「善意の同胞」隠れみのに
華僑社会に紛れたフェンタニル組織
米中「新アヘン戦争」の裏側 狙われた日本㊦
米国で深刻になるフェンタニル問題に日本も無関係ではいられない(6月、ニューヨーク)
米国に合成麻薬「フェンタニル」を不正輸出する中国組織が日本に拠点をつくっていた疑いが判明した。リーダー格は米麻薬取締局(DEA)も足取りを追っている。米中対立を生み、世界を揺るがしている問題は決して遠い国の話ではない。「新アヘン戦争」の新局面に迫る。
中部最大のコミュニティー
名古屋のコミュニティーは東京や大阪と違って団結力が強い。何よりトヨタ自動車があって、製造業が安定している。
輪に入るのは簡単ではないが、一度仲間になればみんなで助け合う。
中部日本華僑華人連合会の会長をつとめる金大一はこれまで四半世紀近く、地元の華僑・華人社会の発展を引っ張ってきた。日本語やトヨタの生産技術を学びたい中国人向けに、自身も専門のコンサルティング会社を経営する。
中国で外科医をしていた30年前。「文科系に転身したい」と一念発起し、日本へ渡った。奨学金を得て大学で国際経営を学び、そのまま日本に根を張った。
いまでは地域で誰もが知る顔役だ。中部日本華僑華人連合会には200を超える個人や企業が入会し、中部最大の華僑団体に育った。金は自分の経験も生かしながら、日本にやってくる多くの同胞を支えている。
資金力にものをいわせても、日本では決してうまくいくとは限らない。言葉や情報のズレはそれだけ大きい。「そこをうまくつなげるのが私の仕事です」。金は真剣なまなざしで語る。
彼にもそうした一心で手助けしたつもりだった。
フェイスブック写真と合致
夏(Xia Fengzhi)と会ったのは3年前だ。
「新エネルギー、とくにバッテリーをやりたいんです」
年齢は50歳代、口数の少ない男だった。中国で電気自動車(EV)が爆発的に普及し始めていた波に乗り、バッテリー事業を日本で手がけたいという。
「簡単ではないよ」。多くの中国人の起業を見てきた金はそうたしなめた。それでも夏は「いや、うちは技術があるから」とやけに強気だったことを覚えている。
金の会社で働く女性社員の紹介だった。名古屋で事務所を探している人がいる。中国にいる彼女の同級生からそう相談を受けたといい、会ったのが夏だ。
夏の会社は「FIRSKY株式会社」という名前だった。本社は武漢で、日本法人ももともとは那覇市に立ち上げたという。来る者拒まず、だ。金は空いていた自社オフィスビルの一室を貸し出した。
それから夏とは何回か顔を合わせたきりだ。金も忙しい。大家とはいえ、夏が名古屋で何をしていたか、詳しくは知らない。事務所で寝泊まりしていた形跡はある。どんな人間が出入りして、経営がどういう状況だったかまではわからない。
米当局が摘発した中国のフェンタニル密輸組織が日本の名古屋に拠点を設けていた疑いがある。日本経済新聞が公開情報を分析してわかった。「夏(Xia)」姓の中国人はその中心人物とみられる。
「そうそう、この人です。武漢出身と聞いています」
5月下旬、金は名古屋で取材に応じ、手にした写真を見て即答した。取材班がフェイスブックで探り当てた夏のプロフィル画像だ。データの海から掘り起こした点と点が線になった瞬間だった。
ネット情報が示す足取り
法人登記簿によると、FIRSKYは2021年6月に那覇市で設立した。代表取締役は夏だ。金のビルには22年9月に移った。
このころ頻繁に名古屋を訪れていたようで、ホテル予約サイトには夏本人とみられる口コミ投稿が残っている。金が貸し出したビルから近い場所だ。
夏はSNSで同じユーザー名、プロフィル画像を使い回す傾向がある。ホテル予約サイトもフェイスブックと同じ画像で「ビジネス旅行」の感想を記していた。
中国の企業データベースなどをたどり、SNS「微信(ウィーチャット)」や通信アプリ「テレグラム」、決済サービス「ペイパル」のアカウントも見つけた。自身を紹介するプロフィル写真はフェイスブックのものと酷似している。
FIRSKYの登記簿に「バッテリー」とは一言も書いていない。ホームページや化学薬品の専門サイトで活動履歴を調べると、会社とその代表である夏の実際の姿が浮かんできた。米当局が摘発した中国の兄弟企業「Hubei Amarvel Biotech(湖北精奥生物科技)」の薬物を扱い、すべて日本から送ると宣伝している。
「実は去年から会っていないんです」。夏の最近の動向を聞くと、金は表情を曇らせた。過去にトラブルはない。一切ないと聞いていた。だからオフィスを貸したが、ここ最近は家賃も受け取っていないという。
FIRSKYは24年7月、ひっそりと会社法人を清算していた。米国でAmarvelの公判が進むさなかのことだ。
取材班は金に、FIRSKYが米中をまたぐフェンタニル密輸の日本拠点だった疑いがあると伝えた。「全然知らなかった……」。驚きを隠せない様子で、金はためいきをついた。
変わる日本の位置づけ
1972年の日中国交正常化から半世紀以上が過ぎた。名古屋の華僑・華人コミュニティーも様変わりしている。
あこがれの日本へ。かつての日本は経済成長で先行し、豊かさを求める華僑・華人にとって羨望の地だった。当初は訪日する中国人も少なく、社会的地位が高い大学教授など学術関係者に限られていた。
中国の台頭とともに日本の位置づけも変わる。
いまは「Made in Japan」のブランド力を求めてやってくる一般の企業関係者が多い。製造業が集まる名古屋で起業し、多くの日本人を雇う。地道に研究開発を手がけながら、日本で独自のサプライチェーン(供給網)を築くケースも増えている。
日本人社会との摩擦はもちろんある。日本の慣習や環境にいかになじむか。「最低でも5年、多くは10年かかる」。日本参入を考える華僑・華人経営者らに、金はじっくり適応する重要性を説く。
それでも日本は中国とは隣国だ。中国が発明した漢字と箸を使い、文化的な共通言語は多い。人々の外見も近い。
出入国在留管理庁の公表データによると、24年6月時点で日本にいる華僑・華人は80万人を超す。過去30年で4倍に増えた。地方創生をめざす日本政府が外国人の起業を促すため、関連ビザの要件緩和に動いている面も大きい。
旅行者も含めれば、日本を訪れる中国人は珍しくなくなった。夏はその死角を突いたおそれがある。
「横浜ルート」の指摘も
夏とFIRSKYの例は氷山の一角にすぎない。
フェンタニルの密貿易をめぐっては、日本が絡む複数の取引ネットワークが指摘されている。
メキシコの専門家であるリカルド・ラベロによると、同国の麻薬カルテルが横浜港を拠点に違法薬物の流通網を広げている。「シナロア・カルテル」や「ハリスコ新世代カルテル(CJNG)」など「凶悪」とされる組織が関わっているという。
日本の警察当局は「国内でフェンタニル関連の事案は起きていない」との姿勢を崩していない。だが状況は無視できないほどに緊迫の度を増しつつある。
四方を海に囲まれた島国の日本である。隣に中国、太平洋をはさめば米国、メキシコ、カナダとつながる。悪意を持った集団はどこからでも入ってくる。平和慣れが最大の敵だ。
「我々は見ている。フェンタニル密輸組織を解体し、その責任者を法の下で裁くまであきらめない」
Amarvel裁判を担当した米連邦検事のダニエル・サスーンは強調する。
夏は米当局もその身柄を追うが、いまだ足取りをつかめていない。「日本は麻薬をさばくマーケットとの認識だった。司令塔がいたとなればレア事例であり、捜査対象に十分なりうる」。米政府関係者は明かす。
名古屋には大手メーカーから中小の部品会社、小粒の専門商社まで、たくさんの企業が集う。日本有数の海運拠点である名古屋港もある。資金のやり取りはほとんどが暗号資産(仮想通貨)だから、そこから足がつくおそれは少ない。何より中国人に寛容な華僑社会がある。
夏は条件がそろった名古屋に紛れ、フェンタニル密輸を繰り返していた可能性がある。
現在も夏は中国を中心に活動を続けているとみられる。SNS情報を追跡すると、25年5月には広東省深圳市の高級ホテルに泊まっている。重慶や北京になお10社以上あるAmarvelの兄弟会社も健在だ。
「だまされました」。金は取材中に何度もつぶやいた。「こんなこと過去になかった。僕に何ができるんだ……」。善意が裏目に出た。同胞といっても、全員が同じわけではない。重い教訓だ。
◇ ◇ ◇
日本経済新聞は夏(Xia Fengzhi)本人にも取材を申し込んだ。メール、電話、SNSと、取れる限りの手段で連絡を試みたが、いずれも応答はなかった。
「もう会社はない」。FIRSKYの営業担当という人物に問い合わせると、そう答えが返ってきた。Angelinaというニックネームでネット上に電話番号を残していた。夏の行方やAmarvelとの関係を聞いたが「私が回答しなければならない理由はない」といい、連絡は途絶えた。
=この項おわり(敬称略)
「新アヘン戦争」取材班が担当しました。