5
夜の底に、マンションのエントランスが孤島のように浮かぶ。
ベージュに緑の文字の紙袋の横で、不貞腐れたように青年が座る。
「待った。」
「勝手ね。」
「お互い様。」
「だから、続く。」
そう笑ったところで、ドアに辿りつく。
「ねえ、ジュースとって。」
「ワイン持ってきた。」
「空きっ腹なの、アルコールは厭。」
フルートグラスを飲み干しているうちに、ゆうひがキッチンに向かう。
「ステーキ、でいい?」
ソファにひっくり返ったまま、手を振る。
「前菜は、シュリンプカクテルと、あと、なんかのマリネ。」
「それから?」
「フランスパン、馬鈴薯、出来合いのヴィシソワーズ 、
と・・・お腹すいてた?」
「まあまあ、ね。」
「焼き方は?」
「ミディアムレア。」
簡単にテーブルをセットして、彼を迎える。
カトラリーを並べるのと同時に、彼が皿を運んでくる。
きれいな指で、オープナーを操る。
頬杖をついて、笑いながら眺める。
「行儀、悪くない?」
「悪くちゃ、悪い?」
「悪くない。」
他愛もない、言葉遊びで食事は進んでゆく。
距離を測って、核心には触れない、それがルール。
乾く前のマニキュアを扱うように。
少しでも傷がついたら、リムーバーで剥がしてしまう。
金具で爪が傷つかぬよう、細心の注意を払う。
背中が爪で傷つかぬよう、偽りの優しさを込める。
「ねえ、今日泊まっていい?」
「だめ。」
「酔っ払い運転で、捕まる。」
「まだ、点数あるでしょう?」
ベッドサイドの灯りをつける。
「読みたい本があるの。」
彼の瞳を覗き込み、口唇に人差し指を這わせる。
くすぐったそうに顔をそらし、睫が顔に影を作る。
「まだ、待ってんの、JUNKOさん。」
「蠍座なのよ。」
「ぁーあ、あんな本、見つけてこなきゃ良かった。」
「だからって、変わらないわ、わたくしたち。」
「それも、そうか。」
さっさと切りかえて、もうシャツに腕を通しはじめた。
ドアの閉まる音を聞きながら、大きく伸びをする。
ストッキングを拾って、バス・ルームに向かう。
そして彼を、流してしまう。
おそらく彼も、似たようなもの。
バスローブを引っかけて、ライティングデスクのランプをつける。
本棚をしばらく眺め、古い装飾本に手をのばす。
いつだかの誕生日に貰った稀観本、綺麗だよとゆうひが買ってきた。
細いカリグラフィーが繊細に並んだ、ハイネの詩集。
異国の言葉を、舌に転がす。
頁をめくるように、心を切りかえることに慣れてしまった。
背表紙の奥に潜むものに、気が付かぬふうを装いながら。
芍薬の影が、落ちる。
適度に忙しく、適度に穏やかな一日に、苛つくことがある。
置き去りにした何かに呼ばれているように、焦ることがある。
「形、悪くなる。 ・・・噛むな。」
無意識に口にした手を、掴み上げられる。
「いいじゃん、ヤローの爪なんて誰も気にしないって。」
少し、物分りが悪くなる。
「俺の肌に、傷がつく。」
「じゃあ、しなきゃ、いい。」
いつにない、絡み方に少し後悔する。
片肘をついたままの妙に穏やかな瞳が、こちらに向く。
噛んでいた親指が、又、含まれる。
「・・・かわりに、噛んでくれんの?」
畳みかけるように、口が動く。
耳を素通りするように、舌が転がされる。
「くすぐったい!」
無理やり、ひっこぬく。
人差し指が、短めの鼻梁を伝う。
口唇を、輪郭を確かめるようになぞってゆく。
「俺さ ・・・機嫌悪くない?」
「そうか?」
「カナリ ・・・・感じ悪くない?」
「別に。」
「俺だったら、頭くる。」
「こない。」
「そんなこと、ない。」
「ある。」
生え際にさし入れた指が、髪を梳く。
「怒んないの。」
「何で。」
「んっと・・・・・・いいトシして。」
指が耳朶を軽くくすぐる。
「八つ当りしてる、あたり。」
「お前がしたきゃ、すればいいんじゃないか?」
「そーゆーもん?」
「しなきゃいけないときだけ、するもんな、お前。」
ちょっと声音が変わる顔に、拗ねていた目を上げる
「そーゆー時は、頭くるわきゃねえだろ、バカ。」
なんとなく、堪らなくなって、自分から口を寄せる。
羽根が掠めるようなキスを、飽きるほど浴びせる。
深く絡めあったキスを、息が止まるほどに続ける。
それだけで肩を寄せあって、眠ってしまえるしあわせ。
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