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2003年11月29日と言う日は、私にとって、一生忘れられない日となりました。
その夜中、友達の杏奈ちゃんと、彼女の旦那さんの寝静まった頃に電話してお互いボロボロ泣いて黙り込んで、次の日も会ってボロボロ泣いて…。 いつもこのページでは「感想」なんて名ばかりのものを書き殴っていますが、今回も更にその傾向を深めています。 ひとりよがりです。ウルフウッドについてしか考えていません。 更に言うなら、本当に当たり前のことですが、「私」絶対基準のウルフウッドに対する考え方が大前提です。 ですから、書いてある言葉の中には、他のウルフウッドを好きな方々にとって、「何勝手なこと言ってるんだ」的な部分も散見されるかと思います。 ただ、あくまでこれは「私」の感じ方であって、他の方の意見や感じ方を否定するものではありません。今更なことを言うようですが、私自身が読む側になって考えた時に、そこに書かれてあることに、個人的意見だとわかってはいてもショックを受けたりするだろうなと思い、ここでお断りさせて頂くのです。なにせ、他の誰でもない、「彼」についての話ですから。 どうかその点について、ご理解頂いた上で、読んで頂ければと思います。 垂れ流し的なところもあるので、ホントに長いです。でも、これ以上整理して書くなんて出来なかったです。それでも、なにか、彼の死に対して自分の思いを示しておきたいと、せき立てられる様にこのファイルを作っています。 本当に。 今、こうして「感想」ファイルを作っていても、あの最初に彼の結末を見てしまった時の自分を思い出し、また、どんなに時間が経っても、ウルフウッドがもう二度と笑ったり怒ったり新しい表情を見せてくれることはないのだと思い知らされ、涙が溢れてきます。 まず、あの日、何度もOURSを読み返した後、友達で特にトライガンにハマっているわけではないけれども、それなりに好きで読んで知っていて、私がサイトをやっているのも知っている人に、読んだその日にメールしたんです。 むしろ、トライガンにそれほどのめりこんでない人にこそ、縋り付きたかったんです。同じ様なテンションでウルフウッドにのめりこんでいる人だと、きっと一緒になって落ち込んでいくのが目に見えていて、それが怖くて。 そうしたら、その人もすぐにOURSを読んでくれて、その感想をメールしてくれたんですが、以下にちょっと引用させてもらいます。 > 「ドロドロしたものを想像していましたが、さすが内藤先生。映画の1コマ1コマを観ているかのようでした。 > 一方で、力量のある先生に愛のある描かれ方をされて、ウルフウッドファン、トライガンファンは、ある意味 > 幸せではないかとも思いました。幸せだからこそ、逆にファンの嘆きも大きくなるのではないでしょうか」 …確かに、その通りだと思いました。 無理矢理に冷静に考えた時、ウルフウッドという人物の「終わり方」としては、これ以上ないほど、きれいに、大切に、描かれてると思うんですよ。 彼の表情、言葉、仕種、対するヴァッシュのそれら。子供たち。紙吹雪。風景。(モノクロではあるけれど)色。(聞こえないけれど)音。 全てがとても丁寧で、それでいて多くのものを内包して、その空気感が痛いほど伝わってきて。 だけど、やっぱり。 それだけじゃ感情がついていかない。 ウルフウッドはあんな微笑なんかではなく、もっと豪快に笑うことをしていい子だった。 もっともっと楽しい思いや嬉しい気持ちを味わう機会があっていい子だった。 今までしてきたことは確かに重いことだけど、それを背負ってそれに向き合いながらでも、これから自分の、自分自身の本当の「生」を生きなければならない子だった。 あんな一瞬の救われ方ではなく、これからもっともっと報われていい子だった。 これから先、彼が、笑ったり喜んだりはしゃいだりするのはもちろん、泣くのでも怒るのでさえもすることはない、彼の「時」はあの「微笑み」で止まったままなのだと思うと、悲しくて悔しくて胸がつぶされそうな気がするのです。 あの最期のウルフウッドの慟哭は、叫び声にさえもならない「声もない慟哭」だったと思っています。 教会の鐘の音が聞こえてきそうなあの画面の中、彼の放った「無音の慟哭」は、決して、「孤児院の皆に受け入れられたことを知った喜び」だけでなく、彼自身、なんと言う感情に分類していいかわからないものだったと思うんですよ。 ただ、言えるのは、 「 ドウシテ 」 という思いが、あの慟哭の大半を占めていたのではないかということです。 「どうして、自分はあの暖かい場所を追われたのだ」 「どうして、自分の手はこんなに汚れてしまったんだ」 「どうして、こんな自分なんかを受け入れてくれるんだ」 「どうして、最期の最期に、しがみつきたくなる何かを差し伸べるんだ」 「どうして、『神』は自分にこんな運命を用意したんだ」 「どうして、この先の風景を自分は見ることが出来ないんだ」 「どうして、ここで終わってしまうんだ」 「どうして」 自分で「選んできた」「満足している」と言ってはいるけれど、やっぱり、最期の時に、ホームの皆の温かい何かが、彼の、ただ休みを迎えることを静かに待っていた疲れきった精神の、薄い皮膜の様なものをほころばせ、そこから「おこがましい」からと叫べずにいた「思い」が噴出したんだと思うのです。 「未練」というのとも違うんです。 私も、うまく説明できませんが、そんなうまく説明出来ない様な、それは本当に喜怒哀楽という感情のそれぞれの極限のものがすべて入り混じったものがあの慟哭だったのだと。 そんな諸々を最期の時に「無音の咆哮」に込めて吐き出して、残ったのがあの「微笑み」だったと。 私があの彼の死の場面を目にした時から抱き続けているのは、もちろん、悲しみとか悔しさとか切なさとか喪失感とか、きりがないのですが、その根底に根ざしているものはとにかく「憤り」なのです。 やはり「どうして」という「憤り」なのです。 ウルフウッドの手から落ちた酒瓶の銘柄、『BRIDE』は「花嫁」という意味の他に、「豊穣の兆し」という意味がある。確かだったよ、@んなちゃん。 そうすると、さしずめ、この模様は偽りの十字(=ミカエルの眼)を破って希望の兆し(=BRIDE)が見えてきたということなのでしょうか? 「ニコラス=D=ウルフウッドはその希望の礎の一翼を担ったのだ」とそういうことなのでしょうか? だったらなおのこと、その「希望」がなんらかの形を伴っていくかも知れない様を、ウルフウッドにこそ見ていて欲しかった、体験して欲しかったのに。 だから、まだ、ウルフウッドに対して、「お疲れ様」だけは絶対に言いたくないのです。 せめて私の気持ちの中だけでも、あんな色々なものを含めたままの彼の最期に、そんな風に終止符を打ちたくないのです。 きっと、私は子供なんだと思います。 彼の御霊の安からんことを願うなら、「お疲れ様、もう、休んでください」と言うべきなんでしょうが、私は、まだ駄々をこねているのです。 「彼の死」を許せないでいるのです。「彼の生」をまだ諦め切れないでいるのです。 彼には是が非でも、ヴァッシュの闘いを、最後まで、そばで見届けて欲しかったのです。 全てのしがらみをとっぱらって、やっとヴァッシュと同じ地点に立つことが出来た今からこそ、ヴァッシュの最後の闘いを見届けて欲しかったのです。 それでもきっと、ウルフウッドが再び立ち上がってくれることはないわけで。 「救い」と言うにはあまりな気がしますが、最期のその時に、ヴァッシュが彼の隣にいてくれたのだけが、今の私にとってのなけなしの慰めです。 あの、ヴァッシュの響く鐘の音を見上げた瞳。 きっと、ヴァッシュの長い生の中で、ウルフウッドと言う人間は、誰よりも遠くて、誰よりも近くて、他の誰にも有り得なかった位置を占めた存在なんだと思います。いや、そうでなくては嫌なのです。 レムとでさえ、同列の何かにして欲しくないんです。 それは存在として順位が上か下かとかいうことではありません。 「関わりを持った愛しい人々」の一人とされるのではなく、ウルフウッドだけがヴァッシュの中に持ち得る、突出した「色」みたいなものがあって欲しいのです。 たとえば、ヴァッシュが彼を思う時、そこにあるのは「懐かしさ」とか言った生ぬるいものであって欲しくない。また、「自分のせいで彼が死んだ」とか言う後悔であって欲しくもない。そんなのはウルフウッドの死を既に過去の事象として見送ってしまっている上に、ウルフウッドが足掻いて選んで生きてきた道を無視してる言い様でもあると思うので、キツイ言い方で言えば、真っ平御免です。 むしろそれこそ、ヴァッシュがウルフウッドを思う時に持つのは、「憤り」であって欲しいのです。「なんでお前は今此処に在ないんだ」というウルフウッドの不在に対する「憤り」であって欲しい。 あのヴァッシュの瞳の中に、声もなくウルフウッドの死に対面しているヴァッシュの姿に、ウルフウッドへのそんな特別な思い(腐女子的なものだけでなく)を見出そうとするのは、無理があるんでしょうか? この先、ウルフウッドのいないトライガンが展開されていくんでしょうけれど、その中でヴァッシュにとって、せめて、ウルフウッドが「予想もつかない特別な存在」となっていたのだということが示されることを、ひたすら祈っています。 ホント、自分でもおかしいと思うんですよ。 所詮は『架空の死』。 そんな風に言い聞かせて自分で自分を誤魔化そうとしてみたりしましたが、逆に、この4年という月日の中で、どれだけウルフウッドという存在が、私の中に深くその根を下ろし、張り巡らせているかを思い知らされただけでした。 今も、落ち着いたかと思っていたら、このファイルを打っているうちに何かがまたむくりと頭をもたげてきて、自分の中でどうしようもなく暴れ出そうとしています。 実は、この感想は、とある方に今回のウルフウッドの死について吐露したメールから、ほとんど引用しています。 それなので、少しは感情のトーンを抑えることが出来ていると自分では思っていたのですが、だめですね。 また、泣けてきそうです。 色々書いてきましたが、今、私の中で、『トライガン』という作品の大きな一区切りが終わってしまったという感は否めません。 だから、内藤先生の「ここが始まり」という言葉に、次のOURSで、どんな展開(ウルフウッドの死に対して)がなされるのかが、とても気掛かりです。 何があってもその点は見届けなくては、この「一区切り」が自分の中で中途半端で、ウルフウッドの死をそれとして認められないのです。 もちろん、ウルフウッドが嫌悪し愛した世界が、反発し惹かれたヴァッシュという男が、どんな道行きを辿るのか最後まで見届けることもやめる気はありませんけれど。 …ああ…真剣に、ツラいです… 本当はこの「感想」も最初のうちは書けないと思っていたのですが、どうしても今この時のウルフウッドへの自分の思いをそのまま書き残しておきたいという気持ちが逸り、気が付いたらこんなにだらだらと書いてしまっていました。 同じウルフウッドファンとして読まれて、気分を害された方がいたら、改めて申し訳ありません。 |
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