最終更新 2018/07/19(追記改編)2016/11/16(加筆) 2016/07/09、01/31、 2015/12/15(加筆調整) 06/09(追記) 2014/09/08 (文章調整) 公開 2012/08/23
末法にピリオドを打った天下布武
[堂上接武 堂下布武]
末法にピリオドを打った天下布武
信長といえば「天下布武」、 誰もが知っている造語だが、その語源が何だったのかは殆ど知られていない。
無知故の誤解で信長のイメージが穢されている事は 嘆かわしい事だ。
無知故の誤解で信長のイメージが穢されている事は 嘆かわしい事だ。
「信長と十字架」の著者、立花京子氏は語源に注目し,数人の学者に依頼して深く調べてもらった。
しかし史学者が「武を布く」などという日本語的発想から探したから、「七徳の武」という言葉に行き着いた。
立花氏は矛盾を感じながらも、どうにかそれを「布武」の意味として納得している。
「武」の字を武力の「武」とイメージする日本的漢字感からは、マナーブックである「禮記」(礼記、らいき)にはたどり着けない。
礼記を知らない現代の日本人は、悲しいかなその勘違いにさえ気づけないでいる。
「布武」という言葉には「歩き」以外の意味はない。
自分は仏典と中国古典を徹底して調べようと、そのデータベースをチェックした。
すると唖然としたほど意外に、簡単にその語源にたどり着けたのだった。
宋本廣韻:で「武(ふ)」を調べると色々な例があるが、曲禮曰 堂上接武 と出ている。
「天下布武」の語源となった、「堂下布武」は禮記(らいき)上の28にある。
以下の文章である。
帷薄之外不趨,堂上不趨,執玉不趨。 堂上接武,堂下布武。 室中不翔,并坐不橫肱。授立不跪,授坐不立。
見た通り文章は 「室内では肘を鳥の羽ように張るな、又を広げて座るな」と、立ったり座ったりのマナーが続いている。
何の事はない、「堂下布武」は立ち居振る舞いの仕方を書いたマナーブックの言葉だった。
意味は 堂上(皇帝のいる所・幕でしきられた範囲)では接武(すり足),堂下(それ以外)は布武(布幅程の歩幅) で歩いてよいと、
《禮記·曲禮上》: 堂上接武,堂下布武。 の英訳は
Above, in the raised hall, the foot-prints should be alongside each other, but below it free and separate.である。
つまり歩くマナー、所作を言っているのだ。
「武」(ふ)は「歩(ふ)」発音は(Fu、Wu)。その意味は 「the foot-prints」以外の何物でもない。
「礼記」は日本でも律令時代から殿上人が先ず習う、必須の作法の教科書であった。
御所に参内する可能性のある当時の公家、後世は侍達にとっても必読書であって、
「接武」「布武」は品格を保つために身につけなければならない基本的所作であった。
FuまたはWu の音に武の字が置かれただけの事であり、「接武」は前に出した足のかかとに、後に続くつま先が接する、歩幅を開かない歩き方である。
それに対して「布」は広げる意味だから、歩幅を普通に開く歩き方が「布武」の意味である。
それに対して「布」は広げる意味だから、歩幅を普通に開く歩き方が「布武」の意味である。
堂上,堂下の「堂」とは、皇帝の政務・儀式を執り行う場所、そして国の政治に神仏が密接にかかわってからは、寺院の本堂等、神仏の結界内も「堂」と言われる。
日本ではさしずめ紫宸殿や仏殿、神殿の中の聖域が「堂上」だ。
そこでは能舞台でシテが登場・退場する時の歩き方のように、一歩一歩の足先とかかとが離れないように、すり足、「接武」で歩けという事で、敬意を表すのである。
対して「布武」とは、そこ以外の「堂下」において、布幅程度に左右の歩幅を開けて、普通に歩く事である。
大股でがさつな歩きではなく、ある程度節度を保った歩き方を「布歩」というのであって、皇帝や神仏に仕える者としての気品や威厳を損なわない、立居振る舞いが求められるのは言うまでもない。
織田信長が「堂下」を「天下」に変えた事には当然意味が在る。
対して「布武」とは、そこ以外の「堂下」において、布幅程度に左右の歩幅を開けて、普通に歩く事である。
大股でがさつな歩きではなく、ある程度節度を保った歩き方を「布歩」というのであって、皇帝や神仏に仕える者としての気品や威厳を損なわない、立居振る舞いが求められるのは言うまでもない。
織田信長が「堂下」を「天下」に変えた事には当然意味が在る。
一義的には「天皇や、神仏等の既成の権威に捕らわれず、天意に沿ってわが道を歩く」 と云う意思表示である。
その意思表示した時期が末法500年の終焉直後という、当時の宗教的時代背景を知っていれば、更にその意味が深い事に気づく筈だ。
もし「武力」の意味だとしたら、「堂上接武」は紫宸殿の中で武力を接するという事になるから、「礼記」は謀反を勧めるとんでもないマナーブックだ。
そんなものが律令時代から用いられるわがない。
「武」は「歩」という本来の意味を知らずに、信長の心底に「武力による覇権」を表していると取る事は、無恥としか言いようがない。
天下布武の真の意味は「天道に叶うように節度を保って歩く」という意味であって、
そこには末法時代だからと当然のように世間を乱して来た末法思想と、それに則った天台宗など既存宗教の権威を廃そうとした信長の真意が観えているのだ。
念のため、「武を布く」という言葉自体が他の中国古典には在るのだろうかと調査した。
結論は 否である。
諸子百家・雑家のどの書にも、全くその意味で使われた言葉は存在し無いのだ。
宋,明時代の、太平廣記、山の大竹路に 「路人徐步而進,若儒之布武也。」という文章を見つけたが、やはりこれも「歩み」を意味している。
当然ながら大正蔵経所載の全ての経典も文献として調べたと云ったが、八万巻と言われる釈迦の経文には「布武」という言葉は一つも無かった。
全大正蔵経中に、釈迦の「経」ではなく、釈迦以外の書いた論疏の中に、たった4件の使用例を見つけた。
その内の3件は明らかに「歩み」を意味しており、残る一つは「孫布武」という人名であった。
従って断じて言うが、古来から「布武」という言葉には歩き方以外の意味はない。中国字典もしかりである。
武を敷(布)くという発想事態が、和製漢語の感覚だったのだ。
再び言うが、若し「布武」に武力行使の意味合いであったとしたら、 「接武・布武」共 皇の堂内、玉座周辺には武器の持ち込みが可能で、皇の傍ではそれを接する、つまり刀を合わせる事になる。
マナーブックの「礼記」がそれを教える筈はないのだ。
前回「雀が蛤になる」の語源は太歳礼記にあると書いたが、この「堂上接武・堂下布武」も礼記であって、今ではすっかり忘れられたが貴族や武士のたしなみ、一般常識だったのである。
信長が「布武」を造語として勝手に「武力制覇」の意味を込めたくても、当時の普通に常識を持つ者には、そのような誤解する者は誰一人とてないし、 信長が自説を説明し歩いた記録もなく、それを言えば只笑われて、馬鹿にされるだけである。
信玄の「風林火山」や家康の「厭離穢土欣求浄土」を掲げたが、信長の旗印は永楽銭の旗の先に「南無妙法蓮華経」の題目の小旗を付けた物だった。
「天下布武」に天下を覇す意味があるならば、当然戦場の旗印として掲げただろう。
だが信長は「天下布武」を旗印にはしていない。
「天下布武印」が使われた書では、永禄十年十一月(1568)が最も古い物といわれる。
若し「天下布武」が信長の武力制覇の意思表示と取られたなら、その印が押された書を受けとった武将達には、良くて恫喝、悪くは宣戦布告を受けたに等しい。
当然不快感を持ち、少なからず気が騒いだにちがいない。
立花京子氏はそれと気づいてか、同書32ページに「吉昭否定の理念である天下布武印が押されている事に矛盾を感じて」と、その疑問を解きたいという動機で「天下布武」の意味を捜したそうだ。
ちゃんと研究する人なら、ふつうに感ずる疑問であろう。
それでも、何故信長は「天下布武」の旗印を戦場に掲げなかったのかに、思いが及ばなかったようだ。
それは、日本中に蔓延する、「布武」の「武」が武力・武器の「武」 という、字の意味に捉われる日本人特有の先入観のせいである。
立花氏は、その先入観が頭から離れ無い人達に尋ねたので、武にも徳があるという答えを得て、いささかいびつな納得を自分に強いている。
立花氏の書はキリシタンという宗教が、歴史のバックに在る事を話している。
だが、それが永く日本を支配をし続けた末法思想が崩れた時代背景の上に、タイミング良く成り立った事だと言う事に、興味を当てていたらと想う。
江戸期になって出てきた講釈師が、信長の戦いを面白おかしく、単純に国盗り物語としたから、その先入観に汚染された、語源を知らない現代人に「天下に武を布く」などという、日本でしか通用しない誤読を強いている。
実際、小説家や歴史家で「天に恥じない節度を保って、自由に我が道を歩む」との読み方をする者は皆無である。
「天下布武」は天下取りの野望を表したものとの講釈師的勘違いは、不幸な事に信長の行動の全てを誤解させる基となっている。
この講釈師的先入観からは、本当の信長は見えない。
信長は日本のバチカンであった比叡山を、何故焼いたのか。
実際、小説家や歴史家で「天に恥じない節度を保って、自由に我が道を歩む」との読み方をする者は皆無である。
「天下布武」は天下取りの野望を表したものとの講釈師的勘違いは、不幸な事に信長の行動の全てを誤解させる基となっている。
この講釈師的先入観からは、本当の信長は見えない。
信長は日本のバチカンであった比叡山を、何故焼いたのか。
歴史の隠れた宗教的フィルターを通して見れば「天下布武」はその宣言であった。
天下布武の印を使い始めて2年目、二条城の工事現場で信長に直接インタビューした記事を残したフロイスは、信長が傍に離れて座っていた僧侶たちを指して、彼等全てを抹殺する意思を示し、時期を待っていると云った事を書いている。
云く、「彼らは民衆を欺き、己を偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。 予はすでにいくども彼らをすべて殺害し、殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、・・・ 放任しているのである」 と。(フロイス日本史2.144)
そしてその実行は二年後の叡山焼き討ちから始まったのである。
時代々々の宗教観を考慮しない日本史は、キリスト教抜きで西洋史を語るに等しい。
最近、神田千里氏の「宗教で読む戦国時代」を読んで、歴史の真実の観方を書いている事を知って、部分的には先を越された気がしている。(講談社選書メチエの歴史書)ぜひ読まれるべき書だ。
続きはいつ終わるかわからないが、執筆中の本編で!
追記 : (と言うよりこのブログに、先に結論が出てしまったが 2013/8/30)
追記 : (と言うよりこのブログに、先に結論が出てしまったが 2013/8/30)
信長の歴史で見落とせない重要な事
1 本能寺と種子島(鉄砲)と信長の関係は法華宗本能寺系の線で結ばれていた事。
2 法華をけしかけ、利用し、そして崩壊に導いた策士は、細川晴元。
その妻の三姉妹が、それぞれの夫たちをけしかけたものが信長包囲網の正体である事。
長女:細川晴元正室
二女:三条の方(1521-1570) - 武田信玄 継室
三女:如春尼 - 本願寺顕如室 六角定頼の猶子、細川晴元の猶子、
法華一揆を仕組んだ晴元と、顕如と、信玄は義兄弟で、六角は三女の義理の親としての関係で。
顕如の女房のリクエストでしぶしぶ出兵した信玄と六角だったから、戦略的結束は甘く、信長包囲網と言える程の事態とはならなかったのである。
包囲網などと大げさな表現も、講釈師の天下取り的発想に過ぎない。
歴史家の不勉強が及ぼす史実への悪影響が、いかに大きいか観られる。
3 毛利は一向宗だったから、石山本願寺の救援要請に直ぐには応じなかった。
だが比叡山焼き討ちに信長の本気度を見せられて、ようやく本願寺に加勢したのだ。
このブログ「末法思想に翻弄された日本」のシリーズと 「末法思想は魔の所産、信長の叡山焼きうち」 を読んで頂ければ、天下布武の真の歴史的意味合いが理解できると思います。
この天下布武の誤解は、執筆中の「勘違いの歴史」の一部分です。
シリーズ「三鳥派と細草壇林」は、信長の曾孫、敬台院が悪魔外道の魔王・日精と闘った話です。
その日精が「三鳥」そのもので、大石寺が三鳥派本山になったという事が解ります。
「三鳥派と細草壇林」全編は「平成談林2」に公開しました。
このブログにはダイジェストを載せました。 その10を読むと全体像が解ります。
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