印」が使われた書では、永禄十年十一月(1568)が最も古い物といわれる。

若し「天下布武」が信長の武力制覇の意思表示と取られたなら、その印が押された書を受けとった武将達には、良くて恫喝、悪くは宣戦布告を受けたに等しい。
当然不快感を持ち、少なからず気が騒いだにちがいない。

立花京子氏はそれと気づいてか、同書32ページに「吉昭否定の理念である天下布武印が押されている事に矛盾を感じて」と、その疑問を解きたいという動機で「天下布武」の意味を捜したそうだ。 

ちゃんと研究する人なら、ふつうに感ずる疑問であろう。

それでも、何故信長は「天下布武」の旗印を戦場に掲げなかったのかに、思いが及ばなかったようだ。

それは、日本中に蔓延する、「布武」の「武」が武力・武器の「武」 という、字の意味に捉われる日本人特有の先入観のせいである。

立花氏は、その先入観が頭から離れ無い人達に尋ねたので、武にも徳があるという答えを得て、いささかいびつな納得を自分に強いている。

立花氏の書はキリシタンという宗教が、歴史のバックに在る事を話している。

だが、それが永く日本を支配をし続けた末法思想が崩れた時代背景の上に、タイミング良く成り立った事だと言う事に、興味を当てていたらと想う。

江戸期になって出てきた講釈師が、信長の戦いを面白おかしく、単純に国盗り物語としたから、その先入観に汚染された、語源を知らない現代人に「天下に武を布く」などという、日本でしか通用しない誤読を強いている。

実際、小説家や歴史家で「天に恥じない節度を保って、自由に我が道を歩む」との読み方をする者は皆無である。

「天下布武」は天下取りの野望を表したものとの講釈師的勘違いは、不幸な事に信長の行動の全てを誤解させる基となっている。
この講釈師的先入観からは、本当の信長は見えない。

信長は日本のバチカンであった比叡山を、何故焼いたのか。 

歴史の隠れた宗教的フィルターを通して見れば「天下布武」はその宣言であった。

天下布武の印を使い始めて2年目、二条城の工事現場で信長に直接インタビューした記事を残したフロイスは、信長が傍に離れて座っていた僧侶たちを指して、彼等全てを抹殺する意思を示し、時期を待っていると云った事を書いている。 

云く、「彼らは民衆を欺き、己を偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。 予はすでにいくども彼らをすべて殺害し、殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、・・・  放任しているのである」 と。(フロイス日本史2.144)

そしてその実行は二年後の叡山焼き討ちから始まったのである。 

天下布武が天下取りではなく宗教退治の意味である事が分かるエピソードであろう。

時代々々の宗教観を考慮しない日本史は、キリスト教抜きで西洋史を語るに等しい。

最近、神田千里氏の「宗教で読む戦国時代」を読んで、歴史の真実の観方を書いている事を知って、部分的には先を越された気がしている。(講談社選書メチエの歴史書)ぜひ読まれるべき書だ。 

自分は今、法華信仰・末法思想が招いた「勘違いの歴史」を書くことをライフワークとして、たくさんの信長関係の本も資料として調べているが、礼記に触れていたのは「織田信長101の謎」(PHP文庫)だけであった。

続きはいつ終わるかわからないが、執筆中の本編で! 




追記 : (と言うよりこのブログに、先に結論が出てしまったが 2013/8/30)

信長の歴史で見落とせない重要な事

1 本能寺と種子島(鉄砲)と信長の関係は法華宗本能寺系の線で結ばれていた事。
 
2 法華をけしかけ、利用し、そして崩壊に導いた策士は、細川晴元。
その妻の三姉妹が、それぞれの夫たちをけしかけたものが信長包囲網の正体である事。
  長女:細川晴元正室
  二女:三条の方(1521-1570) - 武田信玄 継室
  三女:如春尼 - 本願寺顕如室 六角定頼の猶子、細川晴元の猶子、

法華一揆を仕組んだ晴元と、顕如と、信玄は義兄弟で、六角は三女の義理の親としての関係で。

顕如の女房のリクエストでしぶしぶ出兵した信玄と六角だったから、戦略的結束は甘く、信長包囲網と言える程の事態とはならなかったのである。

包囲網などと大げさな表現も、講釈師の天下取り的発想に過ぎない。
歴史家の不勉強が及ぼす史実への悪影響が、いかに大きいか観られる。

3 毛利は一向宗だったから、石山本願寺の救援要請に直ぐには応じなかった。
だが比叡山焼き討ちに信長の本気度を見せられて、ようやく本願寺に加勢したのだ。

このブログ「末法思想に翻弄された日本」のシリーズと 「末法思想は魔の所産、信長の叡山焼きうち」 を読んで頂ければ、天下布武の真の歴史的意味合いが理解できると思います。


この天下布武の誤解は、執筆中の「勘違いの歴史」の一部分です。

シリーズ「三鳥派と細草壇林」は、信長の曾孫、敬台院が悪魔外道の魔王・日精と闘ったです。
その日精が「三鳥」そのもので、大石寺が三鳥派本山になったという事が解ります。

三鳥派と細草壇林」全編は「平成談林2」に公開しました。

このブログにはダイジェストを載せました。 その10を読むと全体像が解ります。
  1. as of July 20 2019 11:00

    本日の更新情報をお届けいたします (Latest Revision Information)

    平成檀林1  宿王華は出現するか 3 宿王華現象  追記改編 しました

    宿王華菩薩はどの様に出現したか、或いはするか、それを考えるシリーズ。

    大般若経600巻を知らない人には 自分の説明は難解かもしれませんが、出来るだけ丁寧に書くつもりです。



    ここには一月分ほどの更新情報を並べるつもりですが、いつ更新があるか予測不能のブログにも拘らずこのブログを訪れて下さる読者の方に感謝いたします。

    古いブログも時々見直して、アップデイト、改編して、都度リストアップさせて頂きますので、よろしくお願いいたします。


    更新情報
    更新日 Brog 内容
    平成檀林 1
    2019/7/20 宿王華は出現するか 3 宿王華現象 追記改編
    2019/7/13 宿王華は出現するか 3 宿王華現象 公開
    2019/7/3 宿王華は出現したか 2 宿王華菩薩の姿 公開
    2019/6/28 宿王華は出現したか 1 法華経のGalaxy 公開
    2019/6/28 立正安国論 3 未顕真実撤回への道 変換ミス訂正
    219/6/19 三度諌めて、山林に交わる 追記
    2019/6/18 女,三界に家なし  女性蔑視の支那仏教 改構
    2019/6/13 末法思想は魔の所産 2 - 叡山焼き討ちの理由      追記改編
    2019/6/11 「支那が最悪 は 釈迦の言葉」 追記改編
    2019/5/24 立正安国論 3 未顕真実撤回への道 追記改編
    2019/4/29 中華魔道に犯され続ける日本 6 未曾有の法 十如是 改編
    2019/4/29 日蓮書簡の経文引用の誤りに就いて 追記改編
    2019/4/29 法華経を考える 2 提婆達多教団のアレンジ 追記改編
    2019/4/27 立正安国論1 日蓮宗系は自己矛盾大好き! 改編
    2019/4/27 立正安国論2 未顕真実を撤回  日蓮の言い訳 改編
    2019/4/27 立正安国論3 未顕真実撤回への道 一部訂正改編
    2019/4/26 仏教は終わっている 追記改編
    2019/4/23 未顕真実にピリオド 追記改編
    平成檀林 2
    2019/3/25 日目上京 と 大石寺の放棄 追記改編
    2019/3/21 日目上京 と 大石寺の放棄 追記
    平成檀林 3
    2019/4/5 番外編1 大智度論 色黒きは地獄? 公開
    2019/4/4 日蓮書簡の引用経文の誤り 追記改編
    0

    コメントを追加

  2. 2019/7/20(追記改編)2019/7/13 (公開)

    宿王華はどの様に出現するのか 3

    宿王華現象

    女性差別の誤解を放っておけずに寄り道したが、本筋に戻ります。

    釈迦は[ 猶不能盡以要言之(神力品)] 伝えたかった事が充分に伝わらなかった と言い, 
    [種種説法以方便力 四十餘年 未曾顯實 是故衆生得道差別(無量義経)] 聞き手のレベルに合わせた方便の結果、得道に差が出てしまった と言っていると書いた。

    釈迦が伝えたかったイメージと、その声から弟子が脳裏にイメージした像とは必ずしも一致していないし個体差があると釈迦自身が言った事は、些細な違いではあるまい。
    経の原典は、そのレベルの弟子に寄る記録と、後日加味された記憶との結集なのだ。

    現存の経はその結集以後の伝承過程で、更に宗教的な脚色が施されたと思える翻訳文が実際にある。

    正法華経と妙法華経を比較すると、羅什訳は謂わば劇的で、宗教的に話を作っている。

    湧出品に六万恒河沙の菩薩たちと、そのリーダー上行(種種行)等四菩薩達だが、その菩薩たちは、霊鷲山の聴衆達より遥か昔に教化されていると紹介された。
    それを聞いた弥勒菩薩が疑問を投げ、その答えが壽量品に続くのだ。

    正法華経では上行(種種行)等四菩薩の名前は、紹介時の一度だけしか出て来ない。
    彼ら六万恒河沙菩薩たちは最後まで虚空に浮いたままで、釈迦の滅後も虚空に留まり、法を説き続ける存在だと言う。(菩薩の定義)

    羅什訳では虚空の上行菩薩の名を、神力品と嘱累品に登場させ、釈迦が頭を撫でた地上の弟子たちの中の一人であったかの如くに卒業させ、本土へ帰らせている。

    羅什には意味不明で翻訳不可能な言葉を、陀羅尼呪として片付け、その区切りを添品法華経が訂正してはいるが、その意味は誰にもわかりはしない。
    しかし正法華経はその部分を言葉に訳している。

    先に回数を示したが、羅什はここぞの時に地震を起こし、話を盛り上げる演出をする。

    虚空の六万恒河沙の菩薩たちは、既に久遠に得道し、法を説き続ける存在だと、釈迦が紹介しているのに、羅什はリーダーの上行菩薩を、釈迦の説明では全ては伝えきれなかった聴衆と、同列レベルの卒業者として本土に送り帰す脚色を施したのだ。

    これ等は宗教的に盛り上げたい羅什の下手な脚色例だが、それが羅什の個性で世間にはそれを好むファンはいるものだ。
    日蓮をして上行附属、上行の末法再誕思想に導き固執させた元は羅什訳である。


    脚色とはどういう事か、例えで説明する。

    シェイクスピアの小説では映画化が多い「ロミオとジュリエット」がある。
    原典に近い映画はオリビア・ハッセイの映画だが、映画ならではの音楽も好きな作品だ。

    同じ題材のミュージカル、ウエスト・サイド・ストーリーは、それこそ繰り返し観て飽きない、歴史に残る最高の映画の一つだと思っている。

    「シェイクスピア・イン・ラブ」は、良くぞここまで視点を替えたと、これも大いに気に入った作品だ。

    シェークスピアの作品は、ロミオとジュリエットだけではないから、それらも読みたくなるのが人情だ。

    宗教信者は一経に固執しがちだが、自分はどんな宗教からも頑なに距離を置いているから、面白ければ出来るだけ多くの作品を知りたいし、シェークスピア作品なら映画でも観たい。

    学界・業界周辺には多くの論評、批判もある。中には甚だしい物に出くわす事もあろう。
    そんな時自分は、他人を誤解に導く誤りは訂正して欲しいと、その原典に照らした結果を報告する。 

    その姿勢がこのブログで、原典は小説や戯曲ではなく経と歴史資料だが、はっきりした証拠がない限り、経を一応釈迦の作品とみなして読んでいる。

    百八煩悩だの、女は地獄の使いだのと、既存宗教がばらまき続ける所説には、読み比べれば分かる、原典の経文にない言葉を在ると言うウソと、まるで出鱈目のデッチ上げが多過ぎる。

    釈迦が魔道に汚染されると警告したのに、日本人は支那仏教に良くぞ騙され続けたものだが、原因は原典の経を読まなかったからだ。

    その甚だしく釈迦を貶めている事例をいくつか紹介したが、今もその状態は変わらない。

    しかし悪事はいつまでも続かないもので、昨今の日本の仏教界は衰退の一路を辿っていると聞く。幸いなるかなである。

    経は不完全かつ誤解を含む訳文である可能性が否めないと自分は承知している。
    自分は複数の翻訳があれば比較して、その違いや共通点を知るのだが、当初は単に翻訳文の不完全性を補うためだったが、同時に翻訳者の個性も観るようになった。

    経を読む事は、拝むためではない。 
    書写し、読誦し、説を解せと 釈迦は経に繰り返し述べている。

    文の表現を拠り所にそこから釈迦オリジナルの真意を読み解く作業と言える。
    現代に生まれた自分には、経の表現に、最新の科学情報を通した自分なりのイメージを再構築する作業である。

    だが、自分は時間をかけない。その為には既存の宗教や、宗教的解釈から可能な限り離れて、純粋に文意を解釈することだ。

    自分は経を研究していると思われているらしいが、経よりも自然科学や音響が好きだから、この程度のブログで研究とはおこまがしい。

    新しい科学情報で、あっと気になったものは、起塵、十八不共、大放光や極爆等、たいがいは経にあって、その表現に語られたイメージを読み解くヒントになる。

    3000年前に語られた経を、最新宇宙科学の発見が後追いしている現状が見出せる事が自分には面白いのだ。

    大般若経に4000回も出て来る「不也世尊」も、宇宙創成過程のカオス状態だと思いついて合点が行ったが、最新科学情報を知らなければそこに辿り着かなかった。

    自分は読みたくなった時にしか経を読まない、あまり熱心ではない釈迦のファンに過ぎない。

    六万恒河沙の菩薩出現を語る羅什の表現や、化城喩品後半の翻訳は、独自の演出のためか、原典の意味を解っていないからだろうが、大事な部分を端折った不適切な翻訳だ。

    それは正法華経と比較して初めてわかることだ。

    全ての諸は常に変化を繰り返し(諸行無常)その本末の究境は等しい(物理的質量は変化しない)と言う、現代では科学の常識も、羅什訳からだけでは脳裏に科学的イメージを浮かべる解説はなかったし、化城喩から星々の誕生の情景には決して辿り着かない。

    竺法護の翻訳は正法華経のみならず、その詳細な表現から、原典をよく理解した、最も原典の内容を反映した翻訳だと、自分は評価している。

    その様な翻訳しか伝わらなくとも、託された宿王華がもし人の形に出現するなら、彼もしくは彼女が流布する従地湧出品以降は、出現時代の科学知識の環境の中にいる人々を相手に、釈迦の真意を、分かり易く解説する筈である。

    この観点から竜樹だろうと天台だろうと、「不須汝等護持此経」とされた末法期以前の科学知識に於ける解釈は、今の科学レベルに追いつくわけがない。

    佛祖統紀 中の「火災過後世界空虚猶如黒穴」の表記はブラックホールを彷彿させたので、おろそかに出来ないものもあった。しかしその時代のレベルの程度を知る参考になるだけである。

    宿王華は出現時代の科学知識の環境の中にいる人々を相手に、釈迦の真意を分かり易く解説する筈、という観点から、末法に入って科学的に法華経を語った人物に該当する者は出現していると言えない。

    宿王華の役目を単純に読めば、釈迦がその為に残した「従地湧出品以降の説を広める」ことだ。
    そのためには、その時代の科学環境でも正しくなければ釈迦の恥をさらすことになる。
    釈迦の正しさを証明すること、それこそが宿王華の最大の課題となる。

    自分はそのように宿王華出現の意義を考える事にしている。
    だから宿王華ならどの様に語るのかを考えて、経を読むのである。

    釈迦は薬王品で広宣流布を託してはいるが、出現するのかしないのか、語るのか見せるのか、その方法は述べていない。

    宿王華は本当に出現すると考えても実例を見いだせなかった日蓮は、捃拾説に依って上行菩薩の出現を考え出した。
    だがそれは経にない事だから、人の形としての一菩薩の出現とは捉えず、自分達が法華経を弘める行動を「上行菩薩の御使い」だと言いだした。(四条金吾殿御返事:文永九年五月)

    流布は現象と捉えることで、宿王華だろうと上行だろうと具体的な出現がなくとも、自分たちの行動を正当化する事が出来、薬王品も嘘でなくなる事に漸く気付いたようだ。

    問題はその中身で、日蓮が目指したユートピアとはならなかったのは、その解釈が旧時代の支那仏教の解釈に頼ったものだったからである。

    未だ宿王華が出た人跡はなくとも、既に法華経の名は日本中に流布されている。
    五濁悪世、中でも支那が最悪と、経にある様々な釈迦の見通した現象は、間違いなく起きている。

    法華経名目の流布は現象として確かにおきたから、薬王品の法華経広宣流布は宿王華現象を言うと観てよしとせざるを得まい。


  3. 2019/7/12(改編)2019/7/4(公開)

    宿王華はどの様に出現するか 2-2 

    菩薩の姿 2


    半月前6月18日の朝日新聞に仏教における女性差別で大谷派のパネル展示での問題が生じた件が特集され、自分は古い女三界に家なしというブログにコラムを書き加えた。

    その後すぐに竹田恒泰氏も自分のチャンネルで取り上げていたが、新聞に登場した誰もが経文を理解されていない。
    それもあって、菩薩形状と女性差別についてもう少しだけ書き加える事にした。

    釈迦説法の当時の社会には、女性に不利な差別は明確にあった。
    そういう社会背景の中で釈迦は法を説かれたのだ。

    そんな時代に、成仏に男女の差別はないと理解させるには、段階と期間を要したので、膨大な数ある説法も前期と後期で深みも違も出てきて当然である。

    そのブログには、当初から提示していた、「超日明三昧經説」をしっかり見てほしい・

    「女人身では成佛道を得るのは不可とか、三從之義の風潮を質問したのは、上座比丘の謂慧施であって、釈迦の答えにそれはない。 

    釈迦が「女性差別があるのは何故か」と質問され、経文にそれがあることを捉えて、
    仏教は女性差別していると捉えるのは早合点だし、仏教学者も僧侶も、その説明は経を読み込んでいない事まる出しである。

    釈迦は、男性優位を当たり前としている社会の抵抗感を和らげ、受入易い「方便」として、初期、中期には「化成男子」を菩薩の形状として語らざるを得なかったのだが、何度も紹介したように、釈迦自身の過去が女性だった、それが今は仏となっていると、見本を示した複数の経があるのだ。

    後期になって、段々と周囲の理解が深まったところで、阿弥陀の極楽世界には女性のまま行く事を説いている。

    それ迄の経に化成男子が出て来たのは、未だ自然法則の理解不足の聴衆相手を納得させる段階の方便で、それだけ重ねて女性も成仏する語をする必要があっての事だ。

    それらの諸経と同時並行で説かれた大般若は漢クラス以上が相手だから、性差別もへったくりもない。化成男子と言うが、法の上では全ての菩薩にチンポコは要らないのだ。

    釈迦は男性優位の因習の中で、ある意味差別と戦っていたのだが、その方便である男形菩薩の姿がそのまま金色の仏像彫刻のモデルに利用された。その発生は支那である。

    釈迦が説き続けた、宇宙の創成、般若波羅蜜多、その真髄が理解できず、オンプラ ジャージャー プラ ジャージャーなる呪文を、大般若経にわざわざそれらしく書き足した支那仏教の坊主達だ。

    大般若初会最終部で教えた基本中の基本「色」に愛着しないようにという教え、「作金色佛像形 が 諸惡魔のなす 魔事」を知る事を、支那ボーズに期待する方が無理だった。

    支那において曼荼羅図や仏像彫刻がもてはやされ、盛んとなったのは、大般若の基本中の基本が理解されなかった証拠で、その結果起きた事象だったのである。

    真意がぼやけた翻訳経文からでも釈迦の真意を解すしかない我々だが、人型の装飾仏画仏像類が、魔道汚染の支那仏教の産物だと知ったなら、像形物だけでなく、滅後に加わった解釈文の類は、努めて分別しそぎ落とすのは当然のことだ。


    四十余年もの説法に於いて、釈迦は言葉の限りを尽くしたが、「猶不能盡以要言之」だったと、神力品に言った。
    それは乏しい科学常識時代の聴衆が相手だったからである。

    この内容は彼等にはまだ理解出来ないと解っていた釈迦が、「不須汝等護持此経」としてでも説いておきたかった住地湧出品以降である。

    神力品でも「嘱累しようにも、猶、不能盡以要言之」と、伝えたい事が充分に伝わらなかったと言って説いた住地湧出品は、銀河系宇宙の姿の詳細だった。

    「今は此処に留める」としてそれが「後五百歳」以降に「広宣流布」されるようにと宿王華に嘱累して託したのが薬王品であるが、そこにも 法華経を如説修業した女性は阿弥陀如来の極楽に行くか、娑婆に男として生まれることも、自由だと書いてある(正法華経)

    自分はブログに何度も書いてきたが、釈迦の教えには女性差別はないのである。

    差別あるところに「色即是空」を持ち込む無意味さに、早く気づけよ、くそボーズ、
    である。

    ダメ押しだが、曼荼羅や本尊図、仏像類も、「色即是空」の論点からは「魔事」だと知る事、支那で仏教は汚染されると、釈迦がハッキリと言っている事を忘れない事。

    続く

    0

    コメントを追加

  4. 2019/7/3 (公開)

    宿王華はどの様に出現するのか 2 

    菩薩の姿


    釈迦は最晩年の説法で、地球が虚空にある事、銀河の詳細を語り、それを後末期の開示の為のに残し、説の広宣流布を後末期に託したのである。

    仏(法則)を人に示す行為が菩薩の定義で、仏説の流布を託された宿王華は、後末期の科学レベルで従地湧出品以降を語るはずである。

    言い換えれば「従地湧出品以降」を後末期の科学レベルで証明する事が、宿王華の仕事だから、宿王華という人が出てきて語らずとも、科学が証明すれば、それは宿王華現象なのである。

    先日ユーミンの歌を紹介した。

    「木漏れ日や、雨上がりの湿度に漂うくちなしの花の香り、そのやさしさに包まれたとふと感じたなら、その時目に映る全てのものはメッセージ」という歌だ。

    今朝のハッブル宇宙望遠鏡科学院主催のプレゼンは Our Colorful Universe: Translating Cosmic Light 「宇宙の光を人の言葉に翻訳する」というプレゼンテイションだった。 

    相変わらず年配者が半数以上の席を占めていたが、プレゼンのまとめに「Color is Information 」のフレーズがあった。
    それも「目に映る全てのものはメッセージ」と同じ事だ。

    五感に受ける「全てがメッセージ」とは、まさに「常住此説法」の感受である。

    有形無形に関わらず自然メッセージを Translating 出来るようになる事は、仏教の目標とする境地、阿耨多羅三藐三菩提を得ると言う事だ。

    自分が読んだ多くの経に釈迦が教えている境地で、それが仏教の目的であると自分は心得る。

    宗教に汚染されていなかったユーミンだから、二十歳にしてその境地に触れて、それを歌に書けたのだが、残念ながら感受性には個体差がある。

    これまで十以上のブログに書いたが、釈迦が説いた「法」とは 自然法則で=仏である。
    法は「空」だから固定の相はない。

    そこから多様な「色」、相(像形)を成し、最後にまた「空」に戻る過程が十如是で、
    竺法護はそこを「自然法則を知る」と訳した。

    自然法則である仏が「常住此説法」と言うのだから、生命体は常に自然法則の波に包まれている事になる。 その点は宇宙中の生命体にも当てはまるだろう。

    空気振動である音声や光波、匂いや味覚、熱や痛み、揺らぎ、など、生命体のセンサーは常に自然法則の信号である波を受けている、

    生物種類ごとに感受領域は異なる。 
    まるで領域の異なりが異種生物を生んだかのようだ。 

    そのため同種の感覚に共通性はあるが、そこにある個体差が、地球全体の種を護る為の自然法則の計らいであろう。

    何かに気付くという事は、感覚が受けて発する信号を脳に伝え、その認知が構成する現象で、脳内で創造される認識結果だが、その記憶の蓄積、学習が「識」となる。

    大般若経は繰り返しそれを説明している。

    法は形あるものではく「空」である。 目に見えた物は「色」で、実態ではなく、見たという脳内認知の結果で、それは記憶されるが、記憶も実体のない「空」である。 

    釈迦は像形についてどの様に教えたか。

    大般若波羅蜜多經  品 二 善現(須菩提の別訳)に対し 

    「諸の惡魔が 佛の像形を作すこと有り、その身は常に純金色である。
    菩薩が之を見て深く愛著を生み ・・(この間の意訳:像形に愛着した菩薩は如説どおりにせずに、懸命に悟りを得ようとし、演説するだろうが:)
    當に知れ、是は菩薩が魔事をなすことだ」と、

    更に「諸惡魔は化して 菩薩摩訶薩像を作す事もある。・・・」と、

    釈迦は 復次善現、復次善現と、何回も繰り返し、その最後で「當知是爲菩薩魔事」と教えている。

    一部分は意訳したが、菩薩いえど像形に愛着すれば菩薩行も魔事」であると、釈迦は大般若経で何度も繰り返し須菩提に説いていて、他の弟子たちもそれを聞いたのである。

    「所以者何。(そのわけは)善現よ、甚だ深い般若波羅蜜多(宇宙の創生の法則を知る事)の中に於いては「色無所有」(色を有する所は無い)と。 
    更にまた
    「何を以っての故か。一切の法の自性は 空を以ての故なり」と説いている。

    魔訶般若波羅蜜多は「」だと説く科学(=仏法)だから、我々が認知しようがしまいが、宇宙の法則である。

    一方で「色」は、脳内が認知する現象であり、その認識結果は個体差がある感受性に因り、千差万別となり得る。

    人は感受性になるべく左右されない「得 阿耨多羅三藐三菩提」が、仏教の目的だが、宗教としての仏教にたくさんの宗派が出来たのは、それぞれの派祖の脳内認知の出来加減に因る物だ。

    「色即是空 空即是色」と、言葉だけは知られたが、それを使う宗派が仏像類を用いるのは、基の経に「菩薩いえど像形に愛着すは 魔事 である」と繰り返し教えている事を知らないのだ。

    形像物を崇拝する宗教は、仏法でも仏教でもない。 

    長年にわたり法華経以前に長期間説き続けた自然法の真髄、大般若経を学んだのは主な弟子たちを始めとする羅漢クラス以上の弟子達である。

    佛像形を作すは諸惡魔がなす事、像形に傾倒する事は 菩薩と雖も魔事となる事従地湧出品説法時の弟子達既に知っている

    「六万恒河沙の菩薩」を聞いた須菩提や舎利弗等の上部の弟子達の脳裏に、当時は存在しなかった金色の仏や、人の型菩薩の像形がよぎる事などなかった。
    そう思わなければ、それこそ長年般若波羅蜜多を教え続けた釈迦にも、それを学んだ彼らにも失礼だろう。

    歴史の事実として、釈迦滅後暫くの間仏像彫刻がされなかったのは、作像は魔事である事が伝わっていたからである。

    霊鷲山に集まった聴衆は、その夜初めて夜空を眺めた筈ではない。 

    しかし、輝く点にしか見えない、見た目をはるかに超える形状や、詳しい構成での Galaxy の説明を聞くのは初めての事だから、大般若経を学んだレベルの弟子達であっても、宇宙の姿は彼等のイメージの域を遥かに超えている。

    だから釈迦は彼らに「不須汝等護持此経」と言い、彼らには理解して弘める責任を負わせなかったのだ。

    しかし、支那語の法華経とは言え、それを託された宿王華は、後末期のレベルで従地湧出品以降を語るはずだ。
    「後末世時」の我々も、天台レベルの法華経解釈で良いはずがない。
    日蓮の法華宗が失敗した原因は、天台レベルに固執したことにあるのだ。

    「不須汝等護持此経」と言われた大般若経を知る彼らなら想い浮かべない筈の、金色の仏菩薩だが、 仏菩薩像に慣れ親しんだ後末世時の我々は、三十三間堂の千体仏のような金色の像形を想い浮かべてしまう。

    だが、単に致し方無いでは済ませてはならない。 それが浮かべるのは「當知是爲 菩薩魔事」だから、自分も支那の汚染仏教に影響されていると知るチャンスなのだ。 

    大般若経600巻を解析した後、自分は金色菩薩の文字から人型像形を、努めてイメージしいようになった。

    像形への愛着心は 般若波羅蜜多の真髄「色即是空 空即是色」の理解を阻害する魔事と、肝に銘じたからである。

    曼荼羅や本尊の図示も然り、今の自分には魔事の産物に過ぎない。

    さりとて美術品として仏像類を見る事には殆ど抵抗感がない。
    ただ永遠の未熟者らしく、好き嫌いに左右されている。

    何だってこんなに汚い面構えにせにゃアカンのかとか、仏を護る神や天王なのに世間にはばかる形相に造られて気の毒に、と思う像が多い。
    イケメン羅漢像なんぞ、貴方、見たことありますか?、

    像形に愛着が深い支那仏教だからか、イケメンでなければ菩薩以上にはなれない。
    その基点から、汚染された支那から来た日本仏教など、苦学する前に「鏡と相談」を、たまに冗談で進言している(W)。

    像形への愛着が魔事なら、宿王華菩薩の像形にこだわる必要はなくなる。

    後末期の科学レベルで従地湧出品の宇宙の姿の正しさが証明されれば、それが宿王華の仕事だから、科学の証明は宿王華現象なのである。

    続く

    0

    コメントを追加

  5. 2019/6/28~29 (公開)

    宿王華はどの様に出現したか

    1 Galaxy 


    先ず最初に、仏法に於ける「菩薩」の定義は「自然法を示し説くもの」で、その形にはとらわれない。 仏を理解する上でとても大事な定義で、続きを読めばそれが解る筈だ。



    大地が激しく揺れて、六万恒河沙ものおびただしい数の眷属たちをともなった金色に輝く諸菩薩とが、地中からこの世に湧き出し、釈迦に挨拶し、釈迦がそれを聴衆に紹介する。

    従地湧出品の翻訳での彼らは、まるで初めて、突然この世に出現したかのようだ。

    その一方で、彼らはずっと以前から虚空に住していて、釈迦滅後もその虚空に於いて法を説き続ける存在だと言とも言う。

    以前から虚空にいれば聴衆は初めて見たのではない筈だが、それははっきりしない。 
    これが星々の出現なら、東方だけは地平線から舞い立つように見えても、上空に、北に南に、西にも、星々はいつの間にか瞬きだす。

    オリジナルの法華経にはの菩薩出現の様子を、地平線から湧き上がるだけでなく、「上下・四方からこの世界に忍ぶように至る」と、ちゃんと説いている。

    正法華経はその情景を端折る事なく、「從地踊出 或從上下 或四方來 至忍世界 悉住空中」と訳している。 住むとはそこに住み留まっている事をさす。

    その出現が「忍ぶようにこの世界に至る」のなら、出現の毎に地面を震わせるような大騒ぎはしない。 

    ある程度の年配なら子どもの頃「一番星み~つけた!」と歌った事はあるだろう。
    一番星は大地を揺るがして出て来た事はない。

    だからこそ「一番星み~つけた」が歌になる。

    「是諸菩薩 身皆金色」と、以前から虚空に住み留まっている是の諸菩薩等の身は、皆金色に輝いている。 菩薩たちは星々の事であると。

    それらが仏滅後も、虚空に於いて法を説き続けるとある。
    正法華経には妙法華経にない「後末世時」の表現もある。

    是諸菩薩とは先に示した菩薩の定義、「法を説く存在」の意味で記されたのである。

    法華経に限らず、経文はこのような良く判別しなければならない描写だらけだから、前後の文章の流れを注意深く読めば、全体からその釈迦が言わんとした情景を考える事が出来る。

    菩薩たちが湧き出した此の娑婆世界之下は、上空ばかりか大地の下も、その虚空に接している事が、「先盡在此 娑婆世界之下 此界虚空中住」と、明確に書き示されている。

    この事から、インドの大地が虚空の上にある状況がこの時説かれた事は確かである。

    これを今風に言えば、地球が宙に浮いている存在の説明がされたのである。
    つまり銀河系の最初の説明は、釈迦の説法、従地湧出品だったという事になる。

    人類最初の宇宙の創生の神話は、「光あれ!」の旧約聖書かも知れないが、仏教では華厳の大放光に始まり、科学的説明の詳細な記録が大般若経600巻である。 

    仏教経典にはビッグバンやダークマターや、無数の銀河系の発生が梵天の宮殿として書かれたりと久遠の期間の創生の様子がある。

    梵天はインドの神話の宇宙の創造神だが、仏教では銀河・恒星の創造神だから、梵天は一人ではない。
    化城喩品の後半は沢山の梵天の、沢山の宮殿が輝きだす話だが、その空中に輝きだす多くの宮殿は、ギャラクシー(銀河)・恒星の誕生と捉えるとよいだろう。
    正法華経の往古品の表現なら、端折られた化城喩品の翻訳よりも、ずっとギャラクシーを想像し易い。

    たった六日で創ったとか、女性はアダムのスペアリブと言う話とは、まるで質が違う。

    釈迦は最晩年の説法で、地球が虚空にある事、銀河の形状の詳細を語ったが、それは後末期の開示の為のに残したのだ。その開示で説の正しさが証明されれば、その行為は定義により菩薩である。 


    経文には釈迦がこれを説いたその時「娑婆世界 三千大千国土 地皆震裂」とある。
    その揺れの中、「無量千万億 菩薩摩訶薩 同時踊出」したと。

    この「震烈」の記載は、地下も虚空に接しているという状況をイメージできなかったレベルの、科学知識時代の人々によって、まるで菩薩たちが爆発的に地中から湧き出したかの如きイメージに書き残された。

    伝承者の想いか、「従地湧出、踊出」の表現は、弥勒菩薩の質問中の表現としても、また品の題名にも使われた「従地」は繰り返し脚色された。

    弥勒ともあろう者が、「從地踊出」だけ聞いて、「或從上下 或四方來 至忍世界 悉住空中」との釈迦の説法を聞き逃す筈はないからだ。
    それともそう思うのは私だけか。

    妙法華経だけでなく、このような日常生活からはかけ離れてイメージしがたい翻訳経文の描写が、永い間、真っ当な理解を阻害し続けている。

    例えば多くの経に六種震動または六反震動の言葉で振動、地震が出てくる。
    地震が多く出て来るのは、インド大陸がヒマラヤ山脈を押上たプレート活動が、三千年前にはまだ活発だったからに過ぎない。

    プレート活動は釈迦時代の誰もが知らない自然現象だから、経文は古代インドに伝わる神話に影響されていると、想定しておこう。

    六種或いは六反振動とは、単に上下、前後、左右への六の方向への揺れをさす。
    要はあらゆる方向に揺れる事で、宮城沖の地震で自分も散々それを体験した。

    法華経の説法期間は8年間だといわれるが、正法華経には振動が8回出てくる。
    後年翻訳された妙法華経での振動の回数は14回と、倍近く増えている。

    法華経の説法時に「地、皆震裂」したとあるが、星々(菩薩)が地を割って出現したのが原因とは記されてない。
    単なる偶然の出来事も、伝承過程で宗教神話風に脚色されるのだ。

    住地湧出品に地震の記載があるが、その前後には菩薩たちが上下四方から忍んでこの世界に至る、ずっと虚空に居続ける、と真の出現の様子が語られているではないか。

    毎夕星が出るたびに地震は起きない。そんな事は言わずもがなである。

    いい加減な読み方をして、正確な情景が想い浮かぶ経文は殆どないのだ。


    妙・正、両法華経共に複数の銀河系の規模が、眷属の数の大小の表現で書かれている。
    曰く、三十分(の一)、五十分(の一)江河沙、或は百分江河沙。
    或いは五百分、或いは千分江河沙、或いは、或いは 或いは復・・・と、正法華経は妙法華経より沢さんの種類を端折らずに翻訳している。

    それらは仏の宝塔周りに「右繞」しているとも。
    「右繞」とは右回りに纏わりつく表現で、銀河のスパイラル形状そのものではないか。




    だから金色に輝く菩薩達とは星々で、様々な眷属とその種類とは遠い銀河系の説明ではないかと、今風の教育を受けた我々は直感出来るし、しなければならないのである。


    正法華経では妙法華の神力品に相当する如來神足行品にも
    「珠璣明月寶珠 自然來入於忍世界  尋時合會爲寶華蓋 在於虚空悉覆諸佛及菩薩上 」
    との表現がある。

     璣 :  ( ジュガイ:宝石真珠、真球とは限らない形状)明月寶珠

    自然來入 於忍世界 :(自然に來入したものが、この世界に忍んでいる。)

    尋時合會爲寶華蓋 :(遠い昔に集まって宝の華蓋をなしている)

    在於虚空 悉覆諸佛及菩薩上:(それが虚空に於いて諸の佛や菩薩の上をことごとく覆っている)

    上記の正法華経は竺法護の訳だが、羅什に字数で43%も端折られた妙法華経しか読まない者には、尚のこと、釈迦説法の内容が想像し難いのは当然のことだろう。

    続く

    宿王華菩薩はどの様に出現したのか、或いはするのか、それを考えるシリーズです。
    少し長くなりそうですが、必要なものは出来るだけ丁寧に書くつもりです。
    0

    コメントを追加

  6. 2019/6/27(変換ミス訂正、再編)2019/5/24(追記改編)2019/4/27(年号訂正改編)2019/4/8(追記)、2019/3/30(追記再編)2019春分、(公開)


    未顕真実撤回への道


    一代の聖教 いづれも いづれも をろか(愚か)なる事は候はず、
     我等が親父大聖 教主釈尊の金言なり 皆 真実なり 皆 実語なり」
    (中略)
    法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候」 (妙法尼御前ご返事)

    上記が「未顕真実」の撤回表明でなくて何なのか。

    法華経の大海に入りぬとは、日常の信仰に於いて具体的にはどういう行為を言うのか。
    それを知り尽くしたうえで、実は
    一代聖教は いづれもいづれも教主釈尊の金言、皆 真実、皆 実語」
    との立場を隠して、あえて他人には「未顯眞實」と強弁する。その資格が自分はある

    そのように貴方は自らの信心、自覚が充分出来ているのか?。
    これが安国論をため口でからかった談林化主としての意、読者への問だった。


    前回追記紹介した開目抄は佐渡へ着いて直ぐにまとめたものだ。そこに

    *文永九年二月  開目抄   

    一字一句 皆 真言なり 一文一偈 妄語にあらず、(中略)
    初成道の始より泥洹の夕べに至るまで 説くところの所説 皆 真実なり」と、
    釈迦の経々が最初から最後までの皆真実だったと書いた。

    これは事実上「未顕真実」の最初の撤回で、だから開目抄と題したのだ。

    佐渡着後直ぐに書き始めた事から、安国論に使用した諸経と「未顕真実」及び法華経の「皆実不虚」との矛盾に対して、自らそこに考え付いたか、または他人に指摘されたかと自分は思っていた。

    だが当時の日蓮聖人の心情は、「爾前経文も皆真実」と言いつつも「大覺世尊は四十餘年の年限を指て其内の恒河の諸經を未顯眞實」と書いて、「未顕真実」を完全には放棄出来ずにいる。

    開目抄は結論も明快でなく、他人に宛てた書簡に見られる締め方、日付、宛先がない。
    弟子達向けと言われても、送るには最低一人の宛名は必要だ。


    安国論使用の爾前経の指摘、他国侵逼の難が符合する事件が起きた。(文永の役)

    その事実から、日蓮自身に「一字一句 皆 真言、一文一偈 妄語にあらず」との考えに至らせ、目が開いたと書かせたのだが、佐渡からでは対外的に周知する手段は限られていて、積極的に周知しようと努力した形跡は見られない。

    佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩(わずらい)あり」と、当時の紙不足を書いた書簡もある。(佐渡御書/文永九年三月二十日)

    従って対外的に「未顯眞實撤回」を明確にした書簡は、手持ち資料では前回冒頭の「妙法尼への返書」が最初で唯一の外部にあての書簡だ。

    だがそれは個人宛の手紙で、他人にも見せてほしい旨は書かれていない。 
    「未顯眞實撤回」を世間に周知したとは到底言えないのだ。


    安国論提出以降の 日蓮上人の思考の変化を時系列で辿ってみてみよう。

    *先ず、立正安国論の提出  文応元年(1260年)

    安国論は39歳の著作で、その内容は、先にため口調で書いたブログ「日蓮宗系は自己矛盾が大好き!」のとおりで、「未顕真実」、つまり真実ではないから捨てろと主張する爾前の経々である薬師経、大集経 、金光明経、 仁王経に書かれた災難の指摘であって、法華経に帰せばその災難は起こらないという理論である。

    *翌 弘長元年(1261年)五月十二日伊豆流罪 翌年 2月22日、赦免される。

    *7年後(47歳時点)文永五年正月に 蒙古国から実際に牒状が届いた。

    それは安国論が警告した災難が実際に日本にも起きる前兆か、もしそうならば論拠になった薬師経、大集経 、金光明経、 仁王経の内容が現実となるのだ。

    だとすると爾前の経文には眞實はないとする「未顕真実」との天台解釈は、可笑しくないのか? そう普通は気付くし、「未顯」論者も複雑な気分になろう。

    *同年八月 日蓮は宿屋入道光則に対して 

    「以前、他国から此の国を破らる可き由の勘文を撰し、正元二年七月十六日に貴殿を通して故最明寺入道殿へ進覧した。
    其の後九年を経た今年、大蒙古国より牒状が来たと風聞するが、
    「経文の如くんば、彼の国より此の国を責めん事必定なり」「委細の旨は見参を遂げて申す可く候」(趣意)のような書簡を送った。

    だが、この会って話をしたい旨の書状は暫く無視された。

    *同年十月  日蓮は 北条時宗へ
    「謹んで言上せしめ候、抑も正月十八日西戎大蒙古国の牒状到来すと、(中略)立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ」 と書く。

    この時点では自論の矛盾に気付いていないどころか、意気揚々である。

    また、宿屋左衛門光則へは 「定めて御評議有る可く候か、偏に貴殿を仰ぎ奉る 早く日蓮が本望を遂げしめ給え」、「希くば御帰依の寺僧を停止せられ宜しく法華経に帰せしむべし」と、安国論の通り法華経に帰依せよと迫っている。

    それも「若し然らずんば後悔何ぞ追わん」といささか脅迫的でもあった。
    「各々御評議有つて速かに御報に預るべく候」と、早く結論を出せと迫っていた。

    同時に「此の趣を以て十一所に申せしめ候なり」と同趣旨の書簡を発信。
    「平左衛門尉頼綱への状」にその十一箇所書が記されている。
    曰く、「所謂鎌倉殿、宿屋入道殿、建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺、多宝寺、浄光明寺、弥源太殿、並びに此の状 合せ十一箇所なり、」

    その内の極楽寺長老良観への手紙に「日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り」と言っている。

    *対して翌文永六年五月(48歳時)、幕府との面談が実現した。
    安国論提出後十年目に漸く「今日召し合せ御問注の由承り候」とある。(問注得意抄)

    以降は特段の処置のないまま、14ケ月の膠着状態が続いた。

    文永7(1271)年9月17日 高麗使が蒙古国書を持って対馬に再来。(関東評定伝)

    文永8年(1271)1月11日 「蒙古船が対馬に到る」と鎌倉大日記にある。

    薬師経の他国侵逼の難、金光明経の他方の怨賊国内を侵掠す、仁王経の七難の四方の賊来つて国を侵す・・との 安国論の指摘が、11年後に起きて安国論の指摘は現実となり、爾前経文の正しさが証明されたのである。


    文永8年9月11日(50歳時)平左衛門尉頼綱は日蓮を呼び付け話をした。

    翌々日の平左衛門尉頼綱に宛てた書に「一昨日見参に罷入候の条悦び入り候」とある」。
    そこに
    「就中日蓮生を此の土に得て 豈吾が国を思わざらんや」、
    「世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず、
    君の為 仏の為 神の為 一切衆生の為に言上せしむる所なり」
    とあるから、
    平左衛門尉から「安国論の予言の的中」を言い張って熱くなっている事に対し、かなり厳しい突っ込みが入れられたようで
    「普段から他人に捨てろと迫っている爾前の経文の指摘が当たった」事を、日蓮は指摘されたのではなかろうかと、書簡からそう思われる。

    *同時期(文永8年)の「行敏訴状御会通」に
    「法然上人の孫弟子 念阿弥陀仏 道阿弥陀仏等の諸聖人等 日蓮を訴訟する状に云く」に対し、「未顕真実」、また「天台云く則ち為如来綺語の語云云、四十余年の経々を妄語と称すること 又日蓮が私の言に非ず」等の複数回の言い訳がましい文々を羅列した。

    それは、爾前経を妄語とする論とは矛盾するとの指摘を予想していたとも観える。
    「未顕真実」の矛盾を日蓮自身も、そう感じていた様子が伺えるのだ。

    そして断首が決められた事実は、日蓮恐るるに足らずと思われていた事を示している。

    刑場である龍ノ口まで一時間程の道中に、偶然にも火球が現れたようだ。
    「さては十二日の夜武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに・・・」と始まった斬首刑場への道のりも火球の出現で一時中断した。
    これについては最後にコラムを書く。

    翌日「午の時計りに、えち(現・厚木市依知)と申すところへゆきつきたりしかば 本間六郎左衛門がいへ(家)に入りぬ」と、翌日の昼時に現・厚木市の依知に到着した。

    こうして斬首刑は撤回されひと月近く本間宅に預けられた間に、佐渡流罪が決まったのである。

    *「十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ」と種々御振舞書にある。

    依智を立つ前日、初めてかと思われる、本尊(らしきもの)を書いた。
    文永八年十月九日の日付が見える
    題目と、愛染と不動の梵字(ぼんじ)だけだが、「愛染」と「不動」図は建長に生身を見たとして書いた図が残っているから、「愛染と不動」に対する並々ならぬ思いは、題目と同等か近い思いがあるようで、最初から題目とのセットが本尊の定番であった。

    依智で書いた写真の本尊に対する当然の謝礼金は佐渡における生活の糧となっただろう。日蓮は佐渡道中に開目し、その後は本格的に本尊(曼荼羅図)を考え続け、文永十年(1273)に観心本尊抄を現した。

    その後も曼荼羅のデザインに試行錯誤を重ねていた。
    そのデザインの変化を見れば、曼荼羅に登場する諸仏菩薩や神々の変化には佐渡での考え方が移り変わりしてゆく経過が実によく現われている。

    「種々御振舞御書」に佐渡に於ける他宗派との論争があったとあるが、その中で気づかされたり、確信を得たりした事はあっただろう。

    開目抄で「五十年が間一代の聖教は、一字一句皆真言、初成道の始より泥涅槃の夕にいたるまで説くところの所説皆真実」と、目から鱗を落したはづも

    「仏の自説なれども正説にはあらず」とか、別円とか蔵通二教とか、誰か他人の屁理屈を用いたり、
    「無量義経をとかせ給いしに四十余年の経経をあげて 枝葉をば其の中におさめて 四十余年未顕真実と打消し給うは此なり」と、
    開目抄は智顗の造語に過ぎない「未顕真実」の呪縛からは脱しきれず、ズバッと結論を書くいつもの日蓮らしさに欠ける感がある。

    日蓮が佐渡塚原に留まりながら門下一同に周知する事で、未顕真実の矛盾を知った者の中には混乱をきたす弟子も出ようか、等の迷いからそのまま筆を置いた、開目抄はそんな終わり方である。

    *同年末6回目の蒙古使節が牒状を持って来た。

    *文永十年、(1273) 四月二十五日 、如来滅後五五百歳始観心本尊抄を書き終え、
    翌日に「少少之を注して 大田殿教信御房等に奉る」と、富木常忍に送った。

    *翌年、文永十一年(1274)二月、赦免されて鎌倉に帰り、
    四月、平左衛門尉頼綱と合い、蒙古国は何時来るかと問われ、年内と答えた。

    その時「助からんと思いし問うならば日本国の念仏者と禅と律僧等が頚を切つて由比の浜に掛くべし」と幕府を責め立てたかのように高橋六郎兵衛入道殿御返事にある。
    しかしそれは咎められず、日蓮の法華宗は初めて一宗派として認可された。

    認可された日蓮は鎌倉に寺を開かず、身延山の庵に籠って二度と世間には戻らなかった。

    文永十一年(1274)「文永の役」
    その後十月に蒙古来襲。日蓮の答えた通り実際の襲撃、元寇が起きた。

    対馬住民の被害は悲惨だった。
    博多の街を焼いたが、矢が尽きた元軍は一日で引いてしまった。

    結果的に鎌倉武士団は特に法華経に帰依せずに侵略軍を追い返したのだ。
    その結果から必ずしも法華経の守護ではないとの認識は起きたであろうし、必然的に日蓮恐るるに足らずと思われても不思議ではない。 

    十一月、万年救護本尊 そのデザインはまだ署名と花押は左右に離れている。

    建治元年(1275 54歳) 蒙古より七回目の使節が来日。杜世忠以下5名が竜口に於いて斬首された。

    *建治元年 撰時抄を書く 
    法華經ノ結縁ナキ者ノタメニハ未顯眞實ナレドモ」法華經の結縁の自分には大集經も真実だと、撰時抄にも「未顕真実」の撤回を語っている。

    佐渡以降、「未顕真実」の言葉はわずかに書簡に登場するも、他宗否定には使わなくなっている。

    *同年十一月二十三日 観心本尊得意抄 富木常忍に送る。

    そこに 「一北方の能化 難じて云く、
    爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら 安国論には爾前の経を引き文証とする事 自語相違と不審の事 前前申せし如し」云々と、自ら北方の能化から指摘されたことを明かしている。

    私が思った通り前々から突っ込みを入れられていたのであった。

    それで佐渡まで考えに考えた上の開目(抄)だった筈が、翌年 肝心要の「本尊抄」に、天台の捃拾説を強調するために、
    「後五百歳中 広宣流布」の、薬王品での宿王華菩薩への指令は
    多宝塔の帰った後」と、直ぐにばれる最低水準の嘘書残してしまった

    仏説分別経の警告、支那に於ける汚染仏教の症状は、かくも強烈なのである。

    本尊抄を送られた富木常忍からの問いだったからか、漸く正直に「一北方の能化」から難じられていた事を明かした得意抄だが、その最後は
    種種の道を示すと雖も仏乗の為なり 委細申し度く候と雖も心地違例して候程に省略せしめ候」と終えている。 
    要は言い訳し雖かったのであるが 「委細申し度く候と雖も心地違例して候程に」とは、何とも正直な心情の露呈である

    「未顯眞實」は「未だ真実を顕さず」ではなく無量義経本来の(未曾の顕実)に沿って、「未顕の真実」と読むべきであった。

    「唯一乗の法のみ有て、二も無く亦三も無し」と、法華経に於ける未顕の顕実とは「唯一仏乗」の事だったと、漸く、気付いたようだ。

    同年(1275)十二月の強仁状御返事では
    「予 正嘉文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を聞き見」、「大蔵経に引き向えて之を見」と、当時は何の迷いもなく爾前の経々に答えを求めた事を、念仏僧にも素直に明かしている。

    爾前の経々に答えを求める事に最初から何の迷いもなかった事は、正元二年(1260)の「災難対治抄」にも見えている。

    *建治二年(1276)55歳、 報恩抄 

    報恩抄にも「未顕真実」の言葉が一度使われているが、従前の他宗派否定の使い方ではなくなっている。 そして

    弘安元年(1278) 妙法尼御前 との七月三日及び十四日のやり取りである。

    「一代の聖教 いづれも いづれも をろかなる事は候はず
      我等が親父大聖 教主釈尊の金言なり
    (中略)
     法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力にせめられて実語となり候」と書き送っている。(十四日)

    法華経の大海に入りぬれば」とは、日常の仏道を行ずるに於いて具体的に何を指すのか言明していない。

    また 「一代妄語の経経」との言い方に未だ智顗の「未顕真実」の呪縛との葛藤が現れており、未練を残している感がある。 素直にはなれない症状か。

    上記の文書を読んでいる筈の日蓮宗系が、未だに「未顕真実」に拘るのはこのせいだ。

    仏説分別経の「支那魔道の仏教汚染」、その後遺症状はかくも強烈なのである。

    自らの誤りを指摘されても無視し、それを隠し、正そうとしない支那系の日本仏教界は釈尊に迷惑である。 他人に正義を語る資格などない。 


    コラム

    「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて、辰巳(南東)のかた(方向)より戌亥(北西)のかた(方向)へひかりわたる」
    「十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが 物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり」(種々御振舞御書)

    火球と言っても、平成25年(2013)の、ロシア・チェリャビンスク州の隕石程の規模ではなかったにしろ、大音響はなくても鎌倉中が一瞬明るくなった程のもではあっただろう。

    多くの人々が火球に気づき慌て恐れたので、実際に首切り中止に繋がる使いが出されたのだ。 そしてそれが間に合ったから斬首は中止されたのである。

    自分は龍口から2分のところに十年暮らしたから、毎日の生活圏だった。

    首の座と言われる場所から江の島は、ほぼ真南である。
    島が辰巳(南東)に見えるのは七里ヶ浜の西から腰越の周辺である。

    普通、首の座で複数の馬に乗ったまま見届ける者達はいないし、龍ノ口周辺で「一町計りはせのく」スペースを考慮すれば 火球との遭遇場所は腰越辺りしかない。

    驚いておたおたしていたから鎌倉からの急使が間に合った訳で、首切り現場が火球で目が眩んで処刑中止の判断をしたわけでない事は十分推測できる。

    しかし首の座の伝承はまるで首切り役人がまさに刀を振り上げた瞬間に火球が現れた、かの如く劇的に語られている。 

    まさか本人は書かない「種々御振舞」などとの題名といい、誰が書いたか知らぬ伝記だが、日蓮の誕生時、まだ冬の小湊の海に蓮が咲いただのと、いい加減にしろよと書いておく。


    0

    コメントを追加

  7. 2019/4/27(改編)2019/3/21、11(追記)2019/3/8(改編)2019/2/24(追記) 2019/2/21(公開)

    自分だけ未顕真実を撤回した 日蓮の言い訳


    カルロス・ゴーン被告の元妻、リタ・ゴーンは2018/11/19日、自身のSNSアカウントに次のようなコメントを投稿した。

    「全てのナルシシスト、偽善者たち。彼らは実際には持ち合わせない道徳観と価値観があるふりをしている。
    閉ざしたドアの向こう側で、彼らは嘘をつき、侮辱し、批判し、見下し、暴言を吐いている…
    他人には従うべき数多くの規則を設ける一方で、自分たちは全く規則に従わない。
    そして、人に説き勧めることの一つも、自分では実行しない」


    前回立正安国論をネタに少しからかったが、あれを気づけなかった人は、それが天台病的症状で、信者というより患者であると自覚すべきだ。

    からかい半分に自己矛盾大好き!と書いた矛盾とは、
    一方で「未顕真実」だから捨てろと迫った爾前経だが、反面、安国論の予言的中が爾前経の正しさを証明している」という、その自己矛盾だ。

    その矛盾に気付かされた日蓮は「未顕真実」を撤回し、それまでのこだわりをどのように克服したのか、と言うよりただの「言い訳」を書いている。

    自分はまだまだ天台系には重要な矛盾が沢山ある事を、このブログに多くのヒントを残して来た。答えを寸止めで書かなかったのは読者自身の自覚を促す必要からだ。

    矛盾の最たる物は「未顕真実」だが、その他の一つは 捃拾クンジュウ)説である。

    日蓮の法華宗の目的は「後五百歳中の広宣流布達成」だった。
    だがその語句は薬王品にしかない言葉で、それを宿王華菩薩に命じたのである。

    しかしそれを「皆が帰った後の捃拾(落穂ひろい)に過ぎない」と智顗が書き、日蓮はそれを盲目的に用いた。

    妙法華経では薬王品が説かれる前にある嘱累品で、釈迦は霊鷲山を去る上行菩薩たちに「是諸人等能於我滅後 護持讀誦広説此経」と、(直ちに帰って、我滅後に於いて広説せよ)と言ったが、「後五百歳中広宣流布」とは言っていない。

    薬王品を皆が帰った後の「捃拾」とするなら、「後五百歳中広宣流布」の言葉は上行たちが帰った後の言葉なのだ。

    皆が帰った後の薬王品で、宿王華に対して「後五百歳中広宣流布」と、2000年後の世界での流布を命じたのである。 

    依って上行たちは「後五百歳中広宣流布」の言葉を聴いていないし、命じられてもいない。

    それが捃拾説なのだ。

    だからこそ日蓮は、宿王華ではなく命じられなかった「上行菩薩」と「五後百歳 広宣流布」どうやって結び付けようかと、非常に無理なこじ付けをひねり出そうとしたのである。

    別の例として、不空が法華経の仏は阿弥陀だと言ったと、日蓮は法華初心成仏抄、撰時抄でカンカンだが、それを言ったのは智顗である。

    智顗は観音は妙法蓮華の體(たい)とし・菩薩と現れると「観音」、仏と現れれば「阿弥陀」であると、薬王品以降に語られた観音経が法華経の肝心との説である。(法華法大意事付觀 智儀軌)

    法華経の肝心が、捃拾 でいいんかい。

    と私如きが突っ込めるくらいの矛盾だから、学識のある当時の僧や信者がその点に気づかなかった筈はない。
    天台への忖度か、でなければ皆馬鹿か阿呆だ。

    では予言が的中してしまった安国論の経文は、その全てが「未顕真実」の経文だったと言う矛盾を、その後日蓮はどう言い訳(克服)したのだろうか。

    結論は、妙法尼御前あて返書の次の文章にある。

    一代の聖教 いづれも いづれも をろか(愚か)なる事は候はず、
     我等が親父大聖 教主釈尊の金言なり 皆真実なり 皆実語なり
    (中略)
    法華経の実語なるのみならず、一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候」 である(弘安時代)

    この書の前の妙法尼への弘安元年戊寅七月三日付け返書に
    「先に法華経につけて御不審をたてて 其の趣を御尋ね候事 ありがたき大善根にて候」とあるから、妙法尼の質問には、日蓮の法華経解釈への相当の突っ込み、答えから察するに「「未顕真実」との矛盾への「御不審」であった事が伺える。

    お陰で「一代の聖教 いづれも いづれも をろか(愚か)なる事は候はず、
     我等が親父大聖 教主釈尊の金言なり 皆真実なり 皆実語なり」との正論を、答えざるを得なかったのだ。

    これを「未顕真実」の撤回と言わずに何といわんや、である。

    この書は妙法尼に宛てた弘安元年(三年とも言われる)個人宛返書だから、妙法尼が公開しなければ、その内容を知る者はいないプライベート書簡だし、妙法尼には周知させる義務はない。

    鎌倉時代の通信手段では速くても馬のスピード、しかもコピー手段は手書きのみで、複数相手に伝達するには時間もコストもかかり過ぎる。

    この件は佐渡に着いて直ぐ「開目」して書を書いたが、塚原からでは伝達、周知の手段は限られている。

    文永九年三月二十日の佐渡御書に「佐渡の国は紙候はぬ上」面々で口コミして欲しいと
    あることからも、直前の開目抄は一体どれだけコピー出来たのか、果たして誰かに配れたのか、疑問は尽きないが状況からは周知は絶望的だ。

    この「一代妄語の経々法華経の大海に入れれば、全て実語となる」という重大な解釈を、他の弟子や信徒、安国論に関係した幕府や他宗派の関係者に対して公けに流布した書簡は存在しない。

    日蓮は、自分だけ、妙法尼に対してだけ、未顕真実の実質撤回をしたのか。

    今の時代なら瞬時に地球の裏側にも伝える事がインタネットの電気代だけで可能だが、日蓮時代には論旨の変更を広く周知させる事は到底不可能だ。
    歴史書を読む時にはその時代の背景を決して忘れてはならない。

    それにしても
    「一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候」とは、
    これが「安国論に示した爾前経文が真実になった」事への言い訳として考え着いたにしても、何たる言い訳か。

    「法華経の海に入る」とは、具体的に何をどうする事を言うのか、その段階で「未顕真実」はどういう意味をなすのか。
    大事な説明は何ひとつ尽くされていない。

    公けに周知させた書簡が存在しないから、自分だけ撤回したとあえて書いたが、
    弘安元年元旦の日興執筆の「御義口伝」には勿論書かれていないし、追記もない。
    弟子達にも教えていないのだ。

    今の時代ならネットで妙法尼宛ての書簡が読めるから「未顕真実撤回」は普通に分かる。
    それを知ったまともな感覚を持つ人間なら、折伏と称して「爾前を捨てろ」と単純に言う事はできまい。

    だが支那汚染仏教の患者には「一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候」の文章もその意味も、目から脳に届かない。

    だから、今でも布教活動の現場では、実際に「未顕真実」攻撃は行われており、私にも爾前経を読むなとのメールが来ていた。

    実際には弘安時代までに、日蓮聖人自身が一代の聖教 いづれも いづれも をろか(愚か)なる事は候はず、 我等が親父大聖 教主釈尊の金言なり 皆真実なり 皆実語なり」と、「未顕真実」にピリオドを打っていた。

    しかし、何故か周知を憚ったのだ。
    同様に前言を撤回して周知しなかったと思われる事例は、探せばまだまだ見つかるだろうか。

    ブログ「神力品に附属なし」に、日蓮は建治三年の「法華初心成仏抄」で「不空が寿量品を阿弥陀仏とかける」としていたが、実は天台智顗の説だった事を自分は指摘した。

    3年後、弘安元年九月の「本尊問答抄」では
    「不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て法華経の本尊とせり」との浄顕房日仲の疑問に対し、
    「答えて云く是れ私の義にあらず 上に出だすところの経文並びに天台大師の御釈なり、但し摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは 彼は常坐常行非行非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり・・・」云々、と 
    法華初心成仏抄を忘れたか、当時の誤認識に触れずに訂正を済ましている。

    間違いを正すことは恥ではない。 但しそっと直してそれを周知しない事はいかがなものか。

    何年か前の大動脈解離の時、育てられた環境で得た「墓場へ持って行くべき諸事」を持ち込む寸前に地獄から追い返された。
    ならばと、信長から書き始めたこのブログだったが、方向をほんの少し変えて既存仏教の不都合の触りを書き続けている。

    冒頭のリタ・ゴーンの言葉は、既存の殆どの宗教者に宛てても見事に当てはまる。

    法華経を信じた者には 「一代の聖教 いづれも いづれも 皆真実なり 皆実語なり」のはずだ。 それが解ったら、やがて患者的症状からも脱せるだろう。

    「未顕真実」だなんて、弘安元年戊寅七月以降、法華経の海?を信じる者が口にする言葉ではなくなったのだ。

    0

    コメントを追加

  8. 2019/4/27,改編)、2018/12/20~21(公開、編集)

    原点は 立正安国論  

    39歳時の著作 (ポピュラーな論文だから今回はタメ口で書くよ)

    蒙古来襲の予言が的中しただのと、内部分裂がお家芸の日蓮宗系が、こぞって世間に自慢出来る 唯一の日蓮書簡だよね。 他に自慢できる書簡があるなら教えて。

    安国論はロジックの組み立てに余計な宗学を挟まず、経文だけだから分かり易くて、自分も今でも好きな書簡だから、自分のエクセルはこうして真筆対応にしてるよ。

    旅客の質問に主人が答える構成の論文で、題名と最後の日付を除くと NET7,576字の漢字論文だ(中山法華経寺所蔵)、(下し読みでは23190文字)

    文応元年七月(1260)39歳時点の著作で、同時期の著作には 同年五月の唱法華題目抄や、守護国家論 正元元年(1259)38歳がある。

    で、立正安国論の内容はッツウと、字数で81.6%が主人の答えで、その60%が経文の引用だ。って事は ほぼほぼ半分は経文の写しって事になる。

    経は、大集経 、金光明経、 仁王経、薬師経 、観無量寿経の疏、
    からと、支那古典の引用部を止観から引いている。
    他には 簡単には一切経を読めない時代だから引用出来なかったのか、大般若経、大乗経、三部經など経名だけの使用がある。

    それらを法華経と涅槃経の経にコラボさせて、爾前経やってると難が起きるぞ~、だから法華経だ~との結論に導く構成となっている。

    特に日蓮宗が当たった~と自慢する蒙古来襲予言は、次の経文を論拠として繰り返す。

    云く
    薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以(いわゆる)他国侵逼の難、自界叛逆の難なり、

    大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず 所以兵革の災なり

    金光明経の内の種種の災禍一一起ると雖も 他方の怨賊国内を侵掠する 此の災未だ露れず 此の難未だ来らず

    仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず 所以四方の賊来つて国を侵すの難なり

    今此の文に就いて具さに事の情を案ずるに ・・・ってネ。

    経文に就いて具さに事の情を案ずる前に、夫々の経の続きを読めば、どうやってそれ等の難を乗り越えるか or 乗り越えたのか、釈迦は解決策を説いている。
    人を救うのが説法の目的だから当ったリメ~だわな。

    けんど、皆さん経なんか読みゃしないからネ~。
    暗いところだけ並べられるとエ~って怖くなっちゃうんだよナ。

    ン! ちょっと待って

    ロジックの主要な骨格として引用した 薬師経、大集経 、金光明経、 仁王経 の論拠は
    「未顕真実だから嘘だ~」ってんで、
    他人に捨てろ~といつも強弁している 爾前の経じゃなかったっけ。

    安国論の一年前の「守護国家論」に既に「法華経に来らざる已前は彼の外道の説に同じ」と迄書いてるから、他国侵逼の難も自界叛逆の難も、暗黒論(失礼!ダークマター以降最初に表示されてしまう)、もとい、安国論書いた時は確実に「未顕真実の爾前経」は戯言・「外道の説に同じ」との認識で書いたん、ダヨナ。


    だけど爾前経を真実のように使ってるし、端から捨ててないシ、ンでもって アタッちゃったし。

    おまけに 文永の役の後にもまた蒙古使節が来ちゃったから、佐渡流罪から赦免されて命拾いしたんだヨナ。

    ソレモ 「今此の文に就いて具さに事の情を案じた上で云々カンヌン・・」と、その結果が他国侵逼の難が起きた、って事は、要は爾前経の内容は嘘じゃないっ、正しかったって、具さに案じ考え抜いた自論が証明したんだ。 

    日蓮宗は自分当たった~と、今でもそれを自慢してるじゃんか。

    多宝が帰った後だから捃拾だとした観心本尊抄での嘘、銀色女橋のデマ、法華経を修行した女人は、死後は阿彌陀佛の世界に生まれるって法華経に書いてあるのに念仏無間と言った事。
    そんな直ぐバレの嘘でも、不都合な指摘には一切反応せずに済ませることが出来る、
    その強靭な立正精神!、自分だけが絶対だとの上から目線の自賛毅他。
    たとえ信長にも家康にも自賛毅他を禁じられても、絶対にめげなかった歴史的事実!

    その原点は 立正安国論だったってことか~、流石~。

    で今では、 阿弥陀経や大般若経なんて読んでると日蓮が送った釈迦多宝が待ってる阿鼻地獄に行けるんだぞって、その患者がアッパレ地獄メールで他人を励まし、楽しませてくれていた。

    て訳で、ご自慢の立正安国論は、爾前経の文が正しかったからこそ成り立つ論だ。

    絶対真実の法華経が 爾前の経も「皆実不虚」だって言ってるんだからあったりメーなんだけど、でもソレ言うなって。

    何があろうと天台智顗様の「未顕真実」に従って爾前経は全部捨てろ~‼ 
    だって、さ。 めでたしめでたし

    自己矛盾の話、オシマイ!



    コラム

    真実ではない爾前経?指摘の他国侵逼、具体的には蒙古襲来がもし歴史になかったら、
    赦免もなかっただろうから、三昧堂の場所がどこか特定も出來ないから、日蓮の墓も佐渡塚原の三昧堂周辺のどこかだろう、ということで墓も見つからんかった可能性が大である事。
    そして予言ハズレの安國論なら、自慢どころか日蓮聖人が、他人に捨てろと言った爾前経を自分が使う筈がない、と偽書扱いだったかも知れない。

    爾前経あっての安国論は、爾前経も正しい事を証明した論だ、というのが今回秘めたポイントです。

    自分のブログには、釈迦の経文を自分で読んで、写し解析するかして、確かめた上で、その経に敬意を払って紹介していますが、今の自分は人を騙す宗教が嫌いですから、この檀林は非宗教です。

    バラモンに入門得度した釈迦だったから、伝統的土着信仰の宗教成分を、自ら悟った仏法の自然法則に融合させようとした、主に密教部の経には、変てこな経がずいぶん見分けられます。
    高野山の護摩焚きは、人類最古の火の神信仰の名残りです。

    大昔から永く伝わった土着信仰が基ですから、その多くは日本の自然神道とも共通性が見いだせ、それと解ればそれなりに面白いのですが、ノーマクサンマンダーバダーなんちゃらダーかんちゃらダーと、表音文字だらけには滅入ります。

    禅宗や天台、日蓮宗系等の自己流宗教論疏や解釈本は、真の仏法を外れた、言わば脱法ドラックのレシピ的解説そのものです。
    自己矛盾大好き!患者ではない自分には不要なものと自覚しているので、それは分別仕分けして遠慮なくゴミ箱に放り込みます。

    始めの平成檀林のモットーは歴史的FACTに当てはまるかでしたが、最近は最新科学と相応の経の科学成分のマッチングを見出す方にシフトしています。
    ですから、今回の自己矛盾大好きのような話は、自分には常識以下のブラックジョークの範囲と思って書いています。

    0

    コメントを追加

  9. 2018/12/11(改編)2018/12/06(公開)


    ビッグバン4 ブラックホール 黒穴

    昨日朝ハッブル望遠鏡サイトのライブ配信の、Black Holes and Other Dark Matters (ブラックホールと他ダークマター)というプレゼンを見た。 
    前半30分を見逃したのが残念だったが、重力波とブラックホールとの関係などの仮説が説明されていた。
    驚きはその内容より半分以上の聴衆が日本では情弱世代とネットで揶揄される年代で、プレゼン後30分の質問も、彼らが活発だった事だ。

    場所はジョーンズ・ホプキンズ大学だと思うが、さながら老人ホームの慰問のような景色のなかに繰り広げられる最新宇宙物理や量子学の説明は、羨ましい限りの光景である。 
    次回は1月半ばで、字幕なしの英語だから全部は無理でも大変勉強になる。 

    さて読者も聞いたことはある筈だが、ブラックホールとは、あまりに大質量で高密度、強重力を持つために、物質はもちろんのこと光すら抜け出すことができない天体のことだ。

    詳しくは ウィキペディアでジョン・ホイーラーなども調べれば良い。
    ホイーラーは、第二次大戦中マンハッタン計画に参加し、核分裂メカニズムを研究、其後の水爆計画推進に貢献したというから、仏教的には悪魔的行為の加担してしまったが、量子重力研究の先駆者の一人で、また、ワームホール(1957年)の命名者でもある。



    ブラックホールとは? 



    Download the full high-resolution image of the Black Hole.

    自分のこれまでの知識では、パルサーという輝きの増減を繰り返す星の観測から次第に解ってきた事で、二つの星が回る具合で光の強弱に見えるのだが、やがて重力による引き合いでぶつかって一体化し、収縮崩壊する。

    その論理をホイーラーは「gravitationally completely collapsed object」「重力による引き合い、収縮崩壊した星」と呼んだ。

    星が重力で収縮崩壊することでブラックホールが誕生する。
    そこでは光すら重力に捕らえられるので観測上は黒くしか見えない。
    目視はできないが、可視的にイメージすれば回転する黒い円のように見えるだろうと言われる。

    そのプレゼンを聞いた聴衆のイメージが、ブラックホールで、その呼び名が世界中に広まった。


    要すれば巨大な質量の集中ではその重力のあまりの強さに超新星爆発が起きる。
    更に収縮が続くと「重力崩壊」が起き、重力崩壊で収縮し続ける状態の天体が「ブラックホール」である。

    ブラックホールはX線源や質量集中場所の観測などで特定は可能で、我々の天の川銀河の中心部にブラックホールがあるとも言っていたが、これまでも恒星のブラックホールは天の川銀河だけでも数億存在するといわれている。


    さて経文に極爆、ダークマターがあるなら、ブラックホールもあって当然と、余りも欲張り過ぎかと思いつつも、蔵経に「黒穴」を探したら、それが有ったのだ。

    但し、暗黒物質と同じく、ズバリ「黒穴」との翻訳は、釈迦直説の経文中ではなかった。
    ズバリ「黒穴」の表現は、天台系の仏祖統紀に出て来た言葉だ。

    仏祖統紀は日蓮と同時代に支那天台の  が編纂した54巻もの教学の集大成というべき疏だ。

    その巻第三十が志(歴史)で、経内にある仏やその説の歴史的内容を編集したようだ。
    ざっと見だが勉強熱心な僧侶があの時代の支那に居た事は感心だが、
    その 「增減」の十九条が「重力による引き合い、収縮崩壊した星」とそっくりで面白いので全文を写す。

    經十九增減。
    有情世間次第壞盡。唯器世間空曠而住。乃至三千三界一切有情同業壞盡。
    最後一增減劫方壞器世間。於此漸有七日輪出。有大黑風吹海水為兩披。
    初取一日 置須彌腹日道中行。草木彫落。
    次取二日。河渠皆竭。海水漸涸七百由旬。
    三日出時。恒河俱竭。
    四日出時。阿耨池竭。
    五日出時。四大海水七千由旬一時竭盡。
    六日出時。大地火起靡不燒壞。
    七日出時 須彌山壞眾山洞然。風吹猛焰燒上天宮。乃至梵天無遺灰燼。
    自地火焰燒自宮殿。非他地災能壞他地。由相引起故說燒上。始從地獄至於梵天。
    於一增減劫次第壞盡。乃至三千世界一時俱壞。乃至三千世界一時俱壞。是為火災壞。
    初禪火災過後世界空虛猶如黑穴


    有情世間次第壞盡(宇宙全体壞盡の次第)の話だが、有情世間とはこの宇宙全体で、
    最後の 於一增減劫方壞器世間 は、その一切の物質が最後には一時に壊れる様ととれ その最後が 世界空虛 猶如黑穴(世界は空虚となって尚 黒穴のように) とは 出来過ぎだ。

    また世界が7日で崩れる様は 旧約聖書の7日での世界創造話の逆で、非常に興味が湧く。


    この前節には根拠が倶舎論であることが書かれている。
    經十九增減 にはその出典は書かれていないが  が個人の想像を書き並べたのではない事は確かだろう。
    倶舎論をざっと見たが、世界空虛 猶如黑穴 に通じる似た表現はない。 

    磐はこの經十九、を仏教書から書いたのは間違いないだろうから、どの経書から編纂したのか。
    それを調べるには多少時間もかかるだろうが判り次第続きを書こうかと思う。

    昨日のプレゼンはブラックホール同士の引き合いで合体して新たな大ブラックホールになり、そのときに放出されるエネルギーが重力波だとの仮説だった。
    また新たなダークマターにもなる(戻る)仮説の説明もあった。

    釈迦が科学が発展する後五百歳中に広宣流布して欲しいと、残した教えは六万恒河沙のプラネタリウムから始まった。 

    ダークマターから生まれた物質の集合が星で、その最後の崩壊で虚空に戻る。
    宇宙全体の輪廻を現代科学が言い出した瞬間だ。 

    釈迦の説の科学性は正しいと、証明する時代が来たのだ。


    0

    コメントを追加

  10. 2018/11/25(追記改編)2018/11/18(再編)2018/11/17(公開)

    ダークマター・諸法猶如虚空

    極爆後、直ちに始まった宇宙空間における物質の生成の場を、暗黒物質・ダークマターと言うが、その解説を経中に気づけば(みつければ)、経は釈迦の真意、「自然法則が仏」の聞き書きだと云う事の理解、信頼が格段に上がるだろう。

    それでも大般若経の翻訳は「不不也世尊 ・也世尊(フ・ホッチャ-セソン)」と細分化された説明だから、総合的にはそれがダークマターだと捉え難い。

    大般若の「極爆」以降、それが気にかかっていたが大般若効果でか、自分の読解力も幾分上がったようで今ならそれが解る。

    NASA情報は毎日ざっとメールチェックをするが、特段に興味が湧くトピック以外は追わない自分は、いい加減にして怠け者なんだが、それでもある程度最新宇宙関係の最新の知識はジジーにしてはある方だろう。

    このブログ読者は仏教経典に興味がある方たちだけではない。
    平成檀林が今度は何とんでもない事を言い出すかを監視する人達もいる。

    どんな人でも解るよう、ダークマターに就いて檀林が理解するところを簡略説明したい。

    「ダークマター」は日本語では暗黒物質と呼ばれ、ブラックホールと同様にポピュラーな言葉となって、宇宙科学の世界ではその存在理論はほぼ確定している。

    光学的に観測できる物質の約10倍もの物質が宇宙には存在する筈だ、という力学の話だが、それが光を出さずに質量のみを持つ未知の物質だからダークマター、暗黒物質と名付けられた。

    この宇宙は、ビッグバン、経文では華厳経の大放光、大般若の極爆から140~145億年と言われている。 その極爆直後から創られた物質とエネルギーは、今もものすごいスピードで宇宙の果ての空間を膨張させているとの理論が、観測から導かれ認識されている。

    加速膨張している観測空間には、それには必要な動力となるエネルギーがなければ説明がつかない。そのエネルギーをダークエネルギーと言う。

    その間の観測で宇宙空間に散らばる銀河の輝度の分布と質量の分布が力学的にアンバランスである事も確認され、ダークマター(物質)を約30%、ダークエネルギーを約70%と見ると観測結果と理論とでの整合性が良いらしい。

    何もない只の真空と想われていた空間に、膨張させるエネルギーが存在していて、そのエネルギーは拡がる空間を満たし続けていると、そのように取れるが、そのエネルギー供給源はビッグバン以外にはまだ解明されていない。

    その暗黒空間では、その母なる創造エネルギーに生成された物質同士が合体して、ガス状に集合し、やがては光を放つ星々となる。それらがやがては銀河系となり、宇宙の膨張に伴ってあまりにも遠方に散らばるので、夜空の六万恒河沙の星々の一つに見えるのだ。

    宇宙空間にはダークマターがあり、物質の創造は現在も続いているのである。

    いくつか疑問点は考えられようが、それが我々が所属している、観測からの可思議宇宙の姿であると、今は思し召せ。


    日本は すばる望遠鏡という誇れる観測装置をハワイに設置してあり、数年前にそこで130億光年もの彼方に生成過程にある銀河の姿の観測に成功した。

    その銀河はビッグバンから8億年ほどの誕生と考えられ、つまり年齢138億年程だと言う。今地球から観測出来る姿は、距離的に130億光年前に放たれた光だ。

    宇宙は膨張し続けているから現在の観測位置には居ないし、既に銀河としての寿命を全うして暗黒空間に溶け込んでいるかも知れない。

    色(しき)は空(くう)を離れない の法則を延々語る大般若波羅蜜多経の世界は、まさに創造と涅槃を繰り返す輪廻宇宙の姿である。

    銀河といえども形状は常に変化を繰り返すのである。
    諸行無常 とは、我々の日常生活の様々な変化ばかりか、素粒子から宇宙空間規模の変化をカバーする言葉であった。

    スバルが観測した銀河のベビーと、我々の太陽系(娑婆世界)が属する45億年程とされる天の川銀河との宇宙年齢差は90億年程ある事になる。

    誕生前の90億年の間、我々の素はどこで何をしていたのか。
    誕生までの90億年間居た場所は、極爆によって膨張し動き続けた空間以外にはない。
    この地球の素も別の形でその宇宙の暗黒空間に存在していたのである。

    何をしていたのかは星の素となる素粒子への変化を続け、それぞれが核用で合し合い別の質をもつ形への変化を続けていたのだ。 (十如是
    それ々性質の異なる物質が成す働きが、銀色女経に云う「随所作事業」の本意である。

    その因縁の結できたいがこの娑婆世界とは、個人的には情けなく、申し訳なくもあるがそれはさて置き、

    経文では最初の素となる生成物質が十八種愛と表現され、熾然・熱エネルギーを発することも述べられていた(雑阿含経)。
    後にこれ以上分離不能の個の性質をもつ元素だから「不共」と訳された。

    光讃経はその生成を 十八不共諸仏の法 として説いている。
    実は経文にはその状態を「諸法猶如虚空」と説明されていた。

    光を反射する物質(相の素)になるまで、つまり仏の法則が確定するまで、そこは目に見えない暗黒の空間で、エネルギーの濃薄の程度も、それが起こす変化もカオス状態だから 諸法は猶、虚空の如し なのだ。

    仏の法則が確定する直前、仏未満のファジーな段階を 不不也世尊 ・也世尊(フ・ホッチャ-セソン)」と翻訳された、そうとれば大般若も読みやすい。

    エネルギーと物質の素となる何かで満ちたその「随所作事業」の空間が、極爆から続く膨張宇宙の状態である事は、後五百歳を過ぎて漸く確認されるに至ったのである。

    住地湧出品以降の法華経を、後五百歳を待って広宣流布されるよう託した仏の意図が、現代の科学的観測と理論によって、次々と明かされている事になる。

    ダークマターの暗黒空間は宇宙の製造工場と言え、そこでは物質はまだ製造過程だから 「諸法猶、虚空の如し」なのである。

    「諸法は猶 虚空の如き」状態は、目に見える宇宙の法則の法猊(相)にはなりきっていない、常なる生成過程であり、そのダークマターとエネルギーのワーク・イン・プロセスを言い表すまとめ言葉として、これほど適切な表現はなかろう。


    この「諸法猶如虚空」の言葉とは大般若経読破以前に「十八不共」の光讃經で出会ってはいたが、ユーミンの阿耨多羅三藐三菩提 のために多くの経に目を通していた時に再会した時は大般若に鍛えられた後だからか、よりガツンと来るものがあってビッグバンの続きのための別ファイルを作成しておいた。

    大般若経には、釈迦が自身に対しては使わない「不也世尊 」という言葉が4000回も多用されていて当惑されたが、「不不也世尊」もある事から 何とかしのいで意味を整えた。

    そこへ現れた「諸法猶如虚空」が、経文的には、即ち自然の法則が方程式として完成する迄の過程の、カオス状態を彷彿とさせたのである。

    そうすると「不也世尊 ・不也世尊(ふ・ホッチャ-セソン)」は「世尊ではない、なくもない」のカオス状態を語った釈迦の説明の理解不足が犯した誤記、さらにその誤訳と捉える事ができて、大般若もすんなりと読める。今回はより良い答に行き着けそうだ。

    華厳経は初転法時の聴衆のためか、大放光の仏も擬人化されすぎて、眉間にサーチライト(画像としては第三の目)を持つ人かの如き、極めて解りづらい経となっている。

    釈迦時代の基礎知識を前提だからか、釈迦の直接の言葉より普賢の解説のほうが多い事は、そのほうが聴衆には受け入れ易かったからそうしたのだ。
    それでも終段には宇宙科学の分野が語られている。

    その後は釈迦自身がジャブ(雑阿含)を放ちながら、説法できる環境を醸成していった。

    そして大般若で「極爆」とそれ以降の空間における物質生成の説明を、五感にからめて説いたのだ。何度も々々繰り返しながら徐々に深まる説明は、初期400巻、後期200巻に及び、数十年が必要だったから生涯の殆どをかけた教えなのだ。 

    方等、大集部、バラモンのリメイクの密教部の諸教は、大般若経と並行してそれぞれの機会に説かれた経々である。 だからそこにも宇宙科学は展開されている。

    経文には、ズバリ「暗黒」という言葉自体は非常に少なく、わずか2経しかない。
    だが、その一つ 大集大虚空藏菩薩所問經 は本当に宇宙生成過程として非常に面白い。

    大集大虚空藏菩薩所問經  の一部を紹介するが、陂池 大海 叢林 草木 宮殿 等の表現は、後に釈迦が「賢明な菩薩なら解るように語った」と言神力品に言った譬喩方便として読むべし。

    時此三千大千世界一切色像。蘇迷盧山輪圍山。大輪圍山贍部洲等。
    聚落城邑江河泉流。陂池大海叢林草木。一切地居所有宮殿。悉皆隱蔽而不復現
    欲色空居乃至有頂。諸天宮殿及諸有情。形色之類亦悉不現猶如劫燒火災之後大地
    焚爇唯有虚空

    虚空蔵する用体 はまさにダークマターだ。

    仏となる前の段階が菩薩という定義だから、光を放つ物質、つまり仏が出来る直前の状態は菩薩状態である。そう捉えると 虚空蔵菩薩の名それ自体も、諸法は猶虚空の如きの状態ダークマターを意味すると捉えられる。

    ダークマター経文として最もお勧めは

    大寶積經 (菩提流志の翻訳)卷第六の  第二無邊莊嚴會出離陀羅尼品第二における
    無邊莊嚴菩薩に対する 大正蔵経第11巻35ページ下段の説明

    此是菩薩之所入門。一切諸法本性自性。 猶如虚空。から
    無邊光明法門。普遍照耀無量無邊。猶如虚空。彼之光明普遍照耀亦不可見。
    までだ。

    ほぼ完全にダークマターで面白い。 

    「諸法は猶 虚空の如き」の言葉は極爆と同様、多くの経にはない。
    この言葉を使用した13の経には、何となくそれっぽく想像させる経名もあって楽しめそうだ。

    全ての経文は釈迦時代の基礎知識向けに語られ、基礎知識未満の手で書かれ、それ未満の手で漢字訳された。
    この前提を忘れて経を読んでは何の事やら解らない、それでは釈迦時代の普通レベル未満だ。

    だから釈迦は後五百歳を過ぎてから法華経の住地湧出品以降を読ませたかった。
    それは今日の基礎知識を見越した内容だからだ。

    そのような経文でも宇宙科学に興味があってダークマターやダークエネルギーの存在を知る人が読めば、六万恒河沙の諸菩薩と眷属の経文にも銀河系のイメージが湧くだろう。

    経文を読み解くには今日の科学基礎知識が必要と言うことだが、支那のクソボウズが未顕真実 法華始顕真実 と言って、大般若など法華経以外を全て捨てさせようと画策し、ついでに法華経内容の真髄である、ビッグバン以来の「常住此説法」は「皆実不虚」を否定した。

    その天台宗のHPを見れば、日々の勤行次第に般若心経を唱えさせるが法華経は全く無い。天台座主の色袈裟といい日常の勤行といい、支那魔導の釈迦仏教をオチョクる本質を恥じることなく堂々と呈している。

    流石、支那の仏教もどきである。

    このブログ読者は 色衣、色袈裟をつけた破戒宗教者が言った事などは無視して、
    自然科学・宇宙科学が導く自然法則に興味を持とう。 

    五感、実際は人間のジャイロバランスである三半規管が感ずる揺れ、磁気、方向性を含めた六感だが、その全てが受ける自然からのメッセージを、ユーミンに負けず、常に感じ取れるよう努力すること、それが得・阿耨多羅三藐三菩提 に繋がるのだから。 

    師匠の命日に際して

    0

    コメントを追加

  11. 2018/10/12(数字の訂正、再編)2018/10/11(公開)

    ユーミンの 阿耨多羅三藐三菩提


    阿耨多羅三藐三菩提(アヌッタラサンミャクサンボダイ)
    経文に一番多く出て来る「波羅密多」程ではないが、次に多く出てくる言葉の一つである。(波羅密多の意味はブログ、ビッグバンを参照)

     "阿耨多羅三藐三菩提" を阿含から律部までの範囲の経の経に限って検索すると、 9418回の使用例が出て来る。 (2015年版) 
    2018年版での検索では計1342巻に単語出現数 9403件と出て来る。

    1342巻の内訳は 阿含部 (23)  本縁部 (93)  般若部 (155)  法華部・華嚴部 (169)  寶積部・涅槃部 (276)  大集部 (127)  經集部 (284)  密教部 (165)  律部 (50)だが今回は2015年版と2018年版との差の分析はここではしない。

    大正蔵経には鳩摩羅什 の翻訳経典が27経ある。
    うち23経に1832回も”阿耨多羅三藐三菩提”を使用し、陀羅尼品を訳せなかった羅什は、般若部でもダントツの音訳者である。

    大般若経600巻にさえ211回しか使われない阿耨多羅三藐三菩提だが、羅什は
    摩訶般若波羅蜜經(1047)と小品般若波羅蜜經(336)の2つの般若経に1383回も音訳し、法華経にも88回出て来る。(添品は89)

    一方竺法護の正法華経には "阿耨多羅三藐三菩提" の音訳が一つもない。

    法華経の壽量品における"得阿耨多羅三藐三菩提" を、 竺法護訳の正法華経は ”得無上正眞道成最正覺”と、漢人が解るように翻訳している。
    これはサンスクリットの経の意味をきちんと理解しているからで、何度も書いたが竺法護翻訳が理解し易いのは、鳩摩羅什よりも仏教を理解して適切な翻訳をしたからである。

    蔵経には竺法護翻訳が91経もあるが、"阿耨多羅三藐三菩提" の音訳は、佛説須眞天子經と無極寶三昧經に各1度,光讃經に2度と、3経に計4回しか使っていない。
    逆に羅什は’最正覚を2経にけしか使っていないが、妙法華経に2,他 佛説須摩提菩薩經は、最終部に多少付け足し部分を加えただけで、ほぼ竺法護翻訳のコピーである。

    羅什が阿耨多羅三藐三菩提を音訳のままにしている事は、意味が深過ぎて漢語にし難かった?というよりも、陀羅尼の例のごとく、経の真意を理解する能が不足し、そのまま音訳したほうが何となく宗教っぽく、有難そうにもみえる。

    多くの経典を読み比べた自分には、羅什訳には、経典の理解ナンゾは読み手に丸投げすれば良いという姿勢が、感じられてならない。 
    嘘だと云うならせめて正法華経だけでも比較すれば、その翻訳力の勝劣が判る筈だ。
    阿耨多羅三藐三菩提には 発阿耨多羅三藐三菩提心(初発心、発菩提心)から 至る、成る、得る、阿耨多羅三藐三菩提まで、段階があってる。

    辞典が阿耨多羅三藐三菩提を 最高の悟りと一括するのは少し乱暴だ。
    初発心時点で阿耨多羅三藐三菩提が何だか解っているなら、誰も修行は必要ない。

    正覚系の翻訳には、内容の重みによって最正覚(651)  眞等正覺(1046)  などがある。
    最正覚(651) と 眞等正覺(1046)は合計 1697件あるが、
    正覺系全体 では計1678巻に 7596件である。

    それに音訳のままの阿耨多羅三藐三菩提 9403件を足すと、9403+7596=16999回も、経文は悟りに関する直接的な言葉を薬害万7千回も語っているのだ。

    どの経にどれだけあるか翻訳者ごとの解析は終わっているが、阿耨多羅三藐三菩提とはどういう心境かが解らずに、只経を読んでの推理では誤解を生み、無駄に時間を費やすことになる。

    ところが言い得て妙な日本語の歌があるのだ。

    それが表題のユーミンの阿耨多羅三藐三菩提である。
    ユーミンとはかつて 卒業写真 や 中央フリーウェイ の歌で有名になり、現在も一線で活躍している大歌手・作曲家だ。

    そのユーミンの 「やさしさに包まれたなら」 という歌である。
    以下にその歌詞を紹介する。

    やさしさに包まれたなら
    作詞作曲: 荒井由実

    小さい頃は神さまがいて
    不思議に夢をかなえてくれた
    やさしい気持で目覚めた朝は
    おとなになっても 奇蹟はおこるよ

    カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
    やさしさに包まれたなら きっと
    目にうつる全てのことは メッセージ

    小さい頃は神さまがいて
    毎日愛を届けてくれた
    心の奥にしまい忘れた
    大切な箱 ひらくときは今

    雨上がりの庭で くちなしの香りの
    やさしさに包まれたなら きっと
    目にうつる全てのことは メッセージ
    ・・・・・・

    この静かな木洩れ陽やくちなしの香りのやさしさに包まれた時に
    目にうつる全てのことは自然からのメッセージと観て、その法則を感じ取ろうとする、それこそが ”発阿耨多羅三藐三菩提心” である。

    5年前の正月の挨拶に自分は自然との会話をしていると書いていたが、
    自然のやさしさに包まれていると感じ取り、目にうつる全てのことから そのメッセージを感じ取れたら、それは 得阿耨多羅三藐三菩提 なのだ。

    経は人がどう生きるかを教えるために、この言葉が約17000回程も語られいるが、
    ユーミンは若干二十歳でこのうたを発表していた。

    人体と自然がいかに結びついているのか、それは、ジル・ボルト・テイラー博士の”奇跡の脳”を読むか、前回もブログに紹介したリンク先のヴィデオをみれば躯体的に納得出来る。

    日本人のユーミンが言う 目に映る全ては自然からのメッセージ だが、日本人には縄文時代からそれを感じ取り、八百万の神々として讃えて来たDNAが流れている。
    釈迦が教えたかった自然の法則を、既に学び取って生活に活かした人種が古代の日本人であった。

    魔導汚染仏教や人的導入でその感覚は大部汚されたが、まだまだ日本人の本質に浄化能力は残っているはずだ。

    釈迦が分別經に説かれた、末法の最悪域、支那(俗に言う特亜)からの悪意に満ちた影響は、昨今世界中で認識され始めたが、惡魔 魔民 諸天龍 夜叉 鳩槃茶 等に、其の便を得させるなと、法華経は宿王華に命じてている。

    どんな事からも、どんなものからも、支那域(俗に言う特亜)からの悪意に満ちた影響は排除されなければならないのである。


  12. 2019/4/23、(追記改編)2018/12/21,2018/12/18(改編),12/13,12/4,2018/11/10,/10/25(追記改変),2018/10/20(改題し追記改編), 2018/10/05、07,14,2018/10/03(追記改編)公開 2018/10/1


    未顕真実 は ブラックジョーク

    未曾未顕の違い 他


    ボケが進む年齢での一人暮らしの身分には、その心得が必要で、住環境、身心共に、とにかく清潔を第一のモットーとしている。

    しかしそれだけでは年齢によるボケは留まらないから、毎日頭を使って物事を考え、指先を動かして何かを創造し続けたい。
    手作業でオリジナルの何かを工夫して作る事は昔から好きなので、昨今はそちらに掛かりきりだ。
    正直、掘れば掘るほどゴミが出て来る五濁悪世の宗教界にはうんざりだからブログもおろそかになる。

    前置きはさて置き、最近複数の方からメールを受けていた。
    そのいくつかには返事をしたが、全ては繰り返し檀林に書いて来た通りだ。
    只、最後は自分の頭で考えて答えを出して欲しかったから、これまではそのヒントに重点に置き、答え寸止を心掛けた。

    そのせいか、返事を書くのも面倒なうんざりメールが来る。そこで共通項のいくつかについて、答えを簡単にまとめて、日蓮聖人自身も撤回した「未顕真実」の 不毛な論争に 終止符を打つ ことにした。 

    未顯眞實の撤回については 安国論シリーズに経緯を書いたのでそちらを読んで欲しい。


    * 未曾(有)顕実と 未顕真実 の違い

    未曾と未曾有は同義の言葉である。自分は日本のネット解説ではなく、中国の「字典」、「雀変じて蛤」とか、「天下布武の誤解」等、支那関係で使用する中国国家プロジェクトの諸子百家電子化計画編纂の「字典」を確認している。

    自分の本箱にはオックスフォ-ド英英辞典が未だに鎮座ましましているが、英語を勉強すると次第に英英辞典を使うようになるのは普通の事と思う。
    経は漢の古語訳で、隋唐以降は漢語を知らぬ、漢を滅ぼした者達の訳や解説だから最低でも中国の「字典」確認は、こういう場に意見を書く者の礼儀だろう。

    未曾だが、今年(2018)は特に大雨や暴風、地震による地滑りなど、立て続けに未曾の災害が起きて、ニュースや天気予報でも度々 未曾(有)という言葉が使われた。

    それは、今回の出来事は以前にはなかった大きな事との意味で、これ以前に大きな災害自体がなかったとか、大小問わず災害そのものの存在を否定するわけではない。
    こんな事は誰もが知る常識だ。

    繰り返すが 未曾(未曾有)は過去における出来事の存在を全否定する言葉ではない。
    未曾は次にくる出来事等の特質を表す修飾の言葉であって、修飾目的の出来事自体が無かったとする言葉としては使わない。
    そういう文法なのだ。

    無量義経の「未曾の顕実」は、今回の「顕実」が嘗てなかったほどの内容である事を意味している。
    用語としては最初の「顕実」から変化の都度使える言葉で、過去に「顕実」があっても使えるのだ。

    諸佛如來言無虚妄 (諸佛如來は虚妄を言った事は無い、方便品)

    壽量品では四十余年どころか「自我得仏来 所経諸劫数、無量百千万 億載阿僧祇」(もの間、ずっと)常に法を説き、無数億の衆生を教化し続けており云々とある。

    仏とは常に此に住して法を説く存在であって、その仏の語は過去からずっと「皆、実不虚真実のみであって、虚はないと、そう説いている。
    そして偈には [仏語実不虚」(仏語は実にして虚にあらず)と、壽量品にも繰り返し説いている

    その釈迦が「未顕真実」、未だに一言も、一度も、真実を顕した事はない(嘘ばっかり言っていた)などと言う筈がないではないか。 
     
    その証拠に蔵経の釈迦の全経文に未顕真実の言葉はない。
    無量義経のオリジナルは 未曾顕実 である。 

    [未曾の顕実]は法華経以前の真実を否定しない。

    しかし智顗は 妙法蓮華經玄義 第5巻の上に「成道已來四十餘年 未顯眞實 法華始顯眞實」と書いたので法華経以前の真実を未顯として否定した。 
    日本ではそう解釈されて来た。

    支那が謀略地域を意味すると経文の辞書に書かれている。(ブログ支那の意味 参照)

    その支那の坊主如きが、事もあろうに釈迦の説法を否定したのだ

    以降天台系は最澄が持ち帰った未曾顕実が未顕真実と書き換えられた「注無量義經」を使用している。

    *「未顕真実」は智顗の造語である。 (根拠はブログ未顕真実に書いた) 

    未顕真実は文法的に「未だ真実が説かれた事がない」との意味だから、最初の顕実までの間は使えるが、それ以降は二度と使えない言葉である。

    二度目以降にも使える「未曾」との違いはそこにある。

    智顗のは「未顕真実」だから、法華経以前は「一つも真実が無い」という意味であることは「法華始顯眞實」(法華経の始めに真実は顕された)と智顗自身がそう書いている。(大正蔵経 第33巻 738ページ中段19行)

    「未顕真実法華経以前には真実がなかった)」とする事は、 過去 無量百千万 億載阿僧祇もの間の仏の説は 実のみであって虚はない とする、法華経の大事な説迄も完全に否定するので、最初から「法華始顯眞實」とは自己矛盾を抱えている。

    「法華経以前の真実の否定」は法華経の否定でもあるのだ。

    未曾顕実と 未顕真実 の違いに就いては、ブログ「未顕真実」に無量義経の内容がどのように書かれているのかを説明してある。 

    長い経文から「四十余年 未顕真実」だけを切り取らず、前後の文章を通して読んで、その意味をちゃんと解すべきだと、これまでのブログで自覚を促せるかと思っていたが、力不足だった。

    あるメールでは未曾は否定語だから「肯定的に捉えるのは間違い」だと言って来た。
    また、「宿王華には薬王品だけしか嘱累していない」とも。

    まさか後五百歳には薬王品しか広ちゃいかんとでも言うのか、
    その程度の漢文の文法知識や読解力での自賛毅他は、お気の毒な症状だ。

    薬王品は始めから法華経がいかに優れた教えかを、繰り返し,繰り返し説いている。
    その上でだから「後五百歳中にそれを広宣流布」して悪用させるなと嘱累し、多宝もそれを礼賛したのだ。

    だが自分は良医ではないから、まともに経を読めていない輩に、日常作業を中断してまで個別に返事を書く気にもならない。

    このブログに沿ってちゃんと読めば、自らの思考で結論を導けるように書いているので、もう一度そちらを参照願う。

    法華経をも否定する「未顕真実」の言葉で、だから法華経だけが正しいと日蓮をして言わしめた智顗は、支那魔道が生んだブラックジョークの天才、宗教詐欺師であった。


    *他

    このブログは一切経を対象に、大華厳から大般若、住地湧出品へ貫かれた釈迦の説法の科学性を書いている。
    それがお気に召さないのか、*大乗と小乗、について私が解っていないとか、*爾前經を知らないとか捨てろとか、まるで日蓮宗みたいな病状を訴えて来る人が今もいる。
    自分も宗学のイロハは一応心得ていつもりで、天台宗学やサンスクリット、そして形だけでも古文書もかじっている。
    一部を檀林3に書いた日蓮聖人の自己矛や明らかな間違いを学生時代に気付いて、気質に合わない詐欺的宗教業界からすっかり足を洗い、卒業時には既に当時走りのメカトロニクスの勉強に移り、外資の技術課に就職し、デジタル系に転職し、最後はITを務めていた。

    誰の言葉かは知らないが「宗教はアヘン」とは、まさにその通りで、体に染み込んだ宗教的汚染完全なる除染には数十年を要した。 経験者にしか本質はわからない言葉だろうと支那汚染の除染体験者としてそう思う。

    おかげで今では釈迦が滅後1000年後には支那の魔に染まって1500年で滅びる、後五百歳には白法も隠没すると言ったその宗教成分を、経の仏法から分別排除出来て、2000年過ぎに広めて欲しかった経の科学性を重点に読み取って、それに相当する現代科学と合せて楽しむ事が出来るようになった。 

    日蓮宗系の人の大概は法華経を信じているとうわ言を言うが、実際には天台智顗や日蓮、またはその他の「解釈」を信じ込んでいるに過ぎない。
    その障害は、釈迦の法華経そのものと、単なる他人のその解釈、いわゆる宗教との分別・整理が着けられない症状に現れている。

    だから半世紀も前に捨てた日蓮宗の独りよがり宗学を、今更メールでご教授されるのは甚だしく迷惑で、残り少なくなった時間を無駄に費やす事になる。

    何も考えずに権威を敬うことは、真理の最大の敵である。

    アインシュタインの言だが、言い得て妙、何事にも当てはまろう。

    今の天台宗は日々の勤行次第から法華経を排除しているが、経に書かれた事より日蓮の「解釈」のほうが正しいとする日蓮宗系の患者には、経(自然法)の心は絶対に読めない。

    「書写し、読誦し、説を解せ。」 釈迦は繰り返し繰り返し述べている。

    法華経を信じるなら、経は唱えるのではなく、その意味を考えながら、自分の目で読み解け! と言っておく。 


    *大乗と小乗  

    法華経には「大中小の三乗は、比喩方便として説かれた」と説明されている。
    三乗は方便であって、実は「唯 一仏乗」だと釈迦は方便品で明かしたのだ。
    実際の経文は「諸佛以方便力 於一佛乘分別説三」「十方佛土中 唯有一乘法」だ。

    これこそが法華経に於ける未曾の顕実で、智顗の言う「法華始顯眞實」である。

    譬喩品は、三乗を大中小の乗り物に例えて、よりわかり易く解説し直したものだ。
    一仏乗とは、大と中・小乗には別け隔てはなく、仏乗は一つ と言うことだ。

    「諸佛出於五濁惡世・・・ 不善根故 諸佛以方便力 於一佛乘分別説三」
    (五濁惡世に出生した諸仏は・・(衆生)の根が不善で、(理解できない)から、
    (本来は)一佛乘に於ける法を、方便力を以って三(乗)に分別して説いた)と、
    その理由まで説かれている。

    同じことが偈に「十方佛土中 唯有一乘法 無二亦無三 除佛方便説」  
    (仏の方便を除けば 十方の佛土中には 唯、一乘法が有って 二も三も無い) 
    とある。

    更に
    「舍利弗 汝等當一心信解受持佛語 諸佛如來 言無虚妄 無有餘乘 唯一佛乘」
    (舎利佛よ、 汝等は當に、一心に、佛語を信じ、解し、受持しなさい。 
    諸佛如來の言に虚妄は無い。(大中小の)餘乘が有るのでは無く、唯、一佛乘なのだよ)と釈迦は教えている。

    このように方便品は 大中小の三乗は方便であって、「佛乘は唯一つ」だと、何度も繰り返し説いている。

    「諸佛如來の言に虚妄は無」く、真実は「唯一佛乘」だとの明確な言は、
    大乗だけが正しいとか、中小乗は捨てろとか、は仏の本心でない事は明白である。 

    以上の事は日蓮宗的本迹病を見越してか 壽量品にも説かれている。

    諸佛出於五濁惡世・云々と、(佛が複数であることに注目)、それら諸仏の出世は「皆衆生を度脱せんが為の、如来の演ぶる所」とネタバラシをしている。

    その「如来の演ぶる所」を
    「或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示した」と、より具体的に説明をしたのである。

    方便品での「諸佛如來 言無虚妄」の言葉は、壽量品では「諸の言説する所は、皆、実にして虚しからず」と, そして偈にも [仏語実不虚」(仏語は実にして虚にあらず)と、
    過去に出世した諸仏の教えは、皆真実で一つであると、壽量品でも「唯一佛乘」を繰り返し説いている。

    その釈迦が、法華経以前の諸仏の説法には真実が一つもなかったなどと言う筈がない。

    法華経を読みながら(未顕真実)に思いし、他経否定の行動をとる事が、いかに異常な事か、良識ある者には到底考えられる事ではないのだ。 

    経文に戻る。
    舎利佛は未曾の顕実である「唯一佛乘」の「除佛方便説」との説明に対し、それならば一度だけでも方便を使わずに説いて欲しいと、「唯願説之 唯願説之」と何度も釈迦に願った。

    そこで釈迦は、「正直捨方便」をして「但説無上道」出来るなら喜ばしいと言って、
    三昧より安詳にして起って一度だけ説いたのが「十如是」部分である。

    竺法護はこの「十如是」部分を
    「所由 諸の自然の法が 何所從り來たかを分別し、法貌衆相の根本である自然の法を知らし終えた」と、正法華経に翻訳している。

    このとき釈迦は「但説無上道」として 仏法とは自然の法則 だと、自然の成り立ちを説いたのである。

    自然法則だからこそ唯一仏乗なのである。

    智顗ですら「但説無上道。同乘一寶乘 倶直至道場。故三義皆不廢」と言っている。
    一実乗に同乗するので 倶(とも)に直に道場に至れる。故に大中小乗の三義も皆廃さない)
    この文章に皆さん好きな無量義云・・・四十四年未顕真実が続く。(妙法蓮華經玄義)

    宇宙自然法則に、勝劣や本迹などあろう筈がない 
    それが根本的道理というものだ

    これが自分が経中に読む 多くの経文に言葉を尽くして説かれている一貫した科学性 である。

    原典の科学性をよく解せなかった鳩摩羅什は、「如是」(~のような)と曖昧にしか訳せなかった。

    その妙法華経を操った天台系は、華厳や大般若の科学性を理解出来ず、妙法華経以外を爾前として捨て去って読むことさえ拒絶する。

    誰かが「ロミオとジュリエット」が最高だと言ったからと、他の一切の作品を読まずに、シェークスピアを語れるものだろうか。

    十如是部分を自然法だと明確に訳された正法華経すら読めない天台や日蓮宗系は、本末究境等のを、ひとしいとは決して読めないから、下し読みでも’究境’トウ’である。
    釈迦が教えたかった 仏法は自然法則、という十如是の真の科学性がまるで理解出来ていない読み方である。 

    経文に説かれている一貫した科学性が解せないからこそ、後五百歳の科学知識の発展を見込んでの釈迦の嘱累を「捃拾」と揶揄して軽視し法華経以前の経々を全て捨てろ! と暴論を垂れ流す のだ。

    無量百千万 億載阿僧祇もの間の種々の説法は、皆真実で嘘はない と言う 法華経の言葉の意味を未顕」の文字が全否定する。

    法華経の内容も否定する「未顕真実」を主張しつつ、だから法華経だけが正しいとする分裂症の症状は、分別經に説かれた支那魔道汚染の患者である事を示すものだ。


    無量百千万億載阿僧祇の過去世の説法も皆真実という法華経だが、それを真実ではないとする「未顕真実」は、甚だしい間違いを通り越し、悪意に満ちた解釈 だ。
    それは支那汚染仏教による先入観なく経文を読める人には、当たり前に解るのだ。

    「正直捨方便」を「爾前経を捨てろ」と解釈した佐渡以前の日蓮の説は、魔道汚染の一支那坊主に過ぎない智顗の造語「未顕真実」に惑わされたものだった。

    法華経以前には「真実が説かれていな」ければ、方便品の「諸佛如來言無虚妄」や壽量品の 無量百千万 億載阿僧祇劫もの間の「諸所言説 皆実不虚」は釈迦の嘘となる。

    「未顕真実」は法華経の否定ばかりか、仏説全体の否定なのである。
    聖書を否定してはキリスト教たり得ないように、彼らは真の仏教ではないのだ。

    こんなに簡単な「未顕真実」の矛盾点にさえ気づけない、それこそが分別經に説かれた「支那における魔導」の毒に汚染された根深い症状であり、その怖さなのだ。

    ここにその甚だしい例を揚げる。

    日蓮は自らの宗旨の肝心中の最肝心である筈の「如来滅後五五百歳始 観心本尊抄」に、
    「十方より来る諸の分身の仏各本土に還り給う。乃至 多宝仏の塔還って 故の如くし給う可し、等云云。」とか、
    「薬王品已下 乃至 涅槃経等は 地涌の菩薩去り了つて 迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う捃拾遺嘱是なり」と、

    宿王華菩薩への付属に就いて多宝が讃ずる薬王品のエンディングを、多宝仏の塔還って後の事だと書いた。

    薬王品を読めば誰もが明快にわかる嘘を、平然と書いたのである。

    その上で  如説修行抄、撰時抄、上行菩薩結要付属口伝に「末法始めの五百年中」との期限を自ら課して、それがもし守られなかった時は、「釈迦多宝は地獄に落ちる報恩抄)」と書いた。

    その結果は、始めの五百年中どころか千年近く過ぎても未だに達成していない。
    だから 日蓮は「釈迦・多宝を地獄に送ってしまった人」となったままにされている。 

    そんな天台智顗や日蓮の法華経解釈でも、信ずるのは今の世間法では自由か知らぬが、
    釈迦が「唯一仏乗」だと言っている事を無視して 大乗だの小乗だのと、どんぐりの背比べじゃあるまいし、自分におかしなメールをする前に、
    銀色女経のデマや、釈迦多宝を地獄に落とした事についてちゃんと調整した解説を世間に発表すべきだろう。

    今後はそれを条件に、メールに返事を書くこととするので、無視されたと怒るなかれ。 


    何も考えずに支那坊主の智顗を権威と敬った事が、仏教真理の最大の敵であった。

    宿王華ならそう云うだろうと自分は確信する。

    未顕真実に完全にピリオドを打つため、立正安国論と未顯眞實撤回の経緯について別項 「日蓮宗系は自己矛盾大好き!、安国論シリーズ」 に書いた。


    さて、残り少ない余生を送る貧乏老人としては趣味が多すぎるのは大変なのだが、今後もやり残したミニチュア楽器や電子工作、音楽に没頭するつもりだ。 
    だから、ブログには僅かな時間しか充てられないので適当にお付き合い願います。 

    0

    コメントを追加

  13. 2018/8/11(公開)

    盆休みはボンさんの休日でした。

    盆休み初日の今日の高速道路は、混雑のピークを迎えているらしい。

    盆休みは修行僧たちの休み日から来たらしい。
    それは仏説盂蘭盆(うらぼん)経に七月十五日が僧の自恣(じし)時とあり、後半には自恣日とあるから確実だ。
    佛告目蓮。十方衆僧於七月十五日僧自恣時

    自恣の恣は今の日本では 好き勝手にする事 と言っているが、支那古典では甘やかすの意味である。
    普段厳しく如説修行をしなければならなかった昔の僧にも、自分に甘くして良い、安息日があったらしい。

    その日に多くの僧をもてなすことで、餓鬼界に生まれて苦しんでいる目連の母だけでなく、七代遡った先祖も救えると、釈迦が目連に言ったと盂蘭盆経には書かれている。

    自然法則を説く、主たる経の目的からは、どうにも怪しい、坊主には都合の良い内容だが、竺法護の翻訳なら翻訳には間違いないだろう。

    他ブログに書いたが 釈迦の周りに数万人数億人もの主催者発表の聴衆が集まったかのように書かれた、結集後のサンスクリット原典には、いい加減な修飾が余りにも多くあリ過ぎで、内容の信頼性を損ねている、という問題がある。

    その連中が作った教団なら提婆達多品のような、都合の良い捏造経文もありという事
    だ。

    商業化した江戸では7月半ばの本来の僧の休日も休息日を返上して盂蘭盆会を催し、収入源とした。
    明治の新暦採用で7月十五日が秋の彼岸と5週間以上離れたので、墓参りや供養の機会をどちらか一日には纏め難い。 両日とも供養を勧めれば寺の収入には有難いことだ。

    GET A CHANCE! という事で、江戸改名東京でのお盆は、経文通り「7月十五日」に執着し、今でも東京ではカレンダー通り行う。

    だが地方での庶民の盆休みは慣習通り、8月半ばのままである。旧暦を使うというより 稲作農家のおおい日本では、収穫前の一時休暇が取れる夏祭りシーズンなのだ。
    自然法則は変えられないという事だ。

    自分は東京生まれだが、大事な人格形成期を富士山麓の田舎で純粋培養されて育ったので、未だに7月盆には馴染めないでいる。

    皆さん、良いお休みを!
    0

    コメントを追加

  14.  2018/11/4,2018/8/2(追記改編)2018/7/31(追記改編)2018/7/27(公開)

    七徳の武は嘘 

    「天下布武の誤解」を書いのは6年前で、このブログで最もアクセスが多い項目の一つだ。

    そこに
    {「信長と十字架」の著者、立花京子氏は語源に注目し,数人の学者に依頼して深く調べてもらった。しかし史学者が「武を布く」などという日本語的発想から探したから、「七徳の武」という言葉に行き着いた。
    立花氏は矛盾を感じながらも、どうにかそれを「布武」の意味として、いささかいびつな納得をしている。}と書き、

    天下布武は礼記の「堂上接武 堂下布武」を天下布武にもじったもので、その意味を書いた。

    そして 布武を「武を敷く」と誤読するのは,講釈師的解釈に影響され過ぎた信長のイメージによるものかも知れず、布武には歩き以外の意味はない と、学術的証拠を添えて解説した。

    しかし悲しいかな、「七徳の武」などという支那でも通じない話が、日本では今でも実しやかに語られている事を知った。

    そこで学術的に論拠を基に「七徳の武」の誤りを説明し、馬鹿げたこだわりを捨てて欲しいと再び願う次第である。

    まず「七徳の武」の誤解の元となったのは、「信長と十字架」の著者立花京子氏から尋ねられた、講釈師的解釈の先入観が頭から離れ無い学者らだ。
    彼らが何かを調べ、「武にも七徳がある」という答えをしたからである。

    これについて立花氏は古典に詳しい津田勇氏が春秋左氏伝の話だ教えたと、信長と十字架 p38「春秋左氏伝」の「七徳の武」に詳しく書いているが、自分は津田氏個人の名は略して、立花氏はいびつな納得を自分に強いている、と書いておいた。

    詳しく書かなくとも、そのブログ「天下布武の誤解」を読めば誰でも判るだろうと考えていたからだった。

    しかしこのブログは積極的には一般に拡げてはいないので、長く蔓延した誤解はそう簡単には溶けない。
    それは分かっていても、このブログ読者の知識を後押しするためには何故「七徳の武」がダメかの論拠を示す必要があろう。

    自分は、中国が国家を上げて諸子百家すべてをデータベース化した「中國哲學書電子化計劃」というものを論拠の出典としている。
    中国語の癖を理解すれば、その検索機能は便利である。
    一部英語化がされているし中国の字典もあるので、わからない言葉や意味、発音はそこで確認している。

    津田氏が教えたという「春秋左氏伝の魯宣公」は、孔子関係には名があるだけで内容はない。
    「七徳の武」という言葉は孔子関係だけでなく、支那の諸氏百家やその他古典には出てこない。それはデータ検索ですぐわかる事で、今回も再確認した。

    そうした調査をした上で、布武には歩み以外の意味はないと、立花氏の調査を真っ向から否定しないように、6年前に紹介したのだった。

    織田信長に対して「天下布武」を進言したのは臨済宗坊主の沢彦 宗恩(たくげん そうおん)ととの話である。(信長と十字架 p100)

    その沢彦 が根拠としたという《春秋左傳》には、左傳、春秋傳, 《左》などと呼び方はいろいろ在る事を知ることは、データ検索に必要な知識となる。

    原典《春秋左傳》(左伝)は、春秋戦国時代( 期限前468年-300年)に存在した《左氏》の記録で、自分はその内容を全部読んだわけではないが、ほぼ毎年どの時期に何があったかの大雑把な記録である。

    ならば沢彦は《春秋左傳》の何を見て「七徳」としたのか、それは細かく原典《春秋左傳》を当たるしかない。

    史書《春秋左傳は《左氏》 隱公から哀公までの12代、255年間の記録で、その7代に《宣公》18年間の記録がある。

    その《宣公十二年》、4000字程の記録の80%を超えた辺りに、

    「其六曰 綏萬邦,屢豐年,夫武,禁暴,戢兵,保大,定功,安民,和眾,豐財,者也」と在り、「故使子孫無忘其章」と続いている。

    (其の六に、萬の邦が落ち着き、度々豐年が続き、男は丈夫で、暴力を禁じ、兵を遠ざけ、大いなることを保ち、功を定め、民を安心させ、民を和(なごま)せ、経済的に豊かである事、と曰れている。だから、子孫が其の章を忘れないように、その文を使うのだ。)と

    「使」という字には日本語にない 理由 cause,や 命ずる, order の意味もある。

    このあとにをやってもうまく行っていない、無德而強爭諸侯(得がないから諸侯が強く争うのだ)などと63文字の辛辣な文が続いたあと、最後に 

    「何以豐財,武有七德,我無一焉」(どうすれば豐財出来るのか,武に德が7つ有ろうと,我は無一の焉(状態)だ。) とある。

    全体としての文章は、争いでは人としての德、民からの人望は得られない、という気持ちを表している。 (筆者訳、礼記の英訳を参考に訳してみた)

    立花氏は 露宣公ではなく周の武王の言葉と聞いて、そう書いている (p38~39)

    オリジナルに「七徳の武」という言葉は存在しないが、沢彦はここから 禁暴 以下,戢兵,保大,定功,安民,和眾,豐財の7つを七徳としたのだ。
    屢豐年は無視して、天下(萬邦)布武(夫武)」&七徳」と考えたらしいことも、判らない事もない。
    それは似た言葉として「武有七德」の言葉がそこにあるからだろうが、誤読誤解である。

    この「武有七德」の徳は 禁暴,戢兵,保大,定功,安民,和眾,豐財の7つだとして、そして「天下布武」の言い出しっぺは沢彦だという。(信長と十字架p100)

    「夫武」「布武」は元は、歩く、踊るなど、体を動かす行為を意味するフブという言葉の音写であって、ブは舞踊のブとして残っている。
    武器の意味は後年、漢を滅ぼした部族に武力の武の意味する同音の言葉があって、それが加わったのである。

    しかし前回書いたが、信長時代は礼記の「堂上接武 堂下布武」はまだ一般常識だった。

    そんな時代に《左傳》の《宣公》を知る程の沢彦だったら、礼記の「布武」と宣公の「夫武」との意味の違いを、まさか知らないとは自分には考えようがなかった。

    もし知っていて、武力夫武)の意で天下布武」を信長に進言したなら、不遜も甚だしい。

    また日本の歴史家は、春秋左氏伝の注釈書を 孔子があらわした と伝えたと「信長と十字架」p38にそう書いてある。

    孔子 : 紀元前552年9月28日生まれ‐紀元前479年3月9日卒。
    春秋左傳:紀元前468年-紀元前300年に編纂されたもの。

    これが史実だから春秋左傳の編纂時期は、その殆どが孔子の死後の事で、孔子とかぶるのは63歳以後の10年しかない。

    最も古い春秋左傳注疏の成書年代は「周」の末期で、作者は丘明とされている。明の名を連ねらた、成書年代が「宋代」とする「左傳」もあるので、時期が??ではある。

    孔子の春秋左傳の編纂や解説の存在は絶望的だ。
    だから沢彦が春秋左伝後半の宣公から「七徳の武」を出して信長に勧めたとする話は、自分は嘘だと思っていた。


    後漢が滅び,2世紀前後、東漢晚期の漢人は十分の一の500万人に激減し域外に雲散した
    当時の識字率を思えば、極小となった漢字を使える者も、敗戦で域外に散ったのだ。

    黄巾の乱、戦国時代を経て、遊牧部族の鮮卑族が支配した北魏以降の支那域には、漢字は一般に普及していない。 清の時代までは公用文字の一つに過ぎなかったのだ。
    支那の歴史では、漢字途切れ途切れしつつ、辛うじて伝わったに過ぎない。

    日本では歴史家と称する先生方の言を鵜呑みにせず、自分自身で調べる覚悟が必要なのだ。

    字典では (fu)は一般的な男性、夫(おっと)の意味で、現在と変わらない。
    (wǔ)には 軍事、武力、戰備、戰略 また 勇猛,威武/ 士 だけでなく 
      足跡。 / 繼承。 など、数通りの意味に使わることが分かる。 

    古代は 六尺為步半步為武。(六尺を歩)(半歩を武とする)とある。
    また「舞」:舞蹈。の意味もあり、周代には貴族頌揚周武王的樂舞 / 金屬打擊樂器も
    武(wǔ 日本語では BU)の意味だった。 

    東夷、北狄、西戎、南蠻に支配された後、彼らの言葉、武力の武の意味が加わり主な意味となったのである。

    北魏以前の支那で、(fuwǔ)と言う音の言葉には、歩く意味の「布武」他に「夫武」という用語が、実際使われたのか、当時までに編纂された書物を対象に調べてみる。

    漢以前の書に「夫武」と言う言葉は殆ど無いが
    《禮記》[戰國 (前475年 - 前221年) 編纂 又名:《小戴禮記》]の《樂記》に 次のような解説がある。

    孔子が「楽」に関して述べた記《樂記》に、

    [孔子與之言及樂,曰:「夫《武》之備戒之已久,何也?」對曰:「病不得眾也」]

    (夫武の備えの戒めが遠い昔からあるが、どういうことですか)、との問に対し、
    「眾(民衆)が病を得ないようにするため也 と答えた」とある。

    これが孔子時代迄の「夫武」の意味で、昔からの意味はそうであったと判る
    《史記 [西漢] 前109年-前91年 司馬遷著)·樂書》にも同文がある。

    孔子の解釈、病不得眾」を基に《春秋左傳》の文章を見ると、
    夫武(健康を保つこと)は 綏萬邦,(萬邦を落ち着かせる)、屢豐年(頻繁な豊年)に続くいくつかの要件の羅列の一つで、更に禁暴,戢兵などの要件が続いている。

    綏萬邦を天下静謐と同意と考えれば、武力の武と考える頭には(戦備え)もありだろうが、病不得眾」に続く 禁暴,戢兵(暴力を禁じ、兵を遠ざける=戦をしない)を考えれば、夫武戦備えというより、孔子の答のように「病不得眾也」(民衆を病まなくする、健康を保つため)と捉えるほうが適当と判断すべきだろう。

    結論としては
    1《春秋左傳》の時代には「七徳の武」という言葉はない。
    2《春秋左傳》には「10の天下静謐の要件」が書かれている。

    沢彦の七徳はその10の要件の内の7つという事だ。

    10の要件から綏萬邦の萬邦)を天下」、夫武」はフブと読めるので布武」、
    屢豐年は無視して、&七徳」と考えたらしいとするなら、その大元は誰か。

    後漢以降も《禮記》は漢字を知らない民族を東夷北狄、西戎、南蠻 と、卑下していた。《曲禮下》 

    字圏外から侵略して漢字文化を破壊した その野蛮人の子孫達にすれば、漢字は外国文字で、その意味も使い方も知らない。

    漢字をこなせなかったから,漢字の書簡にはその解釈書が必要となった。
    だが漢字を完璧にこなせる者は殆どいなかったから解説書に齟齬があっても、適当な解釈でも、間違いを指摘できる者がいなかった。

    5年前のブログ「支那の意味と日本人が反省すべきこと」に書いたが、

    漢の時代の辞書、一切経音義オリジナルでは、支那(震旦)は謀略国家の意味だった。
    それが唐時代に追記された項目は、「眞丹は唐の事で、神州の総称」と変えられた。

    唐代以降はそういうご都合主義的解説書が創られた時代だと、読者に知らせたつもりだ。

    隋唐以降の解説書を読む事は、仕方なしにゴミ箱あさりをする事に等しく、眞丹が神州などとKUSOに汚れた解説も混じっていると覚悟しなければならない。
    仏教書とて同類で、支那で仏教が魔導に汚染されると、釈迦自身が(仏説分別經)で警告していた。

    北魏以降の支那域は漢代以前とは異文化と言えるほど違うが、支那域は支那域だ。
    大方の日本人は中国4000年の歴史などと聞いて、それは一民族の歴史が続いたものだと勘違いしている。それでは隋唐以降と孔子の時代との違いを明確に区別できない。

    支那の古典を読むなら、その変化は基礎知識だ。

    「七徳」の初めは唐代の《群書治要》(紀元後631年)で、必要に駆られた漢字古典の解説だった。 

    「春秋左氏傳中 宣公」は、その唐代の《群書治要》第五巻の記述で、そこに

    夫武,禁暴,戢兵,保大,定功,安民,和衆,豐財者也。のあとに、此武七德也、との小文字注釈が入れてある。

    つまり「七徳」は 春秋左氏伝が編纂された時代の解釈ではない という事だ。

    《群書治要》の注釈はどう見ても、夫武から豐財までの8要件に対してだが、
    「夫武=七徳」とするのはどうかとしても、紀元後631年の解説だから、もちろん
     孔子の解説ではない

    後漢以降の注釈書は 謀略国家を神州の総称と言い換えた、そういう時代の、そういう人々の解釈よって創られた注釈だと言う事を、歴史を学ぶ者は肝に銘じて置かなければ、東夷、北狄、西戎、南蠻の人々同様、その解釈を誤る事がある、これはその典型だ。

    沢彦が信長に「天下布武」を進言するにあたって、例え「武」を「徳」と考えたにしても、信長が堂々と旗印にしなかったのは何故か?、
    それも考えるようにと、以前書いておいた。

    立花京子氏が見せられた「七徳の武」の解説は唐時代の《群書治要》の注釈で、オリジナルが書かれた時代の意味とも違うのである。

    日本でも歴史家の言を鵜呑みにせず、自分の目で原典を確認する、
    その覚悟が必要とは こう言う事を知る必要なのだ。


    自分は天下布武と信長の行為を、その時代と宗教的バックグラウンドにからめて見出そうとこのブログを始めたが、直ぐに釈迦の経文の科学的内容にはまってしまい、仏教の支那汚染、天台のデタラメさを多く書くことになった。

    その延長で、信長そっちのけで、遂には大般若のビッグバンまで解析してしまった。

    老いてきた脳の体操のためには、せめて平成の間はブログ檀林は続けようと思う次第。

    0

    コメントを追加

  15. 2018/8/16,2018/07/12(追記改編)2018/06/18(公開)  

    ビッグバン 2 放大方光明  陀羅尼は物理式 5

    ビッグバンは経文の直訳だったと書いたがその直前の経文の、

    放大方光明 の言葉はまさにビッグバンの大発光を表している。


    科学を表す適切な言葉がない中、比喩・方便を尽くして語られた宇宙の誕生の過程。
    その記録が釈迦の経だから自然法則の仏と、人仏とを明確に区分けの経文を読むべきと書いたが、猛烈な光明を放つ佛とは釈迦は一体何を伝えようというのか。

    それを現代科学に宛てて読めば、それは爆発の中心核である事が解る筈だ。
    大般若波羅蜜多経を解析からそういうことが次第に分かって来た。

    放大光明 頻出度
    経典 翻訳者 回数
    1 大方廣佛華嚴經          80巻 實叉難陀 116 12.20%
    2 大方廣佛華嚴經           60巻 佛馱跋陀羅 74 7.80%
    3 大方廣佛華嚴經           40巻 般若 45 4.70%
    4 大寶積經                120巻 菩提流志 40 4.20%
    5 大般若波羅蜜多經      600巻   玄奘 33 3.50%
    6 不空羂索神變眞言經     30巻 菩提流志 24 2.50%
    7 大方等大集經               60巻 曇無讖 22 2.30%
    8 大方便佛報恩經              7巻 不明 16 1.70%
    9 佛説羅摩伽經               3巻 聖堅 16 1.70%
    10 佛説觀佛三昧海經        10巻 佛陀跋陀羅 15 1.60%
    TOTAL 918



    上記は全経文で1000回近い放大光明という言葉の頻出回数の90%を上記10経で占めている。

    「放光」全体の25%程が華厳経にあると言う事は、奈良大仏殿内のパネル解説にある通り、初転法輪である華厳経は宇宙の法則を説いているのだ。
    華厳経は難読だが、釈迦の悟りとは宇宙の創造過程にある法則性であった事は、膨大な経文を読まなくても上記の表から想像できよう。

    大般若経ではその後の宇宙生成のイベントの説明に重きが置かれているから、「放光」は僅か33回だが、大般若の長大なその文章は釈迦の解説と、それに対する質疑応答、更に釈迦に代わる善現(須菩提)とのやり取りと、善現から舎利佛への説明が占めている。

    ここで大般若経第一会400巻の分析を終えての意見だが、我々素人はよほど暇でもない限り大般若経や他の経文を読む必要はないだろう。

    理由は何度も書いた事だが、第一は釈迦は法華経において「当時の言葉では嘱累しきれなかったと」と認めている。 

    これは当時の聴衆が理解しきれていない事を指し、経文は当初口述記録されたものだが、それはその理解しきれていない者の手による。

    現存の経文は釈迦の滅後に2度3度と結集されたサンスクリット語の原典からの漢訳だから、余計に正確とは言えないだろうからである。

    経文の最初には聞如是とあり、説法の場所と出席者が書かれている。 
    その主催者発表の聴聞者数には呆れるほどのバカな誇張が施された経が多い。

    そのような膨大な数の人間の、消化器系のイン・アウトを、誰がどう処理出来たのか。

    幸い人数は釈迦自身の言葉ではないとしても、これだから宗教は信用できないのだ。

    それら大げさな修飾が経文全体の信用度を貶めている事は、返す返すも口惜しい。

    当時は稀だった文字を書ける者による説法時の記録、それが最も初期の経典だが、記述者が釈迦の教えを完璧に理解し、咀嚼して書き残した物ではない、という事だ。

    後世の結集時に、主催者発表的人数の誇張が施され、更に悪くば科学性の説明に対しては不理解な上に余計な擬人化された記憶による解釈が付加され、ついには呪文化されるような編纂がなされているのだ。

    例えば、√5の説明が「富士山麓オウム鳴く」と文字に書かれていたとしても、現代では中学生程度でもは、それが.2360679....を意味することくらいは分かる。

    話は逸れるが、日本では確かに富士山麓にオウム(真理教)が鳴いた事があった。それは毒ガス侵攻の宗教団らしいが、仏の心理とは程遠い。

    しかし2000年前に何を意味するのかがわからなかった翻訳者は陀羅尼とし、呪文化する。
    陀羅尼の呪文とされた言葉からは仏の真理は伝わらない。

    不幸な事に、それ等サンスクリットの原典を漢訳した者も、仏教の完璧な理解者ではないのである。


    大般若経にやたらと出てくる言葉に「不也世尊」がある。 
    ホッチャ-セソンと読み、その意味を平たく言えば「そりゃ~ないでしょお釈迦さん」だ。

    釈迦が自分に言う筈のない言葉、「不也世尊」が釈迦の言葉として4000回も出てきて、自分は当惑された。
    それこそ何度も何度も前後の文言から真意を考察せざるを得なかった漢訳だ。

    結果は その「世尊」を「佛」=>大方光明の中心核と解して乗り切った。
    同時に菩薩摩訶薩と菩薩摩訶薩不」と「不也世尊」のペアについても、
    擬人化された仏菩薩を、大元の意味の宇宙製成果の自然現象と解せば、ようやく前後の文章が、創生される自然の現象を段階的に示すものと理解できるのだ。

    華厳経には宇宙の草創過程が説かれている。 例えば「寶王如來性起品 第三十二之四」。蔵経第9巻 630ページトップb23あたりからをじっくり吟味すると良い。

    同じような表現は多くの経にも見られる。
    佛と菩薩を擬人化せずに、宇宙が生成される自然現象、働き、とその法則と捉えると経文は解けて来る。

    2500年以上前の科学知識の結集者達の脳では、ビッグバンによる宇宙生成過程を想像するには無理があった。
    釈迦の「一大事因縁故出現於世」は少し早過ぎたのである。

    だから六会に及ぶ大般若経の講習を終えた釈迦は、その後8年間の法華経説法の始めに一仏乗を説いて、途中、リクエストに応じて方便を使わずに十如是を説いてみたのだ。

    書き手の理解が曖昧だから「如是」が十回も出て来る。それで「十如是」と言われるのだが、如是とは「~のような」の意味である。
    この点正法華経では自然の法則が説かれたとなる。

    そのような舎利佛の反応を見て、釈迦は比喩方便に戻って中盤過ぎまで法華経を説いたのである。

    中盤で終えたとは、聴衆に対し
    「不須汝等護持此経」(ここからは貴方等は護持する必要はない)と敢えて言っているからだ。
    その上で後五百歳に向けた遺言として従地湧出品以降を説き、前回書いた事を言い残したのである。

    その法華経の最後の品で普賢菩薩摩訶薩が東方から現れる。
    普賢は初転法輪の時に華厳を代弁した華厳の理解者であった。

    釈迦はその滅後に自然法を理解するために、どうすればその普賢と出会うことができるかを説いて生涯五十年の説法人生を終えるのだ。(五時八経説では法華涅槃を一時とする)

    釈迦の説法は普賢に始まり普賢に終る、つまり両端は普賢につなる輪となっている。
    「転法輪」とはこれを言うのだと自分は解している。

    その環は過去の諸仏から「皆衆生を度脱する為に 或いは己身で説き、 或いは他身として説き、 或いは己身を示し 或いは他身を示し、 或いは己事を示し 或いは他事を示」しながら続けられたとし、「諸所における言説は、皆 実にして不虚ではない」と後五百歳に向けた壽量品に説かれている。

    滅後に於いても 「一心に佛(自然法則の知恵)を見んと欲すれば」霊鷲山で説いたそれが見えて解るというのである。 

    この宇宙規模の過去からの転法輪が延々と回り続いて来た教えは「皆実不虚」であったと釈迦自身が言うのだ。

    だから、「未顕真実」の語は仏教者には絶対にあってはならない造語だと自分は書いて来た。
    それこそが釈迦が「分別経」に警告した支那における魔導汚染なのだから。

    転法輪とは、宇宙が続く限り自然の法則(佛)は説かれ続く事を表す言葉だ。
    だが如何せん、釈迦時代迄の、言葉の制限範囲に於ける比喩方便では、伝えきれる内容ではなかった。「猶不能盡以要言之」と、釈迦自身が神力品に打ち明けている。

    依って、後五百歳中(2000年後以降)の科学的進化を迎える時代になったら広宣流布してくれと、宿王華に言い遺したのである。

    その釈迦が「オンプラ ジャージャー プラ ジャージャー」の呪文で全てが解決するなんぞと言うわけがない・・・それが若し究極の物理式だったなら、それを呪文と捉えられる事は有るかも知れない・・と。
    それで「陀羅尼は物理式」の表題で自分は書いてきた。

    五感というセンサーが想像させるこの世界は 色即是空・空即是色 であるという、五蘊皆空経という400字程の小さな経が雑阿含経に入っているが、 大般若波羅蜜多経はそれを何年にも渡って説き続けた課程の詳細な記録であった。

    それも現存の漢字訳経文に書かれた「猶不能盡以要言之」の内容を記録したものだ。

    それを苦労して解読したとして、そこで解る事は、釈迦が釈迦時代の聴衆に対していかに説明を尽くそうとしたかが書かれている、それを知る事になるのだろうか。

    ここの読者なら既に「六万恒河沙の菩薩とその眷属」の表現が銀河の説明であった事は判り、釈迦の説の正しさも理解されているだろう。

    ただ残念なことに当時は誰も三半規管の役割を知らなかった。
    揺らぎ、傾き・上下左右の方向感は 目や耳が効かなくても感ずる、三半規管による独自感覚である。本来は六感+意識で、意識は七番目の統合感だ。

    六番目の感覚器官、三半規管の働きを知らなかった時代だったから、大般若も色即是空を五感+意識で長々と解説している。 

    三半規管の別感覚を加えた大般若が読めなかった事が自分には残念である。

    それらを知った上で、現代の釈迦の弟子がなすべきことは、最新科学を学ぶことであろう。

    それこそが釈迦時代には伝えきれなかった真の佛の知恵(自然法則)を知る事になるから、最新の科学を学び知る事は現代の仏道修行に繋がる事と気付く筈だ。

    大般若の解析から「色即是空」とは 現代科学の言う、超ひも理論から繋がる仮想現実世界、多元宇宙の説明だったと、自分は全くそのように捉えている。

    よってこのブログ、陀羅尼は物理方程式 シリーズ3 に仮想現実世界であることを追記編集し直した次第である。

    現代のレベルで学ぶ科学的内容のほうが、遥かに理解し易く、有益に決まっている。 
    だから自分は今更漢字経文を読み解くことに時間を使うより、若く柔軟な頭のうちに自然を学ぶことで、世のため、次世代のために尽せと言いたい。

    大般若には海中の性別のない生命誕生(化生)を示したかったのではと想える文も少なからずある。
    宇宙ばかりでなく、地球、特に海中、海底はまだまだ解明途上で、そこには学ばなければならない事象がまだまだ沢山有るだろう。

    もし釈迦を尊敬するなら、最新の科学で自然の法則を学び解く事に時間を割いて欲しい。

    華厳や般若を説いた釈迦は3000年前のアインシュタインとシュレジンガーだったのだから。


    0

    コメントを追加

  16. 2018/12/3(改編)2018/07/12(ほぼ解析を終え時点での追記改編)2018/06/05(改編) 2018/05/28(公開) 

    陀羅尼は物理式 4  ビッグバン

    陀羅尼は物理式と自分は書いている。
    とは言え釈迦の時代には自然の摂理を物理だの計算式だのに表す学問はないから、その概念を示す言葉すらなかったのである。

    言葉がない中で、比喩・方便を尽くして語られた記録が釈迦の経である。

    それを前提にすべての経文を読むわけだから、釈迦は一体何を伝えようとしているかを現代科学に宛てて読めば、単なるチチンプイプイの呪文でないと言うことは次第に分かって来る。

    釈迦の経巻には、華厳経や般若経の様に、宇宙の自然法則の科学的な内用を説くものと、当時のバラモンなら誰でも、当然問われたであろう、人の生き方、所謂宗教的概念に宛てて説いたものとがある。それが生活の糧だから仕方がない。 

    それでも断片的に残された雑阿含を読むと、如何に比喩方便に苦心していたか、その苦心の過程がみてとれるようだ。
    現代に経典を学ぶ人はそこを分別して読まなければならない。

    既に雑阿含には愛に例えた「十八不共」や五蘊は皆空だという經さえあるのだ。

    「仏」とは基本的に自然そのもの、全体を言う。その法則だから「仏法」である。
    物質の生成過程で、完成品(仏)に成る直前の段階もまた菩薩と言う。

    同時に人として生まれて、自然法である「仏法」を人の言葉にして教える者を、また仏として、その人を世尊と呼ぶ。 
    その教え(自然現象)と、それを理解し、実践として果報を伝える者を菩薩と言う。

    仏と菩薩には、自然を意味する時と、人として表す時の、二通りの意味で使われている事を知らず、余りにも混同され過ぎているのが日本仏教業界の現状である。

    自然法則の仏と、人仏とが明確に区分けできず、混同してしまうから経文を読み間違える。
    釈迦が最初に語った華厳や長大な大般若は宇宙自然の法則を語ったものだ。

    600巻の大般若経は、いきなりビッグバンから始まる。

    旧約聖書もこの世は「光りあれ!」から始まってはいるが、経の表現は比較しようもなく詳細で豊かである。

    光は当時の聴衆の誰もが理解する言葉だが、ビッグバンはどのように表現されているか期待していたが、大般若はいきなりそれで始まっていた。

    極爆 の表現はビッグバンそのもので、ビッグバンは経文の直訳だったのだ。

    爆薬の発明はずっとあとの時代で、ヒマラヤ山脈はプレートの押し合いで盛り上がった山脈だから、まだ大きな地震はあっても火山はない地域が釈迦の活動範囲だった。

    「爆」の表現の元になった「爆」の事象・概念を表すサンスクリット語が、釈迦時代のインドに有ったのは嬉しい驚きだったが、大般若はいきなりそこから始まっているのである。

    いつものように一通りの座の描写から経が始まり、2ページ目、a段の8行目に: 爾の時、世尊は師子座上に居られ・・とある。 

    このときの佛「世尊」を本来の自然法=仏と取れば、次の「無量百千萬・倶胝那庾多」(ぐじなゆた=那由多x一億x無量百千萬倍)もの大光を仏身から放たれたという、いかにも大げさな修飾は、実はビッグバンの大発光の様子が述べられたものと解釈できる。

    そしてb段になって 謂動 極動等の極動、踊極 踊等の極踊、震 極震等の極震、撃 極撃等の極撃、吼、極吼等の極吼、それが 爆,極爆等の 極爆 であった、につながる。

    この「極爆」が、いわゆる現代に言うビッグバンである事は疑う余地はないだろう。
    そしてこの時点の説明には音が出て来ない。 まだそれを感知する機能を有するものがないからだし、そもそも真空には音がないのだ。

    「極爆」の表現は大乘本生心地觀經 (0159)と大般若波羅蜜多經 (0220)にあるだけだが、光の発生や六趣振動の表現は多くの経に見られる。 
    その大元はビッグバンに関係している。

    華厳経には仏が発する大光明が語られた。宇宙の発生と広がりを表す「仏の大いなる方広」でそれを「華厳」と表す。 だから「大方広仏華厳経」なのである。
    釈迦の初説法・初転法輪だが、聴衆に解るようにか、殆どは普賢菩薩の代弁である。

    太古の時代から旧約聖書に伝わった「光りあれ!」と共通性があるが、その共通性とは、人類だけでなく一切有情のそのDNAのどこかに隠れた記憶として存在している。
    それが摩訶般若だと自分は理解する。

    その後、般若経は素粒子物理学である十八不共・虚空に蔵するエネルギーが、有情無情一切の物体の大元で、その物質生成の過程全体を「空の概念」として、当時の言葉での比喩にして延々と説かれていたのだった。

    そして感知機能の五感が説かれるのだが、五感の感知する結果の世界が 「色不離空」であるから「色即是空・空即是色」だと、仮想現実世界を段々に理解させようとの説法が続く。

    大正蔵経第八巻にある、鳩摩羅什の摩訶般若波羅蜜經  (0223)、放光般若經 (0221)、光讃經 (0222)も、内容はほぼ同じ流れであることを確認した。

    600巻もある大般若経をファイル化し終えたが、目次がないのは不便だから自作した。


      各巻/各品            開始位置
     卷 第一                         05-0001 a 01
          大般若經初會序               05-0001 a 04
      初分 縁起品 第一之一         05-0001 b 05
    から始まって
     卷 第六百                                 07-1105 c 04
       第十六般若波羅蜜多分之八     07-1105 c 06

    まで、1,405行にもなった。 字数で 36,877 。  小さな本が出来そうだ。

    因みに大般若経600巻の文字数は、5,226,274  まるやスペースを除いたNETで4,683,643文字であった。

    FONT に無い文字、例えば「那庾多(なゆた)」の「庾」などは � に置き換えた。
    完璧とは言えなくも、限りなく正確な文字数である。

    大般若波羅蜜多経はライフワークになるかと思ったが半月もかからずかなりの事ができた。
    今後も解析は続けるが、宇宙の法則を説明しようとする般若経は、釈迦のオリジナルだから、特徴として語り手のための偈が無い。 
    「偈にして重ねて説く」のは、識字率の極端に低い時代に、間違いを極小化して語り継ぐ知恵だから、歌のように覚えやすくするためだが、それは人生を説く,所謂宗教的な経に多いのは理に叶う。

    科学的内容が チチンプイプイ であってはアホだが、それがアホな宗派に多い。

    だから大般若には陀羅尼や呪文も出てこない。
    この辺も経が科学的な内容か、宗教的な内容か、言い換えれば宇宙創生ノ法則、魔訶般若波羅蜜多を説く経か、生き方、阿耨多羅三藐三菩提を説く経かを分別するヒントにもなろうか。

    先に自分訳をした「般若心経」は観自在菩薩(観音)が舎利佛に語った事になっている。
    大般若経では観自在菩薩の名は登場するも、一言も発していない。(前回書いた)


    600巻が終わったところに 呪文を付け加えた者がいる。それが釈迦ではありえないことは600巻をざっと目を通すだけでも分かる。 
    だからそれは内容を理解しきれないないアホがつけたものだ。

    大般若が終って、その後に付けられた「般若佛姆親心呪」という呪文だが、
    その梵字の読みが面白い。

     o@m pra j@j@a pra j@j@a   ma h@a pra j@j@a sv@a
     唵  鉢囉  娘 鉢囉  娘    摩  訶  鉢囉 娘   嚩
     
     唵鉢囉娘 鉢囉娘  摩訶鉢囉娘 嚩 の読みをカタカナ表記にすると
    オンプラ ジャージャー プラ ジャージャー マカプラ ジャージャー スワ だ。

    これを物理式とは甚だ言い難いが、オンプラジャージャーと唱えても何でも叶うわけがない。

    大般若の終盤で天帝釈はこう言っている。 

    「若し善男子善女人等が、能く般若波羅蜜多の甚だ深い經典に於いて、聽聞し受持讀誦し、精勤修學し、その理の如くに思惟する心に至って、それを書寫し、解説して、廣く流布さ令めれば、是の善男子善女人等は 身は常に安隱にして、心は恒に喜樂し一切の災横侵惱を爲さず。 (第二分窣堵波品第三十)」 

    「摩訶般若波羅蜜多」とは、般若経を「聽聞し、受持讀誦し、精勤修學し、理の如くに思惟する心に至る」事であって、それを「書寫し、説を理解して、広くそれを流布さしめる事で人は常に安隱で、心は恒に喜樂し、一切の災横侵惱を爲さなくなる」と言っている。

    呪文でそれが叶うなら、端からそれを言うはず。

    自然の成り立ちの法則を理解し、自然と共生すること(摩訶般若の知恵)でその境地(此岸)に至る(波羅蜜多)と言う事だから、大般若はチチンプイプイだけでは済まない事を天帝釈が理解した言葉として教えている。

    自然の摂理を学び、煩悩による欲を抑制して生きる事。 

    そのために釈迦は自然の法則(佛)を説き続けたのだが、如何せん当時の言葉の制限範囲に於ける比喩方便では、伝えきれなかった。 

    そう法華経の神力品に述べ、だから
    後五百歳中(2000年後以降)の化学進化の時代に広宣流布してくれ、
    と釈迦は宿王華に言い遺した。

    その時代になれば六万恒河沙の菩薩とその眷属との表現が銀河系の説明である事も判り、釈迦の説の正しさが理解される、そう思ったのだ。

    大般若説法時に偈文が作られなかった訳はそれである。 

    しかしその時代には仏教は滅び、「五濁悪世の時代となっている」。
    「その悪世中でも支那域は最悪である」と、阿難の問に答えた釈迦だった。

    その現状の一端が下記のアドレスに見られる如くである。 

    https://www.youtube.com/watch?v=05tu3ZcL2MM

    釈迦の説の正しさは今まさに世界中に実感されつつある。

    「オンプラ ジャージャー プラ ジャージャー」の呪文ですべてが解決するなら、滅後1000年で支那で魔導に染まり、仏教は1500年で亡びるなんぞと、釈迦が言うわけない・・・というのが自分が一貫してきた意見だ。

    仏教自体が支那で汚染され1500年後には滅びると釈迦自身が阿難に答えている。 
    黄巾の乱等で実際に汚染はおきていた。
    平安時代以降に支那から日本に伝わったのはその汚染仏教で、真の仏教ではなかった。
    占い魔道好きの支那域の影響は日本に浸透し、仏滅だの大安だのと今も定着している。

    もし釈迦を尊敬するなら、「自然法則である仏」と人生教とは分別して経典を解して欲しい。

    華厳や般若を説いた釈迦は、3000年前のアインシュタインとシュレジンガーなのだ。

    続く

    5/30訂正について
    「宇宙の法則を説明しようとする華厳や般若には、特徴として偈が無い。」と書いていた。 華厳には釈迦の言葉としては偈はないのでそれは間違いではない。
    だが多くの諸菩薩による偈があるので、誤解を防ぐために「華厳や」の部分を削除した。
    0

    コメントを追加

  17. 2018/07/11,23(追記改編)2018/6/3(追記)2018/5/14(公開

    陀羅尼は物理方程式 シリーズ3

    色即是空 とは現実の世界も仮想である事の説明


    前回般若心経を自分なりに訳し、大般若経の分析にかかったが、今朝はいささか興奮している。

    昨夜までの3日の間、いつもの日常のように映画もニュースもチェックし散歩もしたが、般若経は115巻まで、文字数で1,022,460。 マルとスペースを除いたNETでは907,565 文字を書写しながら解析をしたところで真夜中になった。 

    自分流の解析とは、何をどのように解析したのかだが。

    まず文字を書写しながらザーッと経文の文字を流し読みしながら目立つ内容を瞬時に把握してゆく。
    目についた文字があれば それを600巻全てを対象に、チェックするのである。

    2,413 2,492 96.1% 103.7%
       白佛言   佛告  質問数  回答数
    善現(須菩提) 1,703 1,688 67.8% 70.2%
    舍利子 178 250 7.1% 10.4%
    天帝釋 (憍尸迦) 332 233 13.2% 9.7%
    曼殊室利 (文殊師利) 45 52 1.8% 2.2%
    慶喜 42 52 1.7% 2.2%
    阿難 (ア-ナンダ) 7 41 0.3% 1.7%
    滿慈子 (富樓那・法第一) 5 41 0.2% 1.7%
    最勝天 4 28 0.2% 1.2%
    欲界色界天 21 27 0.8% 1.1%
    諸天子 11 21 0.4% 0.9%
    喜授 38 17 1.5% 0.7%
    善勇猛 3 6 0.1% 0.2%
    普光菩薩 3 4 0.1% 0.2%
    蓮花手菩薩 3 4 0.1% 0.2%
    行慧菩薩 3 4 0.1% 0.2%
    最勝天 2 3 0.1% 0.1%
    日光明菩薩 0 3 0.0% 0.1%
    離塵勇猛菩薩 2 2 0.1% 0.1%
    曼殊室利菩薩 2 2 0.1% 0.1%
    寶勝菩薩 0 2 0.0% 0.1%
    四大王衆天 三十三天 夜摩天 覩史多 0 2 0.0% 0.1%
    持髻梵 7 1 0.3% 0.0%
    治世大王 2 2 0.1% 0.1%
    寂靜慧 0 1 0.0% 0.0%
    諸大弟子及菩薩摩訶薩等 0 1 0.0% 0.0%
    大梵天王 0 1 0.0% 0.0%
    彼天王 0 1 0.0% 0.0%
    離塵勇猛 0 1 0.0% 0.0%
    離憂菩薩摩訶薩 0 1 0.0% 0.0%
    淨居天等諸天衆 0 1 0.0% 0.0%

    上記の表は 「誰が何を質問しそれに釈迦がどう答えたか」を解析するために流した結果で、上記はその回数のみを表にしたもので、もちろんその内容も整理している。

    見たとおり、善現(須菩提)、舍利子、天帝釋 (憍尸迦)、曼殊室利 (文殊師利)、慶喜、阿難の6人が、ほぼ理解者の全てであることがわかる。

    103%は、須菩提と舎利佛二人を対象に応える事があってダブルカウントしたからだ。

    そして 肝心の内容はというと、何の事はなかった。
    素粒子+時間 だと自分が解釈した 十八不共の説明だったのである。

    「不共」とは他の何者とも共通するところのない、純粋な単独物質、量子力学でいう量子のことだ。 
    大般若経600巻では3972回も「十八佛不共法」だと回答し説明しているのである。

    その成果物を現実として人に体感させるのが五感の働きだが、その結果は実態のない意識だから、体感する現実には実態がない と説くようだがこれを書いている時点ではまだまだ途中経過だ。

    般若部のその他の経巻、  竺法護の光讃經、鳩摩羅什の 摩訶般若波羅蜜經や小品般若波羅蜜經、無羅叉の放光般若經,支謙の大明度經 などは皆「十八不共」との表現で「諸仏の法」の方がその働きの結果をより多く感じさせる。

    雑阿含経に残された起塵と十八愛と表現のメモに始まる「十八不共」だったが、大般若では「十八佛不共法」、光讃経は「十八不共諸佛の法」と、表現が少し違っても、宇宙の全ては素粒子から化学反応でできており、その発するエネルギーを「光」とし、「物質のたどる変化=時間」を長々と説いている。

    今なら
    {\displaystyle {\bar {v}}={\frac {dx}{dt}}=\lim _{\Delta t\to 0}{\Delta x \over \Delta t}=\lim _{t_{2}\to t_{1}}{{x_{2}-x_{1}} \over {t_{2}-t_{1}}}}

    などなどの式に説明しようとするのだが、当時はそれを説明する言葉すらない。

    だから、比喩方便を使ってその概念を何度も繰り返し説明しているのだ。よって、非・・、非非・・・だの 無・・、無無・・・だのの言葉が繰り返し繰り返し続くのだ。

    6千年前の旧約聖書に伝わった「光りあれ」を自分はビックバンと捉えることにしているが、3千年前の釈迦は、ビックバンの光(華厳経の大放光)、その直後にできた粒子(雑阿含の起塵・拾八種愛)とし、その広がりから発生する創造物の法則を言葉の限りを尽くして説こうとしている。

    光の性質から、その粒子は粒と波の性質を持つようだ。「振動する紐」理論について以前このブログに紹介した。
    ニュートリノを観測する岐阜のスーパー・カミオカンデも光電管を使用して微細な光を観察している。

    釈迦の経もその「放光」をすべての始まり、佛として説明するものだが、説明する言葉すらないから、擬人化された佛の毛穴、歯の隙間、指先など体中が大光明を放つとの説明が残された。

    華厳がそうだったが、般若もである。
    だから「光讃」や「大方広」や「放光」なんとかといわれる経が多いのだ。

    般若心経の 色即是空 空即是色 は 素粒子が光の粒子よりも小さい事を頭に描けば理解できる。


    光速で突進する光の粒子と、それ自身のエネルギーが小さい素粒子の衝突の事だが、例えば確率は低いが、もし新幹線に人がはねられたら、その人はどうなるかを想像してみよう。

    光の粒子とぶつかった小さい素粒子は、跳ね飛ばされる。 
    見えるということは物体に当たって跳ね返った光の粒子を網膜に受け、脳に伝えて想像する行為の結果である。 これは近頃言う「仮想現実の世界」に通ずる。

    だからもしその衝突が見えたとしても、その時点でそこに素粒子が存在する確率はほぼゼロである。
    ならばその粒子はどこに存在するのだろうか?。
    その確率性によって物質の生成過程(因縁果報)は支配されているという理論が最近のものである。 

    太陽は今見えている位置には無く、直径で約4個分先行した所にいる。
    月ですら1.2秒程遅れた光を我々は現実として見ている。

    夜見える遠い星々も、何光年も前の位置に見えているだけで、今現在見えていても、実際にその位置には存在していないのだ。  

    我々は8分ほど以前の光の粒子が何かにぶつかって反射したものを、たまたま五感の刺激として捉え、それを意識する事で「現実の世界」を「仮想」しているに過ぎない。

    大般若は「色不離空」である事、しかしその意識は実態だろうか、という仮想世界の生成過程の確立性を、大般若波羅蜜多・十八不共諸仏法として、繰り返し説明しているのである。

    色即是空とは「色不離空」を端的に表した言葉である。

    初にこのブログ書いた時点では大般若600巻の内、まだ115巻しか書写してなかったが、大般若経はそれが説かれた経だと、わずか3日で解析した。
    今は、最後まで読んだので追記改編している。 

    般若系統は、 放光般若經も、鳩摩羅什 の般若波羅蜜經も、ざっと見た内容は同じで別翻訳に過ぎないようだ。

    大方広仏華厳は拡散する宇宙創生の理論で、光讃や大明度と翻訳された經は光エネルギーがわかっているからその名前なのだ。

    全ての猊は十八種の他と一切共通するところが何もない素粒子・「十八不共」を源とし、それぞれの質を起因として科学的に合(化学変化)させた用を因縁とした果報(創造物)であるから 本末の究境は等しい と。

    竺法護はこの部分を正法華経に「如來皆了諸法所由 諸の自然の法が 何所從り來たかを分別し、法貌衆相の根本である自然の法を知らし終えた」(如來皆了諸法所由)と翻訳している。

    釈迦は初転法輪から十如是まで、その生涯を通じて自然の法則を説き続けたのである。 

    釈迦は一度だけ方便を捨てて「その本末の究境は等しい」事を説き、最後に涅槃経で「是れが生滅の法」だから「寂滅を楽と為す」と言って亡くなった。

    釈迦は三千年前の シュレディンガーとアインシュタインなのだ。

    0

    コメントを追加

  18. 2018/05/15(編集)2018/05/10(公開)

    陀羅尼は物理式 2 般若経

    以前「法華経を考える 3 陀羅尼は物理式?」を書いて、続くとしていた。
    遅ればせながらこれはその後半である。

    まず何故かポピュラーとなった「般若心経」を、自分なりに意訳してみた。

    般若波羅蜜多心經
    観自在菩薩(観世音)は 自然の法則である般若波羅蜜多を深く学んで、
    我々が実態として捉えている物はすべて、眼耳鼻舌体の五感に依る
    意識的創造物であって、それは皆「空」である、と照見出来た。
    その時、一切の苦や厄を超越したのである

    舎利佛(シャリホツ)よ
    人体の色感が存在として捉えた物の、その実態は「空」である
    空想とは五感がもたらす存在感で それは「色」で、色感に依る創造である
    つまり目に見えるものは 実物そのものではない
    実態として見えてる空想であって それが色感なのである

    体の各センサーが刺激を受ける事で、神経物質が伝える「行」が想起させる「意識」は同じ事で、見たり感じたものと同じ物が脳内に物体として造られるわけではない。

    舎利佛(シャリホツ)よ
    この自然を在らしめている法則も 「空」の感覚と捉えるなら
    物が生れたり、物が滅したりする事はない
    それが垢れたり、浄くなりもしないし
    増えたり減ったりもしないだろう

    そいう事だから本当の「空」の中においては「色」は無く
    受・想・行・識 が起こらず
    眼・耳・鼻・舌・身の感覚も、意識すらも無い
    色・声・香・味・触の法則は無となるのである。

    目に見える世界も、意識できる世界も無いところに
    これ以上ない知恵である無明はないから、ない無明が尽きる事もない
    そして、老死する事のなければまた、老死が尽きる事もない
    苦集を滅する道も無く 智ることも得る事すらも無いのである

    何も得る所無きを以ての故に
    菩提薩垂は
    自然の摂理である般若波羅蜜多にのみに依る、
    故にその心に罫(おおい)や礙(さまたげ)が無い

    罫礙(けがい)がないから 恐怖などあろうことなく
    感覚が起こす一切の夢想による心の乱れを遠ざけ、離れる事ができるのだ
    その究竟が涅槃である

    三世の諸仏は
    その自然の法則である般若波羅蜜多に依る故に
    あらゆる物を慈しむ阿耨多羅三藐三菩提の心を得ている

    般若波羅蜜多を知るが故に
    是の教えは大いなる神への咒(呼びかけ)であり
    是れは大いなる明(無上恵)を呼ぶものである
    是の教えこそが無上の咒であり
    是れ等に等しい咒は無い

    能く一切の苦が除けるのは
    それが真実であって間違いがないからである
    だからこそ自然の法則を 方程式に説くのである

    即ちその説咒、方程式に曰く

    掲諦掲諦 (ぎゃていぎゃてい)
    波羅掲諦 (はらぎゃてい)
    波羅僧掲諦(はらそうぎゃてい)
    菩提薩婆訶(ぼっでぃそわか)

    以上

    般若心経は上記の他に4訳、と 更に摩訶般若波羅蜜大明呪經 という同内容の鳩摩羅什譯の経があったので、都合6本の翻訳がある。

    帝釋般若波羅蜜多心經を除けば、いずれも原典は同じだから内容もほぼ同じで、平均400字ほどの短い経文だ。

    4訳は如是我聞から始まる本来の姿で、そこには釈迦が薄誐梵、佛としておられる。
    流行りの般若心経は 始めと終わり部分をカットして更にそれを短くして、
    舎利佛の質問に、観世音の理解を説明する部分だけにしたものである。

    解せない訳者の音写によって 最後の掲諦掲諦 (ぎゃていぎゃてい)部分は
      咒=祝= 呪文 とされている。

    祝、咒 とは 英語の invoke で、 〈神仏などに〉救いを求める呼びかける、祈る,祈願する、念ずるなどの意味である。

    自分は方程式と訳した。
    その理由は単純で 般若心経は大般若経600巻のエッセンス「心」である筈だからだ。

    大般若経、正式には「大般若波羅蜜多經」は 「大蔵経」丸々3冊、3,3354ページ、700万文字ほどの大経だ。
    その中に 祝、咒、呪の文字は、一文字も使われていない事を確認している。

    また観自在菩薩は上首として出席者名に4度連ねてはいるが、誰とも会話がない事も確認した。

    そして「聖佛母般若波羅蜜多經」が 掲諦掲諦(ぎゃていぎゃてい)部分を 
    「當に是の如く學べ、我今、般若波羅蜜多の大明を宣説す。曰く・・」 云々と、

     更には 「若能誦是般若波羅蜜多明句。」としている。
    「明句」の表現は、鳩摩羅什の大明呪經に共通する。

    大般若経の対象は羅漢クラス以上で、他の経のように比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・善男善女等の未熟者は対象外だ。 
    その内容と物量からみても釈迦は生涯を通して説き続けられた筈だ。

    だから他の経々と並行して専門教室を続けられたのであろう。
    だから天台の五時八経は間違いだと自分はかつて書いたのだ。

    自分は「十八不共」の関係で「光讃経」は書写したが、羅漢クラス以上を対象とした般若部の「大般若経」は 自分にはまだ早いとして、最近まで手をつけようとしなかった。

    大般若経の対告衆となる羅漢とはどのような者を言うか、その条件が開始部に延々と書かれている。
    当然、仏=自然法則 が解せない素人が、軽々しく読む経文ではない。

    しかし近頃は年齢でボケが入ってきたので、その間にも大量の映画を見て英文字幕で脳をフル回転させていた。 御蔭でブログは近頃の野党の議員のようにサボリ放しだった。

    脳の酷使ついでに 大般若経の読みと書写とを始めることにした。
    釈迦は読誦・書写して説を解せと常々教えている。読誦とは音読だが、それは見るだけで書写と解析をしている。

    まだ60巻で、345ページにすぎないが、 まるやスペースを除いたNETの字数は、今現在 493,111 字だ。 このままだと全体で500万文字となろうか。 
    先は長い。

    今朝は誕生日ということもあり、流行りの般若心経を下し読みし、自分なりに日本語風に訳してみた。

    こんな程度の経文読解力の自分の書くブログだから、笑われるかも知らないが、
    量子力学の世界を少しかじれば、非・非非・・、 不・不不・・、 無・無無・・ と、延々と繰り返される般若経の説明はとても面白い。

    これを「未顕真実」の造語で切り捨てた智顗が、いかに釈迦を愚弄するクソ野郎だったか。

    釈迦が当時の言葉では尽くし切れず、嘱累しきれなかったと、神力品にそう述べ、
    2千年後の科学の発達をに期待して薬王品に「後五百歳中に広宣流布を」との真意も、
    大般若経は改めて感じさせてくれる。

    釈迦は3千年前のシュレジンガーやアインシュタインなのであって、単なる宗教オジサンではないことがよ~くわかるはずだ。


    陀羅尼は物理式 続く

    0

    コメントを追加

  19. 2019/4/22(改編)、2018/4/8(改編)  2017/10/19(公開)

    仏教は支那で汚染された


    無量百千万億那由佗阿僧祇劫において仏は常に法を説き続け,そこに虚妄は一つもない。
    そう壽量品は述べている。

    「所々における言説は 皆、実にして虚にあらず (所々言説 皆実不虚)」、 
    「仏語は実にして虚にあらず (仏語実不虚)」 である。

    それに対して智顗は「無量義経に「未顕真実」とあるから、「成道已來四十餘年未顯眞實 法華始顯眞實相」だと法華玄義に書いた。

    これを日本では「無量義経に「未顕真実」とあるから、法華経以前の説法には眞實はない
    と解説されて来た。 

    無量義経は開経とされるが、開経とされるのは誤りで、無量義経は法華経より後に成立したもので、法華経のダイジェストに過ぎないと自分は書いてきた。

    根拠は、無量義経の終わりが「爾時大會 皆大歡喜。爲佛作禮。受持而去」となっている事だ。 
    これは簡単な理屈で、これから本番の法華経を説こうという直前に聴衆が「受持而去」するはずがないからだ。 また法華経後にダイジェスト的な無量義経を説く意味もない。

    従って法華経を簡略化した無量義経の解釈は、当然本編の法華経の内容に沿うものでなければならない。

    で、その法華経本編は『無量百千万億那由佗阿僧祇劫において常に説き続けた法、「所々における言説」は、 皆、実にして虚にあらず』である。

    だから法華経をの言葉を真っ向否定する「未顕真実」との解釈は誤りで、あってはならないのだ。 

    無量義経のオリジナルをみると、「未曾顕実(嘗て無い実を顕す)」である。
    智顗以前に「未顕真実」はないので、(真実はない)とする「未顕真実」は智顗の造語と言える。

    無量義経の文は「種種説法以方便力 四十餘年 未曾顯實 是故衆生得道差別」(大正蔵経9巻 p386) である。

    種々の説法を方便を使ったこの四十年ほどの説法は、(聴衆にとっては)未だ曾て聞いた事のない実を顕して来たので、聞き手の理解度に 差を生じさせてしまった」との意味で、実を顕さなかったのではなく、大衆が嘗て聞いた事もない真実だったから、方便や比喩を使って顕したので、聞き手の理解度によって差をが生じさせた と言っているのだ。

    その得道の差について、法を池、川 海の水を使った洗濯に例え、それぞれの水質、洗浄力の違いのようなものと言い、続けてそれを「三法四果二道不一」の言葉に説かれいる。

    先に述べたが「未顕真実」の語句の初出智顗法華經玄義で、智顗の造語だという事は確定出来る。

    智顗は「無量義云、二道三法四果不合、至法華皆合故不論廢、成道已來四十餘年未顯眞實、法華始顯眞實相」 と解説している。

    さらに「法華経以前には未だ嘗て真実が顕わされなかったから」 「三法四果二道不一」なのだと言っている。

    玄義が「三法四果二道不一」の後に「未顕真実 法華始顯眞實相」の語句を置いた事で、
    「成道已來法華経までの四十餘年間」方便ばかりで、一言の真実も言わなかったと、極端な解釈を産んだのだ。

    法華始顯眞實相」を「無量百千万億那由佗阿僧祇劫における常住此説法」の全てを方便に過ぎないと否定したその甚だしい誤解が、末法思想、法華信仰の原点で、日蓮の法華宗の拠り所に繋がったのだ。

    日蓮は「世尊法久後 要当説真実」を「未顯眞實」の根拠としてこじつけたが、
    「要当説真実」の真実とは「世尊は久しく大中小の三乗の方便を説いて来たが、真実は分け隔てのない唯一仏乗だ」との事で、方便品をじっくり読めばそれは解る。 

    法華経本編は「所々言説 皆実不虚」と言って、「未顕真実」に該当する言葉は全くない事をよく理解すべきだ。

    日蓮本人は或る能化から指摘を受けて「開目」し、その後は法華経以前の全ての釈迦の教えは皆眞實だったと言っている。

    その経緯をこのブログ「安国論シリーズ」に「未顕真実」の撤回として書いたので、ここに追記しておく。


    無量義経の「種種説法以方便力 四十餘年未曾顯實」は「人々が未だ嘗て聞いたことのない真実なので、方便をに頼って四十年余り説いて来た」の意味である。

    方便の持つ力に頼らざるを得なかったのは、釈迦が説く法が 当時の衆生にとっては「未だ嘗て聞いた事のない真実」だったから 「方便力を以って、その未曾の實を顯した」と言っているのだ。

    だから舎利佛のたっての願いに応じて「正直捨方便 但説無上道」と言って、方便品の最後に、自然の成り立ちの法則を方便を使わずに「十如是」の方程式を語ったのだ。 
    それ以外に「正直捨方便 但説無上道」の意味があろうか。

    竺法護は正法華経に、この方程式部分「十如是」を集約して「自然法を知る」と翻訳した。

    舎利佛はその「十如是」を聞いた直後に、初めて真の言葉で法を聞けたとその喜びを語っている。それが譬喩品の始まりである。

    その反応を見た釈迦は「やはり比喩、方便を使って説こう」と言って、譬喩品から安楽行品迄の法華経を(正直捨方便)をやめて説いている。
    従って釈迦が「正直捨方便」してストレートに語った法は「十如是」部分のみであった。

    従地湧出品以降を説くに当って釈迦は 当時の聴衆には護持する必要はない とした。

    その訳は神力品に あらゆる神力を持ってしても、当時の言葉では伝えきれなかったからだと、そう明かしている。 
    つまり当時の聴衆には誤解される恐れが充分にある内容だったのだ。

    その当時の聴衆に護持する必要がないとした従地湧出品以降には「銀河宇宙の姿」と悠久の時間が説かれた。

    当時の言葉では伝えきれなかった故に、銀河系の姿も「六萬恒河沙の菩薩とその眷属」と誤記?されているのだ。

    壽量品には仏とは悠久の時間を支配する自然の法則であること、しかしそれも「一心欲見佛 不自惜身命」すれば、霊鷲山で説いた姿がよみがえってくると説き、
    人々が「無上の知恵を得て 仏身に入らせること」こそが、仏としての釈迦の願いだと、その慈悲を説いたのである。 

    大正蔵経の自我偈の終わりは「得入無上慧 速成就佛身」となっている。(大正蔵経9巻p44)

    授記品の「無上之慧 於最後身 得成爲佛」大正蔵経9巻p20
    正法華経の翻訳「而行智慧」大正蔵経9巻p115)を読めば、自我偈の最後は「無上道」よりも「得入無上慧 速成就佛身(大正蔵経9巻p44)が本来と解釈する。 


    釈迦は 多所詐の人々が住む国域を 震旦(支那)と名付けた。(大正蔵経54巻p447 支那の意味)

    「 阿難言。當爾之時。何國最惡。不信行者。
      佛言。眞丹之土。當有千比丘。共在大國。墮魔邦界。」(仏説分別経・蔵経17巻p541c) 
    上記に示した智顗の法華経玄義の解釈の誤りは、墮魔邦界の地,支那における「而行智慧」の現れだ。 そうでなければ、仏説分別経は釈迦の嘘となる。

    釈迦当時の言葉には伝えきれなかったが、方便では得道に差が出来てしまった。

    だから従地湧出品以降の釈迦の説法を「後五百歳中に広宣流布せよ」と、宿王華菩薩に言い残した訳は、釈迦がその正しさが理解されるであろう二千年以以降の科学の発達時代を見越したからである。


    支那天台の法華経解釈には、上記の「未顯眞實」のようなネイティヴなら犯しようのない解釈ミス、恣意的な改竄が幾つも在る。 それは「二千年以以降の科学の発達時代」より以前の知識に基づく解釈だからで、「後五百歳中に広宣流布」の真意も「捃拾」だとして理解出来なかったからに過ぎない。

    自分は日蓮書簡の引用元を詳細に検証した過程でそのを認識出来た。


    銀色女経(大正蔵経3巻)は 銀色女が転生して釈迦自身になった過程を説いた経で、「女性の成仏」を釈迦自身の例として説いた経である事は、誰でも経を読みさえすれば簡単に解る*1

    女は地獄の使い」とデマを打った支那仏教にとって、「銀色女経」を読むと直ぐに自分達の嘘がバレるので、表面化させてはならない経典である。 
    だから当然この経をトンデモないデマで封じようとした事も判別出来る。 

    叡山で学んだ日蓮は、「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し と説かれた経」として覚えさせられ、複数の書簡にそのように書残している。*2
    日蓮が銀色女経のオリジナルを読まずに信じ込んでしまった事は明白である。

    しかし日蓮自身は法華経薬王品の「女人の極楽往生」について問われ、その矛盾に戸惑っている。*3
    結局は薬王品の「女人往生」を取ってはいるが、その後も銀色女経のデマ解釈を捨てきれなかったほど、支那汚染の影響は強烈だった。*4

    経文と智顗の説、どちらが真の仏説か その様な愚問は考える迄もない事だ。

    天台時代の科学的知識で解釈を基礎とした法華信仰に、その辺の流れが理解出来なかった事は当然であった。

    仏説分別経を読まなかったから、釈迦が警告した支那の汚染仏教の解釈をそのまま採り入れた末法思想の間違いが、日本の歴史を汚し戦国時代に導いた事は史実に現れたとおりである。

    日蓮の法華宗の宗旨の破掟は、その論拠の殆どが天台智顗の恣意的解釈を基にしたが故の必然であった。

    「経」はその全てとは言えないが、一応仏説の聞き書きと見做すとして、その経を「利用する教団」なら正しい仏教を伝えていると言えるだろうか。
    むしろ支那仏教をもとにする既存宗教の殆どは騙りだという事だ。

    後五百歳の始めの五百年とした期限が切れた事で、その宗旨が破綻して終わった日蓮の法華宗と、破綻後に一旦纏まリ、再び分裂した現在の日蓮宗系は、論理的には全くの別物である。

    それに気づいた自分は、立正大で仏教を少しだけ学んだ身としてのわだかまりが消え、自分なりに日蓮法華宗の失敗の原因をしがらみなく深く総括してみた。

    たいていの人なら教祖の解釈のみを正とする教団の言い分を自ら検証することなく、絶対的正義として受け容れ続けるのだろう。 しかしそれは真に仏教と言えるのか。
    それが信仰だとしても、自らの検証なき姿は、単なる闇雲で、自分には病的と思える。


    参考
    *1  銀色女経 部分

    汝等當知。我 是爾時蓮華王都銀色女也。
    諸比丘。勿生異 疑莫作餘觀。何以故。汝等當知。我是爾時 名銀色女。捨於二乳濟彼子者。
    諸比丘。勿 生異疑莫作餘觀。何以故。汝等當知。羅睺羅者豈異人乎。即是爾時彼童子也。
    銀色女經 (大正蔵経3巻453ページ )

    意訳  
    「彼の蓮華王国の(乳房を切与えて赤子を救った)銀色女は、それは今のこの私である。 
    諸比丘よ また疑いと予観を持つなかれ、 何故なら、その時銀色女が乳房を与えて救った子は、諸比丘よ疑うなかれ、羅睺羅(ラゴラ)なのだ。 彼がその時の赤ん坊である。 」

    *2  (女人成仏抄、法華初心成仏抄、一代五時継図、法華経題目抄、薬王品得意抄 等)

    *3  「仏意測り難し、此の義決し難きか」 
    「此の法華経の薬王品に女人の往生をゆるされ候ぬる事又不思議に候、彼の経の妄語か此の経の妄語かいかにも一方は妄語たるべきか、若し又一方妄語ならば一仏に二言あり信じ難し、但・・・」 薬王品得意抄 文永二年 

    *4  法華経題目抄 文永三年 



    続く
    0

    コメントを追加

  20. 2017/8/24(追記改編)2017/06/24 公開

    1 支那の仏教汚染

    経は謀略をめぐらす恐ろしい東域の国々を総合して震旦・支那眞丹と呼んでいます。

    震旦國 或イハ曰ク支那 亦云ク眞丹 此ヲ翻スルニ思惟ヲ爲スニ、
    其ノ國ノ人、多ク思慮スル所ハ、計詐スル所多シ、故ニ以ッテ名(震旦支那眞丹)ト為ス。 即チ今ノ 此ノ漢ノ國、是レ也。*1

    これは漢時代(二千年前)の辞書「一切經音義」の「震旦(支那・眞丹)」の漢人による解説です。
    国人の思考は人を騙す事ばかりだから、釈迦に震旦支那眞丹と呼ばれた。
    そしてそれは今(当時)の漢の事だと。 

    その後、漢と共に漢字文化は滅ぼされ、春秋戦国を経て隋唐以降、漢字圏外の支配者たちが漢字文化を復興させましたが、時代の変化は読みや文法に変化を及ぼし、日本が学んだ漢文はその影響を受けたものす。

    多くの経文は漢時代以前の古い文法で読むべきです。

    また多くの経に「五濁(ごじょく)という言葉が出てきます。
    佛説七佛經では数万歳の長寿だった人間が百歳になったのは五濁のせいだとしています。人心の汚れが環境を悪化させ、自ずと寿命を縮ている、それが仏の考え方のようです。

    五濁悪世での最悪国は?」と問う阿難に対し、釈迦は「眞丹(支那)の土」と答えました。 (仏説分別経)

     五濁とは: より解かり易い正法華経の翻訳を紹介します。*3

    1 塵労(じんろう) 2 凶暴、3 邪見、4 寿命短 5 劫穢濁こうえじょく)、

    1 塵労 は周辺を汚しまわる事 (defilement) 
    2 凶暴、3邪見 は日本語でもそのまま、
    4は 寿命短かくなる 事です。

    それに就いて、WTO2016年発表の世界寿命ランク(2015年度集計)で、日本は83.7歳で1位、中国は76.1歳で53位(前年は88位)。 
    但、中国(70.6歳)や北朝鮮(109位)は、戸籍不明瞭な大多数の農村部がリサーチ外と思われますが、眞丹(支那地域)の傾向はでています。

    5 劫穢濁  の  とは極めて長い期間の単位です。
    但し正確に現在の数値に当てはまる根拠は経には見い出せません。 

    穢濁(えじょく)は 酷い汚染、(pollution、公害)で、穢濁 とは 長期にわたる酷い汚染、公害の意味になります。

    「五濁悪世での最悪国は?」との問いに「眞丹(支那)の土」と答えた釈迦は、続けて 眞丹(支那)では 滅後千年に支那では仏教が魔道に汚染される と予告しました。

    また法滅尽経には 真の仏教は千五百年で滅びるとの予告もしています。
    史実を見ると滅後1527年ごろ(1600年頃)には回教徒の東進で、インドでは仏教が滅んでいます。

    最後二回の遣唐使が日本に持ち帰ったのが平安仏教で、庶民仏教となります。
    分別経の指摘通りなら、それは既に魔道に汚染された支那仏教だった事は、質実思考が出来る人なら、平安以降の日本歴史にその反映を観出す事が出来る筈です。

    平安仏教が持ち込んだ「末法」思想はいわゆる 終末思想 で、末法時代が近づくに連れ叡山自体が乱れ、末法の悪世を自ら率先して具現化しました。
    僧兵がたむろし顕密が暴力的に争う様はまさに末法の現象で、叡山周辺は白法隠没した魔道汚染の様相を呈していたのです。

    仏説分別経を知らなかった彼らは、それが支那の魔道汚染に依るモラルハザードだとは気づきませんでしたが、武装した僧兵が幅を利かす状況の中で修行した法然や親鸞は、阿弥陀経に解決を求め叡山を離れました。

    少し遅れて比叡山に学んだ日蓮は真の法華信仰に解結を求めて比叡山を離れたのです。

    当時の武家階級には新たに支那から渡った禅の思想が浸透していました。
    殆どの人は字が読めないのだから経文は不要だとする禅宗に触発され、また法然、親鸞、日蓮らは比叡山に絶望し、識字率の低い庶民にわかり易い仏教(鎌倉仏教)を起こした訳です。

    日蓮は「法華経広宣流布の実現」を目指す宗派を起し、その実現は[末法初めの五百年中]、西暦1050年を期限とする複数の書簡を残しています。 *4

    報恩抄には、若しも期限内に広宣流布が実現しなければ、釈迦多宝は大嘘つきで地獄行きだとまで書いた程、強い決意を示しています。

    その宗旨を引き継いで広宣流布の達成を目指した日蓮の法華宗団は、天文法華の乱(1536年(天文5年3月24日~28日)で京都を追われ、宗旨実現の可能性を失いました。

    過去形で書くのは法華信仰の結末が完全に失敗に終わったからで、上記の流れは日本史上否定しようのない事実だからです。

    結果としての法華信仰の破綻は、元々その論理が破綻していたからと言えます。
    それが即ち、支那天台が汚染仏教であった証なのです。


    自分は日蓮が立論の拠り所とした天台書簡から呆れた具体例をいくつか検証し、平成談林3に纏めました。
    智顗の「摩訶止観」の論法は、その支那汚染仏教の呆れるばかりの出鱈目さを見せています。

    それは引用元の経文を読み込んで、その経に流れる釈迦の意志を自らが解してこそ、初めて分かるのです。
    そして歴史は分別経の指摘の正しさを、事実を以て証明した事になりました。

    それ等を詳しく説明したいと思います。

    続く

    *1 
     震旦國 或曰支那 亦云眞丹 此翻爲思惟 以其國人多所 思慮多所計詐 故以爲名 即今此漢國是也 大正蔵経54巻447ページC)

    「即チ今ノ 此ノ漢ノ國」の記から漢時代の記載である事が判る。

    支那では東漢明帝永平十年(67年)に天竺僧の竺法蘭に依って漢字訳された「四十二章經」と佛像が洛陽に到着した事を以って佛教の正式伝来とし、中国仏教は漢の地に始まるとしている。(中国仏教史)

    その後主な経文が漢時代に訳され、日本に伝わった。従って一切経音義の相当の部分は前漢時代(1~2世紀)の成立であろう。(筆者) 
    日本には554年に百濟僧の曇慧等9人が赴任されて仏教を弘めたとされる。(中国仏教史)

    ウィキペディアなどでは「一切經音義」の成立を複数の編集者の時代から600~800年台としているが「一切經音義」は宋の時代迄の数百年をかけて徐々に追記集成されたもの。
    内容を精査しないでも素人が勝手に記入できるウィキペディアの記事は、記事の根拠を確認した上でその信頼性を判断して使う事が必要だ。(筆者)

    *2 「 阿難言。當爾之時。何國最惡。不信行者。
       佛言。眞丹之土。當有千比丘。共在大國。墮魔邦界。」
       (仏説分別経・大正蔵経17巻541ページc) 

    *3  妙法蓮華経翻訳の五濁は 劫濁 煩惱濁 衆生濁 見濁 命濁 の5つで、これでは解り難いので正法華経の翻訳を紹介した

    *4  如説修行抄、撰時抄、結要付属口伝 にある。



    0

    コメントを追加

読み込んでいます