
キ ス
「ええ部屋やね。じゅうたんふかふか、カーテンどっしり、壁かてすごいやん。」
ウルフウッドは、上品なベージュ色の、蔓草模様の壁紙が張ってある壁を、こぶしでとんとんと叩いた。「厚い。」
そうして、パニッシャーや担いでいた荷物を、部屋の隅にどさどさと下ろし始めたが、ヴァッシュは無言のまま、後ろ手にしめた扉の前で立っている。
普段ほとんど縁のないような立派な一室を、二人が一夜の宿に定めたのは、その部屋の本来の所有者が、今日この部屋に戻ってこないことを知っているからだ。
誰も使わへん部屋を一晩空けといたかて、しゃーないやろ。こっちも宿代浮いてありがたいしとウルフウッドは極めて実質的なことを言って、部屋に入り込んだ。
もともとの持ち主が今夜ここへ戻らないことを知っているのは、今朝方その男をウルフウッドが殺したからである。死人はわざわざ部屋のベッドに寝に戻ってはこない。
「気にせんでも大丈夫やで。あいつ死んだことなんか誰も知らんし、気にする奴もおらん。ここに泊まらせてもろても、俺らが殺ったって疑われたりすることはないから。」
その平静な物言いが、どれだけヴァッシュの感情を逆なでしているか、まったく気にかけない様子でウルフウッドは大きなソファに腰掛けた。ポケットを探って煙草を取り出す。
「…ウルフウッド…」
持ち手のベルトを握ったまま、荷物を体からずるっと滑り落として、ヴァッシュが苦い口調でつぶやいた。その声に、顔をヴァッシュの方に向けたウルフウッドは、肩を竦めて訂正する。
「スマン。『俺ら』とちゃうな。『俺が殺った』、や。」
ローテーブルの上の、重い灰皿を引き寄せながら、煙草を口にくわえた。「その件については、朝方殺ってからついさっきまで、延々話合うたやろ?取り敢えず小休止やて言うたやんか。」
ザルで水を汲むような無意味な対立を何時間も続けて、力尽きた。ひとまず今夜休む場所を求めることをウルフウッド゙が提案し、ヴァッシュが無言で了承した。
そして連れてきた先がここかよ…。この男、どこまで…。
先ほどまでの無為な時間が、輪をめぐってふたたび戻ってきたような錯覚に、頭がくらくらする。
「おまえ、何とも思わない…?この部屋を今夜借りることについて。」
ヴァッシュが低い声で言った。
「殺しについてはともかく、部屋は関係ないやろ?ここに部屋が空いとる、俺らが泊まったら無駄もないし、俺らかて金浮くし、何かマズイとこあるか?」
「金ならいっぱいもらったんじゃないの?あの男の首、いくらしたんだ?」
棘だらけの台詞がいくらでも滑り出てくる自分に、心のどこかが驚く。俺はこんな腹の立て方をする男だったか?
ウルフウッドが煙草をくわえたまま悪びれもなく言う。「それとは別の話やん。無駄遣いする必要がどこにあるねん。」
「ヒトゴロシの上に金の亡者か、最低だな。」
吐きすてるようにヴァッシュが言った。
言ってから、この目の前の男を罵倒し、傷付けてやりたいと心底願っている自分に気付く。重苦しい感情が、隅の方から順々に、次第に心を黒く塗り込めていくのを、黙って感じていた。
その言葉に、ウルフウッドがヴァッシュを睨み上げる。
「世の中、カネ次第やで。」
膝の上に置いた手の、指の間に挟んだ煙草から煙が立ち昇っている。広い部屋なので、いつもの安宿の様にすぐ煙草の匂いで部屋中が満たされることもなく、入り口近くに立っているヴァッシュのところまでは、煙もまだ届いてこないでいる。
ウルフウッドは言った。
「カネさえあったら、何でも手に入るからな。」
「君、本気でそんなこと考えてる?」
ヴァッシュは顔を上げて、息を洩らすような声でウルフウッドに問いかけた。
「なんで冗談言わなあかんの。」
「彼は?おまえが殺した彼は、命を金で買えなかった。」
ウルフウッドは、くくっと愉快そうにさえ聞こえる声で笑った。
「今回は相手が悪かったけど、俺ほどの相手やなかったら、十分命くらい買えとったで。金出してボディーガードつけて、金出して敵殺して。街のおっちゃん達やったらとっくに死んでるよーな状況でも、金持った悪人は生き延びられるねん。道端で飢えて死ぬ奴なんか、パン1コ買う小銭で今日の命が買えるやん。で、考えてみ、金持ってれば大抵のことは何とかなるやろ?」
「そりゃ、なければ困るのはわかってる!だけど金で買えないものだって、いくらでもあるじゃないか!今朝の男だって、こんなに金持ちでも、死んでも誰も気付かないくらいに孤独で…」
「天災級のもの避けるのは、いくら金積んだかて無理やろけどな。まあ不老不死でも望まん限り、金で買えんものなんぞないやろ。」
「幸福なんて、いくら金を出したって、誰も買えないさ。」
「オドレがどう思てんのか知らんけど、シアワセなんて金で買えるで。」
「買えるかよ!!」
「どうかな。」
ウルフウッドはせせら笑う。
そのときヴァッシュの中で何かが崩れた。
抗いきれず、昏い闇に、心をゆっくり明け渡す。
金のためにそんな仕事をして、金のために人殺しを請け負って、辛くない筈がないだろう。
それを…それをそんな薄汚い顔で笑って、どこまで誤魔化して生きていけば気が済むんだよ…
どうしても伝わらないというもどかしさが、強暴な感情の嵐へと姿を変えていくのを、自分ではもう止めることが出来なかった。
「…そうか。」
「そうやと思うで。」ウルフウッドが答えた。
「おまえは?」
「なに?」
ヴァッシュの眼が、酷薄な色に光る。
「何でも金で買えるんだろ?俺が一晩おまえを買うから売れよ。」
ウルフウッドは黙ってヴァッシュを見た。
そのまま二人はお互い視線を外すことなく、身じろぎもしなかった。
「……」
先に眼を逸らしたのは、ウルフウッドの方だった。
黙って煙草の灰を灰皿の上に落とす。
ヴァッシュは少しも変わらない冷たい眼で、そんなウルフウッドを見つめている。
「…オドレにそーいうシュミがあるとは思わんかったな。」
見かけによらんな、というウルフウッドの声を無視し、ヴァッシュの声は少しも揺れることがない。
「君は高すぎて、俺には買えない値だから却下とか言う?それなら別にそういうことにしといてやってもいいよ、俺はね。」
心底侮蔑しているような声でウルフウッドに問いかける。
「どうよ、おまえは金で買えるのか、買えないのか?」
ウルフウッドは手を伸ばして煙草を揉み消しながら、肺に残った煙をゆっくり吐き出した。
「VIPのオドレに言われたら、どうもこうもないよ。俺なんか、安いもんや。」
上等だよ。
ウルフウッドが折れてくるまで、自分から退く気は毛頭なかった。
ヴァッシュが荷物のベルトから手を離すと、それはばたりと床に倒れた。
そのままウルフウッドのほうに歩きだす。毛足の長い絨緞は足音を吸い込んで音も残さない。
目の前に立ったヴァッシュを、ウルフウッドはソファに座ったままで見上げた。
「売るで。全部。」
その顔には別段なんの表情も見うけられなかった。
意地を張るなら、思い知ればいいと思った。
「全部?」
ヴァッシュはゆっくりと手を上げてウルフウッドの首筋に掌をあてた。そのままざわりと動脈に添って撫で上げる。
本能的にウルフウッドの喉がびくりと動いたが、それでもそのまま黙って肩から力を抜いた。
「買うって言うんやったら、心も体も全部、おまえに売るよ。」
「金って万能。」
「万能や。」
喉もとにあったヴァッシュの手が、鎖骨の方に下りてきた。
こんなに彼の顔を間近で見たことはなかった。
ウルフウッドはとうとう最後まで何一つ逆らわず、ヴァッシュを煽ってみせることさえした。
嫌悪感や羞恥心や憎悪が、瞬間的に何度も何度もウルフウッドの暗い瞳に浮かび上がった。
その度にヴァッシュは彼の口から止めてくれという言葉が出るのを待ったが、ついにその言葉は聞けなかった。
そのうちにわからなくなる。
これは誰だ…?
まるでよく躾られた犬みたいだ…
ヴァッシュは自分の醒めた心と、熱を持った体の、どちらをも制御しきれずに、頭のどこかでぼんやり考えていた。
遠くで雨が降っているかのように、頼りなく聞こえていた水音が止んだ。
ウルフウッドは、少しふらつく足を隠しながら、備え付けのバスローブをはおった姿でバスルームから出てきた。
ヴァッシュは虚空を睨みつけているのか、ただ呆然としているのか、どちらともわからないような眼をして、ベッドの端に腰かけている。
ウルフウッドは、もうベッドの方に注意を向けることもなく、大儀そうな仕草でソファに腰を下ろすと、煙草の箱に手を伸ばしかけて、ふと床に目を止めた。
絨緞の上には自分の黒いジャケットや白いシャツが点々と散らばっている。捻じ曲がった、人の形をした抜け殻が、奇妙な実在感をもって無造作にうち捨てられていた。ウルフウッドは苦笑してのっそりと立ちあがり、服を拾いはじめた。
「ウルフウッド。」
ヴァッシュが呼ぶ声に、ウルフウッドは黙ってそちらに顔を向けた。
「来いよ、こっちに。」
相変わらずどこも見ていない目をしながら、ヴァッシュは冷たく言う。
ウルフウッドは手にしていたシャツを椅子の背にかけると、またベッドの方に歩き出して、端に腰掛けているヴァッシュの前に立った。
「…まだスルんか?」
そう言うと、ベッドの前にひざまづいて、ヴァッシュの膝に手を置く。
ヴァッシュはその手を払いのけると、ウルフウッドの頬に両手をやって、自分の方を向かせた。ウルフウッドはやっぱり従順に顔を上げて、ヴァッシュの顔を見た。
「なあ、おまえ、上手いな。」
硝子玉のような目で、ヴァッシュはウルフウッドの眼をみつめた。
ウルフウッドの眼の方も、とりたてて何の感情も浮かべていない。
「まあな。」
「金で買えないものなんて、何にもないんだね、ほんとに」
ヴァッシュが、納得したよというように低くあざわらうと、ないよ、とウルフウッドは言った。
「ガキのころも、金があったら、こんなことせんでも食うていけたよ、今は」ウルフウッドが小さく笑った。「もっと金になる事しとるからあれやけど。」
それを聞いて、ヴァッシュは少し馬鹿みたいな顔をして笑った。
「……は………。」
「そんなもんやねん。」
「…最低。」
「うん。」
「売り買いの問題なのか…じゃあ今はもう、おまえは俺のものなんだ?」
「そうや。」
答えを言い終わるか終わらないかのうちに、バシッというひどく重い音が部屋に響いた。全霊の力でヴァッシュはウルフウッドの頬を打った。ウルフウッドは体を支えきれず、思わず絨緞の上に手をついた。
「……」
目の前が一瞬白くなった。息を整える暇もなく、ウルフウッドは殴られたときと同じような唐突さで、ヴァッシュに抱きしめられた。彼はベッドから床へとずり落ち、まるで溺れかけた男のように、ウルフウッドの首にしがみ付いた。
「俺のものになれよ。」
ヴァッシュはウルフウッドの肩に顎を強く押しつけて懇願する。
ウルフウッドはすぐに素直に言った。
「俺はオドレのもんやで。」
ヴァッシュの声は殆ど悲鳴に近かった。
「俺のこと、本当に、好きになってくれよ。」
ウルフウッドはすぐに素直に言った。
「オドレのこと、ほんまに好きや。」
ヴァッシュの眼からぼたぼたと涙が落ちて、ウルフウッドの背中に落ちて行った。
「ほらみろ!買えていないじゃないか!!何にも俺のものにはなってないじゃないか!金なんて、何も買えないじゃないか!!」
縋りつくのは自分だけ、ウルフウッドは力を抜いて、ただされるがままになっている。ウルフウッドの声が耳の側で聞こえる。
「なんでそーなるねん、かなわんなあ。言うてるやんか…。俺はオドレのもんになったし、オドレのこと好きやで。」
いつも通りの口調で、ウルフウッドはヴァッシュの望む言葉を復唱してみせた。その声には、ヴァッシュでなければ気付かないような、儀礼的な空虚さがほんのわずか混ざっていた。
ヴァッシュは、自分がウルフウッドの世界から、決定的に外へ押しやられたことを知った。誰も(本人すら)気付かないうちに、ウルフウッドは何かを切り替えてしまっていた。
こころもからだもすべてを与えられはしたけれど、それはいつの間にかすりかえられた、ヴァッシュが心底求めていた「彼」の姿とは、別の何かにすぎない。本物はどこかにひっそりと沈んでしまっている。もうウルフウッド自身にも、それらが贋物だという判別はつかなくなっているのだろう。
彼は誠実な商売人として、本物を「売った」気でいるのだ。
本人でさえ見分けがつかないのなら、もうそれは本物の彼の心と言えるかもしれなかった。
自分を欺くようなその想いに、自ら追い詰められて、ヴァッシュはウルフウッドを抱きしめる手にさらに力を込めた。骨が軋む音がする。
「俺は…ウルフウッド、俺はね、本当に…本当におまえが好きなんだ。」
ヴァッシュが剥ぎ取ったウルフウッドのジャケットが、絨緞の上に放りだされているのが背中越しに見えた。
「俺もオドレのこと、好きや。」
ほんまのほんまに好きやで、とウルフウッドはヴァッシュの首筋を優しく噛んでキスをした。
抱き合う二人の姿は、恋人同士のようにしか見えない。
FIN.
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ゆきさだ(仮名)サマから、踏んだくったお宝です!
「最近ゆきさだ(仮名)さんのサイト更新ないですね~」と、夜中メールでプレッシャーをかけていたら、
「暑さに当てられて生まれた落書きがあるんですけれども、うちのサイトで、UPしようか
どうしようか迷っているんです~。ちょっと、サイトの他の作品と毛色が違うんで…」
と、歯切れの悪い(笑)返事を下さったので、
「えー!そんなんあるんですかー?見せて下さいよーちょっとだけでいいからー!」
と、セクハラオヤジまがいの催促をして、見せて頂いて、そのままぶんどってしまいましたー!
アタシえらい!
だって、下手したら、このお話お蔵入りだったんですよ~!
いつものゆきさだ(仮名)サマの作品とは、割とハッキリと一線を画した感がありつつ
根底に漂うゆきさだ(仮名)節にメロメロ☆
ゆきさだ(仮名)サマ、ありがとーーーー!!!!
ゆきさだ(仮名)サマへの感想はこちらへ!!
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