戦後初の3冠王となり、両リーグで優勝経験がある名将、野村克也さんが2月11日に84歳で亡くなってから3か月が過ぎた。今回はノムさんの「足」に注目。現役時代、決して俊足ではなかったが、ホームスチールを21度試みて7度成功している。通算1065盗塁の記録保持者、福本豊が成功が1度しかないことを考えても驚かされる。
ホームスチールの日本プロ野球記録は、俊足だった与那嶺要(巨人→中日)の11度。失敗も2度しかなかったエキスパートだ。
ただ、通常の二盗、三盗と違って、足が速いからといって本盗が多いわけではない。阪急一筋の福本は8度試みて1度の成功、野村の同僚で通算盗塁数2位の広瀬叔功は11度試みて成功は3度、同3位の柴田勲(巨人)に至っては6度試みて成功なし。それだけに117盗塁の野村が7度も成功しているのは特筆に値する。
実際、あるインタビューで野村は「ホームスチールはねえ、僕の得意技だったんですよ。僕はこう見えても7度も成功させているんですよ」と答えている。1972年、満塁の三塁走者として2度成功したのは有名だが、それ以外の5度の場面をチェックすると別表のようにすべて一、三塁。捕手が二塁へ送球する間に本塁へスライディングを決めたものだ。そのシーンで打席に立っていた打者を見ると、2度は後の日本ハム監督として大沢親分と言われた大沢啓二だった。
それでは、ホームスチールの失敗はいくつあるか。データを調べたところ、何と14度もあった。そのうち、走者三塁での単独で走って失敗は3度、左腕の時に2度、ボーッとしていて捕手のけん制に飛び出したのが1度。満塁で1度。あとの10度はすべて一、三塁でのアウト。当時の報知新聞をチェックすると「重盗で得点を重ね」などと成功に関する記述はあるものの、失敗に触れているものはほとんどなく、試合経過にも掲載されていない。
逆に考えれば、当時は打球があまり飛ばないこともあって足を使うことが多く、一、三塁での重盗はそんなに珍しいプレーではなかったからだと思う。
野村の7度のホームスチール成功に対して「相手の虚を突くことがうまい」などと書かれているが、実は失敗を重ねた経験があったればこそ、72年のシーズン2度成功につながったといえる。
72年9月20日、西鉄戦でその年2度目の成功の直後には「みんなもこんなことをやってくれたらいいんやけどな。打てんときは打てんなりになんとかしようとする意欲を見せることや」。面白いことにチームメートだった広瀬もホームスチール敢行のうち最初の6度までは鶴岡一人監督時代。ノムさんのケースを考えても、当時の南海が1点を狙う采配を徹底していたこともうかがい知ることができる。=敬称略=(蛭間 豊章、ベースボール・アナリスト)
◆福本さん「本盗に関してはノムさんに完敗です」
福本 豊氏(スポーツ報知評論家) 本盗の数はノムさんの自慢の一つだった。ある時、分かっているくせに「フク、ホームスチールは何回やった」と聞いてきた。「何や1回か。ワシは7回や。勝ったな」と、うれしそうに笑っていた。
阪急もやられた。覚えているのは今井雄太郎が投げていたとき。三塁走者でスタートのタイミングを計っているのをセンターを守っていて気づいた。声をかければよかったけど「あ~あ、ほんまにやられたわ」と。
他球団もノムさんが一、三塁からの重盗が得意なのを知っているから、失敗も多かったはず。それでもトライしたのは、打者に打たせるのと点の入る確率がどちらが高いかを考えてのことだろう。足は遅いけどノーマークにすると、二盗もしてきた。「相手の虚を突く。これがほんまの盗塁や」と胸を張っていた。
私自身は「行けそうやな」と思っても、サインが出ない限りは本盗は狙わなかった。打者が振ってくると危ないし、捕手のブロックでけがをする可能性もある。本盗に関してはノムさんに完敗です。
◆ホームスチール豆知識
▽昔は多かった
野村さんがシーズン3度も敢行した1956年は8球団制だったこともあるが、リーグ全体で119度(成功43)もあった。7球団となった57年が58度(成功19)、6球団制の58年も40度(成功15)。定番の作戦の一つとして使われていた。中でも鶴岡監督率いる南海はこの3年間、17度(同8)、14度(同6)、10度(同4)と群を抜いて多かった。
▽現代は
パ・リーグを例に挙げると本盗を敢行した例は2017年は3度(成功2)だけだったが18年が13度(同1)、19年が15度(同2)とやや増加傾向。
▽王さんもけっこう多い
現役時代の王貞治は5度成功、失敗は6度で計11度チャレンジ。川上監督時代のときに8度走って6度失敗。長嶋監督時代には3度すべて成功。
▽米国往年の大打者は
ルー・ゲーリッグが15度、ベーブ・ルースは10度成功などの記録がある。