高さ10メートル級の高石垣。主郭部の建物を隔絶するように築かれている

高さ10メートル級の高石垣。主郭部の建物を隔絶するように築かれている

 文献や絵図などの史料が限られる安土城研究において、県教委の報告書は重要な基礎データになっている。それゆえに、伝羽柴邸跡の名付けなどは見直し、さらなる学術的な調査を求める声は根強い。争論に及んでいる研究者同士にあってもこの点では一致をみる。

■「穴太衆の石垣」でも消極論

 安土城の石垣は「穴太衆」が築いた-。近江坂本の石工集団が主導したとのイメージは根強いが、研究では消極論も高まっている。

 安土城では高さ10メートルを超える高石垣が初めて登場し、伝屋敷地も石垣を施す総石垣化された。石垣そのものは、信長が先んじて築いた小牧山城や岐阜城でも用いられてきたが、千田嘉博氏の著書によると、石積み技術にとどまらず、石の選択や運搬方法を含んだ変革だった。「穴太衆をおいてほかにはなかった」。

 一方、中井均氏によると、穴太衆と安土城の関わりは、江戸時代中期の『明良洪範』に記されたものという。半面、瓦や金具などの工人名を書き連ねた『信長公記』に、その名はない。大津市坂本の里坊にある穴太積みの典型例とされる石垣は18~19世紀とみられ、戦国時代の作例はほぼ存在していない。

 「信長の石垣は巨石を用いて積む点に特徴がある。小牧山城や岐阜城の段階からみられ、独自の職人集団が組織化されていた」(中井氏)。石垣をより多用した安土城では穴太衆も在地職人として動員されたが、関わりは部分的とみる。

 飛躍のきっかけは関ケ原合戦後の慶長の築城ラッシュにある。全国で築造や指揮を行い、石垣普請に特化した職能集団として名声を上げていったようだ。