──あの光景は今も鮮明に、脳裏に残っている。
冷たい空気、止まらない地鳴りと揺れ、鼻に付く土とガスの匂い。
「上田さん」
…… 天井が崩れて出来た岩の壁。それが二人を隔てている。
その隔てた先にいる、妙に悠然とした山田の姿。
「一人で逃げてください」
彼女のその言葉に、耳を疑った。
「私は、ここに残ります」
「……なに?」
駄目に決まっている。
この洞窟の地下に溜まり切った膨大な量の可燃性ガスが、もうすぐ地表へ噴出する。それが静電気一つで発火でもすれば、未曾有の大爆発が起こる。
その規模は辺り一帯の生態系──植物も生物も、何もかもを根こそぎ吹き飛ばすほどだろう。
周辺地域には集落があるが、避難は全く進んでいない。つまりこの「大災害」が起きてしまえば、何百人が命を落とす事となる。
その爆心地となるのはこの場所。留まるのは危険だ。
「火の玉は半径が何十キロもあるんでしょう?…………一緒に逃げてもどうせ……助からないですよ」
「なにバカな事を言ってんだ!」
諦めたように俯く山田を、必死に説得しようとした。
「百メートルを十秒で走れば……二人で足を縛って走れば二倍の速さだ! 諦めてどうするんだッ!」
自分でもめちゃくちゃな事を言っているのは分かっている。
そして内心では分かっていた。まだこの洞窟にいる時点で、自分たちはもう既に逃げ遅れているかもしれないと。
「分かったんです」
そんな自分を見透かしたように、山田は訴えた。
「あの部族の人たちが、なぜたった一人の霊能力者を必要としていたのか……霊能力者の本当の役割は何だったのか……」
山田は静かに、続ける。
「……みんなが助かる方法が一つだけあるんです……あの洞窟の、奥の壁画に描かれていました」
この後の事を予言するような、禍々しい火球が描かれた壁画……同様の災害がこの地で、遠い過去でも起こっていた事を示している。
山田はその壁画が伝えたかった「方法」を語った。
「ずーっと地面の下まで降りて行って、ガスの溜まり場で火を付けるんです。ガスは地底で爆発し、外には出ません」
なるほど。その方法を取れば、地上での影響はごく僅かに留まるだろう。
人々は自分を含めて皆、救われる。
ではその、「火を付ける役割」は誰が担うのか。
間違いなく、その役割を担う者だけは、爆発に巻き込まれて死ぬ──早い話が「人柱」だ。
「誰かたった一人が犠牲になって、それでみんなが助かるんです……それが、霊能力者の役割だったんです」
山田は皮肉っぽく笑った。
「おかしいですよね? そんなの、霊能力でも何でもないのに!」
本来ならば山田の言う霊能力者──この地で崇められていた女呪術師が、人柱を担うハズだった。
しかしその呪術師は、死んでしまった。
身勝手な、「余所者」の凶弾によって。
「……全部、私たちの責任なんです」
山田は暗い声で言う。
「私たちがここに来なければ……きっと、あの呪術師の女の人がこれをやったハズです」
すぐに悟った。
ジッと見つめる彼女のその、決意に満ちた眼差しで、全てを。
「……私たちがここに来なければ……」
彼女は、死んだ呪術師に代わり、その役割を全うしようとするつもりだ。
人柱となる決意を、固めてしまったようだ。
「……山田ッ! いいから来いッ!!」
そんな最悪な想定を掻き消そうとするように、祈りに似た声音で呼んだ。
何とか引き止めようとした。しかし、山田は聞く耳を持たない…………頑固なのは昔から知っているのに。
「上田さん」
山田は真っ直ぐ──ただ真っ直ぐこちらを見据え、しっかりと自分の名を呼んだ。
これから死にに行くと言うのに、恐怖や絶望と言った感情は見当たらない。もちろん、後悔の念もない。
いつも何か、悪い事を思い付いた時のような──自信に満ちた笑みを浮かべて……
「最後に一つ──『賭け』をしましょう」
──あの時と同じ、暗い洞窟の中。
爆発による音と衝撃により、まだ頭がぼんやりとしている。そのせいか上田は、この場所を「あの時の洞窟」だと一瞬錯覚する。
しかしさっきの光景を思い出し、ハッと現実に引き戻される。
身体を起こして辺りを見た。
爆発の影響で天井の岩が派手に崩れ、上田や山狗までも分断されていた。不幸中の幸いか、奴らはもう彼を追跡出来なくなっただろう。
そんな事はどうでも良い。
上田は崩れた岩の隙間をすり抜け、山田がいた場所まで行く。
「山田ァ!! オイッ!! 生きてるかァッ!?」
必死に呼びかける。
榴弾の直撃は免れていたハズだ。だから生きていると信じていた。
「オォーーイッ!!」
煙の舞う暗闇の中、上田の悲痛な叫びが虚しく響く。
「オォーーイッ!! 山田ァッ!!」
「……う、上田、さん……」
「ッ……!!」
か細いが、確かに聞こえた山田の声。
無理やり岩の隙間を抜け、声が聞こえた方へと向かう。
「山田ッ!? そこかッ!?」
「うぅ……」
「オイッ!! オイッ!?」
暗闇の中、やっと山田の姿を見つけられた。
彼女は、崩れた岩と土の向こうにいる。上田が見えているのはその隙間から伺える、彼女の顔だけだ。
だが生きていると分かった。上田はその隙間に顔を近付け、更に呼びかける。
「山田! 良かった……無事か!? 怪我は!?」
「うっ……!」
「わ、分かった、動くんじゃない! すぐに助けを呼びに行く! それまでの辛抱だ──」
上田がそう言った瞬間、不吉な地鳴りが起こり、パラパラと土が降って来た。
思わず上田は息を呑んだ。
「……元々ここは、無理に切り拓かれた防空壕だ……弱くなっていた地盤が、さっきの爆発で完全に緩んでしまったんだろう……!」
そうなると更にここは崩れる。早く逃げないと二人とも生き埋めだ。
上田は急いで、山田と自分の間にある岩や土を退けようとし始めた。
「山田急げッ!! 動くなと言ったがやっぱ動けッ!! そっちでもこの岩を動かしてくれッ!!」
「……む、無理です……身体が……岩と土に埋まっちゃってて……」
「感覚はあるなッ!? 潰れてはいないなッ!? オビトにはなっていないなッ!?!?」
「カカシ外伝やめろ……か、感覚はあります……狭い箱に押し込められている感じで……」
そう山田が言った途端、また地響き。洞窟のどこかがまた崩れたのだろう。
上田は焦る。
「……ッ!!……山田ッ!! 急ぐぞッ!!」
「…………」
山田からの返事はない。
上田はもう一度彼女を呼ぶ。
「山田ッ!! どうしたッ!?」
「…………」
「オイッ!! 聞こえているんだろッ!?」
「上田さん」
やっと彼女からの返事。
つい憎まれ口を叩いてやろうとした時、山田は告げた。
「……一人で逃げてください」
──作戦本部にいる鷹野は、ホワイトボードに書かれた数列を見ていた。
それは無線から聞き取った、村人たちで共有されている暗号を書き写したものだ。
「…………」
鷹野はその数列を睨み付ける。
「……村の老人や子どもたちにも理解しやすい……分かりやすいものに違いないわ。あまり複雑だと、こんな瞬間的に伝えられないわよ」
暗号は簡単なものだ。そう推理した鷹野は、さっきプレスマンで急いで録音した山田の声を流す。
『繰り返します。3と1、4と1、7と1、5と3、2と3、10と2、7と5、6と2、10と2、9と1』
ふと、鷹野は目を細めた。
「……3と、1……『と』で繋げているって事は……前後の数字はワンセットなのかしら?」
もう一度ホワイトボードに書き写した数列を見やる。
こちらは数字を、「3,1,4,1〜」と言う風にコンマで区切っていた。
「…………」
鷹野は最初の、「3,1」に注目する。暗号の伝え方によると、この二つはワンセットのハズだ。
そう考えて見た場合、鷹野はこれに見覚えがある事を思い出す。
「…………直交座標……?」
すぐに鷹野は(3,1)(4,1)と言う風に、数字をそれぞれ二つずつ括弧で区切った。
それを見て「もしや」と、確信に至る。
「……暗号は恐らく、分かりやすいもの……となると使われているのは……五十音表かしら?」
ホワイトボードに五十音表を書き出し、暗号に当てはまるよう試行錯誤を繰り返す。
「『あ』……からじゃない。じゃあ、『ん』?……マイナスはこの際省いているようね……なら、『わ』……?」
そうすると、数列が意味のある文字を表し始めた。
研究者としての性か、分かった途端に鷹野は嬉々として解読して行く。
「……さすがは上田教授……うふふっ!」
そして書き終え、口角を吊り上げた。
「…………でも残念ながら、私が先を行くのよ」
ホワイトボードには、『やまた ふるいと に いく』と書かれていた。
──山田のその言葉は、上田を震わせた。
思い出すのは赤道スンガイ共和国での事件──山田の記憶喪失の原因ともなった、あの事件。
あの時も山田は、ガスが噴出寸前の洞窟から上田一人だけ逃げるよう促して来た。
自らが、人柱となる為に。
「私はもう、動けませんし……上田さんだけでも……」
まんま同じだ。同じ、だからだ。
山田の記憶喪失は心因性。つまり、精神が記憶を無意識下へ押し込んでいる状態だ。
これは彼女が、ガスに火を付けて死にかけた事によるショックによるもので、精神がそのショックを無かった事にしようと、過去にあった「死を彷彿させる記憶」を全て忘れようとしたのが原因だ。
死にかけた記憶、或いは死に直面した記憶──つまりは山田と上田が過去に解決して来た事件の記憶、その全て。
なので一年後に上田と再会した彼女は、彼と出会う前の状態となっていた。
彼女の母、里見からの願いを受け、上田は彼女の記憶を取り戻そうと各地に連れて行った。
勿論、危険な場所は中まで入らず、近辺に寄るまでで留めた。
すると彼女はその場所と記憶を紐付け、思い出せるようになって行った。
再会してから六年で、殆ど出会った時と同じ関係になるまで記憶は回復した。
だが記憶が蘇る事への、弊害もあった。
忘れていたトラウマを掘り起こされ、ノイローゼに陥った時もあった。
そしてもっと困った事に──思い出した記憶と同じ行動を、無意識で再現すると言った事も起きた。突然悲鳴をあげたり、推理を始めたり、そこにいないハズの人物に話しかけたり……幻覚や幻聴も伴っていた。
上田は悟る。
今の山田は、思い出してしまったのだと。
二◯一一年。異国の地で起きた、あの事件──忘れていた、最後の記憶を。
山田はその記憶の再現を始めてしまったようだ。
「私は、ここに残ります」
「……ッ……!!」
「……火の玉は、半径が何十キロもあるんでしょう? 一緒に逃げ──」
「ふざけるんじゃないッ!!」
その再現行動を掻き消そうとするように、上田は叫ぶ。
「あの事件は終わったんだッ!! それに後で分かった事だが……あのガス溜まりの下には、人が隠れられる穴が掘られてあってな!? ガスは上に行くから、その穴には入り込まないッ!!」
「…………」
「……あの土地の呪術師たちは……後世に犠牲を作らないよう、それを作っていたんだッ!! 君はその穴に運良く落ちて、爆発から免れたんだッ!!」
「…………っ!!」
隙間から見える山田の表情が、ハッと我を取り戻したかのようにも見えた。
しかし上田はそれには気付かず、岩を殴り付け、悔しげに続ける。
「……君を連れ回している時…………薄々思っていた……思い出させるのは果たして……君の為になるのかって……」
溢れた涙が頬を伝い、ぽたりと落ちた。
「思い出す度に君は……辛そうで、苦しそうで……は、はは……不眠症にもなっていた時期もあったなぁ……」
「…………」
「……それを見る度に俺は……間違った事をしているんじゃないかと思っていた……折角全部忘れられていたのに……全部思い出させてしまって……!!」
岩をまた殴り付け、涙声で白状する。
「君の為なんかじゃなかったんだ……全部、俺のエゴだったんだ……今まであった全部を忘れて欲しくないと……」
「…………」
「……君と俺との、記憶を、忘れて欲しくないと……俺たちを繋ぐ記憶の全てを……思い出して欲しいと……!!」
「…………!」
「……全部、俺の勝手なワガママだったんだ……!!」
上田はとうとう、膝から崩れ落ちた。
「……君は忘れていて良かった……! 俺だけが背負えば良かったんだ……!! それだったら君は今頃、ここにいなかったハズなんだ……ッ!!」
「…………」
「…………もう……苦しまなくても良かったんだよ……」
ふたりを隔てる岩の壁、唯一お互いの顔を伺える狭い隙間。まるでここは面会室のようだ、懺悔室のようだ。
煙ったい土の香り、岩の瓦礫の重み、そしてふたりの息遣い。今まさにここは、ふたりだけの世界で、ふたりだけの時間。
だからこそ上田は全部打ち明けられた。弱みを見せられた──これが最後かもしれないからだ。
地響きが無情にも、その時間を壊そうとする。
洞窟が崩れる。地盤の沈下が起こる。
「……上田さん」
それを悟った山田が、やっと口を開いた。
「魂は時間を……越えるらしい、ですよ」
上田はハッと顔を上げる。
岩の向こうの山田は、物憂げな横顔を見せていた。
「……ヘレーネに宿ったロゼッタも、同じ気持ちだったかもしれません……」
「……山田……?」
「……誰かに会いたい。会って、言いたかった事を言いたい……だから無我夢中で、時を越えて……」
山田の自嘲気味な笑い声が聞こえる。
「……そこが会いたかった人のいない、未来だとしても……この世と繋がっていたかったんだと思います」
「……ある訳ないだろ、そんな事……」
「だから──」
山田の目が、こちらに向いた。
「──私は必ず、未来に帰ります……どんな形であれ、上田さんの元に帰ります」
彼女は場違いに、微笑んでいた。
「……死後の世界はなくても、魂なら残る……そうですよね? 上田さん」
上田は首を振る。
「やめろッ!」
隙間に顔を近付け、訴える。
「消えて欲しくないんだッ!! もうあの時とは違う……このまま死ぬんだぞ君は……間違いなく……ッ!!」
「…………」
「俺はもう……君を……ッ!!」
岩を動かそうとするも、ビクともしない。
その内また地響きが起こる。さっきまで断続的に起きていたものとは違う、とても強い揺れ。
限界を悟った山田は、必死に指を動かし、ポケットに入れていた暗号表を引き摺り出す。
「……上田さん。私から言いたい事があるんですけど……ちょっと恥ずかしいので、暗号で伝えますね」
「なにを言って……?」
「数字なら上田さん、書かなくても覚えられますもんね」
引き摺り出した暗号表を見ながら、山田は言い始めた。
「10と1、6と1、7と1」
地響きが鳴る。洞窟が崩れ、隙間が小さくなる。
「……5……と1、……っ1……」
彼女の声も掻き消される。上田は必死に耳を立てた。
「と2、5と1、9と2、7と…………4、」
揺れがピークに達する。
「10と2……」
一際大きな崩落音が鳴り響く。
「7と──」
岩が崩れた。
山田がそれに押し潰されるように、見えなくなった。
「ッ……!!」
揺れに耐え切れず倒れ込む上田。
途端、彼が立っていた場所は、崩れた天井の瓦礫で埋まってしまった。
揺れが収まる。
身体を起こす。
もう、山田の声は聞こえない。
「山田……ッ!?」
あの時とは違う。
彼女は間違いなく、今目の前で、死んだのだ。
上田は震える手で暗号表を取り出した。
山田が最後に伝えたかった事を、一人静かに解読し始めた。
数字は全部覚えている。聞き取れるだけ聞き取ったそれを、何とか思い出す。
「……10と1、6と1、7と1……」
そしてその出来た文章を読んで、顔を顰めた。
『
最後は山田が言い切る前に、崩落で消されてしまった。
だが7の行であれば、7と4で「て」となるだろう。
上田は暗号表を額に当て、震えた。
「……この程度……言葉で伝えろ……ッ……!!」
くしゃりと紙を握り締め、喪失感と悲しみ、そして無力感に今だけ浸る。
ただ寄り添うのは、この暗闇だけだ。