植松獄中婚でSNSで流布するデマ、「知的障碍者はレイプしても逮捕されない」という『虐殺文法』について
あまりにもひどいので、書いておく必要があると思う。
やまゆり園事件の植松聖死刑囚が獄中婚し、その妻がABEMA-TVに出演した。これについてSNSでは「彼女は15歳の時に知的障碍者から性的暴行を受けたが、相手が障害者なので逮捕されなかった。彼女はそれが原因で心を病み、それが障碍者の大量殺人をした植松に惹かれるきっかけとなった」という投稿があふれている。
しかも、犯人が知的障害者だからと逮捕もされず、本人は記憶障害を患い手帳持ちか…
— 女たちのデータベース広場 (@females_db_park) June 28, 2025
「私は知りたいと思ったし、世間の人も考えるべきだ」という言葉があまりにも重い
「俺は真面目に生きたって女にモテないんだ〜」と都合よく拗ねるためのダシに使うような話じゃないね https://t.co/JElrDAbj3v pic.twitter.com/SoqoYi5rnu
ひとつやふたつではない。こうした内容が山のように投稿されている。
知的障碍者だから逮捕されない、などということはない。実際問題、刑務所には収監されている知的障碍者が何百人も存在する。
令和2年度に法務省矯正局が実施した特別調査により、全国で1,345名の知的障害又はその疑いがある受刑者がおり、そのうち療育手帳を取得している者は414名(30.8%)であることが判明した。
調べれば知的障害受刑者のケアについての情報がいくらでも出てくる。彼らの多くは賽銭泥棒などの軽微な罪を重ねて最終的に懲役になる。当たり前だが、賽銭泥棒でも実刑を食らうのに10代女性を性的暴行して「障碍者だから」逮捕されないことはない。
今回の獄中婚の相手、翼さんについて『創』の篠田編集長が書いた記事を引用しよう。
”彼女は11年前、15歳の時に面識のある男にレイプされ、そのトラウマからいまだに精神面での障害を負っているのだが、警察に性暴力の被害を訴えたのに、証拠不十分で加害者が不起訴になってしまったという相手が知的障害を持った男性だったというのが、植松死刑囚に関心を持ったきっかけだった。”
加害者が不起訴になった理由は「証拠不十分」である。障碍が理由ではない。むろん責任能力がなく罪に問えないケースはあるが、それは裁判所が鑑定した上で決める。ではなぜ、障碍者だから逮捕されないという話がSNSで広まっているのか。本人がABEMA-TVの放送で口にしているからである。
6:15くらいから翼さんが話す。
「私が15歳の時に、知的障害のある男性から性的暴力を受けてまして、警察の方にも動いていただいたんですけど、証拠不十分と、あとまあ相手の方が障害者だということで逮捕もされずに終わってしまったんですね」
篠田氏の記事の「証拠不十分」に、なぜか「相手が障害者だということで」という話が加えられている。
だがそもそも、「証拠不十分」なのであれば相手が障害者であろうが健常者であろうが逮捕はできないのである。この「証拠不十分」という本人・篠田記事ともに確定している部分がなぜかSNSではカットされ、「障碍者だから逮捕されなかった、それで彼女は障碍者を殺した植松聖に惹かれ、救われたのだ」というストーリーが流布している。
しかし、植松聖が殺害した19人の障碍者のうち、性別は女性が10人、男性が9人。過半数が女性である。
しかも、これは報道されたことであるが、植松聖は犯行時に障碍者に声をかけ、反応できなかった者を選んで「生きる価値がない」として殺害している。
つまり植松聖が殺害した19人の障碍者は全員が幼児同然の状態であり、犯罪者になる可能性がある者などゼロなのである。
にもかかわらず、ABEMAの放送でもSNSでも、翼さんの15歳の時の事件の障碍者(警察が証拠不十分で不起訴にしている以上、その障碍者が犯人だったかどうかすら法的には不明である)とやまゆり園で殺害された19人の障碍者に何か因果、共通点があるかのような言説があふれかえっている。
ABEMA放送では、まるで翼さんのマネージャーかプロデューサーのように篠田編集長が付き添い、放送中も彼女のすぐ隣から介入して話の流れを作っていた。『創』と創出版は過去にも死刑囚や犯罪者に獄中からインタビューや手記を書かせる、ほとんどそれが持ち芸のようになっているし、毎回のように篠田編集長がプロデューサー的に立ち回ってきた。そこには「犯罪者にも人権がありくむべき事情がある」という左翼ジャーナリズム的な大義名分があり、そのこと自体は否定できない。死刑囚に心を寄せ獄中結婚する女性、というのも決して珍しい存在ではなく、そのこと自体も憲法で認められた人権であり自由である。
しかし、『創』と篠田編集長がプロデュースしたこの状況のSNSの状況はあまりにも不気味である。篠田編集長がいつものごとくビジネス的に狙った賛否両論や議論にすらならず、「法律で逮捕できない障碍者から性被害を受けた翼さん」に対する共感一色に染まってしまっているからだ。繰り返すが殺された被害者の半数以上が女性、そして全員が呼びかけに応答することもできない無力な状態だったにもかかわらず、「法で守られた卑劣な弱者に対して復讐をなしとげた植松聖と彼に恋する被害者女性」という物語はあまりに強くSNSで拡散している。
「私は知的障碍者から性被害を受け心を病んで死のうと思っていたが、障碍者を差別したい殺したいとは思っていなかった。しかし一線をこえた考えを持つ植松聖に興味を持ち話すうちに、死刑囚はこの世にいらない存在だと思っていたが、死刑囚も重度障碍者も必要な存在だと思うようになった」という翼さんの談話はABEMA放送の中であらかじめパネルに書き起こされ、視聴者に「これは障碍者差別ではないんですよ、彼女は知的障碍者に性暴力を受けた被害者なのです」と念を押すように画面に長時間映された。
その文言は明らかに事前に念入りに篠田編集長によってプロデュースされているように思えた。「知的障碍者による性暴力の被害者」であることを念入りに視聴者にアピールし、障碍者は殺すべきだという考えを持っているのは植松聖であって翼さんはそのような考えは毛頭ないことが強調され、しかし今も「障碍者は殺すべきだ」という考えをまったく変えていない植松聖の人格は性暴力の被害者である翼さんによって番組VTRの中で「本当に優しくてすごく人のことを気にかけてくださる 頭が切れる」「私の理想のタイプなので愛しています」と救世主のように賞賛される。結果的に番組では「彼女はもちろん障碍者を殺すべきだなんて思っていないが、障碍者を殺すべきだと今も考えている植松聖は素晴らしい人格者である」というメッセージが繰り返し視聴者に打ち出され、そしてSNSはそのメッセージへの共感で染まっている。その共感の根底にあるのは「法で裁けない知的障碍者から性暴力を受けた若い女性」という『創』の篠田編集長がプロデュースした構図である。実際には知的障碍者は逮捕され、法で裁かれているにもかかわらず。
翼さんの話にはいくつもの疑問がある。「証拠不十分」という明白な事実が警察から打ち出されているのに、「障碍者ということで逮捕すらされませんでした」というのはいったいどういうことなのか?高校生に性暴力を加えるような加害者と、発語も反応もなく殺された障碍者の間にはほとんど何の関係もないにもかかわらずなぜ植松聖に興味を持ち、今この瞬間も「重度障碍者は殺すべきだ」という考えを一ミリも変えていない植松聖の人格を「本当に優しくて頭が切れる、私の理想のタイプなので愛しています」と肯定できるのか?ほとんど支離滅裂と言っていいストーリーである。だがそうした疑問を彼女につきつけるのは「性暴力被害者に対するセカンドレイプ」として糾弾される、その構造を主に左派やフェミニストが作ってきたことを『創』の篠田編集長はよく読み切った上で彼女をプロデュースしている。
本当にいいのか?この構図を作ってしまって。今後このシステムは、外国人や老人、あらゆる社会的弱者に対する暴力、大量殺人が起きた時に何度も利用されてしまうことになる。
外国人や老人、さまざまな弱者に対する憎悪が社会の中で蓄積する。ある時に若い女性が叫ぶ。「私は彼らに性暴力を受けたんです」と。それに対してメディアは反証も検証もできない、セカンドレイプなのでしてはいけないことになっている。そしてマイノリティに対して破壊的な暴力を行使する男性が現れる。女性たちから「私は、私たちは彼と同じ思想ではないし彼の暴力を支持したりはもちろんしないけど、彼は本当に優しくて頭が切れる理想のタイプで私たちは彼を愛しています」という社会的肯定のメッセージが安全地帯から打ち出される。これはほとんど虐殺文法の完成である。若い白人女性に口笛を吹いて白人青年団に惨殺された黒人少年エメット・ティルの事件とまったく同じ構造を持ったシステムである。
殺されたのが外国人やマイノリティであれば、左翼ジャーナリズムの文脈でビジネスを展開している篠田編集長たちは賢く手を引くかもしれない。しかし篠田編集長たちが作った「ビジネスモデル」は、右派メディアやユーチューバーがいくらでも引き継ぐことができる。「私は差別主義者ではありませんが、大量虐殺を行った差別主義者である彼は私の理想のタイプです」という、篠田編集長がプロデュースし社会に送り出した「虐殺文法」はこの先、誰にでも使えることになる。
『ルックバック』という映画化された藤本タツキの漫画があった。その中で殺人犯の妄想が精神障碍者への差別を引き起こしかねない、という理由で大きな抗議がSNSで起きた。それが必ずしも正しかったとは思わない。だが、植松聖獄中婚に関して『創』の篠田編集長がプロデュースし、ABEMAが放送し、SNSが共感している知的障碍者への憎悪は、『ルックバック』の時の騒ぎは何だったのかと思うほど「知的障碍者は殺してもいい」に傾いている。それはなぜか?SNSを使う私たちにとって、心の病はすぐ近くにあり、精神障害への差別は他人事ではないが、知的障碍者は「私たちではない存在」だからである。「性被害で精神に障害を持った」という翼さんは「私たちの側」だが、殺された知的障碍者たちは「私たちの側ではない」と認識されているからこそ、SNSでの共感は翼さんに傾く。
仮に、コミケで大量殺人が起きたとする。19人が殺され、殺された被害者の半分は女性のオタクだったとする。犯人と獄中結婚する若い女性が現れ、「私はオタクに性加害されたことがあるんです。私はオタクを殺すべきだなんて思っていませんが、オタクを殺すべきだと今も思っている彼はとても優しくて、私の理想のタイプです」とメディアでほほ笑んで語る。激しい反発が起きるだろう。「いったい何の関係があるのか?殺された半分は女性ではないか?」と問いかけるだろう。今、誰もそうしない。被害者が知的障碍者だからである。
KKK、エメット・ティルの時代から「女性の性被害深刻」は虐殺を肯定する引き金になってきた。現在アメリカの大統領であるドナルド・トランプは、1989年に起きた黒人とヒスパニック少年5人が被告となった白人女性暴行事件について、「犯人を死刑にせよ」という全面広告に8万5000ドルを投じた。もちろん最高刑は死刑ではないので、性犯罪者は殺せという意味である。犯人の少年たちが何年も刑務所につながれ、人生を失ったあとに冤罪が証明された。しかしドナルド・トランプは、こうした行為で民衆からの支持を取り付けて今の地位にある。
「彼は私たちを動物と呼んだ。彼は私たちの死刑を求める全面広告に8万5000ドルを費やした」--。米中西部イリノイ州シカゴで開催中の民主党全国大会で22日、ニューヨーク市で35年前に起きた冤罪(えんざい)事件の被害者らが登壇し、因縁があるドナルド・トランプ前大統領への批判を繰り広げた。
より直接的に、女性当人が殺人に関わった事件もある。ススキノ男性殺害事件である。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250507/k10014798691000.html
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