夜の仕事を終え、真夜中に家路に向かうウルフウッドが足を止めたのは、自分の住む煉瓦色のアパートの裏手だった。日暮れ頃から降り始めていた雨は止まず、ウルフウッドの傘に雨が寒々しく降りかかる。
「……?」
非常階段がある隣のアパートとの僅かな境には、去っていく住人達が捨てた足の折れた椅子や、硝子が砕けたキャビネットなどが無造作に積み上げられていたのだが、そこに何かが光ったような気がしたのだ。
「…何や…」
ウルフウッドはそれを見とめた途端、しまったと思った。それは人間の眼だった。それでなくてもあまり治安のいいとはいえない地域で、こんな時間、おもてで得体の知れない人間とかかわりあうことは避けなければいけないのに。
あちゃー、足止めるどころか覗きこんでしもた。
相手が攻撃の態勢にはいれば、即座に対応できるように神経を張りつつ、そのまま一歩ずつ足を遠ざける。
暗闇にガラクタと一緒になってうずくまっていたのは、自分と同じくらいの歳若い男だった。いつからそうしていたのか、全身は雨でずぶぬれになっており、明るい色の髪からは雫がしたたっている。
その濡れた髪の間から、おそろしく昏い目が覗き見えた。
「………」
ウルフウッドは後ずさる足を止める。こうまで凄惨な何かをたたえながらも、男の目には狂気の色がまったく無かった。
(今の状況では、逆にその方が違和感があって異常だ。正気・素面・心身とも健康な男が、この雨の夜中に下町の路地でゴミと一緒にうずくまっている?)
「…なあ…」
自分でも、危ないことしとるなと思いながら、ウルフウッドは声を掛けずにはいられなかった。
「…アンタ、酔うとるんか?」
青年は、話しかけられてもまったく表情は変えないまま、ただ黙って視線をウルフウッドの上に移した。返事はない。
「こういっちゃ何やけど、ここらへん結構ぶっそうな所やぞー。そんな所で寝とったら、日が昇る頃にはアンタ死体になっとるかもしれんで。」
返事どころか身じろぎ一つしないまま、黙って自分を見上げている無表情な男に、ウルフウッドは溜息をついて言った。
「ここ、ワイの住んでるアパートやねん。家の裏手で死体見つかったら気色悪いやろが。とりあえず一晩泊めたるさかい、うち来るか?」
自分でも考えられない、非常識も極まった言葉がぽろりと口からこぼれ出た。しもた、なんちゅーことを口走るねんワイは!と思いながらも、多分相手はこの申し出もあっさり無視するだろう、と頭の片方で考える。
「………」
「………」
案の定返ってきたその沈黙を返事ととって、そのまま歩き出せばよかったのかもしれない。だがウルフウッドはそのまましばらくの間、足を止めて相手からの沈黙を受け取り続けた。
「………」
「………」
「………」
「………」
青年は、じっとつっ立ったままのウルフウッドに根負けしたかのように、しばらく後にふっと立ちあがった。底知れない闇のような眼をしたまま、無言で。
(うわ!ほんまに来るんか?)
相手が動くまで無意識に待ってやっていた自分を棚に上げ、ウルフウッドは内心うろたえる。
「…来る?」
青年は動かない。
「こっち。」
ウルフウッドは今度はもう返事を待たなかった。彼に背中を向けて、すたすた歩きだす。どうしてかはわからないが、青年は自分に付いて来るだろうと確信していた。
2つのキーで部屋のドアを開け、ぱちんと灯かりのスイッチを入れる。
小ぢんまりとしたウルフウッドの部屋が見えた。小さいキッチンとダイニング、それから奥にベッドルーム。
ウルフウッドは傘をたたんでドア近くに置くと、大股でダイニングを横切りながら、青年に言った。
「ドアの鍵閉めてや。上の方のとドアノブのとチェーンと。」
後から付いてきた青年は、だまって言われた通りに鍵をかける。
「アンタはそこでストップ。靴ぬいで先風呂入って。そのまま部屋に入って来られたら部屋中水浸しや。」
そこ右、とウルフウッドが顎で示すと、青年は言われるとおりバスルームのドアを開けて入っていった。
(なんでこんなことになっとるんやろ?)
ウルフウッドはコンロで湯を沸かしながら、自分の行動に首をひねる。
シャワーの水音が聞こえてくる。
(こんな酔狂、ワイらしくもないわ。)
まっとうでない自分には帰る家もあり。
まっとう(そうにみえる)青年は、道端でうずくまる。
それが自分の足を止めさせたのかもしれない。
(…今夜のは後味悪い仕事やったから、ちょっとワイ、どうかしとるんや。)
まああの青年が押し込み強盗にでも豹変したなら、その時はさっさと始末してしまえばいいか。
湯がしゅんしゅんと沸くころ、シャワーの音が止まった。
ウルフウッドは戸棚からマグカップを2つ取り出す。
「そこに着替え置いてあるやろー?着古しやけど、洗濯はちゃんとしとるからキレイやでー。」
ウルフウッドは声をかけながら、器用に片手でインスタントコーヒーの瓶を開ける。少なめに粉を入れ、マグカップに並々と湯を注いでいるところへ、浴室からTシャツをきた青年が出てきた。
明るい所で見ると、中々の二枚目だった。背はウルフウッドと同じくらい高い。非常にバランスのとれた体格で、細いだけでなく、シャツ越しに見た感じでは、おそらくしっかり鍛えているであろう体つき。濃い目の金髪と泣きぼくろ、翠の眼は下がり気味で、これで笑ってでもいれば、さぞ女にももてるだろう。
そして第一印象のとおり、やはりまっとうな人間の匂いがした。
職業柄、ウルフウッドはその手の人間を見分ける眼にはそれなりの自信があるが、こうして改めて灯かりの下でながめてみても、青年には何か持って生まれた品の良さのようなものがみえる。豊かさとか家柄とかそういうものとは無関係の、人間としての品のよさのようなものが。
(つまりはワイと違うタイプの人間ちゅーことやね)
「…どうぞ。」
ウルフウッドは大きなマグカップになみなみと注がれた熱いコーヒーを差出した。青年はウルフウッドの手元をじっと見つめた後、カップに手を伸ばした。
「…そのソファ、使ってくれてええよ。それ飲んでもまだ体寒いようやったら言うて。セーター2~3枚重ね着したらいけるやろ。」
「………」
「明日はワイ昼まで寝てると思うけど、起こさんと勝手に出て行ってくれてええから。冷蔵庫の中のもんは適当に食べていってもかまへん。当座の手持ちはあるんか?」
「………」
青年は熱いコーヒーを手に、相変わらず黙ったままウルフウッドを見つめる。青年の疲れ果てたような、底知れない淵のような眼に、注意して見なければそれとわからないほどかすかに、当惑の色が混ざっている。
「喋らへんやっちゃなー。」
何やねんなもー、とウルフウッドはぶつぶつ言いながら、ポケットから2~3枚の紙幣を取り出して、ダイニングの机の上に置いた。
「それやる。無駄骨折らんように先言うとくけど、この家、どこ探しても金なんかないで。今あるんはそれで全部や。漁っても無駄やからな。」
ほんならオヤスミ。
ウルフウッドはそう言いおいて、シャワーを使い、自分のベッドに潜り込んだ。
一応釘は刺したけど、ま、当然の話として、ダイニングに置いてあるもんの3つ4つは一緒に消えてるやろな。(ほんまに金目のもんは無いんやけど。)本当に大事な仕事道具は自分のベッドルームにおいてあるし、まあそれ以外は盗られたかて別に…
ある意味非常に大物な宿主は、そのまま丸くなって眠ってしまった。
驚いた事に朝になっても盗られたものは何もなかった。
テーブルの上の紙幣さえ昨夜のまま残されていた。
というか、金髪の男自身も消えていなかったのである。