樋口尚文の千夜千本 第231夜『桐島です』(高橋伴明監督)
失われし「やさしさ」が「現在」の閉塞を撃つ
高橋伴明監督=梶原阿貴脚本のチームがとりくんだ前作『夜明けまでバス停で』が社会からはぐれた弱者に寄せる「やさしさの戦線」であったとしたら、このたびの『桐島です』は社会をはみ出したアウトローに寄せるその第二弾である。いずれも事実から発しつつ、独自の発想で映画ならではの虚構を膨らませているが、『夜明けまでバス停で』の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』的な事実改変には「戦い方」のアップデートを見る思いだった。だから『夜明けまでバス停で』は「やさしさ」に裏打ちされた痛快さ、爽快さが感じられて好ましかった。
もっともあの作品の爆弾犯の挿話は、高橋伴明監督が(世代的に)梶原にアイディアを提供して書かせたものだとばかり思っていたから、まさか梶原の父が新宿クリスマスツリー爆弾事件の犯人のひとりで、そこから思いついたものだとは想像する由もなかった。つまりここでバス停事件のみならず新宿の爆弾事件についても、事実改変のジャンプが行われていたわけで、それもまた成功していたというわけである。
そんな高橋=梶原チームが、またしても日本じゅうを驚かせた桐島聡の出現という事実に向きあったのが『桐島です』だ。このたびは桐島聡が警察に名乗り出て間もなく病死したので、さまざまな細部の展開については事実改変というよりも事実推測というのが正しいのだろうが、その推測も前作同様の「やさしさ」が基調になっている。もっとも70年代の一般人の被害者も多く出してしまった爆弾闘争については、なかなか「やさしさ」をもって眺めるのは難しいだろう。
かくいう私も東アジア反日武装戦線「狼」の三菱重工爆破事件の際はけっこう近所を歩いていたので危うく巻き込まれるところだったし、同戦線の天皇列車を爆破する「虹」作戦は私が通学でいつも通過している鉄橋がターゲットだった。だから、ややもすると自分も実害を被りかねなかった当時の子どもの私からすると、「狼」「さそり」「大地の牙」の兄さん姉さんたちはいったい何をしてくれるんだ、そんな人心から乖離しきった闘い方をしたって人民は誰ひとり蜂起しねえよと全くはた迷惑な感じでしかなかった。
ところが、数年前にこの連続企業爆破事件に参加していた「大地の牙」メムバーの女性のすぐお隣で東アジア反日武装戦線をめぐるドキュメンタリー映画を観る機会があった。三菱重工爆破事件翌年の逮捕から例の日本赤軍事件の超法規的措置で出国、再度の逮捕から長い服役を経て来たこの女性は、三菱重工事件の死者や遺族には全面的に謝罪していた。それでもなお闘争の精神自体は間違っていなかったと主張するこの女性の、年齢とは不相応の純粋すぎるまなざしがひじょうに印象的であり、またとても心もとない感じがした。
この爆弾犯世代である私の兄の大学時代の仲間には、こうした活動の行き詰まりから来る無力感に打ちひしがれて、下宿に帰って来なくなったと思ったら、どこかの倉庫で自死を遂げていたという人がいた。『桐島です』の高橋=梶原の「やさしさ」は、こうして日本帝国主義を憂えて自分のキャリアを棒にふって爆弾を仕掛けたり、懊悩のあげく自死するような、危ういまでに純粋な若者たちに注がれるのだった。
実際に爆破に巻き込まれて片目片腕くらいなくしていたかもしれない自分としては、到底現実の桐島聡に「やさしさ」を寄せる気持ちなどにはなれないが、この映画のなかの虚構内の桐島聡(毎熊克也)に仮託して、今や失われた純粋に社会を憂うる青春像を「やさしさ」と共感とともに描くという意図には賛同できる。映画での桐島は想定外の爆弾の威力に戦慄しつつ、一般の死傷者が出たことに深く動揺しており、老いてなおクルド人問題やテレビでの安倍晋三の軍備発言には押し隠していた純粋な怒りの突沸を見せる。そんな純粋な桐島くんが長い潜伏人生のなかで束の間好きな女子(北香那)と河島英五の『時代おくれ』を唄うところなどはついほっこりさせられてしまう。
そんな一種オリジナルのメルヘンとして見れば、半径数メートルの世界のことしか見えておらず、エゴイスティックに自らの利益ばかりを主張、死守するばかりのオトナや若者たちの「現在」を、ここでの桐島くんはその汎世界的な「やさしさ」「思いやり」によって撃つ存在なのである。あまつさえ、そんな今や希少種の桐島くんは純粋すぎて不器用で、なんと愛すべき存在にすら見えてくるのだった。そんなわけでこれは大過去の「戦い方」をしみじみと回顧するノスタルジーの映画ではなく、虚構の桐島くんまたはウーやんに「戦い方」のアップデートを読もうとする「現在」に向けられた映画なのである。
そしてラストシーンは、桐島くんともども逃げきった同志の大道寺あや子らしきゲリラのAYA(高橋惠子)がどこかの国のアジトで浅川マキを聴きながら銃をメンテナンスしている。今もなお武装闘争を続ける彼女も、よわいを重ねすっかり面変りした宇賀神寿一(役が憑依したような熱演の奥野瑛太)ともども、これがただの逃亡潜伏劇ではなく桐島くんなりの「戦い方」と解してあの告別の表情を浮かべたのだろう。