──入江との通信を終え、無線機を置く鷹野。次にその手を、傍らに置いていたスクラップ帳に触れさせる。
するりと撫でる彼女の手は、何とも愛おしそうだ。
「……もうすぐよ。おじいちゃん」
梨花を捕まえて殺害し、緊急マニュアルが発動すれば全てが終わる。そうなれば「祖父」と自分とで積み上げて来た研究は正しかったと世間は思い知る。彼女の悲願、そして己を馬鹿にして来た全てへの復讐が完遂される。
もう一度、スクラップ帳を撫でる。
そのスクラップ帳は、前に上田やレナに渡った物とは別格の物。中に纏められているのは雛見沢症候群の研究論文──彼女の祖父が書き記した物。つまりは彼女の全てだ。
悲願の達成は、未だ思わぬ邪魔立てより成し遂げられていない。本来ならもう梨花は死に、マニュアル実行の準備が進められている頃だと言うのに。
このまま長引けば、自身のバックアップをしてくれている「野村」やその支援者たちに手を引かれてしまう。そうなれば今までして来た事は、「戯言」として揉み消される。
せめて夜まで……いや、ひぐらしの鳴く夕方までに決着を付けなければ。
「失礼しやす、三佐」
扉が開き、小此木が入って来る。
「園崎邸への突入ですが、岐阜県警に家宅捜査させる事にしやした。これなら天下の園崎も従わざるを得ンでしょう。令状も、裁判所に圧力をかけて発行させやしたんで」
鷹野は横顔だけを小此木に見せる。
「……県警が全て解決してしまって、あなたたち山狗の面目が立つのかしら?」
「手柄はこっちが貰うつもりで。県警にはヤクザどもの動きを止めて貰い、向かわせた鶯隊に捜索させやす……元より県警の大高さんと、『興宮署に出向させた内偵たち』以外には終末作戦の全てを話してやせんですからね。トドメはどの道、我々の仕事ですん」
鷹野は一言「そう」とだけ言うと、目をまたスクラップ帳の方へ向けた。
続けて小此木は報告をする。
「しかしぃ、園崎邸にRがいるってのもブラフな気がしやす。ありったけの人員を増やし……訳を知ってるであろう、前原圭一や北条沙都子等を探させやす。まぁ、屋敷にいる例の二人を捕まえりゃ話が早いんですがね」
「私に言う事はもう以上かしら」
「……えぇ。報告は以上ですん、が……」
小此木は彼女の隣に並び立つ。
「……なに?」
「入江所長を殺ったんですってね」
「……盗み聞きしていたのね。さすがは諜報部隊の長、失業しても探偵で食って行けるわよ」
嫌味を鼻で笑って流す小此木。
「入江機関発足前から、苦楽を共にして来た間柄……なのにこうもあっさりとですかい。三佐には情ってモンがねぇんですかねぇ」
「……ユーモアのセンスを上げたのはあなたもじゃない。まさかあなたから情を求められるとは思わなかったわ」
「いいや、単なる確認でさぁ。変にセンチメンタルになられても困るんは俺らですんで」
小此木は机に置かれているスクラップ帳を下目遣いで見る。
「……しかしまぁ、んな一冊の本が全ての始まりとはなぁ」
そう言って彼は本にスッと触れ、ページを捲ろうとした──そこで鷹野に手を叩かれ、阻止される。
驚いて見た彼女の表情からは、「気安く触れるな」と言う拒絶の意思がひしひしと伝わった。小此木は叩かれた手をひらひらさせておどける。
「これは失敬」
「雑談は終わり。とっとと持ち場に帰りなさい」
「……えぇ。分かりやしたよ、三佐」
鷹野に睨まれながら、小此木は部屋を出て行った。
扉が完全に閉まったのを確認すると、鷹野はスクラップ帳を取り上げ、両腕で強く抱き締めた。
部屋から出た小此木に、一人の隊員が話しかける。
「隊長。『
それを聞き、小此木は面倒臭そうに頭を掻いた。
「あー、全く……お上はどいつもこいつも待つって事が出来ねぇのかなぁ」
そうぼやきながらも彼は、「郭公」からの無線を取った。
──診療所に突入した矢部隊。彼らの気配に、とうとう残った三人の保安隊員が気付く。
「アッ!? なんだお前ら──」
「フラッシュを放てぇぇーーーーッッ!!!!」
「事変ッ!?!?」
それを全員、富竹が一瞬で倒してしまった。
「ふぅ……良し。これで最後だな」
「もうあいつ一人でええんちゃうか?」
後続の矢部たちは若干引き気味に富竹の活躍を見ていた。
保安隊員の全滅により、診療所は制圧。しかしいずれ、村に散らばった部隊がまた戻って来てしまうだろう。その前に地下区画へ入る方法を探らなければ。
「捕まえた山狗の人たちに開けさせるのはどうですか?」
秋葉の提案を、詩音が頭を振って反対する。
「訓練を受けている人たちが口を割るとは思えません」
「ならば拷問しかあるまいッ!!」
「この人本当に未来の警視総監なんですか?」
菊池は作戦の遂行により過激な思考となっていた。
何とか糸口を探そうと診療所内を探索する一同だが、石原が何かを見つけて矢部を呼んだ。
「兄ィーッ! なんか大事なモン入ってそうな金庫を見つけたけぇのぉ!」
「なんか大事なモン入ってそうな金庫ぉ? 略してダイキンやな」
「そりゃエアコン作っとる会社じゃけぇ兄ィ!」
診療所の一室の隅に、重厚なダイヤル式の金庫が鎮座していた。
矢部はすぐに金庫の扉に耳を当て、カチカチとダイヤルを回す。
「えーっと……おっ。これはこうやって、こうやるヤツやな」
「兄ィ開けられるんかのぉ!?」
「いややりたかっただけや」
「無理じゃったーーッ!!」
金庫破りは諦めて捜索を続行する矢部。次に入った部屋はどうやら診察室で、医師用と患者用の丸椅子が二脚、横にベッドが一つ、そして業務用の机が一つと言う極々ありきたりなレイアウトだ。
机には医療関係の本やファイルが並べられている。その中の一つに矢部はふと、目を向けた。
「あ? なんか数字だけ書いとるファイルあるで」
矢部が手に取ったファイルの背表紙には、「3,5 1,6 7,4」とだけ書かれていた。それを見た石原は思い出したように言う。
「コレ、暗号じゃないかのぉ!?」
「暗号ぉ?……あぁ! あのデカいチンチンの力って奴やな!」
「チンチンは滋賀の方言で友達ぃーーッ!!」
すぐに矢文で送られた暗号の解読メモを取り出して数字と当て嵌めてみると、「
「読め書いとるやんけ。読まなアカンなぁ」
ファイルを開くと、中には更に数字が書かれた紙が入っていた。すぐに解読してみる。
「えーと……富竹の指紋、ハスワートは、ムサシとコシロー……巌流島やないかい」
「ロケット団じゃのぉ!」
「セイバーとアサシンですねッ!!!!」
いつの間にかいた秋葉の叫びに、二人揃って飛び上がる。その後、矢部の鉄拳制裁が食らわされた。
置かれたファイルの中から、何かのカードが零れ落ちる。
──地下区画にあるセキュリティルームには、四人の隊員がいた。その内の一人が話す。
「しかし、こっちからも人員待っていかれたな。大丈夫かぁ?」
「大丈夫みたいだ。どうやら敵は捕まえている入江所長を見限っているようだし……『アレ』がいる事も見抜けていなかった。来る理由がないんだろう」
『アレ』と聞き、隊員は意外そうな顔をした。
「見抜けていなかったのか?」
「小此木隊長に奇術師が推理披露していたそうだが、去年の件の事は見事に外していたそうだ
「てっきり……所長が漏らしたのかと思っていたが……」
それを聞いた隊員は鼻で笑った。
「漏らしたところでなんだ。『アレ』はもう、助けたトコでどーしよーもねぇだろ」
それもそうかと、四人揃って笑い出す。
そんな折、ルーム内にブザー音が鳴り響く。地下区画へのゲート前に取り付けられたセンサーが、人の存在を察知したようだ。
誰が来たのかと隊員らは、ゲート前にある監視カメラ映像を確認する。そこには少女に銃を向けて連行する、二人の隊員らの姿があった。
「待て、おい……あの小娘、園崎の家の人間だろ?」
「確か、入江所長が監督していた草野球チームのマネージャーだった……はっ。情に任せて忍び込んだんだな?」
入江を助けに来たところを、上にいる保安隊員らに確保されたのだろう。そう考察し、隊員らはせらせら笑う。
「お目当ての所長はもう助からねぇってのになぁ。今頃、幻覚と幻聴で叫び散らしている頃だろ……へへっ。あの娘に見せてやろうぜ?」
下卑た事を考えながら、連行して来た仲間らが扉を開けて入って来るのを待つ。
扉はIDカードの他、そのカード保持者の指紋とパスワードが必要になる。仮にカードを奪ったとしても、その本人を連れて来なければ絶対に開かない仕組みだ。
保安隊員の一人がカードを通し、指紋センサーに指を置き、パスワードを打ち込む。
その様はログとしてセキュリティルームで確認出来る。ログにはカード保持者の顔写真や名前などが表示されるが……
「……あ?」
ログを確認していた隊員が顔を顰める。カード保持者の写真や名前が出てこないからだ。
しかし指紋は認証され、パスワードも打ち込まれている。つまりIDカードは正規の物で、保持者の電子登録もされている。どう言う事だと隊員は首を傾げた。
そうこうしている内に、詩音を連行した隊員らは扉を抜けて地下区画に入って来る。
「おかしいな……おい。ちょっと様子を見てこい」
隊員がそう命じると、二人ばかしがセキュリティルームを出て、上から来た彼らを迎えに行く。
研究施設らしい不気味なほど白い廊下を進む。すると向かいから、詩音とそれに銃を向ける二人の隊員がやって来た。詩音の肩にはボストンバッグが吊るされている。
「ログに名前と写真がなかったそうだが……なんだ? 指紋とパスワードだけ登録していたのか?」
隊員がそう問い掛けた途端、両手を上げていた詩音がボストンバッグを降ろし、中から何かを素早く取り出した。
それはイサカM37──言わずと知れた、ポンプアクション式散弾銃の傑作だ。
「……は?」
イサカを入れていたバッグがボトリと床に落ちる。
それを合図にするように、詩音はにっこり笑顔で散弾銃をぶっ放した。
「テディベアッ!?!?」
「へ?」
放たれたのはゴム弾。まずは一人の隊員の顔面に命中する。
そして呆気に取られているもう一方へも、ガシャンとフォアエンドを引いてリロードを済ましてからゴム弾を発射。
「ネクロッッ!!??」
一瞬で二人が地面に倒れ伏した。
ショットガンによる銃声はセキュリティルームにも響き渡り、何事かと残った二人が身構える。
すぐに警報を慣らし、区画の閉鎖と制圧用ガスの散布を開始しようとしたものの、時既に遅かった。
「こんにちは〜?」
セキュリティルームの入り口には作業服姿の矢部と、富竹が拳銃を構えて立っていたからだ。
セキュリティルームは制圧され、四人いた隊員は全て縄で捕縛された。
残された二人は入江を軟禁する部屋の前にいたが、こちらも隊員に化けた富竹による奇襲で難なく撃退。
「ふぅ……他愛もない」
「もうあいつ一人でええんちゃうか?」
しっかり二人とも縄で縛り上げ、地下区画の制圧を完了させる。これで後は敵に気付かれる前に入江を救出し、退散するだけだ。
隊員らが守っていた部屋に詩音が入ろうとする。その時に、縛られている一人の隊員が口を開いた。
「入江所長を助けたいんだったら……遅かったな」
「……え?」
ドアノブまで伸びた詩音の手が止まる。
「……どう言う事?」
隊員を睨み付け、訳を聞く。彼は不適な笑みを見せた。
「H178……雛見沢症候群の末期症状を引き起こす薬を投与した。その扉の向こうにいんのは、首を掻き毟って死んだ所長の」
「終わりました?」
ガチャっと扉が勝手に開き、中から入江がピンピンした状態で出て来た。隊員は絶句し、十回ほど瞬きをする。
驚いたのは、今し方死んだと聞かされたばかりの詩音もだ。
「か、監督!?」
「え?……え!? し、詩音さん!? なんでここに……なんですかそのショットガン!?」
「葛西から待たされた物です……って、え? 薬投与されたとかは……?」
全てを察した入江は一度吹き出してから、困惑している隊員の方を向いて得意気に話し出した。
「実はそのH178……破棄されずに隠されている事、知ってたのですよ」
「てか山田の奴が言うとったもんな?」
控えていた矢部の言う通り、破棄されたハズの薬がまだ存在する可能性は山田によって提示されていた。
「そう! そこで私は、この診療所内で探してみたんですよ……と言っても隠せる場所は限られて来ます。この施設について誰よりも詳しいのは、私なんですから。分かり切った場所に、鷹野さんは置かないでしょう」
「じゃ、じゃあ、どこにあったんですか……?」
「葉を隠すなら森の中……ですよ、詩音さん」
「森の中にあったんですか!?」
「あ、いえ。これは例えです……」
合点が行ったように富竹は頷く。
「……診療所の薬品棚! あそこの管理をしていたのは鷹野さんだ!」
「その通りです! 私もその事に気付き、薬品棚にある薬を片っ端から調べました……そしたらビンゴっ! 消毒液の瓶の中で見つけました!」
入江は首筋にある注射痕を指差し、隊員に見せつけた。
「あなたたちが私に投与したのは……ただのビタミン剤。瓶の中をすり替えていたんですよ。本物は私が適切に処理致しました!」
「……俺たちがH178を使う事を……見越していたのか……!?」
「あなたたちと言うより、『鷹野さんが』、です。彼女の性格上、人体実験を行えなかったH178を使いたがるハズ……とすれば、共同開発者である私を殺す時に使うと考えるのは自明の理!」
眼鏡をクイッと上げてキラリと光らせ、「ふふふふふ」と不気味な笑い声をあげ始める。
「長らく一緒に研究して来た身です……鷹野さんの性格はある程度読めますとも! ブハハハハっ!!」
勝手に笑い出した彼を、関心よりも先に引き気味の目で見る一同。
富竹は思い出したように、診療所で見つけたIDカードを取り出した。
「じゃあ……このカードが僕の指紋で通ったのは……」
「それは前日に、私がこっそり登録していたカードです! 指紋はデータベースに残っていた、監査役としてのあなたのものを流用しました!」
「……なんて抜け目のない人だ」
どうやら全て入江の手の平の上だったようだ。それに気付き、富竹はやれやれと困ったように笑いながら首を振る。
ともあれ入江の救出には成功した。後はさっさとここを脱出するだけだ。
「ほな、ワシらはスタコラサッサやな。上に秋葉ら待たせとるから、とっとと合流しよか」
「えぇ! 山田さんを助けに行きましょう!」
すぐに来た道を戻ろうとする矢部と詩音。
「……待ってください」
それを呼び止めたのは、入江だ。
「まだやるべき事が残っています……その為に私は、あえてこの場所で捕まっていました」
「……? やるべき事、ですか?」
入江は詩音に向かって頷いた。
「……詩音さん。あなたがこの場所にいるのも、ある意味で運命なのかもしれません……私に対し『罪を贖え』と……運命がその為に、あなたをここへよこしたのかもしれません」
入江が富竹に目配せすると、彼は全てを察したように深く頷き、矢部にまず一声かけた。
「矢部さん。他に敵の残党がいないか、我々で見回りましょう」
「あ? いやそんなんせーへんでも──」
断ろうとした矢部だったが、入江と富竹の真剣な眼差しを見て、「しゃーないな」と了承。二人は入江と詩音を置いて、一旦その場から離れた。
二人きりになり、まだ困惑している詩音に対し、入江は「こちらです」と案内を始めた。
白く無機質な廊下に、二人の冷たい足音が響く。蛍光灯の白い光がいやに眩しい。
廊下は続く。背を向ける入江の表情は分からないが、心なしかその背中が強張っているように詩音は見えた。
緊張しているのだろうか。怖がっているのだろうか。彼の抱く感情は分からない。
ただ確かに分かっているのは──覚悟を済ませている事だけだ。故にその背中から決して、頼もしさは消え失せてはいなかった。だから詩音は黙って付いて行けた。
廊下の先、丁字路がある。
大きな窓が張られた壁がある。
その窓から中を覗いた時、詩音は驚きから口元を隠した。
「う、うそ……!」
一枚と窓を隔てた先、青白い蛍光灯の光に満ちた狭い部屋の中、一つのベッドが置かれている。
そのベッドに横たわっていたのは──他でもない。彼女がずっとずっと探していた、あの少年だった。
「…………悟史くん……?」
北条悟史、間違いなくその本人だった。
敵の残党がいないかと施設内を見回る矢部と富竹。
ふと廊下を歩いていた折、富竹は変な扉を見つけた。
犬の肉球を模したドアプレートが貼られている。
「……あれ。前に監査に来た時……こんな扉あったかな……?」
気になった富竹は銃を構えたまま、恐る恐るその扉を開いた。
暗い部屋の中、数多のモニターが放つレーダーの赤と緑の光が満ちていた。
そのモニターの前にある椅子に、何か座っている。
「……誰だ」
銃を向け、声をかける富竹。
その椅子がゆっくりと回り、何者かがこちらへ顔を向けた。
すぐに引き金に指をかける。
だがその何者かの正体に気付いた彼は、恐怖に似た感情と共に息を呑んだ。
そこにいたのは────
「……ッ!! お、お前は……ッ!!」
──ヘッドセットをつけた柴犬だった。
富竹は全てを察した。構えていた銃を降ろし、円な瞳でこちらを見る柴犬に向かって片言で尋ねる。
「……オマエノ、シワザ……ダタヌカ……」
柴犬は首を振った。仕業ではなかったようだ。
後から部屋に入って来た矢部がツッコむ。
「犬エンドやないかい」
ベッドに横たわる悟史は、ぴくりとも動かない。
点滴を打たれ、呼吸器を着けられた状態のまま、あどけなく眠っている。
なぜここに悟史がいるのか。一体何があってこうなっているのか。なぜ入江はここに案内したのか……全ての答えを求めて、涙で潤んだ目を彼に向ける。
「……悟史くんは……」
入江は真剣な眼差しで応えてくれた。
「……雛見沢症候群の末期症状に陥っています」
「え……?」
残酷な事実だ、しかし全てを話さなければと、入江は続ける。
「去年の事件は、悟史くんが引き起こしたものでした。彼は虐待される沙都子ちゃんを救う為に……叔母を手に掛けてしまったのです」
それが、三年目の鬼隠しの真相。詩音の表情から、分かりやすく動揺が伝わった。
「しかし悟史くんの良心が……末期発症として彼を心身から狂わせてしまった。今の彼は目に映る人間全てを敵とみなし……無差別に襲いかかってしまう状態です」
「……そんな……」
「昨年、スタッフが整形手術を必要とするほどの大怪我をしました……なので彼には随時、鎮静剤を投与し、眠らせておく必要がありました」
今、悟史が眠っているのはそのおかげだろう。
詩音は窓の向こうから、彼の顔を愛おしそうに撫でた。
やっと見つけたと言う万感の思い、生きていたと言う安堵、しかし殺人を犯していると言う事実と不治の病にあると言う事実、その突き付けられた二つの事実を前に襲い来る衝撃と悲しみ。
胸中に満ちる複雑な感情をどう飲み込めば良いのか。どれだけしっかりしていても、大人びていても、彼女はいたいけな少女だ。それを飲み込み、受け止め切れるほど成熟していない。
拳を握り締め、ひたいを窓に擦り付け、小さく震える。
「……事件の翌日。悟史くんと街のおもちゃ屋の前で会ったんです」
震えた声で、詩音は語る。
「私の方を見た悟史くんは……何か大きな事をやり遂げたような……儚い笑みを浮かべていました」
微かに首を振る。
「……私、既に分かっていたんだと思います……事件の犯人は悟史くんだって……でも、認めたくなかった……認めたくなかったのは叔母を殺した事じゃない……」
大粒の涙を流しながら、詩音は一度顔を上げた。
「あの子を…………沙都子を置いて……自分勝手に消える訳がないって……!」
彼女は膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らす。
涙ながらに、後ろに立つ入江に懇願した。
「悟史くんは……治らないんですか……? もう……お話も出来ないんですか……?」
「…………」
「……せっかく……やっと会えたのに……やっと見つけたのに……!」
入江はただ、胸を痛めた。彼女をここまで悲しませた一端を、担っているからだ。
雛見沢症候群の秘匿故に、それだけの為に、彼を真剣に思う彼女の思いを踏み躙ってしまった。その事実が入江を責め立て、傷を作る。
ここで詩音が自分をなじってくれた方が、なんと救いになれただろうか。
それをしない彼女はやはり優しいのだろう、分別が付いているのだろう……それだけに入江は辛い。彼女は追い詰められるべき人ではないハズだ。
ならば自分が果たすべき責任は一つ。何があっても、向き合い続ける事だ。
「……悟史くんは帰って来ようとしています」
「ふぇ……?」
その言葉を受け、詩音は振り返る。
「微弱ですがこの一年……悟史くんの脳波に回復の兆しが見られました」
「え……」
「悟史くんは病と戦っているのです……今も。だからこそ私も戦い、研究を続けます。命を懸けます」
詩音の隣に立った入江。その手を窓に当て、真っ直ぐ悟史を見据えた。
「私は絶対──悟史くんを雛見沢に連れ帰って見せます。私の全ての魂を注ぎ込んででも、彼を救ってみせます」
慰めで言ったのではない、確かな決意を語る入江。
その真摯な姿と言葉を、詩音は涙を流しながら受け止めた。
「……監督……」
「詩音さん。あれを見てください」
入江が指を差した先を見る。
部屋の隅にぽつんと、大きなクマのぬいぐるみが置かれていた。
見覚えがある。詩音はそのぬいぐるみを見て、ハッと気付いた。
「……おもちゃ屋で……悟史くんが……沙都子の誕生日プレゼントにって……!」
「彼を保護したのは、まさにその時でした……悟史くんは最後まで沙都子ちゃんを思い、家に帰ろうとしていました。置いて村から逃げたなんて事はありません」
詩音は窓伝いに立ち上がる。
「……買えて……いたんだ……!」
「悟史くんはあのぬいぐるみを渡す為に……必ず帰って来ます。もしかしたらその意志が、回復の兆しとなって現れているのかもしれません」
涙を拭う彼女に、入江は優しく続ける。
「まずは信じて待ちましょう。そして……悟史くんが戻って来たら、私たちで迎えてあげましょう」
詩音は大きく、頷いた。
眠った状態の悟史を担架に乗せ、詩音と入江は富竹と矢部に合流する。
「まずは悟史くんを安全な場所に! どうか運ぶのを手伝ってくだ…………」
入江の言葉が止まる。
そこには矢部と富竹と……ヘッドセットを付けた柴犬がいたからだ。
「……え。その犬は……?」
詩音が尋ねると、矢部は困ったように答えた。
「……雛見沢は、静岡やったみたいやな」
「は?」
なにはともあれ、救出成功。診療所突撃班はそのまま離脱する。