雛飾りは天皇の結婚式を模したものです。
ここからは以前TVか何かで仕入れた情報です。
「お内裏さま」というのは、男雛、女雛一対の総称です。
童謡、「うれしいひなまつり」の歌詞、「お内裏さまとお雛さま・・」によると、お内裏さまが男雛、お雛さまが女雛を指しているように思われますが、これは誤用だそうです。男雛、女雛一対の人形を「お内裏さま(内裏雛)」といいます。
一方、「お雛さま」とは、三人官女や五人囃子等を含めた全ての人形を指します。
童謡の作者は後で勘違いに気付き、街なかで自分の歌が流れているのを聞く度に顔から火が出る思いをしたそうです。
雛飾りは天皇の結婚式を模したものです。
ここからは以前TVか何かで仕入れた情報です。
「お内裏さま」というのは、男雛、女雛一対の総称です。
童謡、「うれしいひなまつり」の歌詞、「お内裏さまとお雛さま・・」によると、お内裏さまが男雛、お雛さまが女雛を指しているように思われますが、これは誤用だそうです。男雛、女雛一対の人形を「お内裏さま(内裏雛)」といいます。
一方、「お雛さま」とは、三人官女や五人囃子等を含めた全ての人形を指します。
童謡の作者は後で勘違いに気付き、街なかで自分の歌が流れているのを聞く度に顔から火が出る思いをしたそうです。
A2A。ちょうどひな祭りについて書きたいと思っていました。ありがとうございます。
さて、さっそくで大変申し訳ないですが、ひな人形の男雛と女雛に明確なモデルはいません。
現在の天皇陛下と雅子様の結婚の時のように、人形師が個人レベルで誰かをモデルにつくることはありますが、具体的に起源となった人物はいません。
株式会社天鳳堂HPより引用 皇室シリーズ雛人形:皇太子殿下・雅子妃殿下モデル
そして由来なのですが、だいぶかみ砕きますが長いのでお付き合いお願いします。時代を遡っていきます。
ひな人形が一般に現在のように豪華な飾りになったのは江戸時代ということではっきりしております。
人形師たちの技術が向上して非常に精巧な人形が大量に作れるようになった頃で、この頃女の子のための祭りとして定着しました。幕府が上巳の節供を五節供の一つと定めたことも関わっています。
ではそれまでは何だったかというと、子供の悪い気・穢れをうつして代わりに川に流す人形でした。天児(アマガツ)や這子(ホウコ)といい、布などで作った簡素な人形でした。
小木人形HPより引用
これを上司の節供の日には子供の枕元に置いておいて、子供の悪い気をうつし、川に流すことで穢れを祓いました。特に赤ん坊のお守り人形として使われていたものです。
2体とも立ち姿であることにお気づきでしょうか。当初のひな人形はこのように立ち雛といって立ち姿でした。
京都国立博物館所蔵の立
A2A。ちょうどひな祭りについて書きたいと思っていました。ありがとうございます。
さて、さっそくで大変申し訳ないですが、ひな人形の男雛と女雛に明確なモデルはいません。
現在の天皇陛下と雅子様の結婚の時のように、人形師が個人レベルで誰かをモデルにつくることはありますが、具体的に起源となった人物はいません。
株式会社天鳳堂HPより引用 皇室シリーズ雛人形:皇太子殿下・雅子妃殿下モデル
そして由来なのですが、だいぶかみ砕きますが長いのでお付き合いお願いします。時代を遡っていきます。
ひな人形が一般に現在のように豪華な飾りになったのは江戸時代ということではっきりしております。
人形師たちの技術が向上して非常に精巧な人形が大量に作れるようになった頃で、この頃女の子のための祭りとして定着しました。幕府が上巳の節供を五節供の一つと定めたことも関わっています。
ではそれまでは何だったかというと、子供の悪い気・穢れをうつして代わりに川に流す人形でした。天児(アマガツ)や這子(ホウコ)といい、布などで作った簡素な人形でした。
小木人形HPより引用
これを上司の節供の日には子供の枕元に置いておいて、子供の悪い気をうつし、川に流すことで穢れを祓いました。特に赤ん坊のお守り人形として使われていたものです。
2体とも立ち姿であることにお気づきでしょうか。当初のひな人形はこのように立ち雛といって立ち姿でした。
京都国立博物館所蔵の立ち雛
布で作る前は紙雛といって紙で作られた夫婦の雛(立ち雛)が一般的でした。
これが江戸時代ごろに「理想の夫婦像として」「将来玉の輿に乗れるよう」に天皇・皇后陛下のお姿を模したものとなります。玉の輿というのはもともと皇后陛下の乗る輿のことを言いました。
現在のような坐り雛に変わったのは寛永の頃(1624–1644)と言われていまして、寛永雛が現在のひな人形の大元になります。寛永6年には京都御所で天皇が自分の娘のために豪華な雛の宴を催したという記載があり、一躍有名になりました。
民間であった天児などの簡素な人形が現在のひな人形のような姿、豪華な姿にかわるきっかけができたのです。
穢れを祓う風習がまだ残っている地域では、3月3日が過ぎるとひな人形を川に流します。穢れを含んだものなので、川のどこかに引っかかって流れないと妖怪になって戻ってくるというような話も残っています(鳥取市用瀬町)
鳥取県鳥取市用瀬町の流しびな 鳥取には私見ですが古いひな人形の習俗が良く残っています
ところによっては現在のようなお内裏様人形を川に流すところもあったので、これは実際のモデルがいるととってもよろしくないですね。
民間レベルでは江戸期に人形が豪華になったため、流すのはもったいないとして保存されるようになりました。
室町時代ごろに万里小路時房という公家の日記『建内記』に、3月3日にひな人形をもらったがもったいないので寺で祈祷をしてもらい翌年も使ったという記載があります。貴族社会では1200年代にすでに人形を流さなくなっていた事例ですが、寺で一度穢れを祓っているわけです。
平安時代には女児の遊びでひいな遊びという人形遊びがありました。
これは『源氏物語』や『枕草子』にも記載のあるものですが、3月3日に限らず、日常的に遊んでいるものでした。人形は和紙で作られたものとみられています。
それとは別で3月の上巳の日には穢れをのせたカタシロを川に流す上巳の祭りの記載もあります。人間のカタシロなのでヒトガタ、人形と言います。現在も東京の湯島天神などでは3月3日ではなく大祓ですが、こうしたヒトガタを用いて参拝者の穢れを祓っています。
湯島天神のカタシロ
ひな人形の源流はこうした宮中のひいな人形と上巳にヒトガタに穢れをのせて払う行事が時代を下るにつれてくっついていったものと考えられています。上巳のケガレ祓いは中国から来た習俗ですが、日本で精緻な人形が作られるようになって日本独特の風習となりました。
地方地方でくっつき方には差異があったので、吊るし雛などの変わり種のひな人形もあります。豪華なひな人形は民間人には高価だったので、農家でこまごました飾りをつけたものと言われています。
三春歴史民俗資料館の吊るし雛 三春まちづくり公社 観光部Twitterより引用
つるしびな大百科HPより引用 かわいい!
最後にまとめます。
・もとは人形遊びと上巳の節供の穢れ祓いの行事が結びついたもの
・人形作りが精緻なものになっていくに従い人形自体に価値ができた
・現在のような段飾りのひな人形が一般的になるのは江戸時代
・もとは子供の穢れを祓い健やかな成長を祈った風習で、しまわないと婚期が~などの女の子だけの祭りとなったのは江戸時代ごろ
A2A すでに真っ当な回答が寄せられているのにリクエストが来ました。奇を衒った回答が求められているのでしょうか?
「お内裏様」という以上、そして左大臣と右大臣が侍っているという構成である以上、ひな壇の最上段に飾られている男雛と女雛が、内裏にまします、やんごとなきお方とその奥方であることは自明でありましょう。
[広辞苑第六版] だい・り 内裏 ①天皇の住居としての御殿。御所。皇居。禁裏。禁中。禁闕。大内。紫庭。
欧米の小さい女の子が「王様と女王様」の絵を描いたり、人形を飾ったりする感覚に近いのではないでしょうか。ただ、お内裏様は特定の天皇・皇后を模しているとは考えられてはないません。
A2A すでに真っ当な回答が寄せられているのにリクエストが来ました。奇を衒った回答が求められているのでしょうか?
「お内裏様」という以上、そして左大臣と右大臣が侍っているという構成である以上、ひな壇の最上段に飾られている男雛と女雛が、内裏にまします、やんごとなきお方とその奥方であることは自明でありましょう。
[広辞苑第六版] だい・り 内裏 ①天皇の住居としての御殿。御所。皇居。禁裏。禁中。禁闕。大内。紫庭。
欧米の小さい女の子が「王様と女王様」の絵を描いたり、人形を飾ったりする感覚に近いのではないでしょうか。ただ、お内裏様は特定の天皇・皇后を模しているとは考えられてはないません。
徳川和子(東福門院)が、今の形の雛人形を飾る事を始めたと言われています。徳川和子は、徳川家康の孫娘で、二代将軍秀忠と継室の江の間に5女として産まれました。後水尾天皇に嫁いだ人です。後水尾天皇は、30人近い子女をお持ちでしたが、天皇の外戚の地位を欲する徳川家は、和子の産んだ子を天皇の位につける事に固執しました。
後水尾天皇と和子の夫婦仲はよく、興子内親王をはじめとして二男五女にも恵まれました。皇室と徳川家の様々な軋轢があり、興子内親王を女帝として、後水尾天皇は譲位されました。
(上は、徳川和子。)
興子内親王は、徳川家が外戚の明正天皇となりましたが、後に和子が男子を産めばその皇子に譲位する手はずになっていました。しかし、男子が生まれても早世してしまい、そのまま皇位に就いたままでした。
和子は、実家の財力を元に京の都のフアッシヨンリーダーでもありました。その一つとして雛人形を作りましたが、興子内親王のために作成したとの事です。雛人形のモデルがあればお内裏様の女雛は興子内親王でしょうか。
当時21歳の明正天皇の跡を継がれたのは、異母兄弟の後光明天皇でした。和子が自分の養子にしました。その方の跡には、また、和子以外の女性が産んだ皇子が皇位に就かれました。明正天皇は、72歳まで御一人で過ごされました。
徳川和子(東福門院)が、今の形の雛人形を飾る事を始めたと言われています。徳川和子は、徳川家康の孫娘で、二代将軍秀忠と継室の江の間に5女として産まれました。後水尾天皇に嫁いだ人です。後水尾天皇は、30人近い子女をお持ちでしたが、天皇の外戚の地位を欲する徳川家は、和子の産んだ子を天皇の位につける事に固執しました。
後水尾天皇と和子の夫婦仲はよく、興子内親王をはじめとして二男五女にも恵まれました。皇室と徳川家の様々な軋轢があり、興子内親王を女帝として、後水尾天皇は譲位されました。
(上は、徳川和子。)
興子内親王は、徳川家が外戚の明正天皇となりましたが、後に和子が男子を産めばその皇子に譲位する手はずになっていました。しかし、男子が生まれても早世してしまい、そのまま皇位に就いたままでした。
和子は、実家の財力を元に京の都のフアッシヨンリーダーでもありました。その一つとして雛人形を作りましたが、興子内親王のために作成したとの事です。雛人形のモデルがあればお内裏様の女雛は興子内親王でしょうか。
当時21歳の明正天皇の跡を継がれたのは、異母兄弟の後光明天皇でした。和子が自分の養子にしました。その方の跡には、また、和子以外の女性が産んだ皇子が皇位に就かれました。明正天皇は、72歳まで御一人で過ごされました。
江戸中期定着した「嫁入り婚」の婚礼模型?
婚姻 ~「婿入り婚」から「嫁入り婚」への流れ
日本の婚姻は、時代によって、また身分によって、さまざまな形態をとりながら変化してきましたが、民俗学者の柳田國男氏によると、大きく分けて、婚姻の形は、「婿入り婚」「足入れ婚」「嫁入り婚」という順に変わってきたということです。
「婿入り婚」といわれる形は、古くは『源氏物語』のなかでも書かれているように、男性が女性の家に通うというもの。「通い婚」「妻訪い(つまどい)」ともいわれていました。そして、女性方が公認すると婚姻成立の祝いなどが、女性方で行われました。
戦国時代から江戸時代になると、男性の家に女性が嫁ぐ「嫁入り婚」の形がとられるようになって、現在の結婚式の原型である婚礼「祝言(しゅうげん)」が始まり、それが一般庶民の間にも広まっていきました。
しかし、いずれの場合にも、婚姻の祝いや儀式などは、婿か嫁、いずれかの家で行われるのが一般的で、現在のように別の場所を借りて式を行うようになるのは、明治以降になってからのことです。
昔子供関係の仕事をしてたので知ってるというか、知らないというかですが 。たしか、お内裏様は 天皇陛下をイメージしてるというか、してしまうというか、、ですが、、、、それは失礼なので語ってはいけないと思ってました。
昔子供関係の仕事をしてたので知ってるというか、知らないというかですが 。たしか、お内裏様は 天皇陛下をイメージしてるというか、してしまうというか、、ですが、、、、それは失礼なので語ってはいけないと思ってました。
内裏とは、もとは天皇の住居のことですが、転じて天皇本人を指すようになりました。必ずしも皇后とのペアを表すわけではありません。
例えばルイス・フロイスの「日本史」で、天皇のことをDairiと呼称しています。
もちろん文脈によって天皇と皇后を合わせてそう呼ぶこともありえますが。
この歌詞の雛とは人形のことですが、文脈によってペアを表すこともありますが、一体のみを「雛」と呼ぶことも、それほど不自然とも思えません。
そもそも多くの語は、法令的や学術的な定義を前提として用いられるものや、長い間の慣習としてただ一つの意味を表すもの以外は、文脈に依存して意味が決まるものです。
それを誤りだとして取り上げるのは、単なる揚げ足取りかと思います。
1,間違いと気づいた時点で、すでにこの歌詞で広く歌われてしまっていたから。当時は、訂正したくても情報を流す機会が限られていましたから、難しかったのでは。
2,正確さより、語調を優先して変えなかった。
琵琶湖周航の歌に「西国十番長命寺」という歌詞があります。湖東の古刹ですが本当は31番です。語調のため十番にしたそうで、長命寺さんにも許可をいただいたそうです。
3,当時は、子どもの歌ごときにと、正確さを求めなかった。
4,芸術作品は、正確さより内容を優先した。
与謝野晶子さんの短歌「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
鎌倉の大仏様は、釈迦如来でなく阿弥陀如来ですが訂正はされていません。発表された時点の作品がすべて、ということなのでしょう。
ざっとですが推測してみました。
お内裏様は最上段の男女二体の雛人形のことで、お雛様は雛人形全体の総称です。なので、童謡「うれしいひなまつり」をサトウハチローが「おだいりさまと おひなさま」と作詞したのは、本当は名称としてはおかしいのです。サトウハチローは、後で間違いに気付いたけれども時すでに遅く、自分の作品が歌われているのを聞くのが嫌だったそうです。(NHKテレビ「チコちゃんに叱られる」の情報より)
ひな人形は江戸時代に江戸の町で流行したものが現在の基本となっています。
しかし、地方地方では様子が違いました。
例えば京都周辺の関西地域では、内裏様を雛段の上にどしんと飾るのではなく、細かな細工で宮中そのものを表現しようとしたのです。
一般社団法人南アルプス市観光協会主催の安藤家住宅ひなまつり より
御殿飾りと呼ばれている精緻なこのミニチュア宮中は、現在では江戸の段飾り雛に押されてほとんど作られていません。
しかもこの御殿飾り、ものによっては細かいパーツにばらばらにして収納するため、めちゃくちゃ大変なのです。
また、山梨県ではお金のない農村地帯に売るためにつくられた安価な横沢びなというひな人形がありました。
手足に針金が使われててポージングが可能ですが、発色も地味で見た目は・・・まぁ、親は子供に「ごめんね」と言って渡したかもしれませんが農村の子供はきっとそれなりに喜んだことでしょう。
老若男女いろいろある横沢びな 豊富郷土資料館のブログより
同じような趣向で土でつくられた土人形のひな人形もあります。特に東北地方に多く伝わっています。
高価なひな人形は買い求めるのは難しかったのですが、これであれば土を焼き固めてそこに彩色するのみなので値段が安かったのです。
花巻人形 まきまき花巻HPより ほかに堤人形と相良人形をいれて三大土人形と言われています。
こうした地方地方のひな人形はいまや統一され、今は雛段飾りの江
ひな人形は江戸時代に江戸の町で流行したものが現在の基本となっています。
しかし、地方地方では様子が違いました。
例えば京都周辺の関西地域では、内裏様を雛段の上にどしんと飾るのではなく、細かな細工で宮中そのものを表現しようとしたのです。
一般社団法人南アルプス市観光協会主催の安藤家住宅ひなまつり より
御殿飾りと呼ばれている精緻なこのミニチュア宮中は、現在では江戸の段飾り雛に押されてほとんど作られていません。
しかもこの御殿飾り、ものによっては細かいパーツにばらばらにして収納するため、めちゃくちゃ大変なのです。
また、山梨県ではお金のない農村地帯に売るためにつくられた安価な横沢びなというひな人形がありました。
手足に針金が使われててポージングが可能ですが、発色も地味で見た目は・・・まぁ、親は子供に「ごめんね」と言って渡したかもしれませんが農村の子供はきっとそれなりに喜んだことでしょう。
老若男女いろいろある横沢びな 豊富郷土資料館のブログより
同じような趣向で土でつくられた土人形のひな人形もあります。特に東北地方に多く伝わっています。
高価なひな人形は買い求めるのは難しかったのですが、これであれば土を焼き固めてそこに彩色するのみなので値段が安かったのです。
花巻人形 まきまき花巻HPより ほかに堤人形と相良人形をいれて三大土人形と言われています。
こうした地方地方のひな人形はいまや統一され、今は雛段飾りの江戸発のひな人形が当たり前となっています。
「人形遊びの,起源」なる論文が如何にも有りそうで、実際研究してる方も居そうだし研究書も有るんでしょうけど残念乍ら私は読んでないし研究もしてません。しかし想像:でっちあげると
ヒトの子供・ワンコにとっての玩具は、ボール状でも棒状でも咥えたり齧ったり握ったりできる物なら何でもなり得るんだけど、ある年齢の子供でもワンコでも、人形又は”動物”を模った物は、それ以外の物と区別され特別な物になる(気がする。犬にはお気に入りの”人形”が有るように見えた)。
人形:人の形をしてる物は何か宗教やら超自然との関係がありそうだ。自分にとって大事だった人の想い・思い出すため(この文は、私のキャラクターでは無いが)。恨み呪いの対象。生贄の代わり。生贄の代わりという事は安全の祈願ともなる?こけしの様な。
祈りの対象は山や森だったんだが、その神に人格が現れるのは自然な気がします。森の神様が怒ったり笑ったりする。森の神様の機嫌を取ったり様子を窺ったりすれば、自ずと人の顔をした神様が現れるのは自然です。
人の形をした”神”が現れたなら、その神を模した物も人の信仰の対象になるし家の中にも祀れる。携帯する事も出来る。携帯する神:人形が出来た。
∵の形が在れば粗、顔に見える。此れは恐らくヒトにとってかなり早いうちに身に付いた特性です。(根拠探す元気は無い)幼児でも、にっこりマークは顔に見えるんじゃ無いか?∵や
「人形遊びの,起源」なる論文が如何にも有りそうで、実際研究してる方も居そうだし研究書も有るんでしょうけど残念乍ら私は読んでないし研究もしてません。しかし想像:でっちあげると
ヒトの子供・ワンコにとっての玩具は、ボール状でも棒状でも咥えたり齧ったり握ったりできる物なら何でもなり得るんだけど、ある年齢の子供でもワンコでも、人形又は”動物”を模った物は、それ以外の物と区別され特別な物になる(気がする。犬にはお気に入りの”人形”が有るように見えた)。
人形:人の形をしてる物は何か宗教やら超自然との関係がありそうだ。自分にとって大事だった人の想い・思い出すため(この文は、私のキャラクターでは無いが)。恨み呪いの対象。生贄の代わり。生贄の代わりという事は安全の祈願ともなる?こけしの様な。
祈りの対象は山や森だったんだが、その神に人格が現れるのは自然な気がします。森の神様が怒ったり笑ったりする。森の神様の機嫌を取ったり様子を窺ったりすれば、自ずと人の顔をした神様が現れるのは自然です。
人の形をした”神”が現れたなら、その神を模した物も人の信仰の対象になるし家の中にも祀れる。携帯する事も出来る。携帯する神:人形が出来た。
∵の形が在れば粗、顔に見える。此れは恐らくヒトにとってかなり早いうちに身に付いた特性です。(根拠探す元気は無い)幼児でも、にっこりマークは顔に見えるんじゃ無いか?∵や
コンセントの種類と形状 | 200Vコンセント・特殊形状コンセント | 電気設備の知識と技術
は顔に見える。幼児で実験したなら、より長い時間注視する等ありそうだ。
顔の有る動物:前後・左右・上下が有る動物たちは顔の方向に進むことが多く。また急所である事も多く。反撃も。捕食するのに顔の方向は重要であるらしい。
目玉模様は、どちらが顔・頭であるかを解りにくくするため?又は見てるぞ!
眼状紋 - Wikipedia 翅の後ろ側の黒い〇は目玉に見えなくも無い。こちらが頭と勘違いする鳥がいる。しかも触覚迄有るし。
ヒト以外の動物でも顔等を模った物は顔に見えるんじゃ無いか?ワンコのみならずニャンコも鳥も。
上記wikiには牛の尻に目玉模様を付けると捕食されにくい実験の事が書いてあります。へー!
人を模った物:人形は割と簡単に作れる。∵等を書き込めば人形だ。子供は「ごっこ遊び」を始める。女児は人形遊びを「ままごと」系に男児は「戦い」系にというのは、自然な傾向なのか?文化的な強制なのか?何方なんでしょう。
A. 姫の頭
→頭には平額と釵子と櫛が飾ってありますが、
素人で分かりやすいのが櫛。
○櫛無し・または櫛がプラスチック<櫛が木製<櫛が木製で手書き絵、の順で高価。
△ちなみに平額と釵子は、プラスチック<金属製の順で高価。
B 姫の髪
→ナイロン or 絹
○比べれば一目瞭然。どうしてもわからなければ、気になる姫を明らかに高価なものと並べておいてもらいましょう。
C 姫の帯
→糊止め or 結んである
○結び目の有無で分かります。当然、結んである方が質は良いです。でも、糊止めのほうが容易で誰でも加工できるので、普及品ほどあちこちが糊止め、ホッチキス止めされてます。さりげなく扇で隠してあったりもします。
D 姫の襟 「合わせ」がポイント。
衣裳がセパレートであることを分からなくするために、腰のあたりで合わせが左右重なってます。1枚で着せてあるものは重なっていず、単衣が見えています。本着せは名工といわれる一部の人形司さんでないと、難しいんです。
人間は顔への抽象的な認識能力が生まれてからすでにできた。
実験者は顔マーク(・_・)図形と似たような図形を赤ちゃんに見せたら、反応が違うことが確認された。また、数か月たつと、美人とそうでもない人への反応の違いも見せた。つまり結構早い段階で人間は美への認識ができた。
左下はアイカメラが記録した視線の軌跡。
人間は具象のものを抽象化する能力は生まれつき。
人形遊びもこの能力があるからだ。
この能力は知能の発達へ貢献する。
遊びで得た喜びは抽象化する能力を強化する。
美意識もそのために存在する。
当然、人形遊びは社会的な文化的な意味もある。
動物もものを抽象化する能力があるが、どこまでできるかは私は知りません。
誰か実験してくれないかな。
人間は顔への抽象的な認識能力が生まれてからすでにできた。
実験者は顔マーク(・_・)図形と似たような図形を赤ちゃんに見せたら、反応が違うことが確認された。また、数か月たつと、美人とそうでもない人への反応の違いも見せた。つまり結構早い段階で人間は美への認識ができた。
左下はアイカメラが記録した視線の軌跡。
人間は具象のものを抽象化する能力は生まれつき。
人形遊びもこの能力があるからだ。
この能力は知能の発達へ貢献する。
遊びで得た喜びは抽象化する能力を強化する。
美意識もそのために存在する。
当然、人形遊びは社会的な文化的な意味もある。
動物もものを抽象化する能力があるが、どこまでできるかは私は知りません。
誰か実験してくれないかな。
「うれしいひなまつり」の歌詞では、
「お内裏様とお雛様がふたり並んでいる」様子が描かれています。
そもそも内裏(だいり)とは、天皇の私的区域の名称です。
その中に紫宸殿(ししんでん)という、
元服や立太子などの儀式が行われていた場所があるのですが、
雛人形はその紫宸殿にて行われた天皇と皇后の結婚の儀をベースとして飾られています。
ということは、お内裏様というのはひとりではなく、
お殿様とお姫様のふたりというのが正解なのです。
そしてお雛様に関しても、男雛と女雛のふたりで一対というのを表していることから、
お内裏様とお雛様が並んだ状態というのは、
ふたりではなく「4人」ということになってしまうのかもしれません。
二足歩行で手が使える段階に発達した猿人や人間の脳は、それまでの動物の脳が
行っていた「周囲の出来事と自分との関わり」を体験し、記憶し、類似した状況下で
生き延びた方法の記憶を思い出して再現することで「二匹目のドジョウを狙う」とか
「コロリ転げた木の根っこ」のような「学習」によって環境に適応して生き延びようと
する段階の「過去~現在をパターン化しようとする思考」を超えて、過去に起きていない
状況を「想像」するという、「現在から近い未来をパターンから予想する思考」に
シフトしてきたと言えると思います。
例えば他の猿人の置かれた状況を観察し、狩りが成功した、天敵に追われて殺された、
逃げ切れたなどの「客観視」を自分に当て嵌めて「ああいう時に自分なら」と想像する。
そのように「未だ起こっていない未来」に備えようとする次元に進化したと思うのです。
更に、他人を観察した記憶が増えるに従って、「単にこうすればこうなる」という
シンプルな因果関係だけでは説明できない、「逆に失敗するケースもある」とか
「あいつなら上手くいくが、自分には無理だと思う。」などなど、より複雑なケース、
様々なキャラクター、各々の特性、時間の変化や、それらが起きた背景事情の違いなどを
頭の中で逐次、架空の物語として思い描く・・・方程式や物語の骨格といったものに
置き換える「抽象化」という作業が可能になったことで、文明を築ける程に人間の脳は
飛躍的に発達し
二足歩行で手が使える段階に発達した猿人や人間の脳は、それまでの動物の脳が
行っていた「周囲の出来事と自分との関わり」を体験し、記憶し、類似した状況下で
生き延びた方法の記憶を思い出して再現することで「二匹目のドジョウを狙う」とか
「コロリ転げた木の根っこ」のような「学習」によって環境に適応して生き延びようと
する段階の「過去~現在をパターン化しようとする思考」を超えて、過去に起きていない
状況を「想像」するという、「現在から近い未来をパターンから予想する思考」に
シフトしてきたと言えると思います。
例えば他の猿人の置かれた状況を観察し、狩りが成功した、天敵に追われて殺された、
逃げ切れたなどの「客観視」を自分に当て嵌めて「ああいう時に自分なら」と想像する。
そのように「未だ起こっていない未来」に備えようとする次元に進化したと思うのです。
更に、他人を観察した記憶が増えるに従って、「単にこうすればこうなる」という
シンプルな因果関係だけでは説明できない、「逆に失敗するケースもある」とか
「あいつなら上手くいくが、自分には無理だと思う。」などなど、より複雑なケース、
様々なキャラクター、各々の特性、時間の変化や、それらが起きた背景事情の違いなどを
頭の中で逐次、架空の物語として思い描く・・・方程式や物語の骨格といったものに
置き換える「抽象化」という作業が可能になったことで、文明を築ける程に人間の脳は
飛躍的に発達してきたと考えられるんです。
こういった「抽象化」は幼少期に女の子が家庭のシミュレーションとも言える
飯事(ままごと)をやりだしたり、男の子がヒーローごっこや鬼ごっこといった
「集団で狩りをする」「序列を持った組織を思い描いて〇〇ごっこをする」などの
社会を矮小化して学習するシミュレーション遊びを自然発生的に行います。
更に言えば、大人になっても一部の人はそれを手間暇かけて演劇や映画などの
仮想世界の構築に結びつけるのです。
お人形というものは、だから遊びという、抽象化されたバーチャルな意識空間に
自分も周囲の人も投影して「異世界に没入する」被憑依体・アバターとして
「キャラクターの人格を投影する人型のスクリーン」として機能します。
世界の様相を子供ながらに、或いは個人の視点で抽象化し、モデル化し、それを
「動かしてみる」、つまりシミュレーションを行う。
それによって、未だ起きていない、考えうる様々な状況で生き延びる方向性を、
人間社会にあっては幸せに、自分中心に生きていける物語を、編んでいく。
だから、お人形という存在は誰かの人格を投影するスクリーンであると同時に
夢想と現実が溶けて地続きになった時には、誰かの人格を内包する実在の人間、
或いは人間のような何かとして自分と向き合い、関係性を結ぶことになる。
小さな子供が擬人化した大切なお人形を手放さないことも、人の手から手へと
渡り歩いてきた呪物としてのお人形の禍々しさも、広義においてはアニメなどの
二次元世界、更には抽象的な文章の物語のキャラクターも、全て「お人形」に
含まれると考えられますし、それが両手が使えるようになった猿人の脳にも
起源的な「シミュレーション機能」が備わっていただろうと考えうることは、
つまり数百万年前から人類はその祖先よりお人形というものを自身の内面から
呼び起こし、石ころや木のきれっぱし、或いは粘土などで「象る(かたどる)」
ことで人形を「生んできた」とも言えそうだと推論しています。
人の思考や想いを写し取ったものなら、なるほど霊験も呪いも納得できます。
恐らく、こういった「認知情報」として個体の経験や感性、思考が他者に
広範にコピられ、解釈され、あるものは純粋に、あるものは改変されながら
社会の中に伝わり拡がっていく「意識の遺伝子」の核酸分子の一つなのかも
知れません。
だから、お問い合わせの返事としては「遥か古代から、人が人になり始めた頃から」
お人形は誰の心の中にもあったのだ、ということになります。
https://www.yoshitoku.co.jp/hina/column/manner/dolls-decoration
によると、元々は京雛の「向かって右がお内裏様、左がお雛様」が正しかったようです。中国では左(向かって右)が上座だったこともあり、日本では長らく左上座だったためです。
しかし、大正天皇の即位の礼には、西洋式の「右上座」で行われたそうです。これが関東雛として始まったということです。
どちらが正しいということはない、というのが本当のところで、いわれを知った上え好きな方を選べば良いかと思います。
デパートで買えばだいたい値段通りの格になります。お買い得とか失敗とかいうことはまずありません。目利きの実力がないと思うのなら、金額で選ぶことです。
同じ価格帯の中で、顔、着物の上品さが気に入ったものにすると良いでしょう。
着物と面の上品さでしょうか。
衣装などから見ると、平安時代だと思います。