声を上げた人たち……轍と黄昏
あのコロナの黎明期、多くの人が、手探りで恐怖と闘いながら、SNSという公共空間で声を上げました。
研究者であれ、医療従事者であれ、一般の発信者であれ、あのとき「誰かの役に立ちたい」と思って言葉を紡いでいた人は、少なくなかったと思います。
そして、そんな中で………
あっという間にフォロワー数万人を超えて“インフルエンサー”と呼ばれるようになった人たちがいます。
あの頃、薬局のドアに「マスクありません」と貼られた紙を見て、3文字しか目に入らず「マスク“ある”んだろ!」と怒鳴り込んでくる人がいたほどの、情報と感情が混乱した時代でした。そうしたパニックの中で、正の反応も負の反応も極端に振り切れ、発信する人たちにかかった精神的な負荷は、計り知れません。
そうした人たちは、当初は皆「感染対策の側」にいました。
けれど、やがて人によっては、まるでブレーカーが落ちたかのように、反対側に流されていきました。
私には、その光景に強い既視感があります。
かつての近藤誠先生が“崩れていく”経過を間近に見ていたために、自分はどこかで最初からブレーキを踏み気味だったし、もともとリアルの場で、毎年数千人を前に講義をし、「科学的に正しいらしいこと」(←これは“それっぽい”という意味ではなく、科学の可塑性を踏まえた表現です)を話すことに慣れていた自分。
それでも、「3万人の銃口」はなかなかに堪えました。
たぶん、一気に10万人を超えるフォロワーを抱えた人、しかも注目されることに慣れていなかった人が受けたメンタルの負荷は、私の想像以上だったでしょう。
だから私は、コロナ禍で神輿に担がれ、そのうち“おかしくなった”ように見える人たちのことを、加害者としてではなく、「コロナ禍の被害者」の一人として見ている部分があります。
「降りる自由も、名前を出さない自由もあっただろ」と言われれば、それまでです。でも、だからといって「口汚く罵ってよい」とは思いません。
現実に業務を妨害されたり、深く名指しで中傷されたのであれば、糾弾しつづけるのも当然かもしれません。しかし、匿名で安全な場所から、本人に直接の被害があったわけでもないのに一方的に攻撃を続ける人たちを、私は是とはしません。
とはいえ、そうした人たちに、正面から思いを伝えようとしても、多くの場合それは無駄ですし、場合によっては危険です。
だから、距離を取るしかなくて。
それでも、「それを面白がって“いいね”する人が、一人でも減ってほしい」
と願っています。多分、オーディエンスが減ることが、一番のおくすりになるから。
もしかすると、攻撃を“報酬回路”に組み込んで娯楽化してしまった人たちも、ある意味では、コロナ禍のもうひとつの被害者なのかもしれません。
倫理や法律上の責任がなくなるわけではないにせよ、そういう視点は持っていたいな、と思う次第です。
(´・ω・`)



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