岡田斗司夫を擁護したいわけではないが

最近、ジークアクスについての投稿やイラストを見る機会が非常に多い。この一週間(この箇所は6月9日に書いている)は、布の薄い服を着たマチュのファンアートが盛んだ。それだけでなく感想(純粋なものから長文まで)も多いし、ジークアクスにとどまらずガンダムというシリーズに向き合う人も少なくない。時には変な乱闘も起きている。私はどこに属しているかというと、どこにもいない。私はジークアクスを見ておらず、マチュがどんな声をしているのかも知らない。話の流れは、Twitterの人たちがあれこれ語ってくれるので、なんとなく把握しているといった程度だ。
こういうことは珍しくない。以前から私のタイムラインでは、ウマ娘とブルーアーカイブと篠澤広ばかり流れており、いずれも私は興味をもっていない。魅力のあるキャラクターだと感じる面はあっても、実際にゲームがやりたいと思うことは少しもないということだ。

ともかくジークアクスは多くの人から注目を集めている作品となっている。そうなると当然、お話についてあれこれ考えたがる人もいて、それが考察という形になる。考察厨というあまり良いニュアンスをもたない言葉もあるが、そういう人間が出てくるほど、その作品は重厚な物語をもっているとみなすべきだろう。
さて、おそらく重厚な物語をもっているらしいジークアクスだが、近頃は公式からの答え合わせが出された。

「2022年11月のプロットに登場していたファーストガンダムの登場人物は「島」の人ではありません。」これだけでも一つ思うところはあるのだが、それは後で書くとして、上の投稿への引用として次のように言う人がいた。

作品をめぐってトンデモな考察をする人があふれると、物語は制作者が意図していない形に歪んでしまう。作品の風評も汚れたものになってしまう。そうした状況を懸念して、防ぐために公式から声明があがっているのではないか。「作品を荒らす筆頭」としてツイート主が挙げているのは岡田斗司夫だ。この投稿が多くの人に注目されるようになったのは、「野生の岡田斗司夫」という表現があるからだ。森に何匹も岡田斗司夫が棲んでいる光景を私は想像してしまった。確かにそれは面白い画だと思う。
今や岡田斗司夫は人気YouTuberだが、彼を支持しない人は多い。ずっと庵野秀明の友達みたいなスタンスで話しているところとか、女性関係がよろしくないとか、自分でサイコパスを名乗っているとか、結局痩せたのはなんだったんだとか、いろいろ言いたいこともある。こうしたこと以上に問題となっているのが、岡田による考察だ。岡田は何はともあれ知識をもっている人間で、知名度もあるから、彼の言ったことが正解として迎えられやすい状況にある。しかも考察の内容が「間違っている」から、余計に問題なのだと言う人は多い。
岡田否定論でよく見かけるのが、「断定して語るのが良くない」という意見だ。私はこの意見について昔から疑問に思っている。考察をする時に断定をするのは一種のマナーなのではないか。断定した方が、言葉を放った者として責任を負う覚悟が感じられて良いと思う。断定を避ける方が、逃げの姿勢を感じる。
例えば「カラスは白いのである」と言う人と、「カラスは白いのではないかと思うのですよねえ」と言う人がいたとして、後者の方が誤謬性が弱まるなどということがあるのか。どちらも同じように間違っているとしか言いようがない。
断定されることで信じる人が多くなり、正解扱いになってしまうという現象は、受け取る側の問題であって、岡田自身は悪くない。岡田は考察として自分の意見を言った。それが間違っていると思うなら、そのように主張すれば良い。知名度や権威の差で、一方の言葉の方が広まるということはよくあるが、それはまた別の問題だ。
もはや懐かしい、カラー公式が岡田斗司夫を非難した件も、単純に庵野とその周辺人物が岡田を嫌っているのと、岡田の言ってることが流通しすぎだという点に尽きるのであって、考察自体に罪を着せられることなどできない。岡田の発言は確かに大きすぎるものになっているかもしれないが、庵野を守ろうという意識もまた同等に大きなものになりすぎているように見える。それだけ庵野にはいろいろあったわけだし、守られて然るべきではあるのだが、本来はあるはずのない禁域が育まれている面があるように感じる。

こんなことを言って、私は庵野の作品について云々したことは皆無と言っていい。岡田の考察動画を見ても、そもそも作品を知らないので何が何だかわからないことも多い。たぶん岡田の言うことを鵜呑みにしている人は、私と同じで作品を知らないから疑う材料すらもっていないのだろう。
私はここで、公式の言っていることがすべてではないという主張がしたいのだが、ろくに物語を鑑賞することをしていないので「ご注文はうさぎですか?」を引き合いに出すしかない。とはいえ「うさぎ」はあらゆる考察がなされている作品でもあるので侮ってはいけない。
数年前に「ご注文はうさぎですか?展 Café Lumière」というものが開かれた。ファン向けに開催された展覧会で、原画などが展示されていたらしい。「らしい」と言っているだけでもわかる通り、私は足を運んでいない。
この「ごちうさ展」ではパンフレットが販売されており、そこには原作者であるKoiのロングインタビューが掲載されていた。Twitterアカウントももたず、ほとんどコメントを残すこともない静かなる原作者が、ついに口を開いたのだった。インタビューでは、Koiとは二人によるペンネームだという驚きの回答もあったが、他にも話題になっていた点として「ご注文はうさぎですか?」」は何に感化を受けて作られたかという話題があった。Koiが答えるには、「ご注文はうさぎですか?」は「バグダッド・カフェ」という映画から着想を得ている。
作者からの回答は、読者から驚きをもって迎えられた。私が見た投稿では、「ごちうさはギャルゲーから着想を得たものだと思っていたのに当てが外れた」というのがあった。ココアという主人公が、チノをはじめとしたキャラクターと出会い、関係を深めてゆくという流れがギャルゲーらしいというものだった。しかしKoiが言うには「ごちうさ」の元ネタは「バグダッド・カフェ」だという。それが間違っているとは言わないし、実際そうなのだろう。ただし、「ご注文はうさぎですか?」にギャルゲー要素がまったくないというのも変な話だと思う。
私が言いたいのは、作者が公式の場で正直にものを言うのかという話だ。某が書いた作品が大ヒットして、実は現実の誘拐事件やストーカー事件をもとにしているからといって、正直に公言するものだろうか。それはすごく角が立つ発言になるだろう。
「ご注文はうさぎですか?」も同様で、作中ではキャラクターの水着や下着が描かれることはあっても、基本となる作風は上品に構えたものだ。そんな作品が、もとになっている作品として「CLANNAD」を選ぶか「バグダッド・カフェ」を選ぶかといったら、それは後者だろうという話になる。作品に貴賤はないと私は思いたいが、それでも「格」というものがどうしてもある。「CLANNAD」は決して低俗な作品ではないが、そう答えたらいろんなコンテクストが混ざってきて、「ご注文はうさぎですか?」が純粋なものでなくなるのが容易に想像できる。「CLANNAD」の場合、「ご注文はうさぎですか?」が本気でぶつかっても勝てない相手だという点もある(あくまでアニメという土俵での話だが)。洋画の名前を出せば、アニメとは異質な印象が出るし、高級な感じも出る。何事にも運営のためにはブランドが大事だ。

作者の中で認めている事実というものがあっても、それを公言しようというと全然別の話だということはよくあることだ。私が聞いた話(確か若松伸哉という人から聞いた)だと、ある研究者が懇意にしている作家の年表をまとめるなどしていたのだが、作家の女性関係に触れたことで、当人の不興を買ったということがあったそうだ。たとえ公然の秘密だとしても書かれたくないことはあるものだ。というか誰しも触れられたくないことがあって当然だろう。
物語とは少し違うが、60年代に存在したザ・バーズというアメリカのバンドの話もしたい。バーズは1965年にデビューしてから1967年あたりまで、本人たちで演奏することが少なく、スタジオ・ミュージシャンが影武者を務めることが多かった。このことは過去の記事(の後半)で少し書いたことだ。バーズに限らず、60年代のアメリカのバンドは基本的に自分で演奏することが少なかった。しかしバーズの主要メンバーだったデイヴィッド・クロスビーの意向としては、バンドが一貫して自分たちで演奏していたという風に事実を曲げたかった。バーズの研究者として著作を書いたジョニー・ローガンは、クロスビーの意図を汲んで、お気に召す通りに書いた。クロスビーにとっては満足だし、ジョニー・ローガンにとっては相手を不快にさせないことで仕事の種が続くというわけだ。それはジャーナリズムとしてどうなのかという話なのだが。

カラーやジブリのTwitterアカウントが岡田斗司夫を攻撃した頃、私は国文学者である石原千秋の文章を岡田の切り抜き動画のコメント欄に投稿して、軽くレスバトルを引き起こしたことがある。該当の動画とコメント欄を引用したかったが、動画が削除されたのか見つからなかった。ともかく石原は下のようなことを書いていた。

文芸評論家や文学研究者の読みは「ふつう」でないことが多い。いや、文芸評論家や文学研究者はあえて「ふつうでない読み方」をするのが仕事なのである。(略)「ふつうの読み方」がよくわかっている文芸評論家や文学研究者が、あえて「ふつうでない読み方」をするのがすぐれた文芸評論や研究論文の条件だ。もしそうでなければ、わざわざ活字にして世に問う価値などない。
(略)
これはほとんど「誤読」に近いかもしれないが、「誤読」に少しでも触れる冒険を経験しないような読みは、文芸評論家や文学研究者にとっては読みの名に値しない。

石原千秋『漱石はどう読まれてきたか』, 新潮選書, 2010,p14-15

上の文章が指定しているのは、「文芸評論家や文学研究者」が「小説」を読解することについてだが、これは「岡田斗司夫」が「アニメ」を読解することに換えても話は特に変わらない。たいていの人が見てわかることを言うようでは、岡田のような立場は務まらないというか、大した存在にはならない。時には誤読すれすれのことを言うからこそ価値があるのであり、公式からも嫌がられるようになる。もっとも、石原の言う「文芸評論家や文学研究者」の営為はただの感想文であって、評論はともかく研究とか学問とかいう風に言えるのかという疑問はあるかもしれないが、それはまた別の話だ。

ともかく作品を読み込むというのは面倒な行為だ。何が正しいと言えるかよくわからなくなりそうだ。私も何かと考えることがあったが、まあこういうことで良いのではないかと気持ちが楽になれる解釈があった。それは大江健三郎の小説『取り替え子』について、加藤典洋が行った評論だ。

僕にある小説が、作中に事実Aを描きながら、そのAの裏にあるのはBという別の事実なのだ、と感じさせたとします。その場合のBを「作中の原事実」と呼びましょう。するとその作中の原事実Bが本当の(?)原事実Xとどういう関係にあるのか、同じなのか、違うのか、ということは作品の読みには、関係がないのです。

加藤典洋『小説の未来』, 講談社文芸文庫, 2024, p153

一応、『取り替え子』という小説についてざっくりと解説すると、まずこの小説の登場人物たちは、作者をはじめとした実在の人物がモデルになっている。主人公であり、作者大江健三郎がモデルでもある古義人は、友人の吾良(モデルは伊丹十三)とともに凄惨な過去を経験している。その過去の内容はあんまりよくわからないのだが、どうも悪い人たちに牛の生皮をかぶせられるという、変なものだ。ただ、この過去を読み解いていくと、実際には古義人と吾良は男から強姦を受けたことを意味しているのではないかということになる。この読み解いたものが、加藤のいう「原事実」に値する。ところで『取り替え子』は私小説らしき小説なので、この牛の生皮なり強姦なりは事実に即しているのか? という疑問が浮かぶ。しかし、そんなこと結局のところわかりはしないではないかという話だ。「牛の生皮をかぶせられた」という事実Aと、強姦されたという原事実Bと、真相は定かではない実際の出来事という原事実Xという三重構造ということになる。『取り替え子』は、その構造に意識的な作品だ。
では、岡田斗司夫が動画で語っている、庵野らの作品の場合はどうなのか。これはまた一筋縄ではいかない。すべての作品がモデルありきで作られているわけではない。原作をもとにしたアニメとなると、さらにアニメ化というフィルターがかかって、三重構造どころではなくなりそうだ。話は再び混迷を極めている(私の頭がお察しなだけ)。とはいえ優れた作品ならば、一言では語れない、いくつもの層があるはずだ。表象だけではない、豊かな読解をすることが可能になる。ともかく私は、公式がこの解釈は間違っていると言うのは、貧しい行為になるのではないかということが言いたい。ジークアクスの場合、他人の作品に手を出しているから、何かと気を遣って、危うい解釈を排除しようとしているのだろうが、それにしてもだ。


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コメント

1
HIRO
HIRO

勉強になります

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note会員1000万人突破記念 1000万ポイントみんなで山分け祭 エントリー7/8(火)まで
岡田斗司夫を擁護したいわけではないが|欄干公式見解
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