これだからインターネットはやめられない ~お前怖いんだよ編
最後の段落で思わず悲鳴を上げてしまった
— 山崎 (@y_ryukichi) February 3, 2025
良質なフェイクドキュメンタリーみたいな喉越し
どんどん個性が無くなり、ゴシック体化する有名ブランドのロゴと、その理由|metamorphose 森川あやhttps://t.co/KComN3zzLF
「最近ロゴマークのデザインが単純になりすぎだろ問題」についての記事が、Twitterで話題になった。記事の筆者である森川あやが指摘する通り、世界中の有名ブランドのロゴが個性を失っており、そう言われると事態は着実につまらない方向に向かっていると感じる。ロゴというのは大事な看板だから、そこに特別感がないようでは、ブランド自体の魅力が半減することになりかねない。これは確かに確かに由々しき現象ではないかと思う。
そこで森川が言うには、これは「NWO(世界統一秩序)」という運動の一環だと言うのだ。その箇所にいたって「おや⁉」と思うことができた私はまだ幸いだったのだろう。ちなみに私は、上の山崎氏によるツイートを読む前に森川の記事を読んだ。激ヤバ陰謀論だと念を押されることなく記事を読み、「あ、そういう系ね……」と判断できたのだから上出来ではないか。
この記事の本当に怖いところは、多分読んだ人の大半は次の日からあらゆるロゴを見るたびに違和感を感じてしまうようになること
— 山崎 (@y_ryukichi) February 4, 2025
この人のアプローチがヘタクソなだけで、「日常の些細な違和感を増幅させて不審や憎悪を煽る」というのは陰謀論を広げる典型的なメソッドですhttps://t.co/FV0qpsWcDi
とはいえ、あらゆるロゴマークがシンプルになっているのは事実のようだし、それはなぜ? と思うことに無理はない。そこに付け込まれているのだから油断ならない。きっと私も明日からログマークを見ては、これはデザインが素朴になっていないだろうかと意識することになるのだ。森川の記事では、突然「世界統一」とか「愚民化」とかいう言葉が出てくるので、インターネットのよどみに慣れている人なら身構えて当然だろう。それから森川は、それらの単語を出した直後に「ずいぶん話が飛躍してるな!と思われる向きもあると思いますが」と、いささか弱腰になっている。迂闊な私も、そこで「ああそうだね」と目が醒めた気もする。本当の狂気の持ち主なら、相手の疑問も構わず進むものではないだろうか。ということは森川あやという人は、案外まともな考えが外れていないのかもしれない。
インターネットにはこういう、人よりものを考えようとして何はともあれ「真実」に気付いた人の文章がたくさんある。今の文脈で「真実」とカギカッコつきで書くと、即陰謀カテゴリーに入りそうだが、実際は一概に言えない気もする。一つ言えるのは、本人なりの正解が浮かんでいて、それを伝えようとしているということだ。そういう人の文章からは、独特なものが漂っている。これまでに私が見た限りだと、「独自に究極のボイストレーニング法を編み出して、他人の歌唱がいかに喉に悪いか説いている」ブログは、じっくり読んでいると不思議な気分になった。大変詳しい人なのだと最初は思うが、だんだんとしんどくなるから不思議だった。
「ブライアン・ウィルソンやミシェル・ポルナレフをはじめとして音楽に親しんでいて、他の無知蒙昧を嘆いている、どうやらCDデビューしたことがある人」のウェブサイトもなかなかの味を出していた。CDデビューしているという本人の言葉を信じて、一体誰なのか調べようとしたが、ついに名前はわからなかった。だから彼の言っていることがどこまで本当なのかと疑ってしまった。このウェブサイトは現在おそらく閉鎖されている。どちらも2016~2018年頃に閲覧したものだ。
彼らは陰謀論者ではないと思うし、言っていることが間違っているというわけでもない。ただ自分で見つけた正解を、他人と共有することが難しいから言葉を重ねるしかなく、結果として独特の湿度が生まれているのだ。孤独な戦いとでもいおうか。そういう人の気持ちはわからないことはない。私もどうかすると「真実」とやらを必死に語りかねない人間だから。
その手の人間はインターネットにたくさんいるのだろうが、探せば必ず見つかるというものではない。自分の慣れている価値観や語彙とは違うものに当たるためには、どうしても偶然の力を借りる必要がある。もし少しでも手で探れば、すぐ熟成されたネット文書に出会うことができる人がいるとすれば、もはや自分を疑った方がいいくらいではないか。幸か不幸か私はその領域にまだ達していないので、いつ巡り合えるかわからない中でネットの世界を生きている。
私は先ほどから文章という形式で気焔を吐いている人のことについて書いてきた。しかしインターネットにおいて、その手の人間が自分の思うところを発露する手段は文章にとどまらない。例えば動画という形も、今では有効な手段だ。これもまた私たちにとっては偶然見つけるしかないのだが、Youtubeというのは求めていなくとも「おすすめ欄」としてわけのわからない動画を見せにくることが時にある。顔に謎のペインティングを施した人物がオルガンを弾いている動画は、最近いくらか話題になったと記憶している。
(最近とは書いたが、実際には昨年五月頃のことだった。もう時間の感覚がすっかりおかしくなっている)
多くの人がそうだと思うが、私もまたYouTubeに変な感じがする動画が表示されているのを見つけると、再生したくなる。実際にそれが面白かったなら大変結構だが、多くの場合で名状しがたい感情を催して終わりになる。今回は以上に書いたように、見ると奇妙な感情になる、「真実」が語られた動画を紹介する。
本題
まずはこの動画を見てほしい。特に何かに注意が必要ということはない。なんとなく眺めているだけでも問題はないと思う。
上の動画では、音楽において重要なビートという感覚についての説明がなされている。アメリカのポピュラーミュージックは、日本人には備わっていない「オフビート(バックビート)」の感覚が自然としみついている。これはアメリカ(特に黒人)特有の現象だ、という内容だ。
いろいろな映像が次から次へと流れている。これが一体なんだというのだろう。4拍子の中でも2と4が大事なのだということはわかった。それにしても、それぞれの映像に付け加えられている矢印記号や心臓のイメージは何を意味しているのか。
私はこの動画を見たのは年末のことだった。おすすめ欄に急にあがってきた動画を見ようとしたのは、まず私が音楽に興味をもっているからだ。そして、日本人にはオフビートの感覚が備わっていないという題名から、では私が普段から英米のポピュラーミュージックに親しんでいるのは何なのかと気になったのだ。
実際に動画を見て、私はよくわからなかった。いろいろ証拠を見せてくれているのはわかるが、投稿者による説明が全然ないので、つまり何が言いたいのかという結論がつかみ取れなかった。こうして心に妙な引っ掛かりを残しながらブラウザバックし、いつしか忘れてゆくはずだった。
しかし年越しして間もない頃、私はまたしても見覚えのあるサムネイルに行き当たった。果たしてそれは、同じ投稿者による新着動画だった。
マイケル・ジャクソンとヒューイ・ルイスが「We Are The World」で共演した際の歌う様子が流された後、急に一人の男性がでてくる。どうやらこの動画の投稿者らしい。彼はマイケルとヒューイの歌い方を真似ると、彼は「あの白人の人は~」と語り始める。ヒューイ・ルイスを知らないらしい。調べる気もなかったようだ。語るに値しない人物だと思っているのかもしれない。
ヒューイ・ルイスのことはこの際どうでもいいとして、この男性の喋る様子を見てほしい。はっきり言って異常ではないだろうか。
特に拳をつかってビートを刻むところなど、もはや恐怖だと思う。彼は右手をげんこつにして左の手のひらを打っている。これを読んでいる人は、ぜひ彼のように手を叩いてほしい。私は一回で耐えられなくなった。
まず音がいくらなんでも強すぎる。これはバックビートのコツではなくて、人を殴る方法だろう。ここまで音を大きく鳴らす必要がどこにあるのか。彼はビートの特性を強調したいがためにやっているのだろう。しかしあれほどの強い打撃に耐えられるのは、空手経験者かマゾか感覚麻痺者か単なるアホかといったところだ。
そしていくらなんでも長く叩きすぎる。彼はこの一つの動画で、いったい何度自分の手のひらを殴っているのだろう。強弱あわせると百回以上やっている。この強すぎるヒットをあまりにも続けるから、私もさすがに異様だと思ったのだ。もうわかったからと思っても彼はまだ続けている。目がずっと開いているところも、まるで隙がない。
台本をまとめる気はないのか、思ったことを次々と言うのでなんだかとりとめがない。そんなに笑えることを言っているわけでもないのに自分で笑っているところも、人の心を震わせるのに充分だ。
たぶんヤバい人だと思う。私は良からぬことまで考えてしまった。
ただ、彼の言っていることがまったく理解できないというわけではない。己の気分に任せきりで、要領を得ない説明になっている部分があるとしても、言わんとするところはわかる。それは彼自身が認めているように、真のオフビートというのは説明するのが面倒で、無意識レべルで感じ取るしかないものだ。
そもそも彼はビートの1~4拍を「↑」「↓」という矢印を用い、1&3のバスドラムの音を心臓の音にたとえているが、音そのものに矢印があるわけでもないし、心臓も存在しない。彼はオンビートの感覚でいることを、クールポコのネタにたとえている。しかしクールポコはありもしない餅をついているだけであって、そのビートが何なのかについて考えるものではないし、考えた人はいなかったはずだ。
感覚を比喩で説明するのでは、余計に本質からはずれることになりはしないだろうか。単になんとなくの世界にすら思えてくる。それでも、日本と英米とでは音楽の感覚が異なるというのは私にも同意できることで、やはり両者には別の何かが宿っているとしか思えない。というわけで、ここは一つ私から、オフビート(バックビート)とやらが何なのか、日米の違いとは何なのかについて書いてゆきたい。これこそ欄干公式見解ではないか。
オフビート私見
オフビートというのは、そもそも人類にしみ込んでいるものなのだろうか。よく言われることとして、最初にオフビートでドラムを叩いたのはアール・パーマーで、それはファッツ・ドミノという歌手の「The Fat Man」という曲で使用されたという話がある。
鮮明ではない音質で、ところどころにノイズが入るが、もうそういう音源しか残っていないのだろうから仕方のないことだ。よく聞くと曲の40秒あたり、歌がはじまってからオフビートが聞こえる。2拍目と4拍目にスネアドラムが叩かれている。これがオフビート発明の瞬間だと言われている。この曲は1949年に録音されたものだ。そうなるとオフビートというのは、せいぜい70年の歴史しかないことになる。70年は充分長いと感じるかもしれないが、音楽の歴史と比べると実に短いものだ。
実際のところ「The Fat Man」以前から2&4の感覚はあったはずであり、その起源を辿ればもっと昔に還ることができるだろう。ただ、「The Fat Man」が今もなお歴史に残る曲として定まっており、ここからロックンロールなるジャンルが形成されていったという事実はある。ということは「The Fat Man」はオフビートを効果的に用いた最初期の曲だと言える。オフビートは黒人ならもれなくもっている感覚だと先ほどの動画では説明があった。しかし明確にオフビートが登場するのは1950年まで待たなければならない。もしオフビートが無意識に当然もっている感覚であるなら、アール・パーマーなるドラマーが最初の人物にならなくても良かったではないか。なぜアール・パーマーにオフビートができたのか。答えは簡単で、アール・パーマーが優秀なドラマーだからだ。
時代はずっと後になって、ジョニー・リヴァーズ(Johnny Rivers)という歌手の「Rockin' Pneumonia And The Boogie Woogie Flu」という曲について記す。これは1972年の曲だ。「ロッキン肺炎とブギウギ・インフルエンザ」というよくわからない題名をもっている。
この曲を聴いてどのように思うか、私は訊ねない。ただ一つ感じてほしいのは、この曲のドラムのノリが若干遅れていることだ。遅れているというと下手な演奏みたいに聞こえるが、これは意図的にビートを後ろへ後ろへとずらしているのだ。テンポがゆったりしているだけではないかと思うかもしれない。まあ、それもあるかもしれない。しかし他の人に叩かせて同じような演奏ができるかというと、よほど上手い人でないと無理だろう。
これはザ・バーズというバンドによる「Turn! Turn! Turn!」という曲で、1965年に全米1位を獲得した。
この曲の「To everything~」と歌われるところのドラムを聴いてほしい。わずかに一打が遅れているのがわかるだろう。一瞬ミスでそうなっているのかと思うが、そうではない。この曲では「To everything~」という歌い出しが何度か登場する。その度に叩かれるスネアドラムは必ず少し遅れているのだ。つまりこれは意図的な演奏だ。
ここまでに「Rockin' Pneumonia And The Boogie Woogie Flu」と「Turn! Turn! Turn!」という曲を紹介した。この二曲のドラムを叩いているのは誰か。前者は確定でジム・ゴードンで、後者もおそらくジム・ゴードンだろう。
ザ・バーズというバンドの曲なのだから、マイケル・クラークというメンバーが叩いているに決まっているというのは、現代的な意見だ。60年代のアメリカのポピュラー・ミュージックは、影武者(スタジオ・ミュージシャン)が代わりに演奏することが当たり前だった。素人上がりの若者バンドの演奏が少しでも上手くないと判断されると、即スタジオ・ミュージシャンが出てきて完璧な演奏を仕上げるという時代だった。素人同然のマイケル・クラークに、あの微妙に遅らせたドラムが叩けるだろうか。YouTubeには、60年代当時のザ・バーズがテレビに出演した際に「Turn! Turn! Turn!」を演奏している映像がアップロードされている。私が視聴した限り、スタジオでの「Turn! Turn! Turn!」とライヴでの「Turn! Turn! Turn!」とでは、全然演奏が違うと感じる。
この曲のドラムを担当したのがジム・ゴードンだという推定は、私が師と崇め奉っている人によるものだ。根拠として、ジム・ゴードンはライド・シンバルのカップを叩きたがる点が挙げられる。「Turn! Turn! Turn!」の「A time to~」と繰り返す箇所では、確かにライド・カップの音がキンキンと鳴っている。1965年というと、ジム・ゴードンがスタジオ・ミュージシャンとして活動して間もない頃だが、もう既にジムのスタイルは確立していたと言ってもよいのではないだろうか。
ここでは「Turn! Turn! Turn!」のドラムもジム・ゴードンだと便宜的に断定することにする。さて、「Rockin' Pneumonia And The Boogie Woogie Flu」と「Turn! Turn! Turn!」で、なぜあのような微妙に遅れた演奏を維持することができるのか。それは単純に、ジム・ゴードンが上手いからだ。
私の言いたいことが何か、わかってきたのではないだろうか。つまり、オフビートは上手い人が演奏するから、非常に優れたノリを発揮するのだ。先ほどの動画では、欧米ではとか黒人はとかといった主語で、オフビートの有無を説いていた。しかし黒人なら全員リズム感があるとどうして言うことができるのか。全員同じなら、オフビートは1950年の「The Fat Man」を待つまでもなく浸透していても良かったはずだ。先ほど名前を挙げたジム・ゴードンは白人だ。ジムに限らず、エド・グリーンという白人ドラマーは、バリー・ホワイトやホット・ワックス/インヴィクタスなどの一時代を築いた黒人主体の音楽で、優れた演奏を残している。人種がどうとか、ノリがどうとかいうのではなく、単純に上手いか下手かといった方が話は簡単で、まだ明確になると思う。オフビートを会得しているからといって、ドラムが上手く叩けるとは限らないのだ。
こんなことを言って、私は彼(彼ら)を論破したことにはならないだろう。議論は平行線をたどっているだけと言った方が早い。これはあくまでも私からの見解だ。
彼らは、日本人のとってつけたオフビートを幼稚なものとして批判している。しかし私から言わせれば、別に黒人のノリに近づかなくてもいいから、とにかく安定した演奏ができれば良いと思っている。先ほどからアール・パーマーやジム・ゴードンは優秀で上手いプレイヤーだと言ってきた。これは要するに、演奏が安定しているという意味だ。メトロノームなしでも安定した演奏(タイムキープ)を続けることができ、フィルインなどの複雑な演奏をしても演奏が崩れないようにするべきだ。これができるなら、その演奏が黒人寄りだろうと日本人そのものだろうと構わないではないか。
もう一つ注文を加えるなら、今のDTM特有の、絶対に破綻があり得ない、メトロノームに支配された状態で演奏される文化は音楽の死だからいったん滅ぶべきだとか言いたくもなるが、こうなると私もあの動画の投稿者みたいになるから自重しよう。
今回の記事で私は奇妙な投稿者による動画を紹介した。ところで、オフビートの「真実」を説き続ける存在は、彼に限ったことではない。松村敬史なる人物こそが日本オフビートの帝王だということが、少し調べるとわかる。松村氏もYouTubeで盛んに動画を投稿している。先ほどの彼のように、人を殴るようなビートは刻まない。ただ松村氏は、動画についたコメントに対してそんなに言わなくても……と思う挑発的な返信をしている。少しでも気に入らない言葉があったり、アニメアイコンだったりするともう堪らなくなるらしい。そろそろ私は、オフビートを盛んに説く人から距離を置きたいと思う。断言はできないが、日本に生まれてオフビートにとりつかれると、人はおかしくなるという証拠が二件得られたのだから。
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