「教養主義の没落」を読んで、米津玄師さんの教養の深さと自分の無知を知る
米津さんがべらぼうに面白いと言っていた「教養主義の没落」を読み終えました。
2024年はたぶん人生で一番忙しかったんですよ。だから、ほとんど覚えていないです。ただ読んだ本で言うと、社会学者の竹内洋さんの「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」という本がべらぼうに面白かったですね。大正時代あたりに興隆した教養主義が、この本が書かれた2000年代初頭の頃に至るまでにいかに没落していったかということを、いろんなデータをもとに紐解いていく。私自身はその本に載っているようなエリートなわけではないですけど、自分とすごくリンクするような部分もあったりして、膝を打ちながら読みました。
この本を読んでわかったのは、べらぼうに面白いと言った米津さんのすごさですね。ある程度以上の教養がないと本の内容を理解できないし、面白いと思えない。とりあえず、私は教養がないので、まったく面白さがわからず。自分とは全くリンクしなかったです。改めて米津さんを尊敬。この本で膝を打つってすごい。
教養のある人にとっては、自虐的な内容の本なのかなと思ったのですが、それすらも的外れな気も。
教養知は友人に差をつけるファッションだった。なんといっても学のあるほうが、女子大生にもてた。また女子学生も教養があるほうが魅力的だった。また教養崇拝は、学歴エリートという「成り上がり」(マックス・ウェーバー)が「教養」というメッキによって「インテリ」や「知識人」という身分文化を獲得する手段であったことも否めない。
こういう不純な動機を意識させなかったことは、教養主義がキャンパスの規範文化だったからであろう。しかし、不純な動機だけだったというわけではない。教養を積むことによって人格の完成を望んだり、知識によって社会から悲惨や不幸をなくしたいと思ったことも間違いのないところなのである。読書をつうじた人格形成主義や社会改良主義という意味での数養主義は、なぜかくも学生を魅了したのだろうか。そして、なぜ、教養からオーラが、教養主義から魅惑が喪失してしまったのだろうか。いまとなっては謎となった。
なんとなく理解できた冒頭の一部ですが、ここから先は教養ありきの内容でした。「いろんなデータを元に紐解いていく」のですが、データに出てくる固有名詞が聞いたことあるけど詳しく知らないものばかりで。理解するのが難しかった。
6割近くの大人が本を読まない時代ですが、本を読んでる人も小説とかが大半なのでは?偏見かな?
私も本は読む方なんですが、小説と実用書がほとんどで、人文書にはほとんど手が伸びないです。難解なものを読む素養がないというか、気力がないというか。米津さんとは読書の質が違うなと痛感しました。もう本当尊敬しかない。
エリートはまわりからちやほやされる。驕 慢というエリート病に罹患しやすい。だからエリートになによりも必要なものは現実を超える超越の精神や畏怖する感性である。前尾にとって、現実の政治や官吏としての仕事を相対化し、反省するまなざしが教養だったのである。
前尾については、教養の深さが総理の座を遠いものにしたといわれる。元気がよいだけの人間や世渡り上手な人間、便乗者には、ありきたりの返事しかしなかったため、煙たがられたからである。前尾にとって教養とは「ひけらかす」(差異化)ものでないのはもちろん、必ずしも「得をする」(立身出世)ものでもなかった。自分と戦い、ときには周囲に煙たがられ、自分の存在を危うくする、「じゃまをする」ものだった。ここに教養の意味の核心部分があるように思われる。
こういうところにリンクしたのかな?
やばい。この本について語れば語るほど無知を晒してしまう。恐ろしい。
米津さんが言及しなければ出会っていない本。
以前にも書いたのですが、米津さんを好きだと世界が広がりますね。
とりあえず、もう少し教養を深めてから、またリベンジしたいと思います。
膝を打ちながら読んでみたいけど、その域に達するまでの道のりは遠そう。でも、同じ感覚を味わってみたいので頑張りたいです。
ニーチェの話も理解したいし。
日々精進します。
追記
こちらの本の内容を書かれている記事を見つけたので、こちらも良かったら。
朝日新聞に「教養」についての論説が載っていたのですが、おそらく米津さんの紹介した本を受けてだろうなと思います。
「読書で人格を磨こうとする」のが「教養主義」だそうで、本の中でも同じようなことを言及していました。確かに現代では「没落」した概念かもしれませんね。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


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