自分の本質は自分で守ろう。
東京在住の女性R様から「お見舞いに行ってもいいですか」とご連絡をいただき、差し入れのフルーツをいただいた。私の正しい見舞い方である。所持金が限りなくゼロに近いため、何かをもらえた時はそれを食べ、何もない時はプラーナを食べる。R様から「不安になることはないのですか」と聞かれたが、R様のような方がいるから不安になることはないのですよと、偉そうなことを言った。不思議なことに、毎日どうにかなっている。
沖縄の御嶽の如く、熱海の家には何もない。何もないことが感銘を与えるみたいで、来る人みんな「家を掃除しようと思いました」と言う。足りないから苦しくなるのではなく、持ち過ぎているから苦しくなるのだと思う。寝ててくださいと言うので、お言葉に甘えて寝ていたら、R様のすすり泣く音で目が覚めた。紳士の私は「どうしたのですか」とは聞かない。人間、泣きたい時もある。何かを話したくなったら、その時は話すだろう。病床に臥しながらも、見舞い人を逆に見舞う俺。なかなかやるじゃないかと、こっそりニヤけた。
R様は語り出した。この家の安心感がすごいと思ったら急に涙が出た。いつも「あれをしなきゃ」「これをしなきゃ」と思いながら生きていて、安心するとか脱力するってことがどういうことなのかわからないまま生きていたのだなと気がついたら、涙が出た。坂爪さんはすごいですね。自分や世界を信頼している。私は、信頼することができないから、なんでもかんでも自分の力だけでやろうとして、疲れて、クタクタになっていて、坂爪さんに会いたいと思ったのかもしれません、と。
信頼と言う言葉を聞くと、私は家族を思い出す。父と母と姉と兄がいるが、私は彼等を信頼している。彼等は滅多なことでは頼ってこない。だからこそ、彼等が何かを頼ってきた時は、出来る限りのことをやりたいと思う。自分の全財産も投げ出すだろう。信頼を損なうものは、比較だと思う。父と母と姉と兄と、誰が一番好きかと聞かれても「その問いに意味はない」と思う。全員、それぞれ、絶対的に好きだ。父よりは母が好きとか、姉よりは兄が好きとか、ない。比較が存在しない。こんな両親だったらよかったとか、こんな兄弟だったらよかったとか、ない。彼等が私の家族であり、私の家族である彼等を、私は好きになった。
だから、いちいち「私は世界を信頼している」と思うこともない。当たり前に信頼していて、当たり前に比較をする。比較をするのは楽しいから。比較の中に本質はない。人間の本質は比較では語れない。家族に対する感覚が、本質を思い出させる。だから、安心して比較のゲームを楽しめる。R様を苦しめているものは、比較だと思った。楽しめている間は、比較のゲームは娯楽になる。刺激にもなるし、笑いにもなる。しかし、比較の中に本質はない。自分以外の誰かに、自分の本質を明け渡してしまったらダメだよ。比べる限り負け続ける。最後の最後は、比べたらダメだよ。誰とも何とも比べられないもの。決して誰にも奪うことのできないもの。それが人間の本質だと思う。自分の本質は自分で守れ。男一匹、今日も寝る。
おおまかな予定
7月2日(水)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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