中世ヨーロッパと言うと、夢と魔法の世界(あるいは迷信と因習の世界)であって、われわれからすると想像もつかないような不思議な考え方で珍奇な文化がそこここにあって…と言うイメージにしたがりますが、これは19世紀以来の中世にエキゾチックな要素を見たがる傾向の延長に過ぎず、言ってみれば外国への憧れという「地理的な距離」の代わりに手の届かない昔と言う「時間的な距離」をありがたがって妄想を広げているだけであり、異文化がよく調べるとそんなに不思議でないのと同様、中世もよく調べるとそんなに不思議ではありません。その時代に存在した技術と条件のもと、「普通」に暮らしていただけのことです。
例えば、「中世ヨーロッパの生活」ジュヌヴィエーヴ・ドークール著、文庫クセジュと言う本があります。ちょっと引用しますと、
…こうしたことは、私たちの時代とあまり違ってはいない。フランスの小都市に住んだことのある人で、ごみ屋や陶器直し屋やかご屋が通りかかるのを見かけなかった人がいるだろうか。靴屋が露店で仕事しているのを見なかった人がいるだろうか。小さな八百屋や食料品店(中世ではルグラティエと言われていた)の店先で値切らなかった人がいるだろうか。老人が日なたぼっこしながら談笑し、乞食が一日中教会の戸口にたたずみ、婦人たちが洗濯場でおしゃべりしているのを見かけなかった人がいるだろうか。そして、鶏が小川に沿って餌をついばみ、十五分ごとにあちこちの修道院から鈴のような鐘の音がきこえてくるル・ドラの通りを散策しなかった人がいるだろうか。これらすべては、十三世紀以来ほとんど変わっていない。
農村では、農作業はこれまたほとんど変わっておらず、農機具も時として同じものを使用している。農作業は夜明けとともに、相も変わらず繰り返されているのである。…
まあ、「不思議」とまでは言いませんが、「すごいなあ」と思うような文化は存在します。聖書の内容を分かりやすくするために教会の前で僧侶が演じていた宗教劇が、娯楽性を伴ってものすごい発展を遂げています。MicrosoftEncartaの「宗教劇」の項を、ほぼそのまま引用します。
宗教劇
I
プロローグ
宗教劇 しゅうきょうげき 宗教劇を、たんに宗教をテーマにした戯曲ととるならば、近代の劇作家の中でも、とくにカトリック的なクローデル、モンテルラン、とくにプロテスタント的なストリンドベリ、バルラハなどの名があがるだろうが、ここでは中世の宗教劇を中心に記述する。
キリスト教化された中世ヨーロッパではギリシャ、ローマの演劇遺産は異教文化としてわすれさられ、演劇は完全に消滅し、わずかに大道芸などにその跡をとどめるだけとなった。だが、キリスト教信仰から、復活祭劇、降誕祭劇、受難劇、聖史劇、原罪劇、預諸劇、道徳劇など、さまざまな内容と形態の宗教劇がヨーロッパ各地で生まれた。
II
典礼劇の誕生―復活祭劇、降誕祭劇
10世紀初頭にスイスのザンクトガレンの修道院で復活祭に交誦(こうしょう:tropus)がおこなわれた。キリストの墓に遺体を清めにいった3人のマリアが遺体がなくなっているのでおどろいていると、彼女たちの前にあらわれた天使がキリストの復活をつげる対話部が、交互の掛け合いでとなえられたのである。この部分はすでに劇的な所作をともなうもので、復活祭劇の起源となった。キリストの受難から復活までの事跡をあつかうのが復活祭劇である。
これに対して、キリストの降誕をいわうクリスマスの儀式から降誕祭劇が生まれた。これはキリストの誕生前後の出来事をあつかうもので、東方の三博士の来訪(→ 東方三博士の礼拝)も、所作をまじえてしめされるようになった。
キリスト教会の儀式(典礼)から生まれた復活祭劇と降誕祭劇は、典礼劇とも総称される。
III
教会から民衆の手に―受難劇、聖史劇など
ラテン語を理解しない大多数の信者にとっては、典礼劇は聖書の内容を視覚化してくれるので有益であった。だが、教会内でおこなわれていた典礼劇の担い手は、やがて教区の信者にかわり、野外で大規模に上演されるようになる。そして、もちいられる言葉もラテン語ではなく、それぞれの国の民衆語になった。
こういう大規模な劇は、ドイツでは受難劇(Passionspiel)と総称され、イギリス、フランスでは聖史劇(mystery,mystêre)の語がつかわれる。英仏での聖史劇は、キリストの受難(→ イエス・キリスト)だけでなくアダムの物語(→ アダムとイブ)や聖人伝説などをあつかう劇もふくむ大概念であるのに対して、受難劇はキリストの受難が中心であり、「受難の聖史劇」という言い方をする。
IV
世俗化、娯楽化した宗教劇
一般市民が中心となった大規模な聖史劇や受難劇の上演は、14~15世紀にはヨーロッパ各地でおこなわれるようになり、台本もいろいろな都市にのこっている。たとえば、古いものではスイスのムリの復活祭劇(1250)、演出台本ののこるフランクフルトの受難劇(1350)、ドナウエッシンゲン受難劇(1485)などがあり、さらには、ボルツァーノ(現イタリア)の受難劇(1514)は、7日間つづいたといわれる。また16世紀にはいると、フランスのバランシェンヌの大規模な聖史劇のように、作家の名がのこっている例もある。
1
広場での上演風景
こうした町の野外劇では、たいてい市庁舎をかこむ町の中央広場を上演会場とし、そこに、キリスト受難の各場面をしめす、マンシオ(留:りゅう)とよばれる舞台がならんでいた。たとえば、エルサレムに布教におもむいたキリストが神殿から商人を追放し、既成宗教の聖職者たちの恨みを買い、ユダが銀貨30枚で買収されて主を裏切り、イエスが最後の晩餐(ばんさん)で弟子のひとりの裏切りを予言し、オリーブ山でとらえられ、ヘロデ王に鞭(むち)うたれ、ローマ総督ピラトの前にひきだされて、扇動された民衆によって磔刑を宣告され、みずからの十字架を負ってゴルゴタの丘にむかい、磔刑にあうまでの受難の過程が、それぞれのマンシオで順々に演じられていくのである。
十字架からおろされたイエスの遺骸(いがい)を聖母マリアが腕にだいてマリア哀歌をとなえる場面は、ピエタ像として視覚的にも有名である。天使による復活告知の場は復活祭劇の原点であるが、この場の前におかれる、3人のマリアがイエスの遺体につける香油を買いにいく場面では、香油商人が大道芸のような滑稽(こっけい)を演じることが多かった。この場面から、商人の女房の姦通(かんつう)をあつかった喜劇「ロバンとマリオンの劇」(13世紀。アダン・ド・ラ・アル作)が派生しているほどである。
復活したイエスが、地獄でとらわれている魂を悪魔から解放する場面も、スペクタクル的にえがかれたらしい。イエスの昇天は、広場正面の市庁舎に設定された天国でしめされるのが通例であった。付言すれば、この内容は現在の人気ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」とほとんど同じである。
2
壮大なスケール
この広場での野外劇は、今日の劇場とはことなった原理で上演された。現在の舞台では場面がかわるときには舞台転換が必要になるが、広場という演劇空間に最初からいくつもの場面がセットされている場合、転換は必要なく、観客が次の場面にうつっていけばいいのである。この原理を同時並列舞台(アンシオ)とよぶ。20世紀に入って、1つの舞台空間に多場面を設定するようになったのは、この原理の転用である。
イギリスでは、各場面を設定した山車が順々にうごいて観客の前にあらわれる形式もとられた。とくに、天地創造から最後の審判におよぶ大規模な聖史劇はサイクル・プレー(cycle play)とよばれ(中世宗教劇の時代にはまだドラマの概念がなかったから、劇はplayという言葉であらわされた)、ヨーク、チェスターフィールドなど4都市にその台本がのこっている。
上演時間の制約はなく、数日間におよぶ上演もまれではなかった。古典劇1本はふつう2000行前後だが、残存する宗教劇の台本の中には5万行に達するものがあることをみても、その長さが推察されよう。旧約聖書の天地創造からはじまる劇は、時間的なスケールも桁(けた)違いである。受難劇も、いわばイエスの生涯の年代記であり、本来は劇的というより叙事的な主題である。
しかし、イエスの受難と復活の段階をしめす劇の構造は、20世紀初頭の劇作家たちに影響をあたえた。ストリンドベリが自己の魂の救済をえがいた「ダマスカスへ」(3部。1898~1901)という作品で、幕の代わりに留(ステーション)をつかっているのは受難劇を意識してのことであろう。ステーションは、表現主義の作家が自分の新しい人間に生まれかわる過程をえがいた劇にもつかわれた。
V
宗教劇の消滅
中世の宗教劇は、宗教的というより、町という共同体が組合をつくって町全体の催しをおこなうという性格が強くなった。そうでなければ、あれだけ大規模な上演がおこなわれたことの説明はつかない。16世紀にはフランスで、聖史劇があまりに豪華になりすぎて、当の教会当局から禁止されたこともあった。
これほど隆盛をきわめた宗教劇が急に姿をけしてしまうのは、宗教改革によって、ヨーロッパを統合していたキリスト教が分裂したことも原因のひとつであろう。具象化をきらう新教(プロテスタンティズム)勢力の強かった北ドイツでは、とくにはやく消滅した。こういう伝統が遺産として継承されなかったのは、西欧の日本とちがう特徴のひとつといえよう。
南ドイツの小村オーバーアマーガウの受難劇は、今日観光としても有名だが、中世の受難劇とはいえない。17世紀にペストが流行したとき、この山村がおそわれないように祈願をこめて神に奉納した受難劇で、10年に一度かならず再演するという誓言をまもりつづけて今日にいたっているのだが、17世紀にはすでに同時並列舞台の理念はなくなっていたため、舞台上で場面を転換する通常のかたちをとっている。ただし、村全体が一丸となり、配役も選挙できめるというような、共同体の演劇の側面はのこしている。第2次世界大戦中に一時中断され、1950年に再開された。ティロル地方のエルルでも受難劇の上演がある。イギリスでも、同50年からサイクル劇のゆかりの地ヨークとコベントリーで、数年おきに上演がある。
VI
受難以外の題材
イエスの受難以外を題材とするものには、マリア哀歌から発展した劇、聖体行列から生まれた聖体祭劇、原罪劇(アダム劇)、マタイによる福音書にある寓話(ぐうわ)をあつかった「10人の処女の劇」、世界終末劇、アンチクリスト(贋(にせ)キリスト)劇、預言者劇、聖人劇などがある。また悪魔と契約した司教テオフィルスの劇、女性の身で悪魔と結託して教皇になったユッタ夫人の劇などもある。
1
道徳劇
イギリスもしくはオランダに由来するといわれる道徳劇(morality play)は美、富、善行、知恵、力、死、徳などの抽象概念を擬人化した、教訓的な劇である。
もっとも有名なのは、エブリマン(everyman)を主人公として、だれの身にもおこりうることを描いたエブリマン劇である。ストーリーは、おもしろおかしく日をおくっていたわかい裕福な男が、突然、死の召喚をうけ、死後の裁判の準備をまるでしていないので狼狽(ろうばい)するというもので、常に死をわすれず、神の掟(おきて)をまもって生きよとおしえる。
この劇はルネサンスに人文学者によってラテン語に訳されたために、ヨーロッパじゅうに流布した。ホフマンスタールが現代化したエブリマン劇「イェーダーマン」(1911)は現在、ザルツブルク・フェスティバルで毎年かならず上演されている。
2
謝肉祭劇
謝肉祭は、ゲルマン時代からの非キリスト教的な春祭の習慣が四旬節前の無礼講とむすびついたものである。ドイツでは職人階級の間で、この謝肉祭で演じる独特なかたちをもつ謝肉祭劇が発達した。内容は宗教とは関係がなく、きわめて民衆的で、祝祭性にとんだ茶番劇であった。謝肉祭劇の作者としてはニュルンベルクのハンス・ザックスが知られるが、17世紀には消滅した。
3
宗教改革と演劇
宗教改革の時代には、人文主義者たちがプロテスタント、カトリックの両側にわかれて、ラテン語で宗教論争を展開する宗教論争劇を書いている。しかし上演とはあまりむすびつかない、論争のための劇であった。むしろ反宗教改革側にたつ教団、とくにイエズス会では、16~17世紀に布教の武器として演劇を利用し、大いに成果をあげた。人間の思い上がりや虚栄をいましめたヤーコブ・ビーダーマンの「パリの博士ツェノドクスス」(1602)などは傑作といってもよい。
…ただ、これ「すごい」とは思いますが、現代のものに当てはめて考えると、リオのカーニバルみたいなお祭りでみんなが自分も参加して楽しむものであり、ネタが聖書を題材にした劇と言うだけです。
中世と言えば魔女狩りと言うイメージも、とっくの昔に古いものになっているようです。魔女狩りが一番盛んだったのは実は16世紀後半~17世紀にかけての、もはや近代の初めであり、同時代現象は科学革命であり、原因は迷信と言うよりは権威が揺らいだ時代(宗教改革と、ユグノー戦争や30年戦争の時期です)の社会不安の一種である、ということですね。
中世らしくて珍奇に見える文化と言えば、「死の舞踏」とかでしょうか。現代においては、絵画や彫刻の様式として知られています。
死の舞踏は、死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けるという14世紀のフランス詩が(14世紀のスペイン系ユダヤ人の説もある)起源とされており、絵画では、主に擬人化された「死」が、様々な職業に属する踊る人影の行列を、墓場まで導く風景が描かれている。行列は、教皇、皇帝、君主、子供、作業員で構成され、すべて骸骨の姿で描かれるのが代表的な例である。生前の姿はかろうじて服装、杖等の持ち物、髪型などで判断できるが、これらの要素が含まれず、完全に個人性を取り払われた単なる骸骨の姿をとることもある。
一連の「死の舞踏」絵画の背景には、ペスト(黒死病)のもたらした衝撃をあげる説が多い。1347年から1350年にかけてミラノやポーランドといった少数の地域を除くヨーロッパ全土で流行し、当時の3割の人口(地域によっては5割とも言われる)が罹患して命を落とした。ワクチン等の有効な治療策もなく、高熱と下痢を発症し、最期には皮膚が黒く変色し多くの人が命を落としていく様は、いかに人の命がもろく、現世での身分、軍役での勲章などが死の前に無力なものであるかを、当時の人々にまざまざと見せつけることとなった。
当時は百年戦争の最中でもあり、戦役・ペストによる死者が後を絶たないため、葬儀や埋葬も追いつかず、いかなる祈祷も人々の心を慰めることはできなかった。やり場のない悲しみや怒りはペスト=ユダヤ人陰謀説に転化され、ユダヤ人虐殺が行われた。教会では生き残って集まった人々に対して「メメント・モリ(死を想え)」の説教が行われ、早かれ遅かれいずれ訪れる死に備えるように説かれた。しかし、死への恐怖と生への執着に取り憑かれた人々は、祈祷の最中、墓地での埋葬中、または広場などで自然発生的に半狂乱になって倒れるまで踊り続け、この集団ヒステリーの様相は「死の舞踏」と呼ばれるようになった。芸術家たちがこの「死の舞踏」を絵画にするまで、およそ一世紀の時が必要であったことは、当時がいかに混乱の只中にあったのかを示しているといえる。
(Wikipediaの「死の舞踏」の項より)
ただ、これも、当時原因がわかっていない病気に関する反応と考えると、何も驚くにはあたらないように思えます。
中世実在職業解説本 十三世紀のハローワーク | グレゴリウス 山田 |本 | 通販 | Amazonという、大変楽しい本があります。「傘貸し屋」「鳥刺し」「マムルーク」「森番」「ランツクネヒト」「ビール妻」「聴罪師」「写本師」「コーヒー嗅ぎ」「夜の役人」など、名前を聞くと何のことだと思うような職業について解説したものですが、読んでみると、実は別にそんなに驚くようなことでもなかったりします。
「吟遊詩人」と言う、われわれが見ると「???」と思うような職業がありますが、彼らについて調べてみると、
・大きくは「大道芸人」(一般人階級)と「宮廷歌人」(貴族階級)に分かれる
・大道芸人は、教会の前の広場などに集まって、歌・踊り・曲芸・ジャグリング・手品などを披露し、お金をもらって生活していた。宮廷に招かれて芸を披露する場合もあった。教会は、建物の前で騒ぐ彼らを警戒したが、ミサへの人集めのために広告として利用する場合もあった。専門の者もいたが、農閑期の農民が収入のために行う場合もあった。中世の最後には、彼らはギルドを形成し、その地位の向上に努めた。
・貴族階級の宮廷歌人は、もっぱら宮廷で騎士道や宮廷風恋愛を含んだ歌を歌うことにいそしんでいた。中世も後半になると、ある程度宮廷文化の萌芽が見られるが、そうした場面で彼らは大いに活躍した。
・彼らの境界は思ったよりもはっきりしておらず、大道芸人が出世して宮廷歌人になる場合も、逆に宮廷歌人が没落して大道芸人になる場合もあった。
・移動の自由がなかった中世当時、移動しながら歌う彼らは芸能人であり、また世事を歌にのせて伝えたであろうからマスコミでもあり、また領主の館に宿を得て領主と個人的に語らいながら諜報活動を行ったことも知られており、現代的に言えばスパイでもある。
などと分かり、なるほど現代においてはそのままのような職業はないものの、ちゃんと見れば現実にあり得る職業で、そんなに不思議なものでもないということがやはりわかります。
そういうわけで、「中世ヨーロッパ」を「不思議」の枕詞にするようなことは、誤解を助長すると思うので、あまり望ましくないと思います。異文化に対してエキゾチズムを通して見ることが慎むべきことになっているのと同様、歴史に対してもエキゾチズムばかりで見るべきではありません。
非常に長い説明ですが、途中から14世紀を越えて18世紀の話など、中世と近世とがゴッチャになって語られて、読み手は混乱するでしょうね。
なんとなくですが、MicrosoftEncartaの「宗教劇」の項を引用してますが、これが失敗だと思います。書かれてる内容の多くが近世の話ですよね?
他にも、引用してるんのは近世の話ですよね?
一応書いときますが、14世紀にイタリアで始まったルネサンスが波及した欧州地域は、それ以降は近世と区分されます。
歴史書ではない娯楽図書は、時代区分がいい加減ですので、信用されない方がいいと思います。また、コピペによる著作権の侵害も危惧されます。
ちなみに受難劇は今もカトリックでは続けられています。毎年Good Friday(聖金曜日)にキリストの受難を思い返す祭日にミサで行われます。セリフだけの簡易的な物が多いですが、本格的な劇を行う教会もあるます。
現代の受難劇ではミサの一般参拝者もセリフがあり、我々がキリストが囚われて、彼にはどんな罰を与えるべきかとローマ司令官のピラトが問いかけると、ミサ参拝者の私たちがキリストを「十字架にかけろ!十字架にかけろ」と叫びます。
それは「キリストは私たちの罪を受ける為に死んだ」事を覚えるため、つまり、私たちキリスト教徒自身が救い主であるキリストを殺したも同然であると覚える為であり、結構インパクトがあります。
興味深い補足情報をありがとうございます。
グレーでしょうね。私はこの引用は必要と思いますが。
ただ、弁護士さんが高評価とコメントをくださっているのは、意義深いことと思います。