ニュータイプの宿命と本物の自由 『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』最終話感想

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』最終話を見終えての感想です。

毎週あの手この手で引きずり回される、劇場先行版からあっという間の半年でした。映像面ではキケロガの全方位攻撃の動きが妙にツボで、うねうね動きながらビームを乱れ撃ちして、それをエグザベくんやシャアが避けまくるのが気持ちよくて好きでした。

良くも悪くも……いや、良くも良くも、飛び道具的な面白さ満点だったので、マチュたちの歩みが染みてくるのはこれからな気がしています。周辺知識がないほうがフラットに楽しめる可能性もあるので、『ファースト』を観てない自分の記憶をゼクノヴァ越しに覗いてみたい……。

そんなわけで、予備知識によりかえって解像度が落ちている自覚もありつつ、それでもマチュの“物語”がどのようなものだったのか、この時点での考えや感想をまとめておきます。

本作について、脚本の榎戸さんは「本物」と「偽物」がテーマになると事前に明かしていました。

 

そして最終話において、ずばり「本物のニュータイプ」という言葉がセリフとして登場します。

シャリア あなたはサイド6の事件で故郷を追われることになっても なんの後悔もしていなかった あの拳銃は 自分のために戦い続けてきたあなたにこそふさわしい きっと… 自由のために傷つく者こそが 本物のニュータイプなのだから

マチュ 私には分かる ララァはそんなこと望んでいない シュウジが守らなくたっていいんだよ 誰かに守られなきゃ生き残れないなんて そんなの本物のニュータイプじゃない! 私たちは毎日進化するんだ 明日の私はもっと強くなってやる! 誰かに守ってもらう必要なんてない 強いニュータイプに!

ジークアクス』第1話でマチュが「宇宙って自由ですか?」と問いかける場面が象徴するように、本作ではさまざまな“自由”と“不自由”が描かれてきました。前半のその代表例が、過去の“もしも”への執着でがんじがらめとなり、破滅へと突き進んでいったシイコでしょう。

マチュがシイコに対し、改札での別れ際、「お母さんとは全然違う」と、憧憬とも取れる視線を向けていたのも印象的でした。

シイコが登場する第4話では「普通」(=マチュから見た母親や、シイコが振り返る自分の人生)と「不思議・普通じゃない」(=マチュから見たシュウジ・シイコ/シイコから見たシュウジ)がキーワードになっていました。

マチュは自由への取っ掛かりとして「普通じゃない」ものに惹かれた。ところがシイコを見る限り、それが必ずしもマチュの求める自由とは限らないことが示唆されていたといえます。

 

一方、“自由”の象徴的なバリエーションとしてまず挙げたいのが、第10話におけるシャリアの木星船団の回想です。

シャリア 地球へ還るすべを失い 崇高な責任を果たせないと分かったとき 私には何もすることがなくなってしまった

やるべきこともやりたいと思うことも 何もない いっそ自ら命を絶とうかとも考えました そんなときです なんの役にも立たない自分を自覚したとき 私は初めて自由になれた

マチュ 自由? 

シャリア 誰の期待に応えることもできない なにより自分自身の期待にさえ そうなって初めて 私には本当の自由が生まれたのです

それ(卓上の拳銃)は 私が木星に持っていったものです 本当の自由になれたまま死ねるのなら それでいいのかもしれない そう思い引き金に指をかけたそのとき… なぜか 船団のオートパイロットが復旧したのです

私は 英雄として地球に帰還しました しかし 自分の信じた戦争が生み出した恐ろしい惨状を知ってなお 私は何も感じませんでした スペースノイドの自立も 人類の半分が死んだことも もうどうだっていい 私は 自分が空っぽになってしまったことに気づきました

ここで興味深いのは、シャリアが回想内で二度自死を選択しそうになっている点です。一度目は「いっそ自ら命を絶とうかとも考えた」とき。これは言葉通り、自暴自棄による選択でしょう。そして二度目が、「本当の自由になれたまま死ねるのなら それでいいのかもしれない」と思ったときです。この2つの自死へと至る思考は、シャリアにとって明確に異なるものです。

そして、後者の思考へと至った際、オートパイロットの復旧により、シャリアは自死を「それでいいのかもしれない」とする思考を抱えたまま、帰郷することになります。そんな“自由の果て”ともいうべき思考を、シャリアは“空っぽ”と表現しています。

シャリアは“空っぽ”になり、自己や他者の生命にすら価値が見いだせなくなった。この“自由”とは、最終話でマチュが体現した“自由”とは対極のものであると感じました。同じ“自由”でも対極の性質を持ち得る。個人的にはここで、『トップをねらえ2!』における“良い万能感”と“悪い万能感”を思い出します。

『トップ2!』では、「オタク的なイマジネーションや欲求は世界を豊かにし得る(=良い万能感)が、それが暴走すると、宇宙怪獣的なものに変質し、宇宙を滅ぼしかねない(=悪い万能感)。そのことにどう向き合うか?」といった問いが投げかけられました。

それにならい、『ジークアクス』における自由を“良い自由”と“悪い自由”と呼んでみても良いかもしれません。

 

ここであらためて、最終話でのマチュのニュータイプ観について見てみましょう。

「明日の私はもっと強くなってやる!」

まず、「全員がこのニュータイプ観に従い、強くなりましょう」というのがこの作品のメッセージではない、と思いました。シンジくんなんかは、たぶんマチュの真似をしないほうが良い。

この場面の本質は、彼女が「明日の私」をイメージできるようになったことにあるはずです。

不自由のバリエーションとしてはニャアンやシュウジララァなど、ほかにいくつも過酷なものが存在しました。それに比べ、マチュが日常で抱えていた不自由は、漠然としています。家には生活を支えてくれる母親がいて、学校ではクラスメイトに慕われている。でも、そんな「優しい環境」であっても、彼女は生きづらさを覚え、誰にも相談できず、どう解消すれば良いのかも分からずにいました。

子供のうちは将来の夢が「クラゲになりたい」で構わないのですが、夢への道筋が“見えて”いないと、世知辛い世の中では自己実現できないまま、不自由な状態に陥る。マチュにそれが見える、いや、“なんか分かる”ようになるまでを描いたのが、『ジークアクス』という作品だったのではないでしょうか。それこそが、“良い自由”=本物のニュータイプのあり方なのであろう、と。

マチュは未来に向かうために「もっと強くなってやる!」が必要だと“分かった”。その結果、傷つくこともあるかもしれないけど、そうした経験ひとつひとつが、人生の糧になる。

ニュータイプとは、優れたコミュニケーション能力や情報処理能力を持つ人のことですが、彼らの「ニュータイプ能力」も、あくまで生きる上でのツールに過ぎません。その定義や解釈は人それぞれ異なり、結局のところ、たとえ傷ついても、前へ進もうとする意思こそが、人生においてより本質的なのだろうと受け取りました。

 

ところで、脚本の榎戸さんが近年しばしば言及する作品構造に“「物語」と「文学」”というのがあります。自分が把握している初出は、2016年の『アニメージュ』掲載の、『文豪ストレイドッグス』放送開始を記念した五十嵐卓哉監督との対談です。

榎戸 僕は結構、泉鏡花を、このシリーズの影の主人公みたいに捉えているところがあります。この作品は「物語的」にはじまって、やはり徐々に「文学的」な方向にシフトしていると捉えているんですよ。「物語」と「文学」って対照的なジャンルだと考えているんですが……「物語」は主人公たちが「成長」していく過程を描くのだけれど、「文学」の主人公は「成長」よりも「救済」を描く。つまり、泉鏡花がいかに救われるかっていうことに着日した時に、朝霧先生の描く、真のテーマが理解できる「設計」になっているんじやないかな……と、思ってます。今言えるのはまだ、そのくらいかな(笑)。

アニメージュ』2016年6月号より

上記の翌年(2027年)に刊行された『カセットガール 全記録全集』でも、同様の言及が見られます。

うーん、若者が運命に抗いつつ、自分の生き方を決断していく覚悟にロマンを感じるのかな。僕の個人的定義では、子供や若者が大人になる過程を描くのが『物語』、その反対が、挫折した大人のある種の救いを描くもので、それが『文学』。『ザ・ゴッドファーザー』と『バットマン ビギンズ』は、共に『文学』っぽいテイストで描かれているのに、結果的に『物語』になっている、という共通点があるな。もっとも、どちらも続編は『文学』になってしまうんだけど、それはそれで、また別の面白さに発展していくのがいい感じ(笑)。

『日本アニメ(ーター)見本市資料集Vol.3 「カセットガール全記録全集」』より

ちなみに、2025年4月に開催された『文豪ストレイドッグス』のオールナイト上映会でも、榎戸さんは司会からの振りに応える形で、この「物語」と「文学」についてあらためて言及していました。

この定義に従えば、マチュを通して「物語」が描かれ、シャリアを通して「文学」が描かれていたと言えるでしょう。

 

そんな「文学」=大人の挫折を体現するシャリアは、シャアを「自分と似ている」と言っていました。そして最終話において、シャリアはそのシャアが「虚無」を纏っているとも評しています。

 

シャアと同質の悪い自由=虚無にとらわれていたシャリアをすくい上げたのは何だったのか。それが、白いガンダムの腕を、バカみたいにまっすぐに駆け抜けるマチュの姿であり、バカみたいにまっすぐなエグザベの言葉だったのかなと。

 

ここで補助線として、ファーストガンダムジークアクスそれぞれの最終話予告を引用します。

終局である。シャアとアムロが生身で対決するなど、すでに戦争ではない。ニュータイプに課せられた宿命なのだろう。ホワイトベースア・バオア・クーの赤い炎が包んでいく。『機動戦士ガンダム』次回「脱出」

シュウジ「世界の終局か、それとも、ニュータイプの宿命を超えてみせることができるのか。次回、最終話『だから僕は…』」

マチュ「行くよジークアクス!」

次回予告まで『ファースト』オマージュになっているあたり芸が細かい……。そしてオマージュをするからには、作中のテーマにも結びつけているという真面目さ。画面はあんなにトンチキなことになっているのに……!

 

この予告にある「乗り越えるべきニュータイプの宿命」こそ、悪い自由=虚無のことと言い換えられるでしょう。

最終話では、正史におけるア・バオア・クーのラストシューティングをなぞるように、シャアとシャリアが対決を繰り広げます。そのさなか、シャリアがポロっとこぼす一言がなんとも意外で、印象に残りました。

ジークアクスは!?」

殺し合いの最中にもかかわらず、眼前の赤いガンダムよりもジークアクスに釘付けになったシャリア。この瞬間、シャリアはそれまで囚われていた虚無から開放されていたように見えました。

そして、そんな緑のおじさんが、本作で最も自由に振る舞い、正史においては最大の虚無に陥るシャアに、驚くべき影響を与えます。スタッフロールで描かれた、それがもたらした結果に、思わずボロ泣きしてしまいました。

 

マチュがスローで走る場面のシャリアのセリフは、『STAR DRIVER 輝きのタクト』のワコの独白のような雰囲気がありつつ、場面としては『龍の歯医者』のクライマックスっぽくもあり。さらに「痛みと成長」という、鶴巻作品を象徴する要素が入っているのは、『トップ2!』におけるラルクの口上を思い出すものでもありました。観ていて情緒がおかしくなるよ!!

ラルク「何やってんだ ノノ! 痛いことや 苦しいことをありがたがるなんて バカみたいじゃないか だけど それが人間ってことなんだ 強さは身体の大きさじゃない 心の力だ そうなんだろ ノノ! それが 努力と根性だ!」

 

最近は「物語」と「文学」の両面を行き来するのが榎戸作品の妙だと思っているのですが、本作では作品が持つそうした射程が、『ファースト』を参照するギミックを通じて、それに翻弄される自分を含めた幅広い視聴者に伝播しているようで、その構図もまた楽しかったです。

毎週平日深夜にお祭りがあるのは大変健康に悪く、最終話まで風邪ひとつ引かず完走できたのは、ひとえに作品にエネルギーを分けてもらっていたからだと思います。毎週が楽しすぎた。

まだ余韻に浸っていますが、しばらくしたらとんでもないロスが襲ってきそうで、今からこわいですね。でも某カラー社長も「次回作や次々回作、その先もあります」と言ってたので、『ジークアクス』をもう2~3周したら、ぼちぼち『宇宙戦艦ヤマト』の予習も始めなければ……。

でもその前に、まずは明日(もう今日ですが)鶴巻監督、榎戸さん、黒沢ともよさん登壇の舞台挨拶があります。自分は現地ではなく中継での参加ですが。今後はスタッフのインタビューも増えるでしょうし、そこで裏話に触れるのも楽しみだって、ガンダムが言ってる!