「矢部さーん! 皆さーん! 二年ぶりー! 僕は生きてますぅーっ!!」
カレー塗れの秋葉が、裏山の前で叫んでいた。
その内「矢部さーん! 好きだー!」と叫びながら、どこかへ走って消えた。
鷹野の案内のもと、裏山を昇る坂道を行く。熱波が降り注ぐ中、四十路に入った山田にとって苦行でもあった。
「し、死ぬ……干涸びる……」
買ったチューペットで糖分と水分を補給しつつ、身体を冷やす。何とかそうやって身を保たせながら、先を行く鷹野の背を追う。
「大丈夫ですか山田さん?」
「大丈夫ではないです」
「ほら、もうすぐですから。ここまで来たならお地蔵様の前まで頑張りましょう!」
「パワフル……」
舗装のされていないゴツゴツとした道は、登山用の靴を履いていない山田にとって歩きにくい事この上ない。一歩一歩が億劫になる状態の今、残された力は根性のみだ。
「オニ壱……私に、力を……! おりゃーーっ!!」
一気に駆け上ったものの、鷹野の真後ろ辺りで力尽きる。
五分ほど暫く歩き、目的地にやっとの事で辿り着いた。
木々が生い茂った、山の中ほど。青葉がトンネルのように頭上を覆い、影を作ってくれた。直射日光を浴びずに済み、ほっと山田は息を吐く。
「ほら! あれですよ!」
鷹野が指を差す先に、鬼の子地蔵様とやらがあった。見て呉れは古い木造の祠の中に屹立する石像と、まさに良く知る「お地蔵様」の形式だ。
しかし普通と違う点は、そのお地蔵様の姿。大きさは百センチ程度とやや大きめで、服装は法衣ではなく、神職の者が着る神事服のような装いだ。それだけでもかなり特異な姿だ。元々のモデルである菩薩様には到底、似付いていない。
しかし長い年月を経たのか、表面は雨風で削れ、苔むし、その全容は不明瞭となっている。表情と顔立ちも、どのような物だったのか最早伺い知る事もできない。
それでも胸がぼよんと、大きい事は分かった。
「巨乳だ……!」
チューペットを食べながら、まじまじと眺めて拝み出す山田の後ろで、鷹野は鬼の子地蔵様に関する伝説を語ってくれる。
「鬼ヶ淵沼は地獄と繋がっていると言われております……遥か昔、その地獄の鬼が沼より湧き出し、村人たちを襲ったと言われています」
山田はお地蔵様の胸から、鷹野の方へ目を向けた。
「そこへオヤシロ様が村に降臨し、鬼たちを鎮め、人との共存を実現させたと言う……これが村で語られる、オヤシロ様の説話……山田さんは、聞いた事は?」
「あー……言われてみれば、村の伝説とか知らなかったです。その、あまり興味なかったもので……」
「まぁ……それは良くないですわね。私なんてもう、好奇心が滾ってしまって、休みの日は村の探索に費やしてしまうほどで……」
「道理でパワフルな訳だ……」
そこで山田はふと、思い出す。思えば鷹野は、雛見沢症候群の研究を行う、学者肌の女性だ。科学と理論と事実主義の世界にいる彼女が、このようなオカルト嗜好を持つとはと意外に思える。
或いはこれも、学者としての性分とも言えるのか。未知への挑戦と探究と言う点では、「らしい」かもしれない。
山田は再び視線を、鬼の子地蔵様へ向ける。特に胸の方を注視しながら拝む。
「それじゃあ、これはその……沼から出て来た地獄の鬼、って奴ですか? どう見ても人間ですけど」
「うふふ……そこもまた、面白い伝説があるのですよ!」
鷹野はチャーミングに笑い、心底楽しそうな声色で話して聞かせる。
「オヤシロ様によって鬼との共存が始まる以前……ある鬼が、人間に恋をするのです。そして鬼はその者と結ばれ、子を授かった」
「犬夜叉であった展開だな」
「けれど……」
鬼の子地蔵の前へ歩み寄り、うっとりと鷹野はそれを見つめている。
その表情は同性の山田さえ底冷えするほどの、妖艶さを纏っていた。
「……その時はまだ、村人にとって鬼は恐怖の対象。彼らはその子を、『忌み子、鬼の子』として罵った」
「六兆年と一夜物語……」
「そして最後には、罪なきその子を殺してしまった。あともう少し待てば、オヤシロ様によって救われたハズだったのに……嗚呼、何とも哀れで、物悲しい悲劇でしょう」
鬼気迫る鷹野の語りには、妙な魅力と信憑性が宿っている。つい山田も聞き入ってしまう。
「事を知り、心を痛めたオヤシロ様は……その子を丁重に弔う事を、村人たちにせめてもの償いとして命じる。村人たちはその命を了承し、その子を形取った像を作らせ、永年に渡り弔えるようにした。それがこの、『鬼の子地蔵様』」
鷹野の口から語られる、オヤシロ様と鬼の子地蔵様に関する伝説。それを聞きながら山田は、難しそうに顔を顰めて首を傾げる。
「……そのオヤシロ様の伝説って、大体何年前の奴なんです?」
「んー……最低でも室町以前には伝わっていたそうですので……もしかすれば千年前でしょうか?」
「……その割には何か、この、鬼の子地蔵様?……まだ出来てから多分、数百年ちょっとって感じなんですけど……」
山田の疑問を聞いた鷹野は、嬉々とした様子で目を輝かせた。まるで待っていたその疑問を、と言わんばかりの反応だ。
「その通り! 何度か作り替えられているそうですわ。さすがに石像を千年保たせるのは難しいでしょうし、仕方ないでしょうね」
「あー。まぁ、そうですよね」
「作り替えられる度に胸が盛られているとも聞きましたわ」
「盛ってんか!?」
山田は激怒し、拝むのをやめた。
不機嫌そうにチューペットを啜る彼女を見つつ、鷹野は思い出したように話しかける。
「折角こんな、人のいない山の中まで来たのですし……秘密のガールズトーク、なんてどうです?」
「秘密のガールズトーク? 何ですか……あいにく恋バナとかは……」
「いえいえ……もっともっと、ディープな話ですわ」
「はぁ……?」
怪訝そうな目つきの山田の手前で、彼女はにやりと笑う。
澄んだ瞳が陽光に照り、それが一筋の灯火となって山田の心情を明かさんとするかのようだ。子どもっぽく見えながらも、その奥には言い様のない打算が潜んでいた。
妙な緊張感が山田を苛む。まさに、鷹野の眼光がそれを引き起こしていた。
もしかして、雛見沢症候群の事を梨花らから聞いたと、知られたのでは。緊迫を滲ませる山田の前で、鷹野は口を開く。
「鬼隠しについて、調べているみたいですね?」
バレないよう息を吐いた。知られてはいないようだと、安心した。
「……良く、ご存知で」
「こう見えて私、情報網が広い人間なんですよ?……それに上田教授の著書も読ませていただきました」
鞄から取り出した物は、上田の著書「なぜベストを尽くさないのか」、略して「なぜベス」。渋谷の若者の間でバイブルになっていると豪語していたが、真偽は不明。ただ知名度が上がってもなぜか売れないと、嘆いていた事は知っている。
「上田教授が、入江先生に預けていたようでして。一昨日、やっと拝読する事ができましたわ」
「んな物渡してどうする上田……」
「最初のページにCDが付属されていました。去年出たばかりの技術なのに凄いですわ! なぜか再生できなかったですけど」
「それDVD……昭和じゃオーパーツ……」
「あと奥付けの日付が二十年後になっていましたわ! 本当にユニークな方で!」
「あいつは馬鹿かっ!」
過去の世界で未来の自著を渡す上田に、ほとほと呆れる山田。
鷹野はなぜベスを斜め読みしながら、話を続けた。
「上田教授は過去、何度も霊能力者や呪い、祟りと対峙して来たと著されています。なのでこの村に来たからには、鬼隠しに挑むのだろうと思っておりましたが……如何です?」
「……まぁ、そうですね」
「良いですわね……科学と祟りの一騎討ち! 物理学者VSオヤシロ様! これはミステリーかファンタジーか……!」
「はぁ」
「不謹慎ですけど……私、今からでもその結末にワクワクしておりますわ!」
まさかそれを語る鷹野自身が、今年の犠牲者だとは夢にも思わないだろうなと、山田は内心で憐れむ。
未来で起こる悲劇なんて、彼女に分かる訳はない。興奮気味の面持ちで、鷹野は続けた。
「そして上田教授のお連れ様である山田さん……あなたも、お手伝いをなさっているのですか?」
「一応言っておきますけど、上田さんが暴いたって言ってる超常現象は、全部私が暴いたんですよ」
「あら? そうなんですか?」
「はい。あいつ、何もしてないです」
何もしてない事はなく、実際に上田のお陰で窮地を脱した事も何度かあったが、山田はそれを言ってやらない事にした。得意げに、チューペットを啜る。
「でしたら山田さんに伺いますが……今年は、誰が狙われると、思われますか?」
「………………」
ここで「あなたです」と言う訳にはいかない。言ったとしても笑われるだけだ。
返答に困った山田は話題をズラす。
「寧ろこの鬼隠し……目的は何なんでしょうか?」
和かだった鷹野の表情はぴたりと固まる。意表を突かれた様子だが、山田は構わずに続けた。
「犠牲者の内、一人は殺されて、一人は消える。今まで被害に遭った者は、ダム開発の賛成者だった北条家の夫妻と、その息子と叔父の妻。賛成でも反対でもなかった、古手家の夫妻」
「……村に仇なす者への罰と、戒めと思うのですが……」
「確かにそう思えます。けど、おかしいじゃないですか」
「おかしい、と言うと?」
「明確に賛成されていた北条夫妻ならともかく、以降は別に殺す必要もない人たちばかりじゃないですか。それにオヤシロ様を信仰しているなら、古手家へ手を出せないハズです。信仰を担っているのは彼らなんですから……寧ろ、罰当たりですよ」
関心したように頷く鷹野。
勢い付いた山田はそのまま、捲し立てる。
「最初の被害者がダムの賛成者でしたから、そう思い込んでしまっただけ……これらの事件には別の動機があって、何者かはその動機に沿って事件を起こしている……誰かがダム戦争とオヤシロ様信仰を隠れ蓑に、それを成し遂げようとしている……そう思えてならないんです」
鬼の子地蔵様を一瞥し、山田は真剣な眼差しで鷹野を見据えた。
「だって……一連の事件、全然ダムの凍結に関係しなかったじゃないですか」
山々の隙間を抜け、突風が吹く。木々を揺らして葉を切り、宙へ舞わせた。
風は止み、ヒラヒラと青葉が舞い落ちた。
すっかり顔を覆ってしまった髪を手櫛で直しながら、山田は俯けた視線を上げる。
「そこまで考察された方と会ったのは、始めてですわ……」
葉が落ちる中、感極まった様子の鷹野は手をぱちぱちと叩いていた。
「是非、山田さんとは夜通し語らいたいものです……一晩で済むかは分かりませんけど」
「どんだけ語る気だ」
「私も、鬼隠しについて色々考察していましてね。地底人説とか、鬼ヶ淵沼のオッシー説とか」
「月刊ムーかっ!」
「轟沈した艦隊の怨念説とか」
「アイアンボトムサウンド!」
一通り話した後に鷹野は、本筋へと話を戻す。
「しかしその様子ですと、山田さん……なぜ、この一連の事件が、『オヤシロ様の祟り』とされているか……ご存知ではなさそうですわね?」
「え?」
自信に満ちた山田の表情が、間抜けなものへと変わる。口をポカンと開き、目は丸くなり、チューペットからドロっと中身が溢れる。
「この国はつい四十年も前までは戦時中だったのですよ。その影響か、村のお歳召した方々にはやっぱり、血気盛んな者も沢山います」
そう言えば今は、一九八三年だったとふと想起する。
山田らのいた時代よりも、戦時中までのスパンは短い時代だ。この時代の五十、六十代ならば、まさに戦時中の世代。実際に戦地を生き延びた者もいるだろう。
「それに閉鎖的な村社会と言うのは、敵に対して過敏なものです」
次に想起されるは、山田と上田が過去巡って来た村々の数々。或いは教団の信者たち。
村の文化が、法律や常識よりも尊重される。そんな光景を何度も見て来た。
「ダム戦争の仇敵は、死んで当たり前。事件を起こしても、警察は鬼隠しを秘匿捜査に指定するので報道もされない。その上、村の方々も『オヤシロ様の祟り』と信じて、緘口してしまう」
「………………」
「そうなれば感覚と言うものは麻痺するもの……山田さんは『ダム凍結に関係しなかった』と仰っておりますが、そのような未来を考えられるほど、冷静な者はいましたか?」
「………………」
ジオ・ウエキと言うペテン師に心酔した、雛見沢じぇねれ〜しょんずが良い例だ。
ダム計画凍結を渇望するあまり、易々と手の平に転がされてしまった。
「なり得るんですよ。村人全員が、犯人に──誰かが殺して、誰かが隠して、他の人間が口裏を合わせれば良いだけです」
彼女のその主張は、山田に冷や汗をかかせるに足りる動揺を与えた。
そうだ。単独犯とは限らない。
これまでもそうだった。教団の人間全員、対立していると思われていた者たち、中には村人全員がグルだった事件もあった。
山田は嫌な想像をしてしまう。
もしかして、この村全てが蜘蛛の巣──既に自分は、巧妙に囚われているのではないか。
「……こんな話もありますわよ?」
容赦なく鷹野は続けた。
「一年目の事件の後、村人らは園崎屋敷に集まって会議を開いた」
「…………!」
その話には心当たりがある。
魅音から聞かされたもの。園崎家は秘密裏に村中を調べ上げ、犯人を特定しようとした話。それはまさに、園崎家が無関係だと言う主張だ。
恐らくはその事だろうかと思っていた山田だが、丸っ切り違った。
「皆が事件の事を話題にした時、現頭首のお魎さんは、ニヤリと笑ったそうですわ」
「え?」
「一年目も、二年目も、三年目も……事件が話題に出ると、またニヤリと笑った」
こんな風にと言わんばかりに、鷹野もニヤリと笑う。
「だから村人は確信した。『一連の事件は、園崎家の差し金』だと」
「………………」
「ともすれば村人はそのお魎さんに報いる為、暗黙の了解で事件を起こしているとすれば?」
グイッと歩み寄り、山田の眼前にまで立つ。驚きで彼女が一歩退けば、合わせて鷹野は一歩進む。
最初に見せたあの妖しい瞳で、山田の目の奥まで見通そうとする。
「……あなたが村に来てから既に、全員に騙されているとすれば?」
山田はオオアリクイの威嚇をする。気付けば鬼の子地蔵様の祠の隣まで押し寄せられていた。
すっかり嫌な想像が、山田の脳内を支配する。あの夜に言われた魅音の話も、茜の話も、全てが嘘だとすれば。
一年目の事件も、二年目も三年目も、果ては大石の親友の死も、園崎ぐらいの権力ならば実行も揉み消しも可能ではないか。
「……ち、近いっす」
鼻先がくっ付きそうなほど、鷹野に迫られた。山田は押し返し、離す。
その頃には鷹野の表情も、悪戯に成功した子どものような笑顔となっていた。
「まっ! これはあくまで考察! つまり、ファンタジーですから!」
「で、ですよね」
「でも、気を付けるに越した事はありませんわよ? 誰が刃物を袖の下に隠しているのか……うふふっ。分かった物ではありませんから」
鷹野は腕時計を確認し、「あっ!」と声を上げた。
「あららら……さすがに熱中しちゃいました。そろそろ入江先生の所に戻らないと怒られてしまいますわ」
「もうそんな時間で?」
「名残惜しいですが、今日はこれにて……あっ!」
ぱちんと手を叩き、彼女は提案をする。
「明日、どうでしょう?」
「……え? ど、どうでしょうって? 大泉洋? ミスター?」
「綿流しですよ! 一緒に巡りませんか?」
既に富竹経由で同行を約束はしていたが、とりあえずここでも首肯し、約束を再度取り付けた。
嬉しそうに鷹野は、小さく跳ねる。
「やった! うふふ! 同じ外からの人間同士、これからも仲良くしましょ?」
「あっはい」
明日以降も仲良く出来るのかと、気まずくなる山田。思わず目を逸らし、眉間に皺を寄せた。
そんな彼女の心情など知る由もなく、鷹野はくるりと踵を返すと、「ではまた、お祭りで」と言って去ろうとする。
「……あの!」
鷹野の姿が消える前に、山田は叫んだ。足が止まる。
「……山田さん?」
「私……どうしても、魅音さんたちがそんな事をする人には思えないんです!」
偶然だろうか。鳴き止まない蝉たちの声が止み、山田の声は澄んだまま鷹野へ届けられた。
「それに頭首が笑ったって話ですけど……笑うだけなら、簡単に出来ますよ! と言うか、そうしなくても園崎さん、警察に真っ先に疑われていますし!」
遠目で良く伺えなかったが、振り向いた鷹野の目が驚きに満ちていた。
「あと……暗黙の了解で起こしたにしては、この事件は複雑です。そんな薄っぺらではない大きな意志が、あるように思えるんです」
「……!」
山田の口から叫ばれたのは、鷹野が話した事柄への反論だった。
意外そうに目を丸くし、暫し足を止める鷹野。一瞬だけ目を伏せると、また微笑んだ。
「……あなたとは本当に、良い関係を築けそうですわ」
それだけ言い残して手を振り、彼女は山を降りて行った。
暫し止んでいた蝉の声が、また一斉に発せられる。微風が吹き、木々は嘶く。
ぽつりと残された山田は、ふと鬼の子地蔵様の方へ目を向けた。
「………………」
最初はやっぱり、盛られたと言う胸。次に、頭部の方へと向けられる。
「…………ん?」
頭部の大部分は風化し、苔に覆われていた。
しかし、側頭部から膨れ上がる何かが、山田の目に止まる。
誘われるように近付き、側頭部に付着した苔を毟り取った。汚れを払い、隠されていた物を確認する。
苔の下にあった物は、髪ではなくツノ。頭部の側面から下へ垂れるようにして生えた、水牛のようなツノだった。
それを見た時、山田の目がカッと見開かれた。
神社にて、賽銭箱の前で見た少女。
山の中で、小屋まで案内をしてくれた謎の少女。
山田が幻覚だと思っていたその少女にも、似たツノがあったと思い出した。
「……あの子は」
彼女の背後に向かって、何かが近付く。
「………一体」
更に近付く。もっともっと迫る。
「…………何者……」
とうとう、山田の真後ろに立つ。
ハッと気配を察した彼女は、急いで振り向いた。
風が吹き、また山が響めく。
青葉が巻き上がる中、山田の視線の先には、誰もいなかった。
十本もチューペットがあった袋の中も、空の容器しかなかった。
同じ頃、園崎屋敷には、魅音が帰って来ていた。
庭で匍匐前進の訓練をする組員らを横目に、祖母のいる居間へと入る。
「婆っちゃー! 今帰ったよー! 遅れちゃったけど許してチョーダイ!」
お魎は背を向けて、お茶を飲んでいる。思慮に耽っているようで、魅音が来ても一切の反応を示さなかった。
「婆っちゃ? どうしたの? 考え事?」
「…………魅音」
嗄れ、されど威厳が込められた声色で、お魎は孫娘を呼ぶ。
そこでやっと首を回し、流し目で魅音を見つめた。
「話がある」
パタンと、魅音は開けた襖を、閉める。
儀式を行う北欧人集団を尻目に、パトカーは白川自然公園へと到着する。矢部と石原を駐車場に待たせ、上田は管理人の下へ一人で赴く。
待っている間の矢部と石原は、駐車場で「二人はないちもんめ」をしていた。
時刻は午後三時過ぎ。展望台で風を受けながら、沙都子の母を見たと言う管理人の男から話を伺っている。
柄に「霧雨魔法店」と書かれた箒を抱えつつ、現場の前に立って様々な事を教えてくれた。
その手には、沙都子の母親の写真があった。上田がわざわざ持って来た物だ。
「あー、確かにこの人だあ」
「間違いないんですね!?」
管理人はくるりと振り返り、「間違いねぇ」と言って認める。
崖から落ちるのが怖い上田が、五メートルほど後ろに立っていた。
「一ヶ月ぐらい前から何度も来てよぉ。ちょーど、落っこちたトコにいーっつも立っててよぉ」
「何か、やってたような感じでしたか?」
「どうだったかなぁ? 家族旅行の下見だなんの言っとったがなぁ〜……」
「何か持って来ていたとかは?」
顎に手を当て、当時を思い出してくれた。
「男モンのボットンバッグ持っていたなぁ」
「ボットンバッグ?……あぁ。ボストンバッグか」
「後はぁ、なんか待ってるみてぇに小説を読んでたりぃ。海外の物書きの作品でな? エドガー・アラン・ポーの『陰獣』だった!」
「それは江戸川乱歩の方です」
「時たまに図鑑みてぇな本も読んどったが……まぁ、そんな感じだなぁ」
「ボストンバッグ……そこに工具やガリウムを入れていたのだろうな」
衝撃の事実を突きつけられ、上田は頭を抱える。
動機は不明だが鉄柵に細工をし、夫を突き落とした犯人は、沙都子の母親だ。
証拠は多い。彼女しか開けられないカラクリ箪笥と、その中にあったガリウム、管理人の証言、更には遺体が見つかっていない事実もある。
「……見つかっていないと言う事は、犯行後に逃走した可能性があると言う事……なんてこった!」
憎々しげに上田は吐き捨てる。このような事を、沙都子に言える訳がないからだ。
上田の脳裏には、雛見沢症候群への懸念もある。「お父さんを殺したのは、お母さんだ」と言うのは簡単だが、それが原因で沙都子が発症すれば大惨事だろう。
とは言えまだこれは、推理の段階に過ぎない。決め付けるのは早計だろうと、興奮する自分を落ち着けさせる。
「……入江先生が止めたがっていたのは……こう言う事だったんだな……」
今になって入江が、鬼隠しの調査を辞めさせた理由に気付く。
調べれば調べるほど、残された者が傷付くような真相が待っている。それを全て晒してしまえば、結末は「雛見沢症候群の発症」だ。
入江はそれを恐れていた。だから止めたがった。
「……どうすりゃ良いんだ」
「あの〜? 仕事に戻ってええかね?」
暫し葛藤に沈んでいた上田へ、管理人はおずおずと聞く。とりあえず笑顔で取り繕い、動揺を隠した。
「あ、あぁ……ハハハ! もう結構ですよ! すみません、お時間取らせて」
「では、自分はこれで…………ん?」
去ろうとする管理人が、上田の鞄に注目する。
鞄のジッパーは開いたままであり、中身が容易に覗けるようになっていた。
「どうされました?」
「……あー! それだぁ!」
「え、何が?」
管理人が指を差した先、自分の鞄の中を見やる。
視界に映ったそれを見た時、上田は吠えた。
「おおぅ!?」
駐車場の矢部と石原は、北欧人集団を交えて、はないちもんめをしていた。
「コレ、はないちもんめやないなぁ?」
「いつまで踊ればええんかのぉ!?」
いつの間にかメイポール・ダンスの大会と化している。
山田と別れた後、鷹野は入江診療所へ帰還。やや焦った様子の入江が、カルテを抱えたまま現れる。
「すみません、所長……鷹野三四、ただいま帰還しました!」
「どこ行ってたんですか!? チューチュー買うにしては長くなかったですか!?」
「あ。チューチュー忘れていましたわ」
「しかも買ってない……!?」
「うふっ。ミヨさんうっかり♪」
「許しましょうッ!!!!」
業務に戻ろうと、待合室を横切る鷹野。
ふと、椅子の上にあった物が目に留まった。
「……あ」
そこには誰かが置き忘れて帰ってしまったであろう、世界各地の国旗が結ばれた、棒付きのリボン。ひょいと、拾い上げる。
「入江所長……コレは?」
「え?……あー! 多分さっき、診察に来た親子のですかね? 忘れて帰っちゃったのかなぁ……」
「…………」
リボンを広げ、連なる国旗を眺めた。
日本、アメリカ、ソビエト連邦、中国、イギリス、ドイツ……一つ一つを数えながら、端まで視線を進める。
「懐かしい……所長は、子どもの頃にしていませんでした? お子様ランチの旗集め」
「え?」
突然話題を振られ、素っ頓狂な顔と声で応じてしまった。そんな入江の反応を見て、やってはいないのだろうと鷹野は察する。
「私はしていたんですよ。二十本集めれば願いが叶うと決めて──」
旗の枚数を数え終わる。
「…………」
リボンに括られた国旗は、十九枚しかなかった。
鷹野は口元をキュッと結び、椅子の上にまたリボンを置く。その表情はどこか、物憂げだ。
「鷹野さん?」
心配そうな入江の声と共に、鷹野は振り返って笑顔を見せた。
「……さてと。ロスしちゃった分、仕事を片付けなければいけませんわね。入江所長はもう、休まれてください。後はこちらでやっておきますので!」
再び医務室へと向かおうとする。
去り際、梨花たちの話を思い出して入江が、大急ぎで呼び止めた。
「あの、明日なんですが!」
「はい?」
「……出来るだけ明るく、人目の多い場所にいるようお心掛けを。一人になるのは避けてください」
次の鬼隠しで、鷹野と富竹が犠牲者になると言う梨花の予言。妙な胸騒ぎを覚えた入江は、真っ直ぐ鷹野を見据えて忠告をしてやる。
少しだけ間を置いてから、彼女は首を回して横顔だけを見せた。
「大丈夫ですよ。ダム戦争は終わりましたし、もう鬼隠しは起きませんわ」
「しかし……」
「ふふっ。心配してくださってありがとうございます」
身体ごと動かして、入江へ正面を向ける。
「明日のお祭りは楽しみですわ」
困ったような笑みを浮かべていた。
「盛大なお祭りになりますわよ、きっと」
再び踵を返し、医務室へと消えてしまう。
呆然とそれを見送った後、入江は先ほどまで彼女が触っていた、国旗のリボンへと目を向ける。
その際、椅子の下に落ちていた、千切れてしまっていた二十枚目の国旗を発見する。
菅井きんに似た人物の顔が描かれた国旗だ。
「……赤道スンガイ共和国」
「オッカァーーサマーーッ!!」
「!?」
東南アジア系の外国人が、外から入江に向かって叫ぶ。なぜか両手を蓮華の形に組んでいた。
驚いて、抱えていたカルテ全てをぶち撒ける。