2
まるで只一人であるかのように、その人は裾を翻し歩く。
一瞥もせずに通り過ぎるかと思うと、遠い空でも眺めるように立ち尽くす。
好きか嫌いか、すぐ分かる。
セピアのマニキュアの爪を、艶めいた唇にあてる。
長すぎる睫の下、瞳が眠るように潤む。
時折漏らす言葉に、気のきかない相槌を返す。
「そろそろ、閉館ね。」
目が、覚める。
すたすた階段を降りてゆくのを追いかけながら、今まで死んでいた頭を動かす。
なんか、聞かなくちゃ。
名前は? ってJUNKOさん、だったよな。
住所は? 唐突過ぎて、聞けるわけ無い。
携帯は? かける勇気、あるのか。
でも、も1度会いたい。
表にはまだ、薄く陽が残る。
華奢な背中が、急に振り向いた。
同じ位の高さの瞳が、真正面からこちらを射抜く。
「あ、のっ。」
考える前に、言葉が出てしまった。
ゆっくりと瞬くと、薄紫のシャドーがほんのりと色を刷く。
「なあに?」
なんか、聞かなきゃ。
一秒も考えず、口を動かした。
「その、匂い、なんですか。」
あの彫刻に突っ込んでしまいたい気分。
驚いたように見開いた瞳が、ピアスより光る。
「あ、のっ、すっごくいい匂いで、蜂蜜みたいな、
えと ――――――――― すっごく、美味そうな。」
突っ込んで舌噛み切ったほうがいいかも、俺。
正気に戻った目の前で、あの人は可笑しそうに口元を押さえていた。
何にも云う気力も無く、ひたすらにあの人の尖ったハイヒールを見つめる。
「ええと、今度会ったときにお教えするわ。
楽しみが一つ増えるでしょう。」
酔っ払いみたいに、がくがくと頷く。
蜂蜜みたいな口唇が、蕩けそうに微笑んでる。
「じゃあね、来週の今頃、あの彫刻の下ね。」
ゴテゴテしたグロテスクな門を指す。
後ろを振り返る間に、又、音もなくあの人は歩いてゆく。
街灯の下に、オープンカーが止まっている。
象牙色のスーツの青年が、左の運転席で手を上げる。
俺より年上、彼女より年下、そのくらいしか分からない。
カーキのパーカーの裾を、いつのまにか握り締めていた。
「埃っぽいわね、街中は。」
皮張りのシートに深く腰かけて、誰にともなく呟く。
「この車は嫌い?」
信号待ちしながら、青年が目を細めて尋ねる。
「わざわざ、いらして下すったのですもの、好きよ。」
「理由付きの好き、って珍しいね。」
信号が変わり、ブルーブラックのSLは緩やかに加速する。
「珍しいことが、好きなのよ。」
「さっきの彼も、珍しかったの?」
「だあれ?」
「一緒に出てきた、ベージュのカーゴパンツの彼。」
「気になって?」
「そうでもない。」
「じゃあ、聞かないで、ゆうひ。」
拗ねたような表情を絡ませながら、青年が面白そうに言葉を継ぐ。
「わざわざ、リネンのスーツおろしてきたんだけど、分かった?」
「ウィンザー・ノットは、あなたの首には太過ぎてよ。」
「今日は、英国紳士でまとめてみただけ。
JUNKOさん、好きでしょ、イギリス?」
「車はドイツなのね。」
流れるライトとイルミネーションの中を漂うように、彼女が肘をつく。
「ねえ、途中でお花、買いたいの。」
「あの子、ずっと立ってたね。」
「どの子?」
「美術館の、彼。」
「気が付かなかったわ。」
並外れて長い指を伸ばし、マニキュアを確認するように眺める。
「見えなくなるまで、ずっと芝生のとこにいた。」
「だから?」
「俺くらい、可哀相。」
「なんで。」
「だって、染色体が違うから。」
聞きたかった答えがやっと出てきたような顔に、バックライトが照り返る。
蜂蜜色の唇を膨らませて、彼女は笑ったような顔をした。
都会の花屋は、遅くまでやっているので好きだ。
芍薬の束を無造作に後ろに置く。
「束になると、なんかグロテスクな花じゃない?」
「でもね、好きなの、理屈なんか無いの。」
「あーあ、俺もいわれてみたいんですけど。」
「云うだけなら、いくらでも云えてよ。」
「俺と、おんなじ。」
「そういう処は、好きよ。」
何となく続いている、乾いているけれど優しいゆうひ、
それは、お互いに分かっている。
だけど違う、わたくしの思いはあなたではないの
それも、お互いに分かっている。
今日のあの子も、多分違うはず
でも、あの瞳の奥に、何処かで出会った。
タニ、って云っていたっけ。
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