繁華街に誕生した大阪スタヂアム 阪急電鉄創業者の一言が決め手

すり鉢状のスタンドが特徴だった大阪球場(昭和63年)
すり鉢状のスタンドが特徴だった大阪球場(昭和63年)

大阪を代表する繁華街、なんばの魅力を探る連載を始めよう。トップバッターはもちろん南海電鉄の「難波駅」。南海難波といえば、プロ野球、南海ホークスのホームグラウンド「大阪スタヂアム」(大阪球場)を思い出す。野球だけでなくスタンドの下にはビリヤード場や卓球場、料理教室まであった。そのスペースを確保するため、内野スタンドは傾斜角度37度の急勾配の〝すり鉢状〟になった。なぜ、南海電鉄は「難波」という繁華街のど真ん中に、そんなけったいな球場を建てたのだろう。南海電鉄本社(大阪市浪速区)を訪ねてみた。

「当時のことを話せる人が少なくて…。社内の〝生き字引〟という人をつれてきました」

入社1年目の広報担当・山田紗栄さんに紹介されたのが、広報部課長補佐の園口勇一さん(57)。筆者より10歳も若かった。

早速、なぜスタンドが急勾配になったのかを尋ねた。実は筆者は昔、先輩記者から「そこが南海らしいところや。野球だけではもったいないから、いろんな施設を入れてもうけよう-という商売根性のあらわれや」と聞かされていた。ホンマやろか。

「うーん、少し事情は違いますね。むしろそうせざるを得なかった-というのが事実のようです」と園口さんは資料をひもといた。

青少年健全育成に

時は昭和23年に遡(さかのぼ)る。ようやく戦後の混乱が落ち着き始めたころ、南海電鉄本社に隣接する専売局(現在の日本たばこ産業)の工場跡地(1万2千坪)が処分されるという情報が入った。当時、南海社長の吉村茂氏は大阪ミナミの復興に向け、即座にこの土地の取得に乗り出した。

南海電鉄の吉村茂社長(同社提供)
南海電鉄の吉村茂社長(同社提供)

23年はプロ野球が復活して4年目。2度目の優勝を果たした南海ホークスは11月、連合国軍総司令部(GHQ)を訪れ、米国野球協会の日本委員長を務める経済科学局長のマーカット少将に優勝報告した。その席でマーカット少将は松浦竹松球団代表に尋ねた。

「あなたたちのフランチャイズはどこですか?」

「大阪のチームですが市内に公式戦のできる球場がなく、兵庫県の甲子園や西宮球場を使わせてもらっています」

大リーグを熟知し、フランチャイズ制の重要性を知るマーカット少将は、大阪市に球場を持たないホークスに心が揺れた。そして「青少年健全育成のためなら、球場建設の資材を割り当ててもいい」と認めた。こうして、難波復興のための「専売局跡地」と「球場建設」が結びついたのである。

リーグ結成見据え

それでも吉村社長は「難波」に球場を建てることに不安を感じていた。

関西では甲子園(大正13年建設)や藤井寺(昭和3年)、西宮(同12年)といずれの球場も市中心部でなく、各沿線の郊外にあった。土地が安く手に入り、入場料以外に運賃収入も見込めた。それが球場経営の常識だった。

繁華街の難波ではそのメリットが生かせない。どうすればいいのか…。考え抜いた吉村社長はスタンドの下に店舗や事務所を入れ、その家賃収入で経営面を補えないか-と思いついた。だが、自信もなく踏ん切りがつかない。

「そこで吉村はある人物に相談を持ちかけたんです」と園口さんが明かす。

その人とは、この企画の「池田編」でも取り上げた阪急電鉄の創業者・小林一三氏、当時74歳。なんとライバル会社の総帥に相談したのだ。

吉村社長は電鉄経営の大先輩・小林氏を本社に招き、2人で屋上に上がった。そして、広がる専売局跡地を眺めながら自分の構想を話した。小林氏は即座に賛同した。いや、それだけではく「実はね…」と秘話を語り始めた。

小林氏がプロ野球リーグ結成への一報を耳にしたのは、昭和10年10月、米国視察でワシントンに滞在しているときだ。

読売新聞・正力松太郎社長の呼びかけで阪神電鉄が球団結成へ動き出し、名古屋や東京でも数社が名乗りをあげ「早ければ来春にもリーグ戦が開幕する」という。小林氏はすぐに日本に電報を打った。

『北口運動場併(ならび)に職業野球団設置、至急計画願ひ渡し』

すぐに球団結成へ動け。そして取得していた西宮北口駅周辺の土地に球場を建てよ-という指令だ。

実は小林氏は西宮球場の中にいろんな施設や店舗を入れ、多目的に活用したいと考えていた。だが、海外視察中で設計会議に参加できない。その間にスタンド下のほとんどの部分は通路やロッカールームなどに当てる計画で進み、小林氏が帰国したときにはすでに工事は始まり、変更できなかったという。

小林氏の話に吉村社長は「自信」を持った。そして球場建設を決断したのである。

スポーツと文化の殿堂

球場の壁面には「文化会館」の看板(南海電鉄提供)
球場の壁面には「文化会館」の看板(南海電鉄提供)

「青少年の健全育成のため」というマーカット少将から与えられた言葉は、球場建設の大きな〝切り札〟となった。

昭和23年当時、建築許可を申請した建設省の反応は「この時節にとんでもない話だ。球場建設に使う鉄骨で何軒の家が建つと思っているか!」というもの。

南海は「球場は青少年の健全育成や国際親善に貢献する〝公共的〟な施設です」と強調した。そのため球場名が「南海」でも「難波」でもなく「大阪」となったといわれている。

南海は大阪球場を『スポーツと文化の殿堂』と位置付けた。そして吉村社長の構想通り、球場内に多くの施設を入れた。

【スポーツ】内野スタンド下の1階には「ビリヤード場」「卓球場」があり、当時としては珍しい「インドア・ゴルフ場」まで。

当時はまだ珍しいインドアゴルフ場(南海電鉄提供)
当時はまだ珍しいインドアゴルフ場(南海電鉄提供)

【文化】2階に囲碁、日舞、バレエ、茶道、絵画など約50教室が入居。3階には「土井勝料理教室」「関西美容理容専門学校」「日本電気技術専門学校」が開校。30年に「文化会館」の看板を掲げたのである。

人気を集めた「土井勝料理教室」 (南海電鉄提供)
人気を集めた「土井勝料理教室」 (南海電鉄提供)


【1枚の写真】なんと、大阪球場の前に川が? 名前は「新川」。球場が建てられた専売局の工場跡地は江戸時代、幕府直轄の米蔵「難波御蔵」があった場所。蔵へ運ぶために新しい川(水路)が造られた。それが「新川」。

大阪スタヂアムの前を流れていた「新川」(昭和28年撮影)
大阪スタヂアムの前を流れていた「新川」(昭和28年撮影)

写真は昭和28年11月撮影。33年に新川は埋め立てられ、今はその上を阪神高速道路が通っている。(田所龍一)

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