特別史跡安土城跡平面図

特別史跡安土城跡平面図

 中井均氏が「石垣、瓦、礎石建物の3点セット」のパーツ展開を提起したのに対し、奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)は「城の構造にある」との立場だ。

 天主のある主郭部を頂点に、「求心的」「階層的」に家臣屋敷などを並べる曲輪(くるわ)配置が確立され、戦国時代の並立的な配置から一変したとの見立てだ。「近世社会の構造と一体となった城のかたち」(『城郭考古学の冒険』)をなし、後の城と城下町を通じた身分制居住の兆しをみる。

 半面、中井氏が挙げる三要素は「表層」の特色とみなす。関東や東北ではこのパーツを持たない城も築かれることを踏まえ、「『完全な』近世城郭は成立しなかったことになってしまう」と疑義を示す。「城から個性豊かな地域の歴史を読み取ることを放棄しているのに等しい」
       
 千田氏の説く城の構造論に対し、中井氏は「戦国時代の山城と何ら変わらない」と切り返す。

 山頂から階段状に展開してゆく曲輪配置は、むしろ浅井氏の「小谷城」などの戦国大名の山城に似通っているとみる。

 階層性への疑問は、重臣らの屋敷が安土城内にあったという考古的な痕跡が見つかっていない点にもある。「戦争続きで、重臣は領国や戦地で多くを過ごしていた。城内に屋敷を持つ必要がなかった」。平面図には「伝羽柴秀吉邸跡」「伝前田利家邸跡」と記されているが、この屋敷名は江戸時代の絵図に基づく後世の想像に過ぎない。なお、伝羽柴邸跡を信長の山麓居館だったと推測する。

 「山頂の主郭部に加え、山麓にも信長居館があったとすれば、城の構造は二元的な戦国山城そのものといえる。信長公記が安土城ではなく『安土山』と記している点が大いに物語っている」(中井氏)。
       
 こうした争論の背景には、20年間にわたる滋賀県教委の発掘調査成果が2008年度までに公開された点がある。報告書を通じて研究を進めたのは確かだが、異論も目立ってきている。

 例えば、伝本丸跡を天皇を迎える御殿と考察したことに対し、建築史家の川本重雄・京都女子大元学長は「虚像」と言い切る。

 県安土城郭研究所長だった藤村泉氏は、天主近くに「行幸の御間」があったとの信長公記の記述に、礎石跡の配置が豊臣秀吉期の内裏清涼殿を思わせるという考察を重ねて、この説を唱えた。だが、川本氏は「行幸に求められたのは清涼殿ではなく、天皇の居所を含んだ御常御殿だ。山頂に御殿を建てようにも、天皇の出入りや儀式に欠かせない南階や南庭を備えられる空間がない」と否定する。