野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

10月4日、東京・渋谷の「ユーロライブ」で、10・8山﨑博昭プロジェクト主催による秋の東京集会「きみが死んだあとで」上映とトークの会が開催された。今回のブログはその会の午前の部の概要である。
「きみが死んだあとで」は、「三里塚のイカロス」の代島治彦監督の最新長編ドキュメンタリー映画である。
コロナ禍の中ということで、感染予防対策を講じた上ての開催だった。

1

2

3


【「きみが死んだあとで」上映とトークの会】
2020.10.4 渋谷ユーロライブ
午前の部 10:00 ~14:45

<主宰者挨拶>
司会:佐々木幹郎
本日はどうもようこそおい出下さいました。2020年秋の山﨑博昭プロジェクトの集会、本日は代島治彦監督の「きみが死んだあとで」の完成披露上映会です。
最初に、当プロジェクトの代表山﨑建夫から挨拶を申し上げます。

4


山﨑建夫
おはようございます。朝早起きして大阪から飛んできました。
2014年にプロジェクトを立ち上げてから、記念碑を建てよう、ベトナムに行こう、それから記念誌を作ろう、これはちょうど50周年の2017年の10月にすべてやり遂げることができました。本当に応援して下さった皆さまのお陰です。本当に感謝しております。ありがとうございます。
今日は代島監督の映画ですけど、プロジェクトで第1回目に「現認報告書」というのを上映して山本さんのお話を伺いました。その「現認報告書」に関わった大津さんとも親しい関係であられた代島さんが、今回50年目にして新たな映画を作られた。


5

ある時はカメラなしで、ある時はカメラマンをご一緒させて、僕は3日間取材を受けたんですけど、めちゃくちゃ3日もおったら(生活)全部写されるのではないかと恐れていたんですけども、そこまではなっていないようで安心しました。それで映画の題名が「きみが死んだあとで」、本当にそうなんですね。弟が死んだ後で三里塚闘争、佐世保闘争、大学闘争も起こっているわけで、彼はその後どうなったかは何も知らない。死んだ後での人たちが、もちろん映画にも出てくるわけですけれども、先週すごくうれしい話が飛び込んできたのでご紹介しておきます。
2年前に中央大学の学生さんが取材したいということでお話したんですが、それを基に卒業論文を書かれて、それが認められて中央大学出版局から出される冊子に載ることになった。すごくよかったねと、頼まれて推敲していたんです。そこにメールが入って、関西大学の学生が大阪のプロジェクトの活動や、私たちのことを取材して、これは映像で卒業制作された。これが「地方の時代映像祭」で入賞したと、2つ嬉しいことが重なって、ちょっと嬉しくてクラクラしました。そういう若い人たちが50年後になって、それなりに興味を持ってやって下さる。すごく嬉しいです。
最後に一つお願いです。もし賛同人にまだなってない方がおられましたら賛同人になって下さい。お願いします。それから記念誌も、映画に出てくる人間はほとんど記念誌に投稿しています。記念誌もよかったら買って下さい。
最後にお願いして挨拶に代えます。(拍手)

<上映>


6

7

8

<午前の部トーク>
代島治彦監督と映画出演者登壇
司会進行:佐々木幹郎(大手前高校同学年/詩人)
登壇者
代島治彦監督
1958年埼玉県生まれ。「三里塚のイカロス」(2017年監督)で毎日映画コンクール・ドキュメンタリー映画賞受賞。他の映画作品に「パイナップルツアーズ」(1992年製作)、「まなざしの旅」(2010年監督)、「オロ」(2012年製作)、「三里塚に生きる」(2014年監督)がある。著書に「ミニシアター巡礼」など。
山﨑建夫 (山﨑博昭の兄)
黒瀬 準 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
向千衣子 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
山本義隆 (大手前高校先輩/元東大全共闘代表)

9

佐々木
長い映画でございました。お疲れ様でございます。
これから、東京の今日の午前部に来ておられる出演者と代島監督とのトークを行いたいと思います。
午前の部、そして午後の部もあるんですけれども、遠方から来られる出演者の方は午前は間に合わないので、午後の部の方でトークに出演していただきます。今日は会場の皆さんとも、本当はこのトークの会でいろいろ質問とかそういうことでやりとりをやりたかったんですけれども、どうしても今のコロナ禍の現状ではそのことは禁止されていますので、申し訳ありませんけれども、トークが終わった後、お帰りになる時にアンケートに詳細なメモを書いていただければとても助かります。どうぞよろしくお願いします。
それともう一つ、これからもこの映画の上映の製作実行委員会はカンパを求めております。上映するためにいろいろお金が必要なんですけれども、トークが終わった後、会場の出口でカンパ袋を持った人間がいますので、どうかよろしくお願いいたします。
代島さん、これ撮影が始まったのは何月でしたっけ。

10

代島監督
え-とですね、2019年の1月から5月くらいにかけて皆さんのところを回って撮影をしました。
何故作ろうと思ったのか、短く言います。山﨑プロジェクトの記録係として2015年くらいからイベントとかいろいろ撮影してきたんですけれども、映像にもありましたけれども、ベトナムへのツアーですね、それに参加して記録したんですが、その時に結構皆さんと触れ合えたんですね。2018年が1968年から50年だったんですね。それでもう一度あの時代を検証するとか、メディアを含めていろんな人たちが、ということがもっと起こるのかなと思っていたら、意外と民博(国立歴史民俗博物館)で展覧会があったりとかしましたけれども、後は当事者が日大闘争だったら日大闘争の当事者が皆で集まるとか、そういうことしか起こらなくて、あれ?何か寂しいなと。僕が憧れた運動はそんなにもう忘れられた存在なのかということで、何かすごく学生運動をやった世代の皆さんが、どっちかと言うと可哀そうに思えてきて、それでちゃんと残そうじゃないかと。それで山﨑博昭プロジェクトに関わっていましたし、山﨑さんの死というものを語る人にいっぱい出会ってきたので、そこから始めて、もう絶対に騒乱というのは表現できないので、山﨑さんの周りにいた人、それから山﨑さんが死んだ後の時代、あるいは山﨑さんが死ぬ前の育った時代を含めて、あの時代っていったい何だったのだろうというのを、その周りの人たちから何かそれを繋げて表現できたらいいなと思って、こんな長い映画になりました。今日はありがとうどざいました。(拍手)

11

佐々木
実は代島監督が最初編集した時は4時間半という長時間でした。

代島監督
僕はそれで出来たと思っていたんですけれども、佐々木さんも含めて何人かに観ていただいたら、「いや~切れるぜ」という感じで・・・。

佐々木
4時間半観客が持たないということで、ここまでになりました。
時間がありませんので次のお話を聴いていきます。黒瀬さんは今日わざわざ大阪から来ていただいてありがとうございました。映画で2回も歌っていますね。(笑)

12

黒瀬
あれは監督に言われたんです。

代島監督
いやいや、歌いたいって仰っていたので・・。(笑)

黒瀬
監督はやっぱりインタビューの達人なので、殺し文句をいっぱい皆に言ってうまく喋らせたと思うんですけども、僕には何と言ったと思いますか?
「この映画は黒瀬さんの歌で持っている」と。(笑)それに乗せられて歌った次第です。(拍手)

代島監督
そんなこと言いましたっけね。でも実際そうですよね。(笑)

佐々木
本当に音程がズレていないところが大したもんだと思った、さすが劇団四季にいた。(笑)
山﨑建夫さん。

13

山﨑
短くなっても2時間超えるのを聞いて、すごく心配だったんです。

佐々木
貴方の体調が?

山﨑
いや、映画の長さが。それで試写会を先に観た黒瀬さんから「あっという間に過ぎるよ。退屈なんかしている暇ない」と言われた。僕は今日初めて観たんですけれども、退屈する暇ないですね。しっかり観せてもらって。
僕が思ったのは、やっぱり監督という仕事というか小説家もそうなんだろうけども、取材することって、すごい体が動くでしょ。必要なところ全部行って、さっき黒瀬さんも言ったように、上手に話を引き出される。だから本当はあの人に会っていろいろ聴いておきたいんだけどなと思う人、僕が果たせていない人がいましたけどね、たくさん彼が取材されて、本当にこちらが教えてもらうこともたくさんありました。監督や作家だとか大変なんだな、すごい人なんやな、すごい仕事なんだなと思いました。(拍手)

佐々木
ありがとうございます。じゃあ向さん、向さんも歌を歌っていただきました。

14

私は取材、撮影の第1号だったものですから、まだあまりプランが出来ていらっしゃらない頃に、ヒントを与えたり、導きの糸になったりした意識はあるんですけど、大体導きの糸というのは出来上がった時には消えて無くなるものなので、6時間も長々と喋りましたけれども、ほとんど私が出てないと、「向さん悪けどね、あんまり出ていないよ」と言われると思って安心して観ましたらとんでもないことになっていて、ちょっと恥ずかしいです。以上です。

代島監督
もっといいお話いっぱいありましたもんね。大学時代とかね。

採用されたのが高校当時の話だけなので、私はまた赤松さんに付いて行かない方でいろいろやって苦労したりしたことはお話しましたけども。また急死した時なんかには特別に何かまとめて下さい。(笑)

代島監督
はい。

佐々木
山本さん。山本さんは昔の東大闘争の頃の映像をわざわざ見せられて、その顔を映されて、大変でしたね。

15

山本
いやあ、正直言って自分の映っている映画というのを、特に若い時の映像を見せられて、ものすごい恥ずかしかったです。(笑)ものすごい照れ臭いというかあれですけど。
あのね、一番僕の印象は、ここに居る向さんにしろ黒瀬君にしろ、山﨑君もそうだけど、大手前高校というところ、大手前高校というのは、大阪のちょうどお城の前にあるんです。元旧制の女学校です。それを67年に卒業しているんです。僕はその7年前の60年に卒業しているんです。たった7年で高等学校の雰囲気がものすごい変わっている。僕らの時の大手前高校では考えられないですよ。佐々木さんが65年頃は変化の時代だと言ったけど、やっぱり60年代というのはすごい変化の時代なんだなと、それは改めて思いました。

16

それはあれなんだと思うんだな。60年安保の時に、僕は60年安保の最後の日、6月20日の晩、国会前で徹夜した口だけども、その時に総評の幹部なんかが「10年経ったらまた闘いましょう」みたいなこと言っているわけだ。安保条約というのは10年後に、日米両方から廃棄を通達できると。それを学生は真に受けたんだよ。言っちまえば。それを真に受けたのが三派全学連なんだよ。(笑)だからね、60年安保を超える。60年安保は負けたんだからそれを超えなきゃいけないということが一つあった。もう一つは、これは僕はあまり考えていなかったんだけど、その時に、60年の共産主義者同盟、ブントがやった役割をどの党派がやるかということが、みんな頭の中にあったみたいだと思う。結局、そういうことだったと思うんだよ。僕なんかそんなこと全然考えなかったけれど、ただ70年は何かやらきゃいけないというのはすり込まれとったんだね。考えてみたら10年先の政治課題が決められている時代なんてありゃせんですよ。今の2020年に、2030年に何があるか誰も分からんですよ。来年のことだって分からん。それが10年先の安保闘争をやらなきゃいけない。それは60年安保を超えなきゃいけない、そういうことが始めからあったんだね。それで若い学生はそれを真に受けたんだよ。偉い人たちは知らないよ。俺たち大学に入ったばかりでほとんど何も知らないような(若い学生は)、「ああそうか、10年先にやらなきゃいけないのか」と(思った)。それがずっとあって、僕の高校の頃なんか、例えば政治党派が高校にオルグに来るなんて考えられないですよ。信じられないですよ。そういう変化があの10年間、特に65年からの間にあったんだなと、それは本当につくづく思いました。
それから救援会のことも言いたいんだけど、打ち合わせの時に「午前の部と午後の部があって両方ともトークがあるけど、同じ話をするのか」と聞かれて、それは芸がないから、救援会のことに関しては午後にします。(拍手)

17

佐々木
どうもありがとうございます。山本さんは山﨑プロジェクトが始まるまでは、こんな話はどこにもされていなかったわけですよ。このプロジェクトが始まってから堰を切ったようにいろんな本を書かれ、そしてこういう場所でいろんな話をして下さるようになりました。
大手前高校という名前が出ましたけれど、この映画にもたくさん出てきて、その同窓生、同期生が登場しているわけですけれども、可哀そうな高校で、我々が暴れすぎたお陰で、翌年から教育委員会からものすごい締め付けが来まして、今の大手前高校は全くかつての雰囲気はありません。単なる進学校・受験校になっているのは、本当に申し訳なく可哀そうに思うんです。去年、実は大手前高校に僕が同窓会の会館に呼ばれて、同窓生への講演会をさせられたんですけど、その時に、僕は専門が詩ですので、中原中也の詩について講演するという名目で行って中也の話を前半しまして、後半は全て山﨑博昭の話に結び付けました。しかし、同窓生の中で、あるいは大手前の若い卒業生もいましたけれども、誰も知らなかった。抹殺です、この50年の間に。それで大手前高校の図書館に10・8山﨑博昭プロジェクト編集の「かつて10・8羽田闘争があった」(寄稿篇・記録資料篇)2冊本を寄附してきましたので、無理やり今の在校生はその背表紙を見るだろうと思います。
時間、まだある?大丈夫?じゃあゆっくり行こうよ。
黒瀬さん、もうちょっと喋ってよ。

(「歌ったらいいじゃない」の声)

代島監督
「北上夜歌」の替歌なんですよね。

18

黒瀬
(映画の中で)「北上夜歌」の替歌を歌ってましたけれども、あれは2018年の関西の秋の集会の打ち上げの二次会の時に、当プロジェクトの辻恵さんが、普通の集会の時でも出席者全員に意見を言わせたがる人で、集会が長引く傾向にあるんですけれども、二次会でも一人ずつコメントを言えと。二次会ですから飲食しながらですから別に時間が長くなるということはないんですけれども、僕は困りまして、全然理論的じゃないものですから、皆みたいに理路整然としたきちんとした話は出来ないので、歌でも歌おうかと。それでさっきの歌をそのまま歌ったんですね。そうしたらちょうど真向かいが代島監督で、僕が歌い終わったら、立ち上がってビックリして「初めて聞きました!」と驚かれていたんです。当たり前です。僕は初めて歌ったんですから。(笑)

(注:「北上夜歌」の替歌
♪僕は生きるぞ 生きるんだ
君の面影胸に秘め
思い出すのは 思い出すのは 
弁天橋の青い空)

代島監督
その時、いい歌だなと思いました。

黒瀬
本当にビックリされていたんで、ちょっと困ったなと思っていたんですけれど、心の中では一人でずっと前から歌っていたんですけど、本当に音にして言葉にして歌ったのはあの時が初めてだったんです。だから泥縄のお陰と言いますか、まあそんなところです。

佐々木
向さん、映画に出てこなかったところで、あれを残しておいて欲しかったというシーンはどんなところですか?

19

私は早稲田大学文学部を69年の10・21が終わった時に、それから休学しまして運動から引いたんですが、それでいわゆる革マル派と思われているんですが、私は組織に入ったことがなくて、同盟員候補生くらいでちょっとヤバイかなと辞めちゃったんですけど、その前に反革マルだとキツイと、親革マルではないけど、間のクッションみたいな運動を作ってくれと、あんたしか出来ないと言われて、「口挟まないで勝手にやらせてくれるんだったらいいですよ」と言って、クラスデモというのをやったんですね。それは私のクラスが呼びかけ人になって、各クラス。各個人で参加する。それで結構当たりまして、最後は日比谷野音で全都クラスデモというのをやったりしたくらいで、それは上からの指示があってやったことじゃなくて、結構やりたい放題というか「黙っていて下さい、話は付いているんだから」という感じでやりたい放題やったんですね。それが楽しかったので、そういうことも生き方としたら内ゲバがひどくなる前で、ちょうどいい頃に引いたと言えばそうなんですけれども、そういう楽しい思い出もあの頃にはあったということが、ちょっと伝えたかったなと思いました。

佐々木
なるほどね。

代島監督
早稲田の文学部の自治会の情宣部長をやってらっしゃったんですよね。

一応肩書は新聞部長でした。新聞会にも居たし、学部新聞の新聞部長という肩書はありましたけども。

佐々木
大手前の時も新聞部に居なかった?

居ました。ちょかい出しに行っただけですけど。私はだから大手前では社研とそれから弁論部で文化祭とかで一席ぶつ権利があるというので、そちらの方の活動を主にしていました。

代島監督
4時間半ヴァージョンの時は、その早稲田でのエピソードも入っていたんですよ。20分くらい。どうしてかというと、同じ年、1968年4月に向さんと三田誠広さんが文学部に同時に入るんです。それでKクラスとLクラスという隣りのクラスになるんです。

一緒に写った入学写真があります。

代島監督
三田さんから見た向さんの運動の感じというのも、結構三田さんが喋ってくれて、当時の69年の早稲田闘争の感じが生き生きと描かれて、あともう一つは、向さんが辞める決断をして、その後、組織がそれをなかなか許してくれなくて、それで京都に1回東京から離れるんですよね。離れてくれと言われて。それが「よど号」のハイジャックが起きた1970年3月31日に東京を出て、その間に「海老原君事件」があって、内ゲバで殺された人がいて、それで向さんが京都から71年に帰ってきた頃には状況が変っていて、それで大学を中退するんですよね。

佐々木
あなた詳しくなったね。(笑)

皆さんご存知の事情により登校できなくなったので休学します、という風に休学届を出しましたし、その事態はずっと続いていて、勉学出来ないので退学いたしますと。そういう書面については学校当局も考えて下さい、と書いて出しました。

代島監督
その後、恋愛の話から、結婚というか同居人の話から、その看取りの話まで聴いたんですよ。全部(カメラを)回しています。それで全部書き起こしています。どこを使うか分からないから。

佐々木
あのね、この映画を作るにあたって、編集するにあたって、全部喋っている人の語っている内容を全部文字起こししているんですよ。編集するに際して。それでそれぞれの人間に話を聴いて、別々のシ-ンで別の場所で聴いているんだけど、同じ話が出てきた時に何を語ったか、その語りの内容と全然別のところで別の人に聴いた語りの内容をつなぎ合わせて、それで物語が出来るかどうかという風な、ものすごく克明で丁寧な編集をされております。ただ、語った言葉、文字そのもの、文字起こしだけで繋げていっても映画にはなりませんから、映画の映像のシーンと合わせて、またそこでピックアップするもの、いろんなものをまた選んで編集されている。大変苦労されていると思います。
実は岡龍二というのがダラムサラに居るんですけれども、岡が踊っているシーンは延々と撮っているんですよ。

代島監督
岡さんが、僕が「日本からダラムサラに取材に行きます」と言ったら、3日空けてくれて、全部プログラムを組んでくれていたんです。「全部撮ってくれ」と言われて。単なるインタビューじゃなくて、そこまで準備されていたら(カメラを)回すしかないじゃないですか。

佐々木
岡君は間違って自分の自伝映画を撮り来てくれたと思った。(笑)50年経ってもトンチンカンなことはいっぱい我々は起こしております。
この映画を観て、一番最初の北井一夫さんの(写真の)ベタ焼きのカットがず~と・・。

代島監督
あれは金山敏昭さんです。

佐々木
金山さんか。

代島監督
ベタ焼きは金山さんで、中で使っている1枚物の写真が北井一夫さんです。

佐々木
金山敏昭さんというのは、もう亡くなられました。彼が本当にベタ焼きがずっと続いて行く貴重な写真がたくさんあるんですけれども、あの中に唯一弁天橋の上の山﨑博昭が写っている。3コマだけ写っているんですね。ものすごくボヤけた感じで。我々はそれを非常に貴重なものとして発見するんですけれども、その金山さんは最終的には報道写真家として沖縄で活動され、亡くなられておりました。私たちがあの写真の持ち主を著作権のためにずっと探し続けて、最後にそのことが分かりました。ご遺族から許可を取って記念誌にも載せさせていただきましたし、映画にも使わせていただきました。

代島監督
僕は「まな板の上の監督」なので、批判も含めて何でも言って下されば・・。

佐々木
山﨑さんは、山﨑博昭、弟が生まれてから死ぬまでどこで過ごしたかという場所をずうっと点々と巡られて紹介されましたけれども。

(山﨑さんの発言、マイクなしで聞き取れず)
(「マイク持って」の声)

山﨑
3日間、大阪で泊まって勤務みたいに自宅に通って下さったんです。

代島監督
ラブホテルから。(笑)

山﨑
ラブホテルに(カメラマンと)男2人で泊まって。

代島監督
安宿で。

20

山﨑
俺ちょっと始めはやっぱりビビリましたよ。3日もおったらもう、大体家に居てると、皆だらしないところ全部出すでしょ。外に出るとちょっと頑張ってやるけどね。生活が染み込んでいるところに来られて3日もインタビューされたら、どうしようもないところがいっぱい出てくると思って、ちょっと辛かったですよ。(笑)ただ、映画には使って欲しくないような場面もあったけど、そこはちゃんと使ってなかった。

代島監督
たぶんつい言っちゃったんですよね。

佐々木
でも建夫さんね、記念誌2冊本を編集している時に、山﨑博昭の残した文章、文献を全部集めて下さったんですけど、あの中に、映画の中に出てくる加盟書とか・・。

山﨑
大事なのは出してなかったな。

佐々木
その時は見つかっていなかたんですよ。記念誌を出してからああいうものが出てきたんですよね。

山﨑
ほんまは前から分かってたんよ。

佐々木
本当!ひどい。(笑)

山﨑
持って行くべきかどうかを、僕は加盟決意書なんかというのは公開するのがいいのか悪いのかとかね・・。

佐々木
ああ、そういうことがあったのか。

山﨑
小さい時の日記なんかは、見ても何の価値もないと言われそうな気もするし、だけど彼が来て3日間通ってくれるから、家にある、こんなものあったよ、こんなものあったよと・・。

佐々木
どんどん出させる、ずるずると。

山﨑
家にそのままあったわけよ。置いてあるわけ。そんなもの記念誌を作る時に必要あるかないかというのは、必要ないやろなと。

黒瀬
僕は山﨑博昭君の小学校の文集で、ローマ字の勉強がはかどっている時にお父さんが帰ってきて、「大家さんのところに家賃を払いに行ってくれ」と言われて、仕方なく行くんですけれども、大家さんに「ちょっと高いところにある電球を替えてくれないか」と言われて、梯子を上って電球を替えてあげたら、アーモンドチョコレートをお礼にも貰ったと。それを持って帰って家族で食べたいうエピソードは本当にジーンと来ましたね。何か貧しさとか貧乏とかいうものが底流に流れている上での昭和の家族の、暖かい、貧しいながらにも結束した、それこそ昭和の家族のいいエピソードだなと思いました。今も年号なんて本当に意味がなくて、今はもう使っていないですけれども、我々は昭和というものにどっぷり浸かっていますから、やっぱり昭和という意味でも、あのエピドードには感動しました。

佐々木
そうですね。僕も何か「三丁目の夕日」みたいな物語だなと思って、(笑)いかにも山﨑らしいなと思って。
お葬式のあった日の写真も出てきましたけれど、近くの会館での。お葬式の列の真ん中あたりに僕がいるんですよ。あれは俺だと僕にしか分からない。あの頃は本当に会館の周り、それから住んでおられた家の前なんかでは、本当に実りの秋の稲穂がずらっとまっ黄色で、それが全部垂れているんですね。それが目の底に焼き付くような感じで、今でもありありと覚えています。それからお葬式の場所に参列したことが、この映画を観たら蘇ってきました。
ただ、僕にしてもそうです、黒瀬も向さんもそうでしょうけれども、大手前高校の同期生、同窓生というのは、50何年経っても10・8のこと、それから高校時代のことというのは、山﨑の名前と共に、本当に近い過去として身体に焼き付き、焼き付かれてこれまで過ごしてきたように思います。皆の話を聴いていて、皆そうだったんだと。その角度はちょっとずつ違うけれども、でも身体が焼き焦がされるようにして、53年前のあの日を通過して行ったんだと。それ以降、いろんなことがあったにしても、言葉にしない時期が、出来ない時期が何十年も続く人たちが、この映画中でもそして記念誌の中でも50年を越えて語り始めるということをやっているわけです。お前たちは何をしているのか、という風に問う人もいると思います。でも、はっきり言います。「言葉を残したいんだ」と。死者を追悼し続けることによって言葉を残す。我々が生きる、生き続けていくということの言葉を残したい。
この映画の中で、僕はやっぱり冒頭に代島さんが、僕らの世代より下ですけれども、世代が下の人間としてこの映画を作るというスタンスを、自らが雨の弁天橋の上に立って、橋の真ん中で山﨑博昭の写真をずっと掲げながら立っている、そして最後の締め括りもそのシーンで終わり、そして最後に山﨑博昭の雨に濡れた顔が映る。この映画のスタンスというものは、はっきりしていると思います。喋られた内容、そして聞かれた中で、俺は違う、あそこのところ違うじゃないか、いろんな思いを持たれたと思う。でもね、それは全員が持っていいと思うし、この50数年というのは、その50数年だったと思います。あの時代を生きた人間にとっては。初めて観る人にとっては、これはいったいどう観るでしょうか。そのことが、とっても聴きたい。
本当は今日の皆さんとの、この中でいろんな質疑応答があったりしたら、僕はそのことを一番聴きたいですけれども、残念です。アンケートに絶対書いてね。我々と同世代の言葉も欲しいけれど、もっと若い人たちの言葉も欲しい。
ここから始まるんだよというその思いでいます。
出口にカンパ箱を持った人間が立っております。その中にカンパを入れると同時にアンケートを提出していただければということです。カンパしないとアンケートは入れられない(笑)、そんなことはないです。
どうも皆さん、長い間ありがとうございました。(拍手)

代島監督
この映画はたぶん来年の2021年の4月、ゴールデンウイークくらいから、ここの1階上のユーロスペースで公開し、その後全国の映画館で公開していく予定ですので、またその時はご支援お願いします。
今日はありがとうございました。(拍手)

佐々木 
どうぞ映画の宣伝もよろしくお願いします。

21


●代島監督のフェイスブックより
10/4(日)に渋谷・ユーロライブで開催した「10・8山﨑博昭プロジェクト2020秋の東京集会」の映像報告(ダイジェスト版4分)をYouTubeにアップしました。
長編ドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」とはどんな作品なのか?ちょっとだけわかってもらえるかもしれないのでぜひご覧ください。

合わせて、当日集まったアンケートから「きみが死んだあとで」感想を抜粋しました。(ちょっと長くなりますが)以下にご紹介しますので、ぜひ読んでみてください。
「きみが死んだあとで」は2021年4月下旬GWに渋谷・ユーロスペースで封切!その後、全国でミニシアターを中心に公開していく予定です。

◎2020秋の東京集会「きみが死んだあとで」感想抜粋
正直なところ、多くの犠牲者があった当時の運動のなかで、なぜ10・8の山﨑さんの事件が重要で、クローズアップされるのか理解できてはいませんでした。しかし、映画を通じて事件がひとつの権力の弾圧による悲劇ということを超えた、学生運動というものの歴史的な意義を表す鏡でもあると感じました。また「学生運動とは何だったのか」と漠然と感じている多くの若者に当時のリアルな当事者の姿を伝えることができる、すばらしい映画だと思いました。来年の全国公開が楽しみです。
(K.M 男性 上智大学生)

私は1969年に大手前高校に入学したが、この時に映画(前半)で描かれた事実(山﨑さんたちが行ったこと)を知っていればと痛切に感じた。
(T.T 男性 大手前高校同窓生)

生きる上で、いままでの原点(50年前)の意味をみなさま(登場人物)がよく考えておられ、教えられました。心優しいみなさまに感動しました。
(M.M 男性)

私は現在大学2年生ですが、当時同じ年齢くらいの学生らが各々の志のために闘う姿に感銘を受けました。
(S.M 女性 聖心女子大学生)

とても感動的な映画でした。2回泣きました。トークの会も素晴らしかったです。
(T.I 男性 元革共同全国委員会同盟軍)

よかったです。山本義隆さんの話(内ゲバに関しての話)、佐々木幹郎さんの話(天草の漁師の話)、山﨑建夫さんの話(博昭さんの子どもの頃の話)、水戸喜世子さんの話(救援センターの話)などが印象に残っています。
(N.H 男性)

セクト、それも関西地区の高校からの活動、同世代であっても知らなかった「物語」であったが、理解できた。個人的には東大核研で学生(大学院生)として世話になった水戸巌さんのカラー写真が多数紹介されていて感激した。
(M.K 男性)

感銘を受けました。当事者たちの肉声を聴くことによって、いままでベールに包まれていたことが立ち現れました。ありがとうございました。
(M.A 女性)

とてもわかりやすく編集されていた。
(K.T 女性)

目から「ウロコ」。高校社研などから大学入学→中核派へ。青年のほんとうの純粋な考えが伝わってきた。セクトの気色に染まらず「純」に生きた高校の同級生を知って感動。
(S.H 男性)

大変感動いたしました。山﨑博昭さんが提示した問題群はいまもあるものだと思いました。
(H.F 男性)

映画の中で語られた内容についてどうとらえるか、これからじっくり考えてみたい。出演者すべての方の人生を映した発言の重さをしっかりと受け止めたいと思っています。
(K.M 女性)

(終)


【お知らせ その1】
hakusho_cover_1127_page0001_1_1

白書副読本チラシ_ol_1105_page0001_3_1

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』12月刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
情況出版刊
予約受付中(チラシ参照)

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。



【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

img738_1


本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月27日(金)に更新予定です。

今年の10月8日は、1967年10月8日に佐藤首相の南ベトナナム訪問に反対する学生・労働者が、羽田空港周辺で阻止闘争を繰り広げた第一次羽田闘争から53年目となります。また、この闘争の中で羽田・弁天橋の上で亡くなった京大1年生山﨑博昭さんの命日でもあります。
10月8日に10・8山﨑博昭プロジェクト主催の「53年目の山﨑博昭命日の集い」が現地で開催されたので行ってきました。
京急「天空橋」駅を降り、改札を出て長い通路を歩き階段を上がると、外は雨でした。
弁天橋に向かう橋の上から弁天橋方面を眺めると、雨に煙って遠くまで見えません。10分ほど歩くと、雨の中に弁天橋が見えてきました。

1


弁天橋の「鳥居」前が集合場所でですが、少し早く到着したので誰もません。「鳥居」前の広場からしばらく沖合を眺めていると、ポツリポツリと参加者が集まってきました。
山﨑プロジェクトの発起人である詩人の佐々木幹郎さんも弁天橋を渡ってやってきました。
あいにくの雨で「集い」の参加者は11名と少なかったですが、佐々木さんの挨拶の後、全員で弁天橋に向かって黙祷をしました。


2

3


黙祷の後、移動のため弁天橋を渡っていると、佐々木さんが「花がある!」と声を上げました。橋の欄干を見ると「追悼」と書かれた紙とともに花が添えられていました。


4

橋を渡った欄干の下にも白菊の花が供えられていました。


5

佐々木さんのフェイスブックには、この時の様子が次のように書かれています。
「どなたかの手で、橋の東詰めの柱に、追悼の文字と花束がくくりつけられ、西詰めの柱には白菊がひっそりと置かれていました。全員が、静かに感動しました。プロジェクトの活動が始まって7年目、初めてのことでした。」

その後、弁天橋の近くにあるお地蔵さんにお参りしました。
お地蔵さんもマスクを付けてコロナ禍の終息を願っているようでした。
マスクが取れるのはいつの日になるのでしょうか。


6

山﨑博昭さんのお墓のある萩中公園近くの福泉寺にはバスで移動。バスで5分ほどの距離なので、バスに乗らず歩いて行く人もいました。(バスの待ち時間が長かったので、歩きの人の方が早く着いてしまった。)


7

福泉寺にあるお墓と記念碑の前で、発起人である歌人で台東区の法昌寺の住職、福島泰樹さんの読経の中、参加者全員がお参りをしました。


8

9

10

この墓石と記念碑は、以下のような経緯で建てられたものです。

「福泉寺」の墓地に「山﨑博昭」の名を刻んだ墓石と、1967年10月8日の第一次羽田闘争と反戦平和を祈念する文章を刻んだ墓誌を併設し、この墓石と墓誌をモニュメントとすることにしました。
墓石の文字は大手前高校の同期生である書道家の川上吉康紙により、中国古代の漢字書体「金文(きんぶん)」で揮毫したものです。
墓誌には以下の文章を刻みました。

(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建立

福泉寺での墓参の後、萩中公園集会所の中の食堂で昼食(ビールも)を取りながら懇談をしました。
初めて参加した方もいたので、参加者が各々自己紹介と「10・8」についての思いを語りました。
その中から何人かの方の発言を紹介します。

長野県から参加した夫婦。(初めての参加)
1954年生まれです。10・8の時は中学2年生でした。10・8ショックがありました。その後、大学に入った時は内ゲバの時代で学生運動に関わることはありませんでした。生まれも育ちも横須賀だったので、ずっと市民運動で反戦運動をやっていました。自分の原点を作ったのは10・8でした。

当時明治大学の学生 Iさん(ML派)
10・8は前日に法政大学に泊り込んでいて、誰がどういう風に分けたか分からないけれど、校舎を隔てて中核派がいた。当日は京浜急行の「大森海岸」駅で電車を降りて、一番近い高速のランプから高速道路に入って、最初は障害物がないからスイスイ走って行った。ML派の東間(とうま)が指揮して道を間違えた。現場の指揮は東間だったらしい。本人に聞かないと分からないけれど。(注:中核派を除く三派全学連の部隊は鈴ヶ森の高速の出口から入って東京方面に行ってしまった。羽田空港とは逆方向。)
当時川崎に住んでいいたので、羽田空港の方向は分かる。だけど指揮者が「こっちだ」と言うので、迷わず行った。何故かと言うと「陽動作戦」をやっていると思った。今日は相当大きなことをやるので、機動隊を引き付けて分散させるのだろうと思った。指揮者に「空港はこっちだ」と素直に言えばよかったけれど、大きな闘争だから「陽動作戦」と思い込んでしまった。最初は機動隊がいなかった。阻止されると思って覚悟して入ったけれど誰もいない。だけど機動隊に慌てて追いかけられて、後ろから警棒で殴られてそのまま気絶した。気が付いたら牧田病院(注:山﨑博昭さんの遺体が運ばれた病院)で寝ていた。その時、同級生(注:救対だと思う)が助けてくれた。もし彼女がいなければ僕はどうなっていたか分からない。牧田病院には1週間くらいお世話になった。
だから山﨑君の死亡の件は後で聞いた。
11・12(第二次羽田闘争)の時は復活して、「このやろう」と思って、大鳥居に行ってずいぶん暴れた。

当時横浜国立大学の学生 Kさん
私は大学3年生で、当日弁天橋の上にいました。羽田空港に向かって弁天橋の左から半分落ちかけて運よく助かって、だから今生きています。泳げないので、落ちそうになった時に「死ぬ」と思いました。もしかしたら私も当日亡くなっていたかもしれないと思って、ずっと運動から離れていましたが、ご縁があって、プロジェクトの手伝いをさせていただいています。

福島泰樹さん(山﨑プロジェクト発起人)
53年前の10月8日は寺の修行僧として関西におりました。たまたまその日は休みでラジオを聞いていて山﨑博昭の死を知りました。夜、塀を乗り越えて新聞を買いに行ったりテレビにかじりついたり情報収集をしていましたが、こういう形でしか連帯できないのかという思いがあり、それが「バリケード・1966年2月」という歌集になってきました。
爾来53年経ちまして、改めて「何も終わっちゃいない。何も終わっちゃいない」そんな思いで、今、死者との共闘、「死者は死んではいない」という思いの下に、経産省前で毎月祈祷会をやっております。

山﨑博昭さんの高校の同級生
山﨑博昭君とは高校2年時の同級生で、10月8日は予備校にいました。
「山﨑が死んだ」というニュースが一斉に予備校の中に知れ渡りまして、「あいつが死ぬはずがない」ということで急に腹が立ちまして、その日だったと思いますが、扇町公園のデモに生まれて初めて参加しました。
その時以来、山﨑君の影を背負って、山崎君は死んで自分は生きているという思いが残っていました。

「集い」が終了して帰宅。
その夜、福島泰樹さんから参加者の皆さんへ、ということで、次の一文が送られてきました。

「1967年10月8日」から数えて53年! 
第一次羽田闘争の若き戦死者、京大生山﨑博昭を偲び、当時の学生たちが、雨の弁天橋に集い、反戦平和の祈りを捧げた。
生きていれば君も71歳。
「死者なれば君らは若く降り注ぐ時雨のごときシュプレヒコール」


※ 次回のブログで10月4日に開催された10・8山﨑博昭プロジェクト2020秋の東京集会『「きみが死んだあとで」上映とトークの会』の午前の部の報告を掲載予定です。
(終)

【お知らせ その1】


hakusho_cover_1127_page0001_1_1

2020at_hyou1-4_D_092501_page0001_1


『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』12月刊行!
(「続・全共闘白書を読み解く」のタイトルを改めました)
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『続全共闘白書を読み解く』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,800円(税別)
情況出版刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。



【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月13日(金)に更新予定です。

今回のブログは、7月19日に中央区の日本橋公会堂で開催された「補償なき『自粛』要請と学費問題を考えるシンポジウム」の第一部の概要である。
6月の明大土曜会でスピーチをお願いした、慶應大学の田中駿介さんを中心とした「補償なき『自粛』要請と学費問題を考えるシンポジウム実行委員会」の主催である。

1


 <シンポジウム・アピール文>
 私達は、困窮者です。私達は、ふつうの人々です。
 私達は、「補償なき自粛要請」の犠性者です。このままでは、私達は新型コロナウイルスではなく国家の「要請」によって殺されてしまうでしょう。
これまで安倍首相は科学的根拠に基づかない「緊急事態宣言」を一方的に発令し、一方的に解除しました。その間外出の「自粛」、休業の「要請」が呼びかけられてきました、
 しかしその間に給付されたのは、た、った「1Q万円」です。
その間、私達は飢えてきました。仕事をしなければ食べていけないのですから。この先どうやって、生きていけばいいのでしょうか。
 学生が困窮している事態も深刻です、ただでさえアルバイトを解雇された学生が多くいるなか、キャンパス封鎖により満足な授業が受けられない状況が続いています。それだけではありません。就職活動にも影響か出ており、「新たなロスジェネ」が生まれかねない事態になっています。しかも、留学生のみに「成績要件」を課す緊急支後金制度を行うなど、あきらかに安倍政権はコロナに乗じて留学生・外国人差別を行っています、そうした事態に鑑みても、「補償」なき自粛要請はナンセンスであると訴えます。これは生存にむけた闘争です。補償なくしては、仕事もなければ、稼ぐあてもありません。
 今回の集会では、そうしたコロナ禍での課題を共有し、これからの闘いへの知恵を探ることを目的としています。闘いぬきましょう。連帯しましょう。黙って野垂れ死ぬな、生きて奴らにやり返せ!!

【第一部 補償なき「自粛」問題を考える】
<発言者>
・田中駿介(コーディネーター)
慶鹿義塾大学法学部4年。北海道出身。政治哲学を専攻(副専攻は戦後市民社会論)。高校時代、政治について考える勉強合宿を企画。若者と政治参画を論じ、慶大「小泉健三賞」、中央公論論文賞・優秀賞を受賞。大学では「丸山侃男と高畠通敏の市民運動論の差異」について研究している。「論座」「情況」等で執筆活動も行う。       ニ
・滝 薫 
青山学院女子短期大学卒業。元美容webライター。多様性を認めずモテを重視するメディアのあり方に疑問を覚え、ジェンダーに関心を持つ。朝日新聞社「か
がみよかがみ」においてエッセイを執筆。現在就労移行支援に通う精神障害当事者。
・大谷行雄
1970年東京教育大学付属駒場高校(現・筑駒)卒業後、南イリノイ州立大学留学。日本企業米国支社長などを経て在米33年。後に中東と日本の文化経済交流の活動でドバイを中心に在UAE7年。帰国後、アメリカ、ドバイ、ベトナムでビジネスと社会活動を展開中。
高校時代は、ブント社学同高校生委員として所属、現在、10・8山崎博昭プロジェクト事務局員。
・Aさん(オンライン参加)
早稲田大学国際教養学部3年(言語学)。シンガポール出身。北京大学国際関係学院留学経験あり。日本政府の留学生入国「禁止」措置により足留めになっている当事者

2


田中
本日はお忙しい中、お集まりいただきまして感謝いたします。
私は慶應大学法学部4年の田中駿介と申します。
今回の主旨としては、第一部では補償なき自粛要請、つまり新型コロナウイルス感染症下において学生が困窮している問題もありますが、他方で政権がやったことというのは、十分な補償をしないで、緊急事態宣言が解除されてもなお、まだ補償がない困窮者が非常に増えている。非正規の方は非常に辛い思いをされています。あるいは留学生、外国に繋がるルーツを持つ方、外国人の方も非常に大変な思いをされています。今日オンラインで参加する留学生の方は、未だに日本に入国ができないでいる、あるいは留学生にのみ3割の成績要件を課した「学生支援給付金」の問題もあります。こうした問題は、まさに私たちが抱えている社会問題がそのまま露呈していると考えてもいいと思います。
こうした問題について、改めて本日のシンポジウムで問題提起をして考えていきたいと思います。

それでは第一部を始めさせていただきます。
発言者を紹介させていただきます。
滝薫さんです。滝さんは青山学院女子短期大学卒業後、美容webライターとして活動されていました。その中で、多様性を認めずモテることを重視するメディアのあり方に疑問を覚え、ジェンダーの勉強をされていました。朝日新聞社「かがみよかがみ」においてエッセイを執筆されたり、上野千鶴子さんと対談されたりとご活躍されています。本日はそういった面と、精神障害の当事者としてのお話もしていただきたいと思います。(拍手)
次にオンラインで参加されているAさんです。Aさんは早稲田大学3年生ですが、シンガポールのご出身で、北京大学にも留学をされていたそうです。Aさんは、現在日本政府が留学生を実質上入国をできない「禁止」措置をしていて、本来であれば日本やシンガポールに戻りたいということがあるのかもしれませんが、中国で実質上足留めされているということです。本日は中国政府のネット規制が厳しくなっているので、「微信」(ウイーチャット)を使ってお送りしています。(拍手)
最後に大谷行雄さんです。大谷さんは1970年に東京教育大学付属駒場高校(現・筑波高校)を卒業後、アメリカに渡米され、在米33年を過ごされました。大谷さんは10・8山﨑博昭プロジェクト事務局に参加され、今年の2月11日に連合会館で行われた「高校闘争50周年シンポジウム」に登壇され、その後、「要請するなら補償しろデモ」全5回に参加されたということで、当時の学生運動と、今後の社会運動を繋ぐ活動をされています。(拍手)

まず大谷さんから2・11の集会から、その後4月のデモに行かれた問題意識や、何故そういった運動にもう1回関わろうと思ったのかについてご発言いただきたいと思います。

3


大谷
大谷行雄です。よろしくお願いします。
「高校闘争から半世紀」という集会が2月11日にありまして、そこで田中君あるいはここにいらしている何名かの若い人と知り合って、我々のやったことを出来る限り次の世代に継承したい、語り継ぎたいということで、若い人たちとの交流を考えていました。しかし、コロナ禍の中でそういう会合を持つことが出来ずにいたところ、田中君から4月12日に「自粛要請するなら補償しろ」というテーマのデモがあるという知らせがあり、そこに参加したわけです。
2・11高校闘争の集会についてですが、三部あって、一部は我々50年前の元高校生活動家が当時のことを話す、それは回顧的なものであったり自慢話にならないように、なるべく若い人たちに理解できるように、次世代に何らかの形で残せるような会にしようという目的ですが、第二部は香港の問題について語り合う、第三部に今の高校生、大学生など若い世代と交流を持とうということでシンポジウムをやりました。
この2・11の集会の後も若い人と交流を持ちたいということで、コロナ禍であり、4月のデモに参加して以降、5回のデモに参加させていただきました。最初は歳も歳なので野次馬的に行こうと思いましたが、やはり血が騒ぐのか一緒にデモに参加しました。私の持論は「自粛要請なんてクソったれ」と思っているので、それに対する反発というか、ましてや政府や行政の方から言われた自粛要請なんていうのはとんでもない、そんなものは政府の思惑でいいように大衆が騙されているんじゃないか、あるいは自粛自粛とさせて皆身動きできなくなって、社会運動が出来にくくされた中での都知事選なんて全くナンセンスであって、私は一切認めていない。
デモに参加するようになったきっかけ、あるいは自分の思惑というのはそんなところです。

4


田中
次にAさんにお伺いしたいと思います。Aさんから留学先の北京大学では、SNSを通じて寮費を返還させる運動を行った人たちがいたと伺いました。僕らの印象では、中国は言論統制や、社会運動が厳しい状況が続いていると報道でも目にしていますが、そういった中で学生たちがSNSを通じて繋がりを求めて運動をしたという話を聴いて、僕も感銘を受けましたが、他方で日本における留学生が非常に辛い思いをされていると思います。そういった話について報告をいただきたいと思います。

Aさん
はい、分かりました。
皆さんにとってコロナはたぶん2,3月頃からだったと思いますが、中国にいる学生にとっては1月末に急にコロナでロックダウンみたいになって、寮費がどうなるか学費がどうなるか不安な状態になりました。その中で、中国人学生が住んでいる寮と留学生が住んでいる寮は違うんですが、中国人学生が住んでいる寮の寮費は年間1万数千円なので、別に寮費がどうこうという問題はなかったと思いますが、外国人留学生が住んでいる寮は、それの30倍くらいの寮費なので、寮費がどうなるのか、私たちが今、ロックダウンで寮に帰れないので、それで通わなければいけないのかという問題が出ていました。それで留学生たちは「寮費問題に関心を持っている人はこのグループに参加して下さい」というものをウイーチャットで送って、私も参加しました。それで何が起きたかと言うと、「寮費をどうしたいのか」というアンケートが送られてきて、その回答を代表者の人が北京大学の担当者に送って、担当者が「回答します」ということになりました。結局、「ロックダウンで住んでいない分は寮費を払わなくていい。荷物はそのままでいい」ということになりました。これを聞いた隣りの清華大学の留学生も、私に状況を聞いてきました。隣の学校にも影響があったということです。何でこういう運動があったかというと、そもそも寮費が高いという問題があると思います。高くなかったら、「まあいいか」となるかもしれませんが、高いからどうしようかということになる。日本の学費返還運動も、そもそも高いからだと思います。
次に留学生の問題についてです。留学生としてコロナ禍を見て、ほとんどの外国人の留学生には日本以外に帰る選択肢があるわけで、日本のニュースを見てどこに住むべきかいつも考えている。帰った方がいいと思ったら言われなくても帰るわけです。もし帰れるのでしたら。正直私はコロナ前は一生日本に住もうかと思っていましたが、日本政府のコロナ対応を見て、シンガポールに帰った方がいいかなと考え始めました。今、正直迷っています。

田中
ありがとうございました。本当は日本で就職して永住も考えた留学生が、今回のコロナ禍で、ある意味、人生設計をも見直さなければいけない事態に直面しているという話は、これから考えていかなければならないと感じました。
ここで滝さんにお伺いしますが、先程デモに行くようになった大谷さんの話もありましたが、この情勢下でデモをすることの一種の恐ろしさみたいなものを4月の時点ではお書きになっていました。
どうしてそのようにお考えになったのか、あるいは、そういった考えも、自粛要請が長引く中で少しずつ変わっていったと伺っています。どのようなご心境の変化があったのか、あるいは精神疾患の当事者として、健常者と言われる人が気付けない、分からないことがあると思うので、そういった話も含めてご報告いただければと思います。

5


滝薫(たきかおる)と申します。よろしくお願いします。私は田中君の友人で、田中君から前々から「要請するなら補償しろ」デモの話を聞いていましたが、正直「何故やるの?」という感じでいました。それまでもデモだけでなく、自粛モードになっていた時、私はマジで自粛していましたが、ゴールデン街で飲み歩く彼と喧嘩したこともありました。
「要請するなら補償しろ」デモの主張としては、「要請するなら補償しろ!休ませたいなら金を出せ!仕事を休むと生活無理だ!自己責任論ふざけるな!」というような主張だったと思いますが、私はこの主張に対して概ね賛成です。概ねというか全然賛成なんですが、正直、あのデモの批評性としての意味はあったと思います。でも私はあのデモの形だけでは、皆さんの作りたい社会の形というのは出来ないと思いました。何故なら、ちょっと過激すぎるなとすごく思いました。
私は精神障害の当事者ですが、家にいたら死ぬと思ってしまいました。コロナに罹って死ぬと思って、3月後半、4月、完全に家に閉じこもっていました。緊急事態宣言が延びた時に泣いてしまって、この生活がもし1ケ月続くとしたら精神的におかしくなると思いました。
私の友達も、「うつ」がひどかった時に、「このまま家にいたらおかしくなる。自殺するな」と思ったらしいですが、私もそのぐらい追い詰められました。それまでは死ぬかもしれないと思いながら外に出ていましたが、悪い言い方をすると「慣れ」ですね。私がここで喋っているのは「慣れ」の力に他ならないと思っています。
私の弟はカラオケ店のバイトをしているので心配になって、バイトを辞めるように説教したほど「自粛警察」的なところもありました。
さきほど「自粛で死ぬと思った」と言いましたが、私が言いたいことは、現在就労移行支援に通っていまして、就労移行支援というのは、精神障がい者が再就職を目指すための福祉施設です。私は今、そこに通っています。緊急事態宣言が出ていた4月5月は、そこは閉めませんでした。障がい者のセーフティーネット、受け皿で、福祉施設は絶対に閉めてはいけないからです。それを伝えたかったです。私は福祉の力を借りて生きていますが、福祉だけに頼るような今のあり方には疑問を覚えています。

6


田中
ありがとうございました、ここから突っ込んだ議論をやっていきたいと思います。私から問題提起をしたいと思います。まず僕が考えているのは、既往症があったり、住んでいる環境に持病がある方や高齢者がいらっしゃることが考えられます。僕自身は比較的若いですし、感染したからといって死ぬとか重篤になることがなかなか想像がしにくいわけですが、他方でそうでもない人がいることも理解しています。ただもう一つ僕が考えなければいけないことは、滝さんが仰ったように、ステイホーム、家に居ようということの要請、考えてみれば例えば70年代の脳性麻痺の当事者の会、「青い芝の会」は障がい者の方がどうやって街に出るかということを闘ってきたはずです。例えば介助の人がいないとバスに乗れないという時代に、自ら身体を晒しながら一人でバスに乗る権利を勝ち取ってきたわけです。あるいは家に居ると障害を抱えた子供たちが殺されたりということもあったわけで、できるだけ障がい者を家庭から距離を取らせて社会に居場所を求める運動をしてきた。つまり社会ではなく家に居ろという要請が、障がいの当事者にとって非常に暴力性があるものだということも、同時に考えなければいけないと思っていました。ですから、こうした問題については今後も考えて行かなければならないと思っています。
他方で僕が考えていることは、リベラルあるいは左派と言われる、今まで人権とかそういったものに価値を置いていた側から、政府が強権的な罰則付きでの自粛、ロックダウンを何故やらないのかという話が出たこともあります。
僕は今回のコロナ情勢下で問題提起したいのは、基本的に「自粛」という言葉は日本語としてもおかしい。辞書を引くと、「自粛」というのは「自らの行為を反省し慎むこと」ということです。「自粛期間」というのも本当はおかしいはずで、これは「謹慎期間」とかそういった意味合いですから、外に出ないことイコール自粛ではありませんし、「自粛要請」という言葉も本来おかしいはずです。
もう一つ考えなければいけないのは、「不要不急」という言葉も、本来は戦時中に鉄道線がここはいらない区間だから戦地に鉄などの資材を回そうということが語源の言葉です。僕自身も北海道に長く住んでいましたが、不要不急線と言われてきた鉄路が、今どんどん廃線になっているわけです。「不要不急」というのは明らかに経済的に、あるいは軍事的に生産性があるものとないものを分かつ言葉であるわけです。ですから今回僕が非常に気がかりなのは、コロナ禍で発生している事態や容貌が、非常に戦時下を想起させる言葉であったり、あるいは「自粛警察」というのは明らかに憲兵を思い起こさせるわけです。どうしても、そのように考えてしまうわけです。
何故今回こうした人々が辛い状況で、連帯して共生とか、よりよい価値観を持った社会にしていくチャンスであるはずなのに、どうして自粛要請とか自粛警察とか、あるいは出国禁止とか、どうしてそういう戦時下みたいなコロナ禍を、戦争に例える首相の発言を含めて疑問に感じざるを得ないところです。
そうした状況で、大谷さんと滝さんからコロナ禍での行動について意見があったと思います。
大谷さん、今までの(デモの)参加したご経験の、ご感想を聞かせて下さい。

15
(ネットより転載)

大谷
滝さんの方から過激だと言われましたが、実際に私も老人の部類に入り、持病もありますので、関わりたくないし、もちろん死にたくないです。だけど、一つには我々には生きる権利と死ぬ権利がある。自分の行動によって自分が死ぬかもしれないということに自分が責任を持つしかないと思っています。さきほど言いましたが、(コロナに)罹るかもしれない、罹ったら死んでしまうかもしれない。別に自暴自棄になっているわけではないですが、田中君が言ったように「不要不急」という言葉で自粛、そしていわゆる同調圧力、そういうものが、いわゆる権力や支配者の保護によって操作されている、それが許せない。これは田中君も言いましたが、戦時中もそうだったし、我々がやっていた学園闘争においても同じなんです。要するに同調圧力というものは、日本人の持っている「和の尊重」というものがあって、結局、我々が学園闘争をやっている時に、いわゆる一般学生が自分たちの授業を妨害するなと言うのを、大学側、権力者が煽っている。それで我々の声が潰されてきた。それと同じように、今も我々が権力や支配者に対して何を言わなければいけないかという時に、コロナのせいで黙っているわけにはいかない。だから多少危険ではあるけれど、出来る限りの防衛策を取って表に出て、声をあげる、デモをやる。むしろデモに関しては私は物足りないぐらいだと思っているので。もちろん(コロナに)罹りたくないし、もちろん他人にも感染させたくない。でもそれは、出来る限りの防衛策を取れば出来ることだし、それによって我々が声をあげられなくなる、自粛から委縮してしまうことが怖い。だからあえて声をあげて「自粛クソッたれ」と言っているわけです。

田中
ありがとうございます。基本的に市民運動や広場、最近も宮下公園の問題などが出ていますが、そういったものを排除しようとする権力側は、よく公衆衛生を口実にして排除するということがありました。大谷さん仰ったように、例えば今回権力者が「夜の街」という言葉を使って職業差別を煽ったり、小学校で新しい生活様式の川柳を作ろうというような貼紙があって、「夜の街には行っちゃだめ」みたいなことを親に呼びかける川柳が書かれていたり、こういう風にどんどん職業差別が連鎖していくのかと怖くなったり、あるいは今小学校だとほぼ強制的にソーシャルディスタンス、僕はフィジカルディスタンスと言うのが適切だと思っていますが、それを取らなくてはいけなかったり、あるいはマスクの着用が学校で強制的にされているわけで、そういった「夜の街」差別みたいなものを小学生のうちから当たり前だと思って学校で教わった子たちが、10年後20年後、社会を回す側の立場になった時にどうなるのかすごく心配しています。
滝さん、この辺の話を聞いて何か思ったことはありますか?

私は自分のことを「いい子ちゃん」だと思っています。「いい子ちゃんリベラル」にかなり当てはまっていて、「言っていることは分かるけど、それでも出来なくない」という立場を取ってしまうことはあります。本当にデモの主旨にも賛成ですし、大谷さんが言っていることも分かります。権力に対して声をあげ続けていかなければならないという義務は、一般市民はみんな持っているものだと思っています。でも「できないよ」という一般市民の声も聞けよと思っています。

7


田中
ここで少し話題を変えます。日本政府が緊急支援金(学生支援緊急給付金)を創設するということで、僕も振り込まれましたが、本来20万円振り込まれるはずが10万円しか振り込まれていない。大学に問い合わせても一向に返答が来なかった。あとから一方的に、20万円振り込まれるはずが10万円しか振り込まれなかった人は非課税証明書を出せという通知が来て、非課税証明書を同時に出しているにもかかわらずそういった通知が来て、改めて再申請しましたが、まだきちんとした額が振り込まれるか分かりません。しかもこれはひどい話で、下請けの会社が絡んでいるので、学校の奨学金の窓口に問い合わせても返信が来ないようになっている、あるいは大学の奨学金の窓口も電話でのやりとりを一切出来ないようにしているので、グーグルフォームを使ってでしか出来ませんが、僕はグーグルフォームで数回奨学金窓口に問い合わせをしていますが1回も返ってきたことはありません。コロナ情勢下でお忙しいことは承知していますが、電話連絡が出来ない、アルバイトが無くなって困窮しているにもかかわらず、本来セーフティネットになるべき奨学金窓口がやりとりをさせないというのは非常にあり得ない事だと思っていますが、それ以上に腹立たしい思いをしたのは、留学生のみに成績要件を課すということです。
成績要件が何故いけないと僕が考えているかというと、成績が厳しい人たちの中には、アルバイトに時間を多く割かないといけない立場だったり、あるいは今回のコロナ禍で図書館がずっと閉鎖されていたので、レポートを書くにしても、お金を持っている学生は月に何万も書籍代にかけることが出来ますが、今、学生が書籍代にかけられるお金は月に平均2千円という統計があって、そういった状況で元々ある格差が成績にも拡大しやすい。もちろん受験でもそうですが、大学に入った後に図書館が閉まっているというのはシビアな問題だと思っていますが、だからこそ留学生にのみ成績要件を課すというのは僕は本当にあり得ないと思いました。
こうした問題に、留学をされている当事者としてAさんに、どのように感じたのか教えていただきたいと思います。

Aさん
コロナで経済的に打撃を受けた大学生に給付金を出します、留学生も対象ですとニュースに出て、次の日に留学生のみ成績上位3割だけ貰えるとニュースに出て、前日に「救われる」と思った留学生が次の日、「あれ、私成績が・・」となっているのが問題だと思います。留学生にのみ成績要件があるのは確かですが、それと同時に日本人学生向けの要件として、今、奨学金を借りている人に限る要件もあります。このような制度にも間接的に成績要件が入っているわけです。上位50%だったり、学ぶ意欲がある学生だったり、そういう要件があるので、間接的に日本人学生にも成績要件があると私は思います。
文科省は何故こういう要件を作ったかというと、いずれ母国に帰る留学生が多い中、日本に将来貢献するような人材に限るようにということで、何しろこれは日本に貢献しようと思っていた留学生も、この方針を知ったら帰りたくなると思う。日本人学生にも間接的にこういう要件が入ってくるということは、つまり留学生に限らず日本の将来に貢献するような人材だけ助けたいというメッセージになるわけです。この給付金は非常に厳しいです。50%収入が減ったとかいろいろあるので、1日1食になっているような学生がこれを待っているので、成績とか、貴方は日本の役に立たないからというメッセージは危険があると思います。
実際にこのような考え方が普通だったら怖いと思いますが、最近知ったのは、八王子市独自の学生支援特別給付金というのがあり、これは1人10万円給付されますが、さきほどの学生支援特別給付金を貰えない学生で、給付型奨学金も貰っていない、奨学金も借りていない学生はこれに申請できるというのがあります。でもこれにも成績要件が入っています。つまり何も貰えなくて成績があまりよくない人はどうすればいいんですか、という問題があります。これは国の学生支援特別給付金制度のマネをしたのではないか、こういう考え方が普通になりつつあるのではないかと思っています。怖いですよね。
留学生は日本人学生と違って、日本にあまり頼れる人がいない。しかも今、自国に帰れない、日本に頼るしかないという留学生がいる。どんな人が日本に来ているかというと、私の場合はシンガポールなので、私の知っている同級生はシンガポールに残っているか、アメリカかイギリスに行っているかで、日本に来ているのは私しかいない。それは何故かというと、まず18歳で日本語を喋れる人は少ない。日本に来ている学生は、基本的に日本の文化が好きで、日本語を勉強して、そのくらい好きで友達と離れてまで日本に来ている。そういう人たちと、もう一種類は、例えばネパールの学生の場合は、ネパール人協会顧問の方のお話では、「ネパールで留学生をリクルートしているのは日本語学校を経営している日本人で、日本でアルバイトが出来ると、あまりお金のない若者に夢を与えて日本に呼ぶのです」ということです。だからこの人たちは借金をしてまで将来のために日本に行くのです。借金を抱えていて自分の国にいる家族も頼れない、アルバイトに頼っているので、留学生は週に28時間まで働けるので、普段はアルバイトに通って1日1食になっている留学生も多い。たぶんこれを見てガッカリして、これは無理だと自分の国に帰ってしまう人もいます。日本語学校も専門学校も留学生が多いので、一部の人が帰ってしまうといろんなところに影響が出ます。ですから、留学生だけの問題ではなくて、みんなの問題として考える必要があると思います。

田中
ありがとうございました。留学生の問題と言っても、特定技能実習生の問題と同じかもしれませんが、私たちがある意味安い労働力として、一種のビジネスとして留学生を招いていたというような日本社会の構造について考え直さなければいけない時期なのかなと思っています。
また、さきほどAさんからもあったように、最近は日本語学校と留学生あっせんがセットになっている。今回、コロナ禍で留学生を受け入れしないということになれば、たぶん多くの日本語学校がこのままだと倒産してしまうかもしれない。仮にそういうような事態を招けば、正に国益に反するような、本来シンガポールもそうですし、中国も戦争中植民地支配された、そういう歴史を持ってるところからわざわざ日本に来ていただける学生というのは、こんな言い方をしたらいいか分かりませんが有難い。そういうことは本当は日本人として反省して考えなければいけない問題ですし、そういった中で日本のことを理解していただくのは、僕は本当に有難いと思っています。一方で、保守派が使いそうな言葉ですけれど、「親日」あるいは「知日」な人たちを自民党は本来育てたいはずなのに、むしろ逆のことをやっているのは何と言えばいいのかと思ってしまいます。
論点が多岐にわたってきましたが、私たち日本社会が抱えている、外国にルーツを持つ人、外国籍の方に対する差別だったり、大谷さんが仰ったように権力者がこういた時になし崩し的に差別だったり新自由主義を進めようとしているのではないかということを改めて提起したいと思います。
最後に滝さんにお話しを伺いたいと思います。滝さん、こういった話を聞いて、今後、コロナ禍で考えたことをライターという立場で発表していきたいとか訴えていきたいということがあれば聞かせて下さい。

今、この状況で思ったことは、自分の考えの不確定さということがすごく恐ろしくなりました、私はさきほども申しあげたとおり、4月は「怖い怖い」と言っていて、5月は外に出て田中君と路上で遊んでいましたので、「変わり身早や」みたいな自分の一貫性のなさというのが、今後書き物をしていく人間としてふさわしいのかどうかということはすごく悩み考えました。
それで出た結論としては、目の前の現実に対峙する、そして考える、そして変わったなら変わったと素直に言う、そのスタンスが今自分の中に核として出来たかなと感じています。
田中君から言われなかったことで、自分が言いたいことがあります。私は人間関係がすごく変わってしまったことに対して恐怖を覚えています。皆さんはどうか分かりませんが、会いたい人にしか会わなくなりました。何と言うか、定期的に会って、たまに近況報告していた友達みたいな人がいなくなりました。
いなくはなっていませんが、たまにラインをしてもあまり話が盛り上がらなかったり、あとは私が考えるのが好きなせいで、言い方は悪いですがノンポリ的な友達に「あいつ変わった」と言われたりして、悪い意味で自分の周りがノイズが無い世界になりました。結構、政治的な価値観が合う人しか周りにいないという世界の問題点についてはすごく恐怖を覚えています。
以上です。

田中
ありがとうございました。確かに会いたい人としか会わない、何でも全部オンラインで、話によると慶應では三田祭もオンラインでやるということで、日常生活のあらゆるものをオンラインで代替しようとしていった時に、思いがけない他者との出会いというものがどんどん無くなっているような気がします。
自分と考えの違う人とどうやって今後関わりを持って行くのかということを、改めて考えていきたいと思いました。

8


大谷
留学生の問題が出ていますが、私が根本的に聴きたいのは、日本において留学生の人権なり権利が認められているのかということです。古い話ですが、私も4、50年前にアメリカに留学生としていましたが、政治活動をすれば則強制送還、留学生の学費は当然アメリカ人の学生より何倍も高い、アメリカの場合は成績だけではなくて、ボランティア的なことをやるとお金を貰えますが、大統領が替わった途端に1通の手紙で切られる、それに対して一切の文句を言えない、そういう状況がありました。今の日本の留学生が抱えている問題というのは、金銭的に辛いということもあるし、田中君が言うように日本の国益にとって留学生は重要なんだけれど、日本において留学生の人権なり様々な権利は認められているんですか?

田中
できればAさんにお願いしたいと思いますが、僕も全然認められてこなかったと思います。他方で、日本にいる留学生の問題で僕が想起することは、一つには在日の韓国人の方で、日本で韓国の民主化を訴えたら、不当にも本人の意思に反して韓国政府に連れ戻されたという事件もありましたし、本当に留学生の闘いというものが、一つには留学先の政府に対するものもありますし、もう一つは母国で何をされるか分からないということもあったわけです。
僕も留学生が抱える問題について課題を知りたいと思いながらも、他方では例えば僕の所属している慶應大学の留学生のサポートをする役割を去年1年間行いましたが、日常的な生活の悩みばかりで、慶應に来ている留学生は比較的恵まれている人が多くいるように思われて、例えば困窮して社会運動をやって弾圧されそうになったというような話とは無縁でした。だからこそ政府もそうだし、大学もそうだし、私たち日本人学生も社会運動をやって弾圧されるかもしれないと考えている留学生を見過ごしがちになってしまった、これは僕自身の問題でもあると思っています。
Aさんからコメントをお願いします。

Aさん
留学生は、まずビザが関わっているので怖いんですよ。何か文句言ったら「嫌なら帰れ」と言われるし、声をあげるハードルが結構高いように思います。あと、言語的バリアー、日本語でうまく伝えられないというのがあると思います。
声をあげるのは無駄だと思っている人はいっぱいいると思いますが、デモはコロナ禍で出来なくてもオンライン署名活動は出来ます。

【会場からの質問】
新宿歌舞伎町のホスト
歌舞伎町でホストをしています楽(らく)と申します。
感想に近いんですけれども、僕はコロナ禍の中で実感したのは「世間の無責任さ」ということが大きいと思っています。事例で言うと、ある俳優がコロナの影響を懸念して降番だか延期をしたんですね。それに対して世間は「無責任だ」とか「職務放棄だ」とか叩いたと思うんですけれども、じゃあ実際にその人がコロナに感染したら「管理が不十分だ」と世間は言うじゃないですか。世間というのはどうすればいいのかを示すのではなくて、ただ文句を言うだけの存在なんですよ。そこがSNSなんかで顕著に現れているのかなと感じました。その世間をどうやって良い方向に向けていくのかみたいなことを考えていきたいですし、どういった考えがあるのかお聞きしたいと思います。
田中さんに世間に対して思うこととか、日本人のあり方ですね。

田中
今仰った話、難しすぎて僕には振らないで欲しいと思いましたが、皆さんにも是非お伺いしたいですが、一つ言えることは、自粛みたいなものを何故しないのかということで、さきほど権力だという話がありましたが、実は隣の人だったり、あるいは自分よりもっと苦しい人の方がやっている可能性というのは常にあるなと最近すごく感じていて、どうしてもこういうものは権力や強いものとかメディアとか大きいものとか強いものを想定する、もちろんそれもそうですが、実は内側から崩壊していくこともある、そういう目が怖い。実は第二部で登壇する予定だった方が、対面で感染リスクが怖いので、僕としてはマスクも体温の測定も連絡先も書いてもらいますけれども、事前登録制にしないのがおかしいとか、そういう問題提起がなされて、本来来る予定だった方が第二部で来られなかったということがあります。
このように、自分たちと考えが近い人たちの中からも、「もしここで感染があったら誰が責任を取るのか」とまで言われて、僕の考えだと、対策を取った上で感染リスクの責任を取れという話になると、それこそ感染者が出たら謝罪をするとか、感染者が差別される、まさに今まで水俣とかハンセン病の反省として、そういうものを生んだ構造が悪いと考えてきたのに、強い人ではなく逆にかえって感染者を責めることになる。こういう構造を僕たちは変えないといけないし、そのアイディアをずっと考えてきたつもりが、かえって逆戻りしてしまったという印象を受けています。だからこそ是非知恵を、僕もそれを乗り越える術を知りたいと思っています。今後も考えていきたいと思います。

新宿歌舞伎町のホスト
今、仰った中で自分の中で問いかけがあったんですけれども、その問いが、「騒ぐ世間」がどうやって投票に向かうのかということ。投票に向かわないことが問題だと思っていて、今この場所だと意見が出て、それについて考えて、それなりに最善の策を出してという民主主義が機能していると思うんですけれども、「騒ぐ世間」って投票に行かないんですよね。何でかっていうと、現状を良くしたいんじゃなくて、現状を良くできないことの文句を言って、その周囲の人から「そのとおりだね」と同意を受ければ承認される、承認され同意されるこで満足してしまう。それが一番の問題で、「良くしていこう」じゃなくて、悪い状況を主張して承認されて満足してしまう、そこの欲求を投票という改善の方向に向けるにはどうしたらいいかというのが一番の問題だと思っていて、問としては明確になっています。

田中
ありがとうございます。本当に難しい問題だと思います。問題提起ありがとうございます。
第一部はここまでとします。


※ 今回掲載した「補償なき『自粛』要請と学費問題を考えるシンポジウム」第一部及び掲載できなかった第二部ついて、「情況」2020年秋号にレポート記事が掲載されています。
こちらも併せてご覧ください。
「学生たちが学費問題で起ちあがる」伊集院熊(国学院大学)・田中駿介(慶應義塾大学)

140562

(終)

【お知らせ その1】


hakusho_cover_1127_page0001_1_1


2020at_hyou1-4_D_092501_page0001_1

「続・全共闘白書を読み解く」今秋刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『続全共闘白書を読み解く』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、外山恒一、小林哲夫、田中駿介 他
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 他
<書評>高成田亨、三上治

定価1,800円(税別)
情況出版刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html


【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月30日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ