昭和天皇を広島で数万人が奉迎
広島と皇室とのつながりということでは、もちろん昭和天皇の存在を抜かすわけにはいかない。
昭和天皇は敗戦後、被占領下にあった昭和21年(1946年)2月から同27年(1952年)4月のサンフランシスコ講和条約の発効によって本土では主権が回復した後の同29年(1954年)8月まで、満8年半をかけて、沖縄県を除いて全国を巡幸された。総行程3万3000キロ、お出ましの場所は1411カ所、総日数165日という壮挙だった(沖縄へのお出ましがかなわなかったことについてはプレジデントオンライン6月11日公開「次は『愛子天皇』しか想像できない…皇室研究家が『沖縄訪問で誰の目にも明らかになった』と断言する深い理由」参照)。
その中で当然、広島へのお出ましもあった。昭和22年(1947年)12月5日から8日にかけて、広島市・呉市・三原市・尾道市・福山市をめぐられた。
7日に訪れられた広島市での様子を写真で見ると、元護国神社前の広場に設けられた奉迎場の後方には、無惨にも廃墟になった元広島県産業奨励館(原爆ドーム)が見える。その前におびただしい数の人々が詰めかけていた。当時の「読売新聞」では5万人、「中国新聞」では7万人が集まったと報じられていた。驚くほどの人数だった。
ここで昭和天皇は、マイクを通して次のように呼びかけておられた。
この場に集まった人々は、「君が代」の斉唱で昭和天皇をお迎えし、おことばの後には「万歳」を繰り返した。多くの犠牲者を出した広島で、このような光景が見られた事実は、ある意味では不思議な出来事とも言える。
皇室は敗戦を乗り越えた唯一の例外
と言うのは、第1次世界大戦でも、第2次世界大戦でも、敗戦国の君主制は、日本だけを除き、すべて例外なく滅んでいるからだ。第1次大戦のドイツやオーストリア、トルコ(オスマン帝国)、第2次大戦のイタリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの例がそれだ。
そこで、次のような指摘がある。
「今日ではもはや王朝は敗戦を切り抜けることはできない。たとえ王朝が敗戦に責任がないばあいですら、君主制は贖罪山羊(スケープ・ゴート)なのであり、荒野に追いやられるだろう」(カール・レーヴェンシュタイン『君主制』)と。
この事実と照らし合わせると、わが国は先の大戦で、敗戦によって君主制が滅んだどの国よりも、深刻な被害を受け、大きな犠牲を払っている。しかし、一部に退位論こそ出たものの、君主制が滅ぶどころか、その根幹は揺らぎさえしなかった。
昭和天皇は無防備なまま全国をめぐられ、どこでも熱烈な歓迎を受けられた。最も犠牲が大きかった広島でも、先のような光景が当たり前に展開したのだ。このようなことがあり得たのは、皇室と国民とが、深い信頼と敬愛の気持ちで結ばれていたからこそ、だろう。

